西脇順三郎 『詩の歓び』

「いや、あまりにセンチメンタル……おそらく自分が、病的なセンチメンタルみたいなものを持っているからだかもしれないけれども、そういうものに反発するのかもしれません。」
(西脇順三郎)


西脇順三郎
加藤郁乎/鍵谷幸信/窪田般弥/那珂太郎
シンポジウム 
『詩の歓び』


徳間書店 
昭和45年6月24日 初版第1刷印刷
昭和45年6月30日 初版第1刷発行 
290p
四六判 並装(フランス表紙) ビニールカバー
定価880円
装幀: 道吉剛

「このシンポジウムは昭和四十四年十一月、東京紀尾井町・福田屋で行なわれた。」



本書は西脇順三郎の詩篇「天気」「雨」「太陽」「馥郁タル火夫」「世界開闢説」「旅人かへらず」「近代の寓話」「プレリュード」「失われた時」「最終講義」「田園の憂欝」「野原の夢」をめぐって、英文学者の鍵谷幸信、俳人の加藤郁乎、詩人の那珂太郎、仏文学者で詩人の窪田般彌が、作者である西脇順三郎を中心に雑談する本です。

本文二段組。


西脇順三郎 詩の歓び


目次
 
ことばの衝撃力
玄の思想
永遠の転位
消滅への情熱
ポイエーシスによる夢




◆本書より◆


西脇 (中略)まず古代篇という、大体名前をつけたのは、(中略)私は大体古いものがわりあいに好きだったものですから。古いといっても日本のものは入らないんですけど、ヨーロッパの古いことなんですが、(中略)どうしても私のギリシャ文学に対する態度は、一つの古代として見ているので、(中略)どうしても原始人という立場で、いつもギリシャ人を見ようとしておるんです。(中略)不幸にして(中略)もうすでに文献に残ってるようなギリシャ文学ってものは、実はあまり、私の考えてるような原始人がないんですね。ないけれども、それを私は無理に原始人というふうにしたのかもしれませんが、とにかく、一般の、いわゆるヨーロッパの古典学者が考えてるようなギリシャ文学とは、非常に違うんです。」
「『ギリシャ詞華集』という、ギリシャの大衆文学の残したものがあるんです。それはたとえば、外国じゃ、石碑にちょっと書くのは諧謔が入ってますね。日本みたいに人情的な石碑はないんです。そういうことが非常に面白いんで、アンソロジーを非常に読んだ結果なんですけれども、「天気」とか「雨」とか「太陽」はね。(中略)「天気」というのは、古代篇の序説として書いてあるわけです。(中略)ですから「神」ということが、非常に大切になるわけです。原始人というのは「神」ということはひとつの生命なんですから、みんなアニマーを非常に信じた時代ですから、何でも神に見える。「存在」といったら「神」というような意味になるわけです。(中略)人間でないもの、みんな神というわけ。(中略)近代人の「神」という考え方は、キリスト教的な神と、すぐなるんですけれどもね、しかし私のいう「神」というのは、古代人の考えている神の意味なんです。」

「太陽

カルモジインの田舎は大理石の産地で
其処で私は夏をすごしたことがあった
ヒバリもいないし 蛇も出ない
ただ青いスモモの藪から太陽が出て
またスモモの藪へ沈む
少年は小川でドルフィンを捉えて笑った」

鍵谷 「カルモチン」という睡眠薬がありましょう。
 西脇 で、イタリアでミケランジェロが彫刻に使った石材の産地というのは、「カルラーラ」といい、「カル」の音だけは似ているんですよ、「カルモジイン」と。「カル」だけ似ていて、「カルララ」というとあまり露骨になるから、あまり明らかだからおもしろくないので、そうかといって「カル」まではどうしても書くつもりだったから、そうすると「カルモチン」というようになって、(笑)「カルモチン」というとまた悪くとられるから、で、「カルモジイン」と濁らせただけです。
 那珂 でも、「カルモチン」というのは、白い結晶の粉末でしょう。だからやはり大理石のイメージと結びつきますよね。ぼくはそれに驚いたんですけれども。
 西脇 有名な大理石の産地というのは、「カルラーラ」で有名ですけれども。いまでも世界的な大理石の産地ですよ。いまのルネッサンス、十五世紀から、寺院がたくさんできて、みんな「カルラーラ」から産しているんです。
 鍵谷 先生は、これについては、あるところで書いておられるんです。こういうことはあまり先生、なさらないのだけれども、「自作のうちあけ」ということをいわれて、
  『「太陽」という詩は、オセアニアという海岸のある孤島の風景を描きたかったのである。少年連中が裸でイルカを肩にかついで遊んでいるところであり、またこれは大理石の産地であるイタリアのいなかと連結して、一つの心の夏を暗示しようとした』
というふうに、文章に書かれているのです。」
西脇 ぼくは土人が好きですから、昔は、土人のことを書いたものをたくさん持っていたんですよ。
 で、ある南洋のどこの島かな、子供がイルカをとって遊んでいるんですよ。
 だっていまローマへ行っても、有名なルフィシーの博物館なんかで、まん中へ入ると、有名な、イルカを持っている子供がいますがね。あれはやっぱりイルカを持って遊んでいるんです。笑っているんですよ、「ウエルカム」といって。」

西脇 おそらく萩原朔太郎という人も、ぼくと同じように、どちらかというと、むしろ感覚的に弱い人ですね。だから、一応肺病みたいになったんじゃないのかな。だから、すぐわかるんですよね、彼のじめじめしたところというものは。これは病的だってことがね。だから、いやなんです。だけども、それを救う、もう一つのすばらしい力が入ってるわけですね、朔太郎にはね。ところが世間では、じめじめしたところの朔太郎を好きな人が多いでしょう。それは肺病じゃない人が好きです。人間というのは、肺病の傾向のある人は、じめじめしたことが逆にきらいになるんですね。」

「西脇 だから、あの時代でもって上田敏の調子をとらなかったということは、すばらしいですね。上田敏流に、彼は書かなかったんですよ。書けなかったの、書こうと思っても。ぼくと同じように、書こうと思ってもね。だけど一生懸命に書こうと思ったら、勉強してあのことばづかいを覚えるでしょう。やっぱり好きじゃなかったってことが、大きな原因だろうと思います。その点で、萩原というのは、なるほどおもしろいと思うんですがね。ことばの改革者です。」

西脇 (中略)文学というものはやっぱり人間の心の欲求からみんなきてますね。というのは、人間には哀愁を求める気持ちというのは非常に多いんです。それと同時に正反対の笑いを求める。哀愁と笑いというのは正反対なものですよ。正反対なものだけれども、人間は両方を求めるんですよ。ぼくだってそうなんです。非常に哀愁を求めることも、哀愁の美というものも知っているし、笑いの美ということも知っているから、こういうふうになるんですよ。両方入ってしまう。哀愁だけでもいけないし、笑いだけでもいけない。笑いと哀愁というもの、そこにまた遠いものの連結が、一番そこが、何といっても、ほんとうの現実です。人間は哀愁を求めるってことはだれもいう人はいない。ぼくは、人間の神経に、哀愁……笑いは笑いをつかさどる神経があるんだけれども、哀愁を求める神経、哀愁をつかさどる神経はあると思うんですよ。いままでそういうことをいった人はありませんが……」

西脇 ヴィジョンというか、実際そう思うんですよ。なぜぼくは道を歩いて、ススキだとかそういうものにさびしさを感ずるのか。これは、われわれススキだとか、そういうところばかりにいた、古い原始人の遺伝だろうと思うんですよ。そういう自然を見てさびしく思うのは。思い出とはみんなさびしくなるもんですよ。思い出が出る。だからぼくにも原始人の、何かが残っているというふうに感じたんです。なぜ、ぼくは、自然の景色や、そういう現実的な風景とか、そういうのを見るとさびしく感ずるか。それはやっぱり原始人の思い出、ぼくの中に原始人が残っているから、原始人がぼくをさびしくさしたとか、思い出を与えてくれるというふうに解釈せざるを得なかった。」
「ぼくは低血圧だということでね。昔の人はみんな低血圧であったと考えるようになったんですよ。というのは、ぼくなんか栄養のあるものはきらいで食べなかったでしょう。栄養にならないようなものだけは好きなんですよ。食べものとしては。だから低血圧になるんですね。やっぱり低血圧というのは、血が足りないというか、からだに活力がないんですね。だから活力がないということは、どうしても哀愁を早く感ずるんですね。何でも哀愁に感ずる傾向があるでしょう。哀愁を求めざるを……だから求めるというのは、この間自分が考えたことですけれども、ぼくなんかが求める哀愁が…美の本質というのは、一種の哀愁じゃないかとさえ思ったことがある。」





































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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