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ホイジンガ 『ホモ・ルーデンス』 高橋英夫 訳 (中公文庫)

「歴史のなかでも、ロココ時代のように、純粋に遊びと真面目がバランスをとることのできた時代は少ない。そのうえ、造形的表現と音楽的表現が、十八世紀のようにかくまで高度に調和した時代も少ないのだ。」
(ホイジンガ 『ホモ・ルーデンス』 より)


ホイジンガ 
『ホモ・ルーデンス』 
高橋英夫 訳

中公文庫 D4

中央公論社 
昭和48年8月10日 初版
昭和57年8月10日 9版
477p 
文庫判 並装 カバー 
定価500円
表紙・扉: 白井晟一
カバー原画: ロードス島カメイロス付近出土のアンフォーラ(BC五四〇)の部分「走る男」より。(大英博物館蔵)



本書「解説」より:

「『ホモ・ルーデンス』は一九三八年に刊行された。ホイジンガ六十五歳のときである。一九一九年の『中世の秋』以後における最も注目すべき著作であるが、歴史家でいながら、彼が歴史の枠にとらわれない書き方をしたために、とりつきにくい面があったようで、ホイジンガの研究でもとくにこの著作にふれていないものもあり、また『ホモ・ルーデンス』抜きのホイジンガ評価も行なわれたりしている。しかしこの大著において、彼はそのユニークな文化史観を最も本質的な形で精細に展開しており、円熟した筆致は、雄大な構想を実現してあますところがない。これは単なる記述的・描写的な文化史の水準をはるかに超えてしまった文化史家の著作なのである。すなわち、人間のもろもろのはたらき、生活行為の本質は何であるか、人間存在の根源的な様態は何かという問いに達したとき、ホイジンガの確信した結論は「人間は遊ぶ存在だる」――ホモ・ルーデンス Homo Ludens (遊ぶ人)という以外ではありえなかった。彼はこの「遊び」を抽出してその内容・形式を検討し、それを一つの独立的・自律的な一般的範疇として定立しようとする。さらにその上に立って彼は、「遊ビノ相ノモトニ」見た広大な人間文化史を思い描いた。これがこの『ホモ・ルーデンス』の骨子である。」


Johan Huizinga: Homo Ludens, 1938


ホイジンガ ホモルーデンス


カバー裏文:

「「遊び(ルードゥス)」のおもしろさは独自のもの、人類文化の根幹たる美的形式を支えるもの――遊びのなかで、遊びとして、「文化」は生まれ、発展したことを、文化人類学と歴史学を綜合する雄大な構想で論証し、遊びの退廃の危機に立つ現代文化に冷徹な診断を下す、今世紀最大の文化史家の記念碑的名著」


目次:

まえがき――序説
I 文化現象としての遊びの本質と意味
 これまでの遊びの定義は不十分である
 文化因子としての遊び
 自立的な範疇としての遊び
 遊びの形式的特徴
 遊びの規則
 遊びという特殊世界
 闘争としての遊びと表現としての遊び
 遊びと祭祀
 遊びにおける神聖な真面目さというもの
 祝祭の本質
 信仰と遊び
 遊びと密儀
II 遊び概念の発想とその言語表現
 言語史および種々の言語のなかで「遊び」概念がうけている異なった評価
 ギリシア語における「遊び」の表現
 サンスクリット語における「遊び」の表現
 シナ語における「遊び」の表現
 アメリカ・インディアン語における「遊び」の表現
 日本語における「遊び」の表現
 セム語族における「遊び」の表現
 ロマン諸言語における「遊び」の表現
 ゲルマン諸言語における「遊び」の表現
 遊びと闘争
 音楽的意味における遊び
 エロス的な意味における遊び
 真面目という言葉、真面目という概念
III 文化創造の機能としての遊びと競技
 遊びとしての文化――「遊びから文化になる」ではないこと
 遊びの対立的性格
 競技は遊びである
 勝つということ
 賞・賭金・利得
 古代社会の対立的構造
 古代シナの季節の祭
 他の国々における闘技の遊び
 賭けの祭儀的意味
 ポトラッチ Potlatch
 ポトラッチの社会学的基礎
 クラ Kula
 遊びにおける名誉と徳
 悪口合戦
 文化因子としての闘技的原理
IV 遊びと法律
 競技としての訴訟
 神明裁判・籤占い
 権利をめぐる競技
 裁判と賭け
 遊び形式による裁判審理
V 遊びと戦争
 秩序を守った闘争は遊びである
 古代の戦争の競技性
 決闘裁判
 古代の戦争の祭儀性と闘技性
 敵に対する礼節
 祭式と戦術
 闘技的原理の効力の限界
 英雄の理想像
 戦争の文化価値の過大な評価
VI 遊びと知識
 競技と知識
 哲学的思考の発生
 謎解き競技は祭祀の一部である
 古代ノルド文学の質問競技
 社交遊びとしての謎問答
 問答論
 神学的・哲学的論議
 謎解き遊びと哲学
VII 遊びと詩
 予言詩人
 詩は遊びのなかに生まれた
 愛の法廷
 教訓詩
 神話の詩的内容
 文化の遊びの相としての神話
 詩的形式はつねに遊びの形式である
 詩は競技のなかに養われる
 詩人の言葉は遊びの言葉である
VIII 詩的形成の機能
 形象化するということ
 擬人化された抽象観念
 一般的習慣としての擬人化
 詩の諸要素は遊びの機能である
 遊びとしての戯曲
IX 哲学の遊びの形式
 ソフィスト
 哲学的対話の起源
 ソフィストと弁論家
 論争
 カール大帝の翰林院
 十二世紀の学校の世界
 学問の闘技的性格
X 芸術の遊びの形式
 音楽と遊び
 プラトーン、アリストテレースにおける音楽
 音楽の評価
 舞踊は純粋な遊びである
 ミューズ的芸術、造形芸術と遊び
 芸術作品の祭儀性
 造形芸術における競技の因子
XI 「遊ビノ相ノモトニ」見た文化と時代の変遷
 古代以後の諸文化における遊びの因子
 ローマ文化における遊びの要素
 公共精神とポトラッチ精神
 中世文化の遊びの要素
 ルネサンス文化の遊びの要素
 バロックの遊びの内容
 ロココの遊びの要素
 ロマン主義の遊びの特質
 十九世紀における真面目の支配
XII 現代文化における遊びの要素
 スポーツ
 スポーツは遊びの領域から去ってゆく
 スポーツとしての非体育的な遊び
 現代職業生活における遊び的なもの
 現代芸術における遊び的なもの
 現代科学の遊びの内容
 小児病
 政治の遊びの内容
 国際政治における遊び的なもの
 現代戦における競技の因子
 遊びの要素は不可欠であるということ

原注
解説 (高橋英夫)




◆本書より◆


「われわれ人間は、理性を信奉していたある世紀がとかく思いこみがちだったほど理性的であるとは、とうてい言えないことが明らかになったとき、われわれの種族である人類の名称として「ホモ・サピエンス」と並べて、作る人すなわち「ホモ・ファベル」という呼び名が持ち出された。しかしこれは、前者よりさらに不適切なものであった。ものを作る動物も少なくないからである。作るについて言いうることは、また遊ぶということについても同じであって、じつに多くの遊ぶ動物がいる。それにもかかわらず私は、「ホモ・ルーデンス」すなわち遊ぶ人という言葉も、ものを作る機能とまったく同じような、ある本質的機能を示した言葉であり、「ホモ・ファベル」と並んで一つの位置を占めるに値するものである、と考える。」

「人類が共同生活を始めるようになったとき、その偉大な原型的行動には、すべて最初から遊びが織り交ぜられていたのである。言語をとってみよう。言語とは他人にものごとを伝達したり、教示したり、命令したりするために作られたものであり、人類の最初にしてかつ最高の道具である。言語によって人間はものごとを弁別したり、定義したり、確認したりしている。要するにそれによって物に名を与え、その名で物を呼んでいる。物を精神の領域へ引き上げているのである。このように言語を創(つく)り出す精神は、素材的なものから形而上的なものへと限りなく移行を繰り返しつづけているが、この行為はいつも遊びながら行なわれるのである。どんな抽象の表現でも、その後に立っているのは比喩であり、いかなる比喩のなかにも言葉の遊びが隠れているからだ。こうして、人類は存在しているものに対する表現を、つまり第二の架空世界を、自然界のほかに創造している。あるいはまた、神話を取り上げるがよい。これとても、存在しているものの想像力による形象化という点は、やはり同じである。ただ、一つ一つの言葉よりは、ずっとその加工の度合がはなはだしく、磨きがかかってはいる。要するに、古(いにしえ)の人は神話によって地上的なもの、存在というものを釈(と)き明かそうとした。神話によって、さまざまの物を、神的なものという基礎に結びつけて考えようとした。だが、この場合も同じことで、神話が世界に存在するものに被(かぶ)せるどんな気まぐれな空想のなかでも、想像力豊かな魂は、冗談と真面目の境界の上を戯れているのである。最後に、祭祀を考察してみよう。原始共同社会は現世の幸福の保証を手に入れるのに役立てようとして、さまざまの神聖な行事、奉献とか、供犠とか、密儀とかを行なっているが、これらは言葉の最も真実な意味で、純粋な遊びとして行なわれている。
 しかも、文化を動かすさまざまの大きな原動力の起源はこの神話と祭祀のなかにあるのだ。法律と秩序、取引と産業、技術と芸術、詩、哲学、そして科学、みなそうである。それらはすべて、遊びとして行動するということを土壌にして、そのなかに根をおろしている。
 このように文化を「遊ビノ相ノモトニ sub specie ludi」見ることができると考えた以上は、その考えが本質的にただの修辞的な比喩以上のものであると明らかにすることが、この研究の目的になってくる。」

「プラトーンの遊びと神聖なるものとの同一化は、神聖なものを遊びと呼ぶことで冒涜しているのではない。その反対である。彼は、遊びという観念を、精神の最高の境地に引き上げることによって、それを高めている。われわれはこの本の初めの個所で、遊びはすべての文化に先行して存在していた、と述べた。またある意味で、それはいっさいの文化の上に浮かんでいるもの、少なくとも文化から解き放たれたものでもあった。(中略)人間は子どものうちは楽しみのために遊び、真面目な人生のなかに立てば、休養、レクリエーションのために遊ぶ。しかし、それよりもっと高いところで遊ぶこともできるのだ。それが、美と神聖の遊びである。」

「共同社会が彼らの神聖な宗教儀礼を体験し享受するときの心的態度は、まず第一に、厳粛、神聖な真面目さというものであるのは、おのずと理解できる。だが、もう一度強調しておきたいのは、本当の、自発的な遊びの心でさえも、深い真面目さのなかに沈潜したものでありうるという、そのことである。遊んでいる人は、その全身全霊をそこに捧げる。「ただ遊んでいるだけなんだ」という意識は、このときずっと奥のほうに後退している。遊びと分かちがたく結びついている喜びは緊張に変わるだけではない、こうして昂揚感、感激にも転化する。遊びの気分の両極をなす感情、それは一方では快活、他方では恍惚である。
 遊びの気分、これはその本来のあり方として不安定なものである。どんな瞬間にでも、遊びを妨げる外からの煽(あお)りを受けたり、あるいは内部から規則を侵犯されたりなどして、「日常生活」がふたたび自分の権利を取り戻そうと要求してくるものだ。それだけではない。さらに、遊びの精神が内部から崩れてしまったときとか、陶酔がさめ、遊びに失望が起きたりしたときにも、遊びは妨げられてしまう。」

「原始社会の祭祀は、共同体の福祉のためになくてはならぬものである。それは宇宙的洞察に満ち、社会的発展を孕(はら)んだ神聖な遊びである。しかしそれは、つねに変わることなく遊びである。それはプラトーンの見たように、必要と真面目さにつつまれた無味乾燥な日常生活の領域の外で、またその領域を超えたところで行なわれる行為である。
 この聖なる遊びの世界には、子供と詩人が未開人と共に棲(す)んでいる。現代人もその美的感受性によっていくらかはこの世界に近づくことがあった。」

「遊びとは、あるはっきり定められた時間、空間の範囲内で行なわれる自発的な行為もしくは活動である。それは自発的に受け入れた規則に従っている。その規則はいったん受け入れられた以上は絶対的拘束力をもっている。遊びの目的は行為そのもののなかにある。それは緊張と歓びの感情を伴い、またこれは「日常生活」とは、「別のもの」という意識に裏づけられている。」

「人間の心には、全体としてみて、どうも音楽を遊びの領域に引き入れたい気持があることは、まったく明白である。音楽するということは、最初から、本当の意味での遊びがもっているすべての形式的特徴を帯びた行為なのである。つまり、この行為は限られた場のなかで行なわれる。これは繰り返すことができるし、また秩序、リズム、規則正しい変化から成り立っていて、聴き手も演奏者もひとしく「日常界」から晴れやかに澄んだ感情の世界へ連れ出していく。もの悲しい音楽さえも、悦楽と昂揚を生み出すのだ。いっさいの音楽を遊びという項の下に包含させたとすれば、それこそまさに正鵠を得たものであり、まったく申し分ないことであるといえる。」

「社会的衝動としての遊び的競争は文化そのものよりも古いが、それは遠い原始時代から生活を充たし、古代文化のさまざまの形式を酵母のように発育させるものだった。祭祀は聖なる遊びのなかに発達した。詩は遊びのなかに生まれ、いつも遊びの諸形式から最高の養分を吸収してきた。音楽と舞踊は純粋な遊びであった。知識、英知は祭式的競技の言葉のなかに、その表現を見いだした。法律は社会的遊びの慣行から生じた。戦争の規定、貴族生活の慣例は、遊びの形式の上に築かれた。結論はこうなるはずである。文化はその根源的段階においては遊ばれるものであった、と。それは生命体が母胎から生まれるように遊びから発するのではない。それは遊びのなかに、遊びとして発達するのである。」

「真の文化は何らかの遊びの内容をもたずには存続してゆくことができない。それは、文化がある種の自制と克己を前提とするものだからである。それは、自分ひとりの目的、意志を究極最高のものと見なしたりすることのない能力であり、要するに、文化とは自ら自発的に承認した一定の限界のなかに成り立つものなのだと理解することのできる能力である。文化は、ある意味ではいまなお、おたがいに理解しあいながら、規則にしたがって遊ばれることを欲しているのである。真の文化はつねに、どんな観点から見ても、正しいフェア・プレイを要求している。遊び破り(スポイル・スポート)は文化そのものを犯しているのである。この遊びの内容が文化を創り、文化を促す力をもつためには、純粋でなければならない。それは、理性や人間性によって、あるいは宗教によって規定された規範を隠蔽するとか、その規範に背を向けたりしてはならない。偽りの外貌であってはならない。仮面の裏に、その目的のために特別に訓練した遊びの形式によって特定の目的を実現しようとする意図を秘めたものであってはならない。真の遊びはいっさいのプロパガンダを斥ける。その目的は自らのうちにある。その精神、その気分は晴れやかな感激であって、ヒステリックな昂奮ではない。今日、あらゆる人生の分野をその手中に収めようと狙っている宣伝機関は、ヒステリックな大衆反応を狙った手段を弄(もてあそ)んでいる。それは好んで遊びの形式をとってはいるが、それをけっして遊びの精神の現代的表現と見てはならない。それは、そのまがいものなのである。」




こちらもご参照下さい:

J・ホイジンガ 『中世の秋』 堀越孝一 訳
ロジェ・カイヨワ 『遊びと人間 増補改訂版』 多田道太郎・塚崎幹夫 訳 (講談社文庫)
平林章仁 『橋と遊びの文化史』































































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