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大室幹雄 『囲碁の民話学』 (岩波現代文庫)

「阮籍(げんせき)の母が死んだ。籍は人と碁を囲みつづけた。それで相手は止めようと申し出たのだが、籍は中止するのを承知せず、勝ったのである。」
(大室幹雄 『囲碁の民話学』 より)


大室幹雄 
『囲碁の民話学』

岩波現代文庫 学術 G-123

岩波書店 
2004年6月16日 第1刷発行
x 304p 付記1p
文庫判 並装 カバー 
定価1,100円+税


「本書は一九七七年五月、せりか書房より刊行された。」



本文中図版(モノクロ)多数。

フィリップ・K・ディックの小説『スキャナー・ダークリー(暗闇のスキャナー)』は、「遊び人間」たちが、「カタギ」の仕事人間たちの支配下にある現世でいかに敗北し、廃人と化していくかを描いた、身につまされるお話でした。ディックは「著者覚え書き」で、彼らが「遊び人間」たろうと志したことは間違ってはいなかった、ただ「遊びかた」が間違っていたのだ、と語っています。
映画『ビューティフル・マインド』は、「ゲーム理論」のジョン・ナッシュが数学という「遊び」の世界から政治という「カタギ」の世界へ引っ張り出されることで廃人と化していく様子を描いた、身につまされるお話でした。
大室氏の著書『滑稽』および『正名と狂言』では、遊び人間(「異人」)たちと仕事人間(「通常人」)たちとの全面的な対立抗争と、前者の敗北の様相が描かれていました。
それでは、われわれ異人(エトランジェ)はどのように遊べばよいのか。
そこで本書、『囲碁の民話学』です。


大室幹雄 囲碁の民話学 01


カバーそで文:

「正方形の盤面上で黒白の石によって競われる囲碁は、壮大深遠なシンボリズムを蔵する宇宙論的世界である。碁盤は大地の隠喩であり、四隅は四季をあらわし、三六一目は一年に相当する。童子や老賢者が碁に興じる民話は、文化の深層へとわれわれを誘っていく。囲碁を入り口にして中国の豊かな精神世界を旅する歴史人類学の代表作。」


目次:

序文 (林裕)

第一章 囲碁の魔術性
 『国性爺合戦』碁立軍法の幻想
 囲碁の神秘
 囲碁のシンボリズム
第二章 碁盤の空間的象徴性
 「天円地方」の宇宙像
 方形の世界
 都市と建築の方形プラン
 世界を戯場とする遊び
第三章 爛柯考(らんかこう)
 遊びぎらいと思考ぎらいのための余談
 爛柯説話の諸要素
 童子のトポス
 神童・奇童・聖小児たち

第四章 老賢者
 碁をうつ神仙たち
 老翁と幼児たち
 老人の心の円熟について
 老賢者――老子とマーリン

第五章 少年と小鳥
 老賢者の死
 神童の誕生
 青衣童子と小鳥たち
 「野田黄雀行」

第六章 石室の宇宙論
 洞窟彷徨
 民話の洞窟学
 任昉と石室山
 腐爛のモチーフ

第七章 桃(もも)と棗(なつめ)の時間論
 山中の自然と文化
 桃花源にて
 飽満のモチーフ

第八章 碁盤と碁石の時間的象徴性
 天体の模像としての碁局
 碁石による宇宙の創造

むすび


岩波現代文庫版あとがき

解説 囲碁の万華鏡、あるいは盤上遊戯の桃源郷 (鎌田東二)



大室幹雄 囲碁の民話学 02



◆本書より◆


「「爛柯」とは何なのか。(中略)梁(五〇二―五七)は任昉(にんぼう)の撰にかかるとされる『述異記』巻上のつぎの故事を読まれたい。
  信安郡に石室山がある。晋の時代に、王質が木を伐りにやってきた。数人の童子が歌いながら碁を打っているのを見て、質は歌を聴いて見物した。童子が棗(なつめ)の核(たね)みたいなものをくれたから、質が口に含むと饑えを覚えなかったのである。しばらくして童子がいうことに、「どうして行かないの?」。質が起ちあがって斧を視ると、柯(え)はぼろぼろに爛(くさ)れ尽していた。山から里に帰ってみれば、すでに時人なし。」

「経験的にいえば、童子の清浄は空白にちかい無知の裏がえしにすぎないのであろう。それで小児の晴れやかさ、軽さ、明るさ、美しさは哀しいことにひどくもろい。人の世の知識が加えられる、と、たちまちに子どもは鈍重に陰鬱に醜悪に重苦しく真黒に汚されてしまう。それでも人間の想像力が文芸に音楽に絵画に彫刻に芝居にさまざまな形で童子の無垢の魂を造形しつづけてきたのは大きな慰めであろう。それら多彩な小児の形象に眺め入ると、幼童の魂には成人のノスタルジヤをそそりたてる以上の何か奥底の知れない秘密が潜んでいるのに相違ない。
 中国最大の神秘家老子は幼児の魂をくりかえし讃えている。彼にとり嬰児もしくは赤子は知識に満たされ分別に迷わされている精神が復帰すべき根源的な一者のイメージなのだった。」
「老子にあって嬰児をめぐる表象は母性的なものへの回帰、生理的なレベルにおいては調息導引の実践(プラクシス)によって母の胎内における胎児の呼吸のリズムを回復すること、心理-精神的なレベルにおいてはいまだ自己と外界との分別もなく世界の中心に安らう根源的無意識と再統合することを意味した。すなわち、嬰児は根源的な生のシンボルだったのである。」

「マーリンは己の呪縛の森の山査子の繁みのなかで原母ニニアンの蠱惑にとらえられ、彼女の呪縛によって「最も偉大な愚者」に帰って、アーサー王と円卓の騎士たちのまえから消え去った。伝承にしたがえば、老子は自身の意志で西の関門を通過して西方へ旅だち、やがてインドで仏陀として再生したのだった。つまりこの中国の老賢者は死ななかったのである。歴史的にのみならず精神的にも彼は時間と生命の桎梏を脱解して生きつづけたのだった。(中略)彼は玄牝の潜勢力たる道(タオ)をわがものとしたのだ。だから彼は形を超越することができたし、いくたびとなく赤子として生まれ、老翁として解体して谷神の子宮に帰り、また嬰児として玄牝之門からその胸乳のあいだに再生することが可能なのであった。――老子のほぼ同時代の分身たる老莱子が七十歳にして幼児にかえって父母の膝下に小鳥と嬉遊したという説話のイメージの根底には、玄牝と合体した老子に顕現する変化隠身(へんげおんしん)の方術の至高の活動が認められる。そして時代ははるかに下るけれども唐の時代の老賢者の説話として生彩に富むイメージが伝えられている。
 銭易の『洞微志』に記された話である。李員は皇帝の詔を奉じて使者となり海を渡って瓊州道(けいしゅうどう)にやってきたとき、一人の老翁に逢った。自称楊避挙といい、年は八十一であった。その父と叔父はともに百二十余歳で、祖父宋卿に会ったら百九十五歳だというのである。さらに雞の巣のなかに一人の小児がいて頭を出して下を視ているのにあった。宋卿がいうには、「これは九代まえの祖先の忌であって、食べもせず語りもせず、何歳なのかはわからない」というのであった。」























































































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

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