FC2ブログ

G・H・シューベルト 『夢の象徴学』 深田甫 訳

G・H・シューベルト 
『夢の象徴学』 
深田甫 訳

ドイツ・ロマン派叢書

青銅社 
1976年12月20日 初版第1刷発行
219p 
21.6×14.6cm 
丸背紙装上製本 貼函 
定価2,600円



本書「解説」より:

「Die Symbolik des Traumes
von Dr. G.H. Schubert
(Bamberg, im neuen Leseinstitut von C.F.Kunz, 1814) 

 これが訳書『夢の象徴学』の原題で、翻訳の底本には復刻版(中略)を用いた。」

 

シューベルト 夢の象徴学


帯文:

「‘夢のロマン主義的神話に捧げられたあらゆる理論的な著作のなかでもっとも独創的なもの’(アルベール・ベガン)と評される本書は、夢と神話・詩・自然形象との連関を探りつつ、原初の統一へ向かう秘教的形而上学を築く。――かつてわれわれがそこに在り、今そこへの帰還を希求する真の宇宙的生の領界を黙示する問題の書。」


帯裏:

「一七九〇―一八三〇年代、芸術全域と宗教、科学、哲学を統括すべく勃ったドイツ・ロマン派の運動は、以後の象徴主義、シュルレアリスム、そして現代と辿る道筋の原点に屹立する。宇宙とその生成全体に投ぜられた偉大な直観のもとで、限りない憧憬とノスタルジーのうちに発せられた問いは、現代のわれわれが久しく忘れていたある根源的なものを想起させ、われわれの存在の根抵に一条の光を注ぐ。
以下続刊――
ルンゲ芸術論 P・O・ルンゲ
魔術的観念論 ノヴァーリス」



目次:


一 夢の言語
二 詩の言語と啓示の言語
三 自然の象徴表現
四 隠れている詩人
五 バベルの塔めいた言語混乱について
六 谺の妖精(エーコー)
七 器械にひそむ神(デウス・エクス・マーキナ)

原註・訳註
解説 (深田甫)
G・H・シューベルト初版著作目録




◆本書より◆


「序」より:

「著者としては、本論において夢に関する本格的理論を述べようとしたわけではない。むしろ、この小著の生理学に触れる部分においてさえ、人間の自然性にみられるある種の陰部 partie honteuse、少なくとも日常生活の動きのうちではまずめったに、これこそが本来のものであったというふうには認識されることのないような部分に、注意を促そうとするだけで事足れりとしたのであった。われわれ人間の本質のうち、この眠り夢見ている部分は、あまり訓練の行き届いていない眼に対してはうまく姿をくらますすべを知っていて、覚醒している部分とまったく同じぐらい確かに、われわれを捲き添えにして暗い境界を越えていってしまうことになるだろう。そこで、そのような眠り夢見ている部分を引き出して教育することが、ひとつやふたつではすまない理由から、われわれにとって主要な関心事となるべきはずのことであるが、このような教育の方法については、あらゆる民族、あらゆる時代にわたってきわめて古いが最高度に教育学的なひとつの体系のみが説明してくれているにしかすぎない。」


「一 夢の言語」より:

「夢のなかでは魂は、日常とはまったく別の言語を語っているようにみえ、夢に先立って、たいていは眠りに落ちこむ寸前に生ずる譫妄 Delirium の状態にあるときすでに、そのような言語を語っているらしい。ある種の自然の物象なり事物の特性なりが、こうなるととつじょ人物を意味していたり、逆にある種の特性であるとか動作であるとかが、人物の形象をかりて姿を現わしたりするのである。魂がこうした言語を辯じているかぎり、その魂に働いている思考はなにかふだんとはまた別の連合法則に従っているのであって、その場合のあらたな観念連合が、覚醒時にわれわれが日ごろの言葉を用いてもっといろいろ考えている状態での観念連合よりは、はるかに足が速くて亡霊じみてもいる短い歩みかたで進捗したり飛躍したりする事実は、否定しようもないところである。われわれは、このような言語で、つぎつぎと矢つぎばやの場合もあれば並んでいる場合もあるが、いずれにせよとつじょとしてわれわれのまえに浮び出てくる形象、それも数はいくつもないような、それぞれ相互に奇妙な繋がりかたをしている象形文字めいた hieroglyphisch 形象によって瞬時のうちに、日常われわれがまるまる何時間もかけたすえに言葉で話をつけ説明できる以上のことを表現してしまうのである。つかのまの微睡(まどろみ)にみる夢のなかで、日常の言語の進みぐあいではまるまる幾日もかからなくては生じえないほどのことを、むしろそれ以上に多く経験することもしばしばであり、しかも、それは、じっさいに欠落した隙き間などなく、それ自体のうちに均整のとれた秩序をもつ、まったく通常ならざる独自な脈絡で、一貫しているものである。」


「三 自然の象徴表現」より:

「夢の言語が、詩の言語や高次の予言の領域の言語と同じように言葉として利用する形象や形態から、われわれを取り囲む自然のうちにひそむ原型を見出すことがあるが、こうした原型は、すでにそれ自体でひとつの具体化された夢の世界、生命ある象形文字的形態に拠る予言的言語にみえる。であるから、さる名の知られていない哲学者が、自然を夢遊病者 Somnambüle、いわば夢言者 Traumrednerin と比較しているが、これまたいわれなしとはしないようにおもえる。夢遊病者というのは、いかなる場合でもその内部の必然性に従い、その無意識にして盲目的な衝動に応じて活動するわけであるが、その衝動から月夜彷徨者 Nachtwandler のさまざまな所作が生じるのであって、夢遊病者が産み出すものは――種々さまざまな種類や性質はあるものの――われわれの夢に現われる形象と似ていて、その形象それ自体は本質的であるとは言えず、それが指示することによって、描き出すことによってはじめて、意味と実在性を有するものなのである。」

「事実、自然の言葉、というよりもむしろ自然と化した神は、古代にとっては夢であると同時に夢の判断者でもあったのだ。人間というのが、神の部分であり似姿であるとするとき、その神の言語、その神が感覚に啓示した言葉が自然そのものにあたるので、人間はもともとそのような言語を引き受ける器官をも内在させていたわけである(人間は自然を統べる主ではあったが、通常解釈されている意味とはまた違った意味でそうであったのだ)。そして今でもなお、閉じこめられている霊魂(プシュケー)が、少なくとも夢のなかでは、生来の調べを聞かせてくれるのである。であればこそ外に表われている自然という感覚に啓示された言葉が、霊魂のうちにひそむ言葉と呼応して人間に理解できるものとなるのであり、人間の精神は、その生ける啓示が拘置されているのと同じ言語で喋っていたのであって、人間の精神は元来このような言語そのものであったのだ。われわれにはしかし、あの言語の大混乱以来わが本性なる自然に固有である言語が、その深い意味のままでは通じなくなってしまい、さまざまな言葉に分割されて書かれた啓示を必要とするようになってしまったのである。」



「四 隠れている詩人」より:

「われわれがこの世に生を受けて登場するのは、健康なるものとしてではなく、この世で治癒しうるもの、治癒しなくてはならぬものとしてであり、この世界は、それ独自の治療手段や矯正手段をなにかと具えていて、恢復期の人びとに対するひとつの施設にほかならない。このかぎりでわれわれは恢復したものとしてはじめて快感がまっとうしたという情感に達するのであり、ただちにこのような情感をもって生れてくるものではない。幾世紀も長いあいだ迷誤に囚われていたすべての民衆は、箇々の点で何が正しく何が正しくないかということについて確信がもてなかったようにもみえるし、みずからが落ちこんでいる道徳的麻痺状態に対して感受性を失ってしまったようにもみえる。それとともに、良心に関しこれにもとづいて皮相な理窟がまかりとおっているようにみえるが、そのような確証など見せかけにしかすぎないのであって、すべての人間は、かつてはみずからの精神の本然が健康な状態にあったという追想を、はっきりであれ曖昧であれ抱いてこの世に生れてくるのである。
 そのような観念は別にして、良心というのは、かつては人間の精神にこそ固有であった言語――神の言語――の器官そのものにほかならないのである。」

「ひとつのふるまいなり、そのふるまいにまつわるひとつの情況なりが形象となって、その犯罪者のあとを、拷問しようとする復讐の女神のように、幾歳月も追いかけまわすことがよくある。殺されたものの呻き声、兇行を起した場所の幻影、手や洗い流したはずの場所にいつまでも見えるようにおもえる血が、夢にもうつつにもついてまわって離れず、ついには死の瞬間にいたるまで、でなければ悔悛の時まで追いかけてきたものだ、と体験談を話してくれる人はたくさんいる。それと似てときにはまた幸せな時、善行などの形象や感じが、まるで善なる天使が一生涯ついてまわるみたいに、魂につきそってきて、一段と高次の根源まで連れ戻してくれる導き手となる例もあった。ありとあらゆる悪徳に耽溺して、遊ぶことにかけては野放図な情熱を傾けていた男の例では、幼少のことからずっと、たったひとつだけではあるが、あるやさしい神父の戒めが彼のうちに喚び覚ましてくれて、ただ一回すばらしい感動を覚えた、ただ一度すばらしい涙を流したという追憶だけは残っていたものである。こういう記憶は、いかなる悪徳の説得があろうともけっして退散しないものであって、捨ておいてあった真実へとその迷える人を連れ戻す導き手となるものであった。また別の男の場合では、あらえこれと深い迷誤の闇をさまよっているあいだじゅう離れず、ついには安らぎの悟りの境地にまで導いていってくれたのが、たったひとつの宗教的ふるまいの効果であった。」

「良心を、(中略)われわれの本然のさまざまな矛盾すべての母と名づけたい。良心は、感覚界のさまざまな歓楽娯楽のさなかでも満足を見出せないようにする棘、いかに感覚上の嗜好を充たしても平穏を見出せないようにする棘ではあるが、また別の一面では、われわれの高次の安らぎを間断なく断ち切っては、すでに碇泊地に近いというのにわれわれの善なるほうの力をたえず駆りたてて、あらたな闘争に邁進させようとするものなのである。(中略)外なる人間が束縛を解かれておおいにうかれ、享楽にうつつをぬかしていると、内なる不快感や深い悲哀の声がその陶酔の邪魔だてをする。束縛を解かれておおいにうつつをぬかして陶酔していたのちに、それまで知らなかったような空虚感や、抵抗しがたい憂愁や、いわれもない涙がつづいて生じてきたとか、いやそれどころか、そういう憂愁の情が歓喜にはしゃいでいるさなかにとつじょとして襲ってきたとかいう体験を、少なくとも穏やかで佳き幼少時代に味わわなかった人はあるまい。裏返せば、内なる人間は、外なる人間が泣いたり悲しんだりするときに、喜びの調べを増してくれ、それがために、われわれがその調べに耳をかしさえすれば、苦しみ悩みをたちまちのうちに忘れさせてくれるのであって、このフェニックスは炎に包まれているうちから歓喜の声をあげ、小躍りして楽しんでいるのである。内なる人間が若々しく逞しくすくすくと成長すればするにつれて、内なる人間は気力を失ってゆき、やがて暗々たる情感や夢の形象世界に引き込まれてゆく。それとは逆に、内なる人間が力強く元気を取り戻すにつれて、外なる人間はしだいに死にたえていくほかなくなるのである。じつに昔ながら変らぬ体験ではないか! 一方がぜひしたいと欲(のぞ)むことが、他方にはなんの役にもたたず、他方が欲求するものは、一方にとって毒にしかすぎない。このような奇異な対(つい)の双方の自然性がそれぞれ、権利と正当性を声高に請求するのであるが、相手の自然性を犠牲にしようとするものではない。双方それぞれに違う方向に動いていく、そこで至福の中点にありながら人間は、ふたつの面に引き裂かれ、ときには強情な対の動きに引きずられて分裂しながら、漂流することになる。その対の一方を特に容認すると、もう一方と致命的な交戦状態に陥るのは免れがたくなるのである。この古来えんえんとつづく矛盾対立は、はたしていつやむのであろうか。身体ふたつが繋がっている双生児の場合、その一方はもう一方にとって重荷になっているはずだが、この一方だけが死んだと見られるとき、ほんとうに死んでいることになるのだろうか。あるいはこのばかげた二重の胃袋をどこまでも引きずってゆくことになるのだろうか。そしてわれわれは、神聖なる祭壇から身をのりだして最善の決意を笑いとばしたり、柩のわきに立って最愛の人に不埒な哄笑を浴びせたりして、もっとも美しい喜びにさえ声までたてて冷笑をそそぐような怪物から、そういう場合にも逃れられないものであろうか。」



「五 バベルの塔めいた言語混乱について」より:

「人びとの魂は、純粋で晴やかな根源領域からディオニューソスの歓楽的な感覚界に沈下するとたちまちのうちに、この身体上の享楽にみちた温くて居心地のよい世界で、故郷への帰還はおろか故郷そのものをさえ忘れてしまうのであった。しかし、魂たちのうちに低次の荒野なる領域への憧憬の火をつける鏡でもあれば、感覚界で故郷を忘却させてしまうその神がまた、故郷へと連れ戻す導き手でもあり、超感覚的なものへの憧憬や低次領域の忘却を魂のうちに作用させる智慧や認識の盃をさしだす神なのでもあった。」



こちらもご参照下さい:

J・L・ボルヘス 『夢の本』
ロジェ・カイヨワ 『夢の現象学』
多田智満子 『夢の神話学』
西郷信綱 『古代人と夢』
レメディオス・バロ 『夢魔のレシピ』

















































関連記事
スポンサーサイト



プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

すきなことば: 「だれもいない」「ギブアウェイ」「ウポポイ」「隠密」
きらいなことば: 「人と人とのつながり」「キャリアアップ」「ほぼほぼ」「三密」

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。
歴史における自閉症の役割。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本