大岡昇平 『中原中也』 (講談社文芸文庫)

「こんなに極度な人間がゐた筈がない。」
(中原中也)
「彼はランボーに倣(なら)って「人でなし中也」と署名することもできたろう。」
(大岡昇平)


大岡昇平 
『中原中也』
 
講談社文芸文庫 お-C-1

講談社 
1989年2月10日 第1刷発行
366p
文庫判 並装 カバー
定価740円
デザイン: 菊地信義


「本書は、一九八三年四月岩波書店刊『大岡昇平集 13』を底本とし、多少ふりがなを加えた。」



自分のような「こんなに極度な人間がゐた筈がない」という中原中也の独白はたいへん感動的です。なぜならそんなに極度な人間は人間社会というものが出来て以来、百人に一人、というかクラスに一人は必ずいたし、これからもいるからです。わたしも子ども心にたいへん共感しました。

「作家案内」中モノクロ図版8点(著者肖像5点、書影3点)。
「作家案内」「著書目録」は二段組です。


大岡昇平 中原中也


帯文:

「中原の不幸は果して人間という存在の根本的条件に
根拠を持っているか。…人間は誰でも中原のように不幸に
ならなければならないものであるか。…
深い友情から発した鋭い洞察力と徹底した実証的探求で、
中原中也とは何か、文学とは何かに迫る第一級の評伝。
野間文芸賞受賞の『中原中也』から
「中原中也伝――揺籃」「朝の歌」「在りし日の歌」を収録。」



目次:

中原中也伝――揺籃
『朝の歌』
『在りし日の歌』

著者から読者へ――中原中也のこと (大岡昇平)
解説――中也という問い (粟津則雄)
作家案内――中原中也 (佐々木幹郎)
著書目録――中原中也




◆本書より◆


「中原中也伝――揺籃」より:

「中原は東京生活のために中原家の現金財産をほとんど蕩尽していたのである。」

「生涯を自分自身であるという一事に賭けてしまった人の姿がここにある。」

「中原にはちょっと伝説を作る趣味があった。それは彼の自己愛の子供らしい現われとも見られるし、彼はまたいつも自分が他人に誤解されると信じていたから、毒を制するに毒をもってする風の韜晦(とうかい)の理由を持っていたかも知れない。」

「昭和三年五月父が死んだ時、彼は帰省しなかった。(中略)「父が死んだからといつて、子が葬式に帰らなければならないという理由はない」と彼は書いて来たそうである。彼はランボーに倣(なら)って「人でなし中也」と署名することもできたろう。」

「中原は散文は最後まで上達しなかった。(中略)明らかに彼は一生人と普通の交際ができなかったように、思想に最低限の一般的形態を与える技術ないし忍耐を持っていなかったのである。
 しかし「詩なら来い」と彼はまたいうだろうと思う。」

「彼は絶えず世間に傷ついたが、どんなにひどい打撃を受けても、結局バネがもとに戻るように、自分の力の意識に立ち帰らずにはいられなかった。彼の不幸は世間に傷ついたその仔細にあるのではなく、いつも自己を取り返さざるを得なかったということにあった。そして相変らずそこから出直して、同じ傷を受けなければならなかったということにあった。」

「現実は、彼自身の現在を含めて、彼には常に不当に見え、醜悪に見えた。「人間は、醜悪なものだ。然るに人々はさうは思つてをらぬ。かくて人生は、愚劣なものだ。詩の世界より他に、どんなものも此の世にあるとは思はない」と彼は死の五ヵ月前に書いている。これが人のよくいう彼の人生からの「乖離」の意味であった。」



「『朝の歌』」より:

「「こんなに極度な人間がゐた筈がない。」」

「中也は既に両親のいうことをきかない子である。十一年八月と十二月に「思想匡正」――と当時はいった――の意味で、大分県の東陽円成師が住職の寺へやられる。(中略)暫くは便所へ通うのも「なんまいだぶ」を唱えていたと伝えられている。信心がその後どこへ行ったか分明でないが、以来宗教心ともいうべきものが、中原の詩と思想の底流をなしていたと考えられる。」
「要するにあらゆる点で、両親は中也に手を焼いたのだ。」

「中原は後年ダダイスムの原理は、新吉の詩を読む前から、独力で発見していたので、名前を借りただけだと豪語していた。その原理が何であったか、今日確かめる手段はないが、一切の価値顛倒と瞬間の絶対化なら、落第生の反抗にも親鸞の教義にも、その影が見える。」

「太郎(引用者注: 富永太郎)の失恋の特徴は、それを過誤と敗北ではなく、自己の存在の理由に転じようとする意志にあるということが出来よう。」
「夜寝られなくて、学校へ出られないことがどうしてこんなに気にかかるやうになつてしまつたのかしらん。しかし睡眠剤は近頃使はないことにしてゐる。どうせ駄目なんだから。Ma Madone が夜な夜な『覚めてゐよ!』と俺を呼ぶのだ。俺はいよいよ世界の変なはしくれに追ひつめられさうだ。さうしてそこに黙つて Baudelaire や Wilde に接吻してゐるんだ。ゆうべ久ぶりで Baudelaire の Journaux intimes をひろひよみして泣きさうになつた。今夜はさつきから De Profundis を膝の上にひらいてよんでいた。はじめは床に入つてよんでゐたのだが、そのうち起きてしまつたんだ。(十二年一月二十日)」
「太郎は恐らくそれまでに自分が書いたものをいい詩とは認めなかったろうし、自分の歩いている道が、当時の日本の詩人の誰とも関係はないという自覚はあったろう。
 彼が詩人として尊敬していたのは、岩野泡鳴である。」
「大正十一年以来美少年富永太郎は慢性的失恋の裡にいた。不眠も写真を撮らせない潔癖も、すべて惨(みじ)めさの自覚に基づいている。彼の願いはその惨めさを歌とすることであるが、彼の秀才的高慢は自嘲でなければ、抽象的文字の羅列しか、自分に許さない。」

「中原が一生人から愛されると同時に嫌われたのは、彼がごく普通の意味で、人と折れ合うことが出来ない我の強い人間だったからで、これは彼の詩とは何の関係もないことである。」

「自分にとって一番大事なことは、親友にも告げないのが富永の流儀で、これは一つの閉ざされた心であった。
 開かれた心、中原には、富永の冷たさは「物質観味の混つた自我」、或る時は単に都会人の田舎者に対する理由のない優越感と映った。
   同年秋詩の宣言を書く。「人間が不幸になったのは、最初の反省が不可なかつたのだ。その最初の反省が人間を政治的動物にした。然し、不可なかつたにしろ、政治的動物になるにはなつちまつたんだ。私とは、つまりそのなるにはなつちまつたことを、決して咎めはしない悲嘆者なんだ」といふのがその書き出しである。(「詩的履歴書」)
 この宣言の原文は残っていないが、それから十二年、中原にとって我々の日常生活は全部政治的に見えたので、中原は死ぬまで、これを咎め続けたのである。」

「同じ厭人と倦怠感のうちにも、中原にはどこかとぼけた明るい味わいがある。」

「大正十四年十一月、長谷川泰子は中原中也の許を去り、小林秀雄と同棲した。」

「小林がそれまでに書いていたのは小説である。(中略)「ポンキンの笑ひ」(『山繭』十四年二月。後に「女とポンキン」と改題)は行きずりの女に対する頭脳的な恋情を戯画化したものだが、これが事件の半年前に書かれたことに、伝記作者は意味をつけたい誘惑にかられる。
 半島の先端で出会った女は、ポンキンという名の変な毛の刈り方をした犬を連れている。

  「面白い犬を持つてますね」
  「これ狸よ」女は、ポンキンの頭に手を置いた。ポンキンはちよつと顔を凹ました。
  「バリカンで刈つてやつたの、斯うするとライオンに見えるでせう」
    …………
  「これ上げるからお読みなさい」彼女は本を私の膝の上に置いた。
  「家にはまだ二冊あるからいゝの」
  私は、本を拡げて見た。頁が、方々切り抜いてある。余白だけ白く切り残された頁もある。
  「これどうしたんです」私は、窓の様に開いた頁の穴に指を通して見せた。
  「あ、さう、さう、いゝ処だけ切り抜いたの」女は、子供の折紙の様に折り畳んだ切り抜きを、ポケットから出して渡した。私は、本をポーンと海に投げ込んだ。
  「何するの」女は、恐い顔をした。
  「これがあれば構はない」私は、切り抜きを女に見せた。
  「ソオね」と女は頷いた。私は、少しばかり切ない気持になつた。

 女は少し気が変なのだが、例えば「ポンキン、いけません」と犬を叱る時の、女の真剣な顔を、「私」は美しいと思う。一ヵ月後私は同じ海岸へ来る。相変らずポンキンを連れた女は、私に気づかず通りすぎるが、ポンキンは私を認めて立ち止る。「何か、秘密なものを見られたやうな気がした。」女に「ポンキン」と呼ばれて、犬は駈け出す。「振り返つた犬の顔が、笑つた様に思はれ、私は、顔を背けた」
 事件の正確な日附を知るまで、私はこの小説が、小林の中原と泰子に対する反応を書いたものだと思っていたのである。それほど雰囲気は、我々が三人の間に想像していたものと酷似している。十八歳の中原は泰子に連れられた犬ぐらいにしか、小林には映らなかったのではないかと思われた。
 事実は無論違っていた。しかし当時小林がこういう感情的な傾斜にいたことと、泰子に惹かれたことと無縁ではないであろう。作品が事件に先行し、丁度小説に書いたように事件が起るのは、よくあることである。」

「中原は朗誦もうまかったし、物真似もうまかった。」

「泰子はその頃は神経衰弱になっていた。河上の言葉を藉(か)りると、
   極度に無機的な感受性の夢を食つて生きる貘のやうな存在で(略)丁度子供が電話ごつこをして遊ぶやうに、自分の意識の紐の片端を小林に持たせて、それをうつかり彼が手離すと錯乱するといふ面倒な心理的な病気を持つてゐた。意識といつても、日常実に瑣細な、例へば今自分の着物の裾が畳の何番目の目の上にあるとか、小林が繰る雨戸の音が彼女が頭の中で勝手に数へるどの数に当るかとかいふやうなことであつた。その数を、彼女の突然の質問に応じて、彼は咄嗟に答へねばならない。それは傍で聞いてゐて、殆んど神業であつた。(『私の詩と真実』)」

「東京人同士だけに通じるらしい些細な言葉のより取り、仕草、それらを知らないために脱け者にされたような感じ、早く符牒(ふちょう)に通暁したいという焦慮等々、今から思えば死ぬまで中原から離れなかった一種の劣等感を、私は最近外国を一人旅して、始めて理解したのである。
 これは中原の詩と大して関係のない、つまらぬ生活の上の些細事ではあるが、つまらぬことが案外馬鹿にならない。

   しかしそのうち気を揉むことは遂に私のくせとなつた。
   由来憂鬱な男となつた。

   由来褒められるとしても作品ばかり。
   人間はどうも交際ひにくいと思はれたことも偶にはあつた。
   それは誤解だとばかり私は弁解之つとめた。
   さうして猶更嫌はれる場合もあつた。   (「泣くな心」)

 中原が人と交際えなかったのは、もっと深いところに根ざしていて、彼がここでおどけて書いているだけで割り切れはしないが、その不断の訪問癖にも現われているように、中原は結局人なつっこい男だったのである。
 自分の流儀でみんなと仲好くしたかったのだが、それぞれ自分の領分と人との附合いを使い分けるのを原則とする都会では、それがかなわなかった。」

「中原は酔うと安原を除いて、我々を罵ることが多くなった。(中略)ほんとの喧嘩になろうとは誰も思ってなかったのだが、だんだん中原が私をなぐる気らしいのがわかって来た。「こっちへ来い」といって二重廻しの袖をつかんで、外の連中から引き離し、道傍の立木の間へ連れ込んだ。
 仕方がないから、先へ立って歩いて行くと、いきなり後から、首筋をなぐった。歩いてる人間をうしろからなぐるんだから、あんまり衝撃はない。」
「中原は抵抗しないのに安心して「中原さんの腕前を見たか」とか何とかいいながら、跳躍しながら、拳骨で突きを入れて来た。」



「『在りし日の歌』」より:

「しかし私にとって一番重大だったのは、大正十一年十月七日附の次の三首である。

   人みなを殺してみたき我が心その心我に神を示せり
   世の中の多くの馬鹿のそしりごと忘れ得ぬ我祈るを知れり
   我が心我のみ知る!といひしまゝ秋の野路に一人我泣く」

「彼の信仰は、彼の写したヴェルレーヌのそれと同じく、(中略)教会とか寺とか、宗教的組織への依存を拒む性質のものであった。」
「ここには彼の生涯の特徴をなした絶対的孤独が現われている。」

「「冬の長門峡」は彼の後期の代表作と看做されている傑作だが、篠田一士氏に代表される否定的な意見がある。」
「「時間が流れる」云々は、「やがて水の代りに『時間』が果てなく流れ出すのである」と評した河上徹太郎に対する篠田氏の反論である。」
「篠田一士氏が「とても、『果てなく流れ出す時間』の水音など聞けるはずもない」と強弁する時、彼は日常的な時間しか考えていないようである。この時間観念の上に立って、彼は河上のいう「晩年」を勝手に「成熟」といい替える。中原には成熟がなかったと、否定的判断を引き出す機縁にしているのだが、河上は中原には初期から「謙抑にして神恵を待てよ」というような諦観があり、それはその短い生涯を通じて、変らなかったといっているだけである。成熟するもしないもない、最初から終末的な高みに上っていて、成長の余地がなかったといっているのである。
 河上によれば、そういう中原に「晩年」の抒情が生れたのは、脳を患い、郷里に引き籠ろうと決心した時であった。」

「どこに行っても中原には安住の地はなかったのだ。」

「小児の絶対的被保護的状態に対する憧れを中原は早くから持っていた。」














































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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