大室幹雄 『新編 正名と狂言』

「青年や壮年の意識的自我の惑乱を払拭して「嬰児」の天上的な祝福された無意識状態に「復帰」することを、あるいは恍惚たる〈坐忘〉〈喪我〉の特権的瞬間に、いま、そして、ここで、直下に参入することを老荘家たちは企てたのだった。」
(大室幹雄 「古代中国における歴史と時間」 より)


大室幹雄 
『新編 正名と狂言
― 古代中国知識人の言語世界』


せりか書房 1986年10月28日
401p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価3,000円
装幀: 工藤強勝



本書「あとがき」より:

「本書の主題はおおげさなものだ、政治対文化、その中核ともいうべき権力対ことば、あるいは政治のことばと個人のことばとの対立、古代中国の用語でいえば〈正名〉と〈狂言〉との拮抗を主題としている。」
「政治対文化、権力対ことばという二項対立にあって後者が前者を凌駕したためしの絶無にちかいことを人類の歴史は語っている、とりわけ中国と日本のそれは。後者への著者の共感は〈狂言〉の達人たちや〈滑稽〉へのひそかな好意というかたちで浮かびあがっているかもしれない。けれども全体として本書は古代中国における言説の権力に対する敗北の記述である。」



『正名と狂言』初版は1975年3月、せりか書房より刊行、本書はその新版で、「古代中国における歴史と時間」(「思想」、1974年8月号)が追補されています。

本文中図版(モノクロ)。


大室幹雄 正名と狂言


目次:

I
市場のことばと空白のことば――ことばをめぐる儒家と道家の自己意識
 1 ことばの市場
 2 言語空間の政治性
 3 市場のことば
 4 空白のことば
 5 〈遊〉としての〈狂言〉
 6 〈遊〉による意識の自己救拯
古代中国における歴史と時間――老荘的シンボリズムへの序章
 1 楽園と歴史
 2 楽園欠落と歴史主義的意識
 3 記憶 経験 希望
 4 始原へかえる意識
 5 車輪と道枢
 6 母性的なものへ

II
墳墓と言語――秦始皇帝の父親殺し
 1 第一の父――荘襄王子楚
 2 第二の父――〈仲父〉呂不韋
 3 第三の父――〈仮父〉嫪毒
 4 第一の母――母太后邯鄲の美姫
 5 第四の父――天
 6 第二の母――大地 あとがき
二人の相如――〈死地〉の文学から宮廷の文学へ
 1 〈死地〉の文学(1)
 2 〈死地〉の文学(2)
 3 〈自広〉の文学
 4 〈酒舎〉の文学
 5 宮廷の文学
歓楽と哀情――漢武帝の美文愛好
 1 遊戯空間としての帝国
 2 巻絡と哀情
 3 ことばの遊戯圏
 4 〈ことばを制するもの〉のリアリズム

III
羽化登仙した滑稽者――東方朔の〈狂〉について
 1 巨人と小人
 2 体制化された異常
 3 道化の東方朔
 4 時代後れの〈狂〉

あとがき




◆本書より◆


「市場のことばと空白のことば」より:

「知識人というものが、権力とさえみればだれかれの見境なしにいそいそと尾を振る番犬でしかないとしても、〈わが舌〉のみを唯一の生存の手段とせざるをえなかった古代中国の知識人のうちには、その生存の条件が苛酷であればあるだけ、ことばへの依存と信頼、それを〈わが舌〉端上に回転させることによって世界全体をも動かすことができるという自己確信の誇らかで積極的な明快さがある。むろんそこに抑圧された人々の自己嗜虐的な屈折の暗い翳が射しているのは否定すべくもないにしても、いってみれば、自己放棄のどんづまりからのみ発光するところの明るさ、自暴自棄と裏腹の思いきって辛辣かつ高燥な情念の明快さである。」
「遊説家の第一の属性は〈わが舌〉しかもたぬということでなければならない。仮りに何らかの技芸を有していたとしても、それが物質的労働に類するものであれば、当時の貴族社会とそれに従属する知識社会の正統的生活感覚として、それは〈名〉をなすに不十分なもの、価値において低劣な賤しむべきもの、士人エリートにあるまじきものである。才芸は自己実現の道具としてことばを選び採るときにだけ、士人エリート社会で正当に評価されるものとなる。」
「ことばが都市にのみ開花するものであるからには、遊説家の活動する舞台、生活の場は都市しかない。というよりも、社会学的には知識人は都市にしか居住しない階層なのである。」
「都市はことばが本来的な機能を発揮するところの言語空間である。」
「都市というものがほんらい交換なくしては絶対に存続しえないものであって、それは本質上ひとつの巨きな市場なのである。」
「こうみてくれば、遊説家知識人におけることば、ことばを媒介に表明される一定の思想とか現実的な指針、つまり言説が一つの交換価値にほかならないことが理解される。」

「『荘子』斉物論篇を中心に述べられた言語観は、『荀子』正名篇とならんで、古代中国の知識人のことばの理解を知るための主要な史料である。荀子の正名論が概念と実体との完全な合致に真なることばと言説の根拠をおいていたのに対して、荘子は概念とその実体とのあいだには何の必然的な対応関係がないこと、それどころかこの関係は恣意的なものでさえなく、むしろことばはその指示内容の不安定と曖昧さによって無力であることを指摘する。」

「それにしても何が狂気であるかは面倒な問題である。原理的には異質の文化をもつ多様な社会の数だけ狂気の種類も区々さまざまにあるといってよい。個々の社会にはその存続を維持していくための公然ないし陰然たる原則的基準があって、その社会の構成員はこの基準を中心にして周辺へと散開している。この基準の境界は明確に自覚されているとはかぎらないが、構成員が境界の外へ逸脱したばあいには他の構成員はきわめて敏感に反応する。正常と異常の区別はこの基準の中心から境界への散開、そしてまた境界から外部への逸脱に対応しているのであり、したがってもっとも認知しやすい異常はこの境界の外部へはみだした構成員のばあいである。ただし人間の活動領域はさまざまであって、たとえばミシェル・フーコーは(一)仕事、または経済的生産、(二)社会の再生産としての性、家庭、(三)ランガージュとパロール、(四)遊びや祭などの遊戯的活動、に四大分している。フーコーによると、これら四領域のいずれにも一般原則からはずれた、他人とはちがう異常な行動をとる周辺的(マージナル)な個人があり、狂人とはこれらの全領域にわたって周辺的に行動するところの構成員にほかならない。問題は(三)の言語生活のばあいであるが、そのパロールが、他日その真実性を証しうるような象徴的意味をもつ個人は予言者、また審美的パロールの使用者は詩人であって、どちらも日常性から逸脱した異常な個人であると考えられる。」



「古代中国における歴史と時間」より:

「青年や壮年の意識的自我の惑乱を払拭して「嬰児」の天上的な祝福された無意識状態に「復帰」することを、あるいは恍惚たる〈坐忘〉〈喪我〉の特権的瞬間に、いま、そして、ここで、直下に参入することを老荘家たちは企てたのだった。」

「かくてこのウロボロスこそ荘子いうところの「至徳の世」の「無智」「無欲」、いまだ「物」あらざる〈道(タオ)〉と一体化した「古の人」の無意識の祖型的シンボル、『老子』一章にいわゆる言表すべからざる「永遠不易の道」、日常人の意識には不可視でしかありえない「衆妙の門」の原初的イメージにほかならない。」

「種としての人間の起源とともに古い胎児的・前臍的(プレ・ナータル)的な、主客未分の前世界的なウロボロスの円環が象徴する無意識的自足性、一にして全なる完全性こそ、いまや鉄器時代に乱入した、帝国主義的戦争と大量虐殺に特徴づけられる戦国期の歴史的現実から、脱政治・脱歴史・脱文化・脱社会への志向によって、歴史を撥無した非時間的な無意識の源泉へひたすら回帰しようとする老荘家知識人の窮極的な世界(コスモス)であった。」

「いみじくも臨終の荘周は語っている、「私は天地を棺槨とし、日月を連璧とし、星辰を珠璣として、万物で私自身を葬送しよう、葬具はととのっているのだ。天上にあっては烏と鳶に食われ、地下にあっては螻(けら)と蟻に食われよう。〔それなのに厚葬して〕烏と鳶、螻と蟻から私を奪ってしまうのは、何と偏固であることか!」と。」




こちらもご参照下さい:

『エリアーデ著作集 第五巻 鍛冶師と錬金術師』 (大室幹雄 訳)
R・A・ラファティ 『昔には帰れない』 (伊藤典夫・浅倉久志 訳/ハヤカワ文庫)











































関連記事
スポンサーサイト
プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本