FC2ブログ

ロジェ・カイヨワ 『幻想のさなかに ― 幻想絵画試論』 (三好郁朗 訳)

「おそらくここで、幻想にかかわるもうひとつの、新しい法則の存在が見えてくるであろう。すなわち、幻想的なものには、なにかしら無意識的なところ、従容としたところがなければならないということである。他を不安に陥れると同時に、自らも不安にふるえているような、闇の中からだしぬけに浮かび上がってくる、そういう問いかけが認められなければならないのであって、その問いを作った本人が、これを、あたかも他所より来たったものであるかのように感じ、しばしば狂おしいまでにこれに答えようとしていてこそ、はじめて、幻想は惹起されうるのである。」
(ロジェ・カイヨワ 『幻想のさなかに』 より)


ロジェ・カイヨワ 
『幻想のさなかに ― 幻想絵画試論』 
三好郁朗 訳


法政大学出版局 1975年12月30日初版第1刷発行/1982年7月20日第3刷発行
149p 図版(カラー8点/モノクロ110点)104p
A5判 丸背紙装上製本 カバー 定価3,000円
Roger Caillois : Au cœur du fantastique, 1965



ロジェ・カイヨワによる幻想美術論。


幻想のさなかに1


目次:

はじめに
1 対象への接近
2 象徴図法と幻想
3 類推の魔
4 必然かつ不可避な幻想
5 曖昧なものの豊かさ

訳者あとがき
図版目録



本書より:

「わたしは神秘なものに惹かれる。(中略)わたしとしては、なににせよ理解できぬままにおくことが我慢ならないのであって、理解のつかぬものだからこれを好むというのとは全く違う。(中略)反対にわたしは、未解読なものはあくまでも《解読》されるべきだと考えるのであって、その謎を、できることなら自分の手で、なんとか解き明かしてみようとするのである。
幻想芸術に関する書物をいろいろとひもといてきて常々驚きを禁じえなかったことであるが、そうした書物の著者たちはいずれも、(中略)いとも安易に、自分たちが採録した作品に驚嘆させられてしまっている。しかも、そうした作品の大半は、それがよってきたる源泉なり画家の意図なりを推し量ってみる手間さえ惜しまなければ、実はいささかも驚異的でなくなってしまうものなのである。そもそも、この画家の意図というのが、ひたすら鬼面人を驚かさんとすることであったり、神秘を偽装することであったかもしれないのだ。
さらにわたしを当惑させたことは、幻想芸術というこの領域が、ありきたりな常識だとか現実の写真術的複写だとかに少しでも抵触するものなら、ほとんどみさかいなく包括するところまで拡大されてきているにもかかわらず、種を明かせば異国的であるがゆえの奇抜さだとか、その時点でこそ未聞であったといにすぎぬ主題、あるいは計算ずくのたくらみなどに帰着してしまう幻想ばかりが云々され、それとは似て非なるもの、つまり、少なくともこのわたしには本物だと思える幻想によりひたひたと浸された作品となると、この分野の著作を数多く開いてみても、一向に見出せないままだという事実であった。」
「事を明確にするためにも、ひとまずは自分の個人的な好みを徹底してつきつめることとし、わたしが《意図的幻想》と呼ぶ種類の幻想作品は、これを考察の対象から除外することをもって第一のルールとした。意図的な幻想作品というのは、現実世界におけるとおなじあり方ではなにひとつ存在せず、なにひとつ生起してもいない夢幻想像世界を創り出し、観る者をして仰天眩惑せしめることをもっぱらの目的とした作品のことである。この種の、意図的で、しかもわざとらしい幻想を除外することにしたのは、このようにひたすら人の眼を驚かすための作品を画こうとするがごとき単純なたくらみからは、色褪せることのない真正の幻想など、なかなかに生じるものではないと信じて疑わぬからである。幻想とは、たわむれだとか賭だとか、なんらかの美学だとかの産物であるべきではない。もちろん画家の側からの意図的な共犯と仲介とを伴うことではあろうけれど、どちらかと言えば、彼の霊感と手とをほとんど強制的に働かしめて、極端な場合には彼の気づかぬままに、生まれてくるものでなければならなかった。
さらに進めて、わたしは、《教育的幻想》、すなわち、物語、伝説、神話などにあらわれる超自然的な不思議、宗教ないし偶像崇拝の対象、狂気の妄想、さらには小粋な空想のたぐいに至る一切を放棄することにした。(中略)隠者誘惑の図だとか中世の髑髏の踊り、勝鬨をあげる死神、地獄の責苦、(中略)牡山羊が司るサバトの宴、箒に跨った魔女たちの図、要するに、(中略)あたかも流通貨幣のごとく陳腐な幻想は、これをすべて切り捨てることにしたのである。」

「幻想とは、可能事が無限にあるから生じるのではなくて、可能性が、いかに厖大ではあっても最終的に限られていてこそ、はじめて存在しうるものである。数えつくせるものがなく、固定したものもないところでは、つまり、可能性に限界がなく、可能事が数えつくせないようなところでは、幻想そのものも存在できない。あらゆることがいつなりと起こりうるのであれば、何ものも驚異的ではなく、いかなる奇蹟といえども人を驚かすことができない。逆に、たとえば、未来は過去に影響を及ぼすことができないといったたぐいの、万古不易とみなされる秩序の中でこそ、この法則に背反する出来事が、われわれの不安をかりたてずにはおかないのである。」

「幻想とは、(中略)既知の秩序からの断絶のことであり、日常的な不変恒常性の只中へ、容認しがたきものが闖入することである。」



幻想のさなかに2

ジオヴァンニ・ベルリーニ(1426-1516)「煉獄の寓意」。

本書より:

「このジャンルにおける最高の傑作、文字通り不朽の作品ということになれば、わたしは『煉獄の寓意』をあげる。」
「ベルリーニの画面には、いかなる激しさもてらいもない。作品のディテールは劇的なものであるのだが、すべては薄暮を思わせる荘重で優しい大気の中に浸っており、激情的なもののあらわれは、すべてが無化され、おぼろにされ、遠ざけられている。崇高なまでのひとつの形式が、激しい身振りをゆるめ、急転をしずめ、苦悩を和らげているのだ。」



幻想のさなかに5

アタナシウス・キルヒャー著『ノアの箱舟』(1675)挿絵。

本書より:

「神話的な物語だとか宗教的神秘だとかが、それ自体で幻想的なものの侵入を惹起するに足る源泉だとは、わたしには思えない。(中略)ただし、そのような世界が、なにかしら異質で叛逆的な要素を接木されて《変質》し、そのひたすら超自然的な性格をある程度まで贖われる、そういうケースの存在まで否定しようと言うのではない。(中略)そのような事態が生ずれば、裂け目というかずれというか、矛盾のごときものが口を開くのであり、幻想という名の毒は、普通、こうした裂け目を通って滲み込んでくるものなのだ。」
「水面にただよう納屋のごとき箱舟を前に、浮きつ沈みつする人馬の臀部や手足にたちまじり、死に瀕した怪異の魚たちの姿が見える。(中略)この世の生物を根絶やしにするべきあの大洪水は、たしかに、こうした水棲動物たちをも見逃すはずはなかったであろう。しかしながら、キルヒャー以前には、誰ひとりとしてそのことに思い至らなかったのである。」



幻想のさなかに2

E.V. リュミネー(1821-1896)「ジュミエージュの苦刑者(エネルヴェ)たち」。

本書より:

「名詞化された形容詞《エネルヴェ énervé》は、この語のごく稀で恐怖をさそう語義(《膝の腱を焼いて神経の働きを殺す刑を受けた》)に用いられており、通常的な語義(《無気力な》《いらだった》)とはすこぶる対象的である。今、夕闇が周囲をつつまんとし、波間をただよう筏の上には、処刑された二人の若い貴公子が体を並べて横たわっている。二人の孤独、人家ひとつない大河の岸、言葉では説明のつけようがないけれどたしかに画面から伝わってくる絶望感と圧迫感、そうしたものがこの作品に奇妙な力を付与し、画面全体の平凡さを救っている。特筆すべきは、このエピソード画家の本来の意図が、おそらく、この種の残酷な逸話にこと欠かぬメロビンガ王朝の歴史の、とある感動的事件を画くことにしかなかったと思われる点である。そして、この種の逸話自体は、いかに残酷なものであろうと、けっして幻想的とは言えないのだ。しかも、画題になっている逸話がほとんどの人に識られていないことを、画家もよく心得ている。それだからこそ、身じろぎもせぬ双子の罪人、あるいは生贄、さもなくば追放者を乗せ、流れの間に見捨てられてゆるやかに大河を下るこの壮麗な寝台の存在が、ほとんどの観賞者にとって謎めいてくるのである。(中略)画面は、時の流れの中に贖いの術もなく続くひとつの不運のイメージを喚起してやまない。つまり、この作品は、いわば一切の行動力の決定的不在という事態の、まことに見事な挿画となりえているのであり、これ以後は、《エネルヴェ》という語から伝わってくるものも、語義自体が予想させる激動感、騒乱感ではなく、まさにこの決定的無力感そのものとなるであろう。」


幻想のさなかに6

左: ルカス・クラナッハ(1472-1553)「サロメ」。
右: 作者不詳(17世紀フランドル)「ヘロデ王の餐宴」(部分)。


幻想のさなかに7

ヴェネツィアーノ「巨獣の骨」。


幻想のさなかに8

ライモンディ「ラファエルの夢」。


幻想のさなかに9

アブラハム・ヴァン・ディペンビック「イクシオーンの車輪」、『ミューズ神殿図集』(1655)挿画。

本書より:

「彼の、暴力的で、意図して激烈なスタイルは、十七世紀の只中にあっても、驚くべきロマンチスムが存在したことを示している。」
「ディペンビックの作品は、また、別の面で、(中略)ギュスタヴ・ドレのような画家の煩悶のヴィジョンを予告するものでもある。」



幻想のさなかに10

ゴーチエ・ダゴティ著『解剖学図解』(1759)より、「骸骨とその影」。


幻想のさなかに3

「ノースウィッチの岩塩坑」(19世紀初頭の青少年のための教育書より)。

本書より:

「一九四六年にわたしは、この、陳腐で、ほとんど荒唐無稽と言えそうな書物の半端本に、ベルリンのとある古本屋で出会った。四分の三以上が破れて失われていたが、頁をめくってみたわたしは、まことに喜ばしい驚きを感じたものである。素朴な不思議がみちみちていたのだ。」
「この世界に招じ入れられた者は、はたして自分が、堅固な丸天井の下にいるものやら、測りようもなく無限に広がる天空の下にいるのやら、判然とはすまい。そこに、この不器用な版画のもつ力とでも言うか、ある種の循環的印象のようなもの、巨大で同心円的な牢獄が重なり合い嵌め込まれているといった印象が、惹起してくるのである。」
「技術書、資料集、科学書などが、こうして、現実を求めつつも幻想と出会うたぐいの挿絵類を、競い合って提供してくれている。そうした絵は、画家がある種の神秘感を意図して惹起しようとした作品にくらべても、はるかに強力な夢想の因となりうるものであり、はるかに多くの問題を喚起し、見る者を驚かし、不安にするものである。ここでもまた、ひたすら鬼面人を驚かせるたぐいの意図的たくらみからではなくて、作者の知らぬまにとは言わぬまでも、その意図とは別に生じるかと見える幻想こそが、もっとも強力かつ有効であることを確認できるであろう。そうした幻想は、もはや、気まぐれでも術策でもなく、いまだ未知の、ただ予感されているだけの現実へ精神を導くという、作品の本性に忠実なものとなりえている。」



幻想のさなかに3

自然の幻想。星状鼻モグラ(コンディルラ)、北アメリカ産。

本書より:

「自然が創り出した作品と芸術作品を比較して、自然の作品もまた、惜しみなく幻想を与えてくれるのだということを、ぜひ指摘しておきたいところである。事実、幻想的という形容の完全に適合する風景、幼虫、雲、木の根っこ、鉱石などが存在するのだ。まるで、芸術の驚異に自然の驚異が呼応しているかのようである。」


幻想のさなかに4


こちらもご参照下さい:
坂崎乙郎 編著 『幻想の版画』 (双書 美術の泉 25)
















































関連記事
スポンサーサイト



プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。
歴史における自閉症の役割。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本