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坂崎乙郎 『ロマン派芸術の世界』 (講談社現代新書)

「現実は地獄であって、心ある者はだれしもこうした現実を呪わずにいなかった。」
(坂崎乙郎 『ロマン派芸術の世界』 より)


坂崎乙郎 
『ロマン派芸術の世界』

講談社現代新書 446

講談社 
昭和51年9月20日 第1刷発行
昭和53年1月20日 第3刷発行
236p 折込1葉
新書判 並装 カバー 
定価390円
装幀: 杉浦康平+海保透



本書「あとがき」より:

「私が本書で述べたかったのは、アウトラインとはいえ、わが国でしばしば誤解されているロマン主義の修正であった。」
「ロマン主義は、わが国のみでなくヨーロッパでも、十九世紀芸術のなかの一傾向のようにみられるむきがある。たとえば、十九世紀の芸術を、新古典派、ロマン派、写実主義、印象主義、後期印象派、世紀末芸術と分けた場合がそうである。
 けれども、生きた美術の歴史がそう簡単に図式的に分類できるはずもなく、マルセル・ブリヨンはつとにドイツ・ルネサンスのアルトドルファーや十七世紀オランダのロイスダールをロマン派の先駆とみとめ、あるいはアングルのなかにも、クールベのなかにも、ロマン主義的傾向を読みとっていた。」
「私はこんな風に結論したのである。ロマン主義は通常ロマンチックと呼ばれる感傷性もふくんでいるものの、ゴヤもしくはイギリスのジョージ・スタッブスにはじまり、ゴッホにいたる想像力の芸術で、あえていえば十九世紀全般にわたる魂の問題であった、と。」
「ロマン主義ほど、こうした人間の想像力の昏い領域にふみこんだ芸術はなかった。同時にロマン主義の画家ほど昏い領域に足をふみ入れることによって、時代の歩みと足並みをそろえた画家たちもなかった。
 まずゴヤが貴族ではなく群衆を画面の中央にすえてから、ブレークが一粒の砂に宇宙を凝視してから、ロマン主義は文字どおり、クールベの『アトリエ』『石割り』を経て、ドーミエの民衆に、ミレーの農民に、ゴッホその人に結実していったのである。
 変革といってもよい。そして、ゴヤからゴッホにおよぶ画家の姿のなかにはなによりも人間が、まぎれもない人間がみいだされるのである。
 真の画家はゴッホで終ったといってもよい。二十世紀には二十世紀にふさわしいかずかずの画家が生まれているが、もう一度ロマン主義者の理想に、ゴヤに、フリードリヒに、ターナーに、クールベに、ミレーに、ゴッホに帰れというのは時代錯誤だろうか。」



本書の第三章「狂気」はリチャード・ダッド論です。
本文中図版(モノクロ)多数。


坂崎乙郎 ロマン派芸術の世界 01


カバー文:

「夢と現実の、燃焼と冷却の、相反する両極を天翔けり、
幽冥の境をさまよう、ロマン派芸術は、人間の昏い無意識の海に
投じられた、最初の錨である。十九世紀の夜をつらぬく
夢の軌跡はまた、世界の根源的狂気を透視し、変革を希う
近代精神の萌芽でもあった。極北ゴヤから聖者ゴッホにいたる
ロマン的魂の系譜を、〈想像力〉の領域から
とらえた本書は、ロマン派芸術を新たに
現代に蘇生させる試みである。」



カバーそで文:

「真紅とブルーの変奏――ユーゴーが「幻想的風景」で
こころみたひと刷毛(はけ)のブルーは、
くっきり古城を浮かびあがらせたかと思うと、
ドラクロワの嵐のなかの白馬を狂奔(きょうほん)させ、
フュスリの「夢魔」の室内では冥府の青さをたたえて
ターナーの「海葬」の黒とまじわり、
そして、ついにはフリードリヒの「希望号の難破」の凍りついた青、
「海辺の僧侶」の死のような青に変奏をかなでてゆく。
真紅とブルー。それはロマン主義絵画の最重要の色であり、
激情を冷静を、日没を明方(あけがた)を、噴火を海を暗示しつつ、
大いなる燃焼とさめきった理性の、上昇する意志と下降する欲望のあかしなのである。
――本文より」



目次:

1 永遠の夜
2 夢
3 狂気
4 美の計算
5 種蒔く人
6 想像力
7 開かれた窓
8 英雄たち
9 死と難破

あとがき

ロマン派の系譜 画家略歴・年表
図版文献



坂崎乙郎 ロマン派芸術の世界 02



◆本書より◆


「ロマン主義はなぜ夜にいっさいを捧げようとしたのか?」
「その一は現実世界の否定である。スペインの宮廷画家であったゴヤの晩年を辿るとはっきり分かるが、彼はナポレオン戦争、スペイン内部の政治的腐敗をつぶさに体験して、フランスのボルドーに亡命した。批判は当初はゴヤ以外の他者にむけられていたものの、しだいに彼は人間存在そのものに疑念をいだき、版画集『デスパラテス』を刻んだ。
 芸術家の制作とは時流と同調することではあるまい。現実のスペイン、現実の政治、現実の人間、現実の生き方は、ゴヤの眼からすればあまりの矛盾をはらんでグロテスクであり、彼はもはや現象界をそのまま受け入れるのを嫌い、これを揶揄し、みずからもふくめて嘲笑する方向に進んだ。」
「現実は地獄であって、心ある者はだれしもこうした現実を呪わずにいなかった。
 かりに、いま夜が訪れてスペイン国土を漆黒の闇が塗りこめれば、文目(あやめ)は無限に深く、具体的な事物は姿をかくして、人はいっとき現実のスペインを忘れることもできる。夜特有の「時間と空間を超えた」領域のなかで、世界はまた別の色合いを帯びて浮かび上がってくる。」
「その二は、そのような夜の支配する静寂と神秘、恍惚と安らぎ、それらがロマン主義の画家を魅了したといったらよいだろうか。」
「その三は想像力の領域となる。光の測定は可能だが、測ることのできない想像力の領域である。」
「想像力のなかでは、なにごとも起こりうる。夜更けの芸術家のイメージのなかでは不可能事はなにひとつない。」
「夜のしじまのなかで、ゴヤも想像力を絶えまなくくりひろげては定着していった。彼を統(す)べていたのは永遠の夜で、アンドレ・マルローのいうように、彼の想像力は夜半にのみ火をともされる。ゴヤはもはや暁を、夜明けを待望していない。この点、彼はロマン主義の画家でありながら、はるかにロマン主義を抜きんでた存在である。
 彼の手から生まれ落ちる形象は、晩年になるにしたがい、すべて地底の、冥府の影をつけている。そこにはわずかばかりの希望もなく、期待もなく、人間の善意という善意、信頼という信頼はいっさい裏切られ葬り去られて、塵芥(ちりあくた)のように捨てられてゆく。これが、ゴヤのかいま見た arrière-monde(背後世界)である。彼は人間の残虐、悲惨を現実の世界に、白昼に目撃し、永遠の夜にくるまれて、背後世界に到達している。」
「夜は、闇は、無は、世界の根源はこうしてゴヤによって拡大され、たとえわれわれが写真という新しい眼をとおして、もっとも残酷な数かずの場面を見せつけられても、それらはいち早くゴヤによって登録されているアリエール・モンドのひと齣(こま)にすぎないことを知らされるのである。
 なぜ、ゴヤはかくも残忍でありえたのだろうか?
 それは夜が、その四、ありとあらゆるものを消し去り、否定する精神でもあったからである。夜が完全に帳を降ろし、無明(むみょう)となるとき、(中略)あたりにうごめくのは恐るべき破壊力であったからである。
 ゴヤにとってはそれがサクレ(聖なるもの)であった。聖なるものは俗なるものの反対概念であるといったたぐいの通説を、彼はとらない。真昼の世界も、深夜の世界も、ともどもに打ち砕く、つまりは存在そのものを破壊する衝撃的な力が、ただひとつ、世界を、存在をあらたによみがえらせることをゴヤは念じていたのだろう。
 ロマン主義はゴヤの指し示した極北にむかって、永遠の夜にむかって、企投をこころみている。」
































































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