種村季弘 『器怪の祝祭日』

「けれどもそうした大パノラマのなかに迷い込んでも、いつしか私は一点巣穴めいた片隅にもぐり込んで、着古したセーターの着心地を味わう快楽を忘れない。我流の読書の悪癖であろうか。」
(種村季弘 「片隅のエッセイ」 より)


種村季弘
文芸評論集
『器怪の祝祭日』


沖積舎 
昭和59年10月1日
259p 19.5×15.5cm 
丸背クロス装上製本 貼函 
定価3,500円
装釘・意匠・選画・造本: 茅野薫・戸田ヒロコ・加藤直子・池田香代子

栞 (8p):
 結城昌治「種村さんのこと」/池内紀「後日談」/関曠野「神とアウトマート」/堀切直人「マルスからヘルメスへ」/著者略年譜



きかいのしゅくさいじつ。
『壺中天奇聞』『夢の舌』に続く日本文学論集。


種村季弘 器怪の祝祭日 01


帯文:

「日常なじみの器物・動物・言葉などを意味の軛(くびき)から解き放つイメージのページェント。昼をもあざむくワルプルギスの夜・日本文学版。」


帯背:

「文学嬉遊曲」


帯裏:

「思えば私は、この十数年、歴とした大人でありながら胎児であったり、地上存在でありながら天族であったり、動物や機械や赤児でありながら人語をしゃべったりするような……化け物じみた対象にばかりつき合ってきたものらしい。」(あとがきより)」


種村季弘 器怪の祝祭日 02


目次 (初出):

I
幻想・宙吊り・顕示――谷崎潤一郎* (『谷崎潤一郎全集』 6巻 中央公論社 月報 昭和56年10月)
退行の快楽――谷崎潤一郎** (『谷崎潤一郎』 鑑賞日本現代文学 8 角川書店 月報 昭和57年12月)
動物・機械・幼年――内田百閒『鶴』 (『鶴』 旺文社文庫 解説 昭和56年6月)
日付のある無時間――内田百閒『百鬼園戦後日記』 (「朝日新聞」 昭和57年6月15日)
月光発狂者復活――稲垣足穂『稲垣足穂大全I』 (「展望」 昭和44年8月)
「軽さ」の蒐集室――稲垣足穂『少年愛の美学』 (『少年愛の美学』 角川文庫 解説 昭和48年5月)
天族故郷へ帰る――稲垣足穂追悼 (「山陽新聞」 昭和52年10月28日)
大きすぎた花帽子――尾崎翠 (『尾崎翠全集』 創樹社 月報 昭和54年12月)
アリアドネーの子ら――野溝七生子 (『野溝七生子作品集』 立風書房 月報 昭和58年12月)
ジャニュアリー老人の庭へ――梅崎春生 (「梅崎春雄全集』 沖積舎 内容見本 昭和59年5月)
ある老胎児の回想――小田仁二郎『触手』 (「週刊読書人」 昭和55年1月21日)
生きている迷路地図――島尾敏雄 (「週刊読書人」 昭和55年8月25日)
器怪の祝祭日――藤枝静男『田紳有楽』 (「週刊ポスト」 昭和51年8月13日)
光へ落ちる闇――鷲巣繁男『路傍の神』 (「週刊ポスト」 昭和51年11月26日)
恐るべき子供たちの夢――椿實 (「週刊サンケイ」 昭和57年4月8日)
双頭の蛇――吉行淳之介『夕暮まで』 (『吉行淳之介全集』 12巻 講談社 解説 昭和59年4月)
「薄さ」の小説――吉行淳之介『夢の車輪』 (「新潮」 昭和59年2月)
百物語考――中井英夫『悪夢の骨牌』 (『悪夢の骨牌』 講談社文庫 解説 昭和56年12月)
陽根無頼――澁澤龍彦『唐草物語』 (「朝日ジャーナル」 昭和56年9月18日)
水鏡合わせ――出口裕弘『天使扼殺者』 (「海」 昭和50年5月)
見張りの狸寝入り――後藤明生『笑い地獄』 (『笑い地獄』 集英社文庫 解説 昭和53年8月)
場と記号またはウンコの精霊の失踪――井上ひさし (「国文学」 昭和57年3月)
ねじれの構造――三木卓『野いばらの衣』 (『野いばらの衣』 講談社文庫 解説 昭和59年6月)
 
II
裂けた背表紙――吉田一穂 (『吉田一穂全集』 I 小澤書店 月報 昭和54年5月)
鳥飼いのいる鳥籠――吉岡實 (「現代詩手帖」 昭和55年10月)
覇旅の歌――高橋睦郎『動詞I』 (「海」 昭和49年9月)
素老人光速漫歩――永田耕衣 (「琴座」 昭和54年2月)
卵生の狼少年――加藤郁乎 (『加藤郁乎詩集』 現代詩文庫45 思潮社 解説 昭和46年10月)
魂と物体の記憶――結城昌治『歳月』 (「文芸」 昭和54年11月)
『感幻樂』考――塚本邦雄『感幻樂』 (「反歌」 1号 昭和45年6月)
喪の花 祝の花――岡野弘彦『花幾年』 (「人」 昭和57年5月)
 
III
彼らが書く本――清岡卓行『萩原朔太郎『猫町』私論』 (「現代詩手帖」 昭和50年2月)
死者の歌――川村二郎『限界の文学』 (「展望」 昭和44年7月)
片隅のエッセイ――高橋英夫『忘却の女神』 (「秋田さきがけ」 昭和58年1月23日)
言語の受難・言語の解体――三田英彬『泉鏡花の文学』 (「国文学」 昭和52年3月)
批評のオデュッセウス――森常治『日本の幽霊の解放』 (「日本読書新聞」 昭和49年10月21日)
赤児のように無恥な食慾――堀切直人『日本夢文学志』 (『日本夢文学志』 冥草舎 跋)
 
IV
小説としてのエッセイ――海野弘『空間のフォークロア』 (「文芸」 昭和56年1月)
批評の仮装舞踏会――生田耕作『愛書狂』 (「文芸」 昭和56年2月)
ある仮面の告白――ダニエル・デフォー『ロクサーナ』 (「文芸」 昭和56年3月)
場末の中学校では――中川道弘『新・金茎和歌集』 (「文芸」 昭和56年4月)
註としてのカツ丼――後藤明生 『吉野大夫』 (「文芸」 昭和56年5月)
ナラッション断弦――堀口大學『水かがみ』 (「文芸」 昭和56年6月)
二人妻幻想――檜谷昭彦『未練の文学』 (「文芸」 昭和56年7月)
黙読と黙示――島尾敏雄『日記抄』 (「文芸」 昭和56年8月)
旅上手・旅下手――高田宏『おや、旅だ!』 (「文芸」 昭和56年9月)
夢の雑誌――清岡卓行『夢のソナチネ』 (「文芸」 昭和56年10月)
透視図法・日記・自殺――『ヴィアトールの透視図法』 (「文芸」 昭和56年11月)
げてものの夢――ヴァルター・ベンヤミン『遊びとしての教育』 (「文芸」 昭和56年12月)
 
あとがき
種村季弘文芸評論一覧



種村季弘 器怪の祝祭日 03



◆本書より◆


「動物・機械・幼年」より:

「老婆心、取越苦労、杞憂、強迫観念、何と言ってもいい。しかしどう名づけようと、予測不能の事態に対するこの種の人物の極端な恐怖心を説明するには寸が足らない。それほど奇怪だ。何しろ他の人にはごくありきたりの日常生活がごくあたりまえに進行しているようにしか見えないというのに、この種の人物は同じ何でもない日常を、いたるところに予測不能の危険が待ち伏せしている合戦場か、この世の果ての険呑な野生地と見なし、たえず危機に対する精密な対策をおさおさ怠ってはならぬように思いこんでいるからである。
 思えば、わが百閒先生にも、いくぶんそんな杞憂の人めく面影がないではなかった。」

「死の不安を忘れるためには、規則の垣を作ってそれを堰き止めるのも一つの方法には違いない。けれどもそれは、かえって押し寄せてくる洪水の高波を際立たせてしまう結果を招きかねぬ。(中略)しからばいっそ規則の裃(かみしも)を脱いで、裸になってしまえばどうか。官を辞してフロックコートを脱いだとき、百閒は垣に堰かれることなくいきなり幼年時と通じている現在(いま)を発見したのであろう。動物や機械はたしかにままならぬ、思いがけない動きを示して人を脅かす。とはいえそれは、こちらがあくまでも人間という裃を着たなりで相手にいうことをきかそうとしているためだ。こちらもさっさと化け物の仲間入りをして、ワルプルギスの百鬼夜行のなかにまぎれ込んでしまえば、案外簡単に話は通じるのではないか。」



「「軽さ」の蒐集室」より:

「芸術家にとっての幸運はつねに不運の前ぶれで訪れるものである。」


「ある老胎児の回想」より:

「戦後が来ても二本足で出発することをやめて水底にうつ伏せに澱んでいる意識には、他の人びとには二本足で立つべき新たな基盤と思えた戦後社会も、昭和十年代と等しく、(中略)ねばつく虚無の海にすぎない。戦争以前に何かが決定的に失われ亡んだので、戦中も戦後も押しなべてその事後的な帰結にすぎないのだとしたら、存在そのものがどこまでもひろがるべとべとした青洟の羊水であって、そのおぞましい汚洞から胎児の彼はいつまでも生れ出てゆくことができない。生み出すべき子宮が生命を呑み込む墓と化していて、しかもあまりにも長引いた遅産のために、無惨な幽閉状態がかえって倒錯的な快楽の安定感をさえもたらしているのである。戦後も昭和三十四年の「動物園の外」にあってさえも、空中サーカスの宙吊りの演技が日常の歩行と同定されている。
 「私の足のうらは、まだ、十メートルのブランコの横棒に、ついている。私の目にみえる店も、街路樹も、幅ひろい波動に乗る。ゆれるのは、夜の街ではなく、私のブランコであった。」
 連用止めの不安なたゆたいはもはや日常と見紛うまでに安定している。この文体に閉ざされた世界は、したがってどこまでも遅延された八方塞がり、出口なしなのである。」

「主題からいえば酸鼻をきわめる血の頽廃を書いた自然主義小説にそっくりでありながら、現実と見合う力のない未生児の追憶として書かれているので、すべてがもはやない世界として現前しており、あるいはこの未生児は死産児として流されることになるのだから、これから先もあり得ない世界として現前している。書かれた内容を裏切って、作品の読後感が一種あえかな王朝風のみやびを喚起するのはそのためだ。」
「すでにして母胎は生み出すべき何物も孕むことのない空の器である。昭和初年代文学の帰結として、小田仁二郎は、このもはや何もない、何ひとつ起り得ない場所に逢着した。そこから先には何もないどん詰り、袋小路である。それはしかし生(なま)のものの生成に関する限りであって、言語の生成についてはその限りではない。かえってすべてのものが死に絶えたからこそ何かを言う、というのが悲歌の、鎮魂歌のあり方である。」
「この空の器からはあらゆるものが言語として取り出せる。」



「見張りの狸寝入り」より:

「生のロマン的昂揚感の果てに太陽神ゼウスの懲罰が下って散華するのではない。いま生きている刻々の日常そのものがむごたらしい懲罰なのだ。司馬遷のように「生き恥をさらして生きて」いるのであり、カフカの主人公たちのように平穏な市民生活そのものが流刑地の日常なのだ。」


「あとがき」より:

「ここに集めた文学的エッセイは、いずれも新聞雑誌の書評、月報、文庫本、全集解説等を発表の場として書いた。校正刷りに目を通しているうち、多様のなかにもそこに「双性の構造」分析が一貫しているように、私なりに思えた。(中略)そこで、総タイトルを考えるとすれば、「双頭の蛇」あたりが妥当だろうと当初は考えていたのである。
 それはそうと、新聞雑誌掲載の小文には無題のまま(編集部にそのときどきの見出し語をゆだねて)手渡したものがある。これを単行本編集中に自前の見出し語にあらためる作業が残されたが、藤枝静男氏の『田紳有楽』評のくだりまで来て、ゆくりなくも土佐光信の百鬼夜行絵巻や十二類合戦絵巻を思い合わせ、「器怪の祝祭日」という見出し語を思いついた。そしてこれがすらすらと総タイトルにつながったのである。器怪とは、古くなったりこわれたりして、無用の長物となった器物の化けて出た化け物のことである。双性の構造とは、すなわち分身=二重体の構造であり、「そのものがそのものでありながら、そのものへの重なりであるところの運動」(「双頭の蛇」)であるような構造なのだから、それは器物が器物でありながらそれとは異なる何物かとしてそれへ重なってゆくような器怪の構造でもあるはずである。思えば私は、この十数年、歴とした大人でありながら胎児であったり、地上存在でありながら天族であったり、動物や機械や赤児でありながら人語をしゃべったりするような、あるいは卵や仮面のなかから生れ出るような、そんなボッシュやブリューゲルや土佐派の器怪画のなかに登場するような化け物じみた対象にばかりつき合ってきたものらしい。これを一堂に会せしめたワルプルギスの夜は、したがって当然、百鬼夜行絵巻となり、また「器怪の祝祭日」となるのでなくてはなるまい。その夥しいものの犇く雑踏のなかにまぎれ込めば、さぞや「豊国祭礼図屏風」中の群衆の一人となったように、とめどのない浮かれ足が体験されるのではあるまいか。読者に万一、そんな地表すれすれに逃走するヘルメス的舞踏が感知されたならば、筆者としてはこれに過ぎたる冥利はない。」













































































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プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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