白川静 『孔子伝』 (中公文庫)

「儒家に対するきびしい批判者とされる荘子は、その精神的系譜からいえば、むしろ孔子晩年の思想の直系者であり、孟子は正統外の人である。」
(白川静 『孔子伝』 より)


白川静 『孔子伝』 
中公文庫 し-20-9

中央公論新社 1991年2月10日初版発行
2003年1月25日改版発行/2010年4月5日改版9刷発行
317p 
文庫判 並装 カバー 
定価895円+税
カバーデザイン: 山影麻奈

「『孔子伝』 一九七二年一一月 中央公論社刊」



本文中図版(モノクロ)多数。

巻懐(ひきこもり)の圏外(アウトサイダー)哲人(オカルティスト)孔子、その反体制的・「狂」的負け犬人生。本書は著者随一の名著なので、よむとよいです。

「内外すべて、ノモス的な幻影が世をおおうている。多分孔子も、このような時代に生きたのであろう。哲人孔子は、どのようにしてその社会に生きたのか。孔子はその力とどのように戦ったのか。そして現実に敗れながら、どうして百世の師となることができたのであろうか。私はそのような孔子を、かきたいと思った。」
「孔子は最も狂者を愛した人である。「狂者は進みて取る」ものであり、「直なる者」である。邪悪なるものと闘うためには、一種の異常さを必要とするので、狂気こそが変革の原動力でありうる。そしてそれは、精神史的にもたしかに実証しうることである。(中略)あらゆる分野で、ノモス的なものに対抗しうるものは、この「狂」のほかにはないように思う。」

(本書「文庫版あとがき」より)

それではその「邪悪なるもの」である「ノモス」とは何かというと、

「具体的には道徳や法律がそれである。(中略)ノモスは個人に対して先在するもの、個人を包む歴史的社会的一般者である。それは集団そのもののもつ権威の上に成り立つものであるから、個人的契機を含みがたい」(本書より)


白川静 孔子伝


カバー裏文:

「理想を追って、挫折と漂泊のうちに生きた孔子。中国の偉大な哲人の残した言行は、『論語』として現在も全世界に生き続ける。史実と後世の恣意的粉飾を峻別し、その思想に肉薄する、画期的孔子伝。」


目次:

第一章 東西南北の人
 伝記について
 聖人ののち
 陽虎の叛
 出国記
 亡命記
 夢と影と

第二章 儒の源流
 伝統について
 大儒と小儒
 巫史の学
 天の理想
 古典について
 儒教の成立

第三章 孔子の立場
 体制について
 群不逞の徒
 奴隷制説
 孔子教団
 巻懐の人

第四章 儒教の批判者
 批判について
 ギルド的集団
 儒墨の弁
 盗跖の論理
 孔子問礼
 稷下の学

第五章 『論語』について
 文体論
 儒家八流
 弟子群像
 『論語』の成立
 大なるかな孔子

文庫版あとがき
解説 (加地伸行)




◆本書より◆


「東西南北の人」より:

「孔子はとくに卑賤の出身であった。父のことも明らかでなく、私は巫児の庶生子ではないかと思う。晩年にはさすがに一代の師表として、尊敬を受けたであろうが、亡命中のある時期には、「夫子を殺すもの罪なく、夫子を藉(しの)ぐもの禁なし」〔荘子・譲王篇〕という、引き受け人のない亡命者、いわゆる外盗の扱いであった。」

「体制の理論とされる儒教も、その出発点においては、やはり反体制の理論であった。そのことは、孔子の行動がよく示しているところである。しかし反体制の理論は、その目的とする社会が実現したとき、ただちに体制の理論に転化する。それが弁証法的運動というものであろう。儒教的な思惟になお生命があるとすれば、それはまたやがて、新しい反体制の理論を生み出してくるかも知れない。」

「孔子の世系についての『史記』などにしるす物語は、すべて虚構である。孔子はおそらく、名もない巫女の子として、早く孤児となり、卑賤のうちに成長したのであろう。そしてそのことが、人間についてはじめて深い凝視を寄せたこの偉大な哲人を生み出したのであろう。思想は富貴の身分から生まれるものではない。」

「孔子が、一躍にして世人の注目をあびるようになるのは、魯に内乱的な状態が突発したときである。(中略)陽虎は孔子を招聘することに熱心であったし、公山弗擾も、いよいよクーデターを実行するとき、孔子を招いた。孔子のもつ影響力は、おそらく巫祝社会を中心として、祭司者の知識社会全体に及んでいたであろう。孔子も行動を起そうとする。しかしそれはたちまち挫折するのである。しかしその挫折は孔子を救ったと私は考える。政治的な成功は、一般に堕落をもたらす以外の何ものでもない。」

「従うものは、子路以下、顔淵など少数の主だった弟子たちであった。こうして十四年にわたる亡命生活がはじまる。(中略)この亡命生活は、かれらの間に強い運命共同体的な意識をうえつけ、(中略)思索を深める機会をも与えたであろう。それは使徒たちを伴って彷徨をつづけるナザレびとの姿に似ている。」

「しかし事実は必ずしも真実ではない。事実の意味するところのものが真実なのである。孔子を大聖として書くことは、むしろやさしい。(中略)しかし事実の意味を解くことは、実は容易ではない。意識の底によどむあるものにも、照明を当てなければならぬからである。ソクラテスがダイモンのささやきを語るとき、それは何を意味するのか。(中略)聖者といわれる人には、そういう不可解な面があるものなのだ。(中略)孔子の言動には、人が夢みるときのような、何か美しいものを感じさせるときがある。あるいはまた、何かの幻影に怖れおののくような姿がある。」

「孔子は巫女の子であった。父の名も知られぬ庶生子であった。尼山に祈って生まれたというのも、世の常のことではなさそうである。あのナザレびとのように、神は好んでそういう子をえらぶ。孔子はえらばれた人であった。それゆえに世にあらわれるまでは、誰もその前半生を知らないのが当然である。神はみずからを託したものに、深い苦しみと悩みを与えて、それを自覚させようとする。それを自覚しえたものが、聖者となるのである。
 孔子は、一生夢をみつづけた。夢に出てくるのはいつも周公であった。」
「孔子には、もう一つ幻影があった。それはダイモンのように識られざる神の声ではなく、現実の人物として行動する。しかし孔子は、おそらくその人物のうちに、ダイモンのようなふしぎな何ものかの影を感じ、これを怖れ、ときには反撥し、ときには憎悪を抱いていた。少なくとも私には、そのように、思われる。それは陽虎という男であった。」



「儒の源流」より:

「焚かれたのは巫祝であった。祝は巫に対して男巫をいい、髪を断つことをもいう語である。焚巫に用いるものは、大てい巫祝の中の異常者であった。わが国の一つ目や一本足の妖怪が、そういう古代の人身御供(ひとみごくう)から生まれた語であるように、中国では侏儒などがそれに使われたのである。儒はおそらく、もと雨請いに犠牲とされる巫祝をいう語であったと思われる。その語がのちには一般化されて、巫祝中の特定者を儒とよんだのであろう。それはもと、巫祝のうちでも下層者であったはずである。かれらはおそらく、儒家の成立する以前から儒とよばれ、儒家が成立してからもなお儒とよばれていたのであろう。」

「巫とともに、神事に従うものに史があった。巫史・祝史のようによばれていることが多い。巫史の起源は、遠い原始の時代に発している。それは人類が、何らかの意味で霊的なものの存在を意識し、それとの交渉を試みようとしたとき、すなわち人々が原始的な宗教感情をいだきはじめたときから起っている。霊的なものには、霊的な方法で対処しなければならない。そういう呪的な行為をするものが、巫史であった。」

「儒教は、中国における古代的な意識形態のすべてを含んで、その上に成立した。伝統は過去のすべてを包み、しかも新しい歴史の可能性を生み出す場であるから、それはいわば多の統一の上になり立つ。儒の源流として考えられる古代的な伝承は、まことに雑多である。その精神的な系譜は、おそらくこの民族の、過去の体験のすべてに通じていよう。孔子は、このような諸伝承のもつ意味を、その極限にまで追求しようとした。詩において、楽において、また礼において、その追求が試みられたことは、すでにみてきた通りである。そしてその統一の場として、仁を見出したのである。過去のあらゆる精神的な遺産は、ここにおいて規範的なものにまで高められる。しかも孔子は、そのすべてを伝統の創始者としての周公に帰した。そして孔子自身は、みずからを「述べて作らざる」ものと規定する。孔子は、そのような伝統の価値体系である「文」の、祖述者たることに甘んじようとする。しかし実は、このように無主体的な主体の自覚のうちにこそ、創造の秘密があったのである。伝統は運動をもつものでなければならない。運動は、原点への回帰を通じて、その歴史的可能性を確かめる。その回帰と創造の限りない運動の上に、伝統は生きてゆくのである。儒教はそののち二千数百年にわたって、この国の伝統を形成した。そしていくたびか新しい自己運動を展開したが、そのような運動の方式は、すでに孔子において設定されていたものであった。孔子が不朽であるのは、このような伝統の樹立者としてである。」



「孔子の立場」より:

「人はみな、所与の世界に生きる。何びとも、その与えられた条件を超えることはできない。その与えられた条件を、もし体制とよぶとすれば、人はその体制の中に生きるのである。体制に随順して生きることによって、充足がえられるならば、人は幸福であるかも知れない。しかし体制が、人間の可能性を抑圧する力としてはたらくとき、人はその体制を超えようとする。そこに変革を求める。思想は、何らかの意味で変革を意図するところに生まれるものであるから、変革者は必ず思想家でなくてはならない。またその行為者でなければならない。しかしそのような思想や行動が、体制の中にある人に、受け容れられるはずはない。それで思想家は、しばしば反体制者となる。少なくとも、反体制者として扱われる。孔子は、そのような意味で反体制者であった。孔子が、その生涯の最も重要な時期を、亡命と漂泊のうちに過ごしたのは、そのためである。孔子はその意味では、圏外の人であった。」

「人は所与の世界に生きるものであるが、所与はその圏外に去ることによって変りうるものである。また同時に、主体としての所与への関与のしかたによっても、変りうる。むしろ厳密にいえば、所与を規定するものは、主体そのものに外ならないともいえよう。殊に亡命生活のような、体制の圏外にある場合に、主体はむしろその自由を回復する。体制の中では反体制としてのみ措定される可能性が、ここでは自由である。可能性は限りなく高められ、純粋化される。(中略)所与の限界性を破りうるものは、天であった。孔子が天命を自覚したというのも、おそらくそのときであろう。」

「思えば、この亡命ということも、また天命であったのかも知れない。孔子は、この亡命によって、人間としての可能性を窮める機会をえたのである。(中略)もっとも孔子は、この亡命中を、「夢と影」の中でくらした。理想と現実との相克の中に身をおいたが、しかしすべてのものは、そのようなきびしい矛盾の克服を通じてのみ、成就しうるのである。」

「孔門には狂簡の徒が多かった。(中略)狂簡の士とは、「進みて取り」、「爲さざるところある」〔子路〕ものとされた。孔子はそのゆえに、深く狂簡の徒を愛した。
 孔子は最も「固を疾(にく)」〔憲問〕み、教条主義者を度しがたいものとした。次に郷原(きょうげん)を悪んだ。(中略)郷原とは、見せかけだけの形式主義者である。この種の人間よりは、狂簡の徒の方がはるかに上等である。しかし狂にも古今の別があって、「古の狂や肆(し)、今の狂や蕩」〔陽貨〕という。肆とは自由にして闊達の意であるが、蕩とは自己抑制のないことをいう。」



「儒教の批判者」より:

「批判は異質の世界に起るものではない。共通する連帯の中にありながら、その立場を異にし、目的を異にするところに、その自己諒解の独自性の主張として生まれるのである。」

「孔子のいう仁は、もとより「人を愛す」〔顔淵〕という一面もあるが、仁は孔子においては「一日己れに克ち禮に復らば、天下仁に歸す」〔同〕という、人間存在の根拠に関する絶対の自覚をいう語であった。」

「孔子の時代には、この民族のもつゆたかな伝統がなお生きつづけていた。神のことばを伝える聖人たちの教えがあった。そのことばの意味を明らかにすることが、孔子の使命であった。そして孔子はそれを、仁においてみごとに結晶させた。それは心のうちに深く求められたロゴスの世界であった。」

「ノモスは、分配を語源とするものといわれている。それは公共性の原理であった。具体的には道徳や法律がそれである。(中略)ノモスは個人に対して先在するもの、個人を包む歴史的社会的一般者である。それは集団そのもののもつ権威の上に成り立つものであるから、個人的契機を含みがたい。」

「真の実在とはカオスであり、実在の亀裂を示すものであり、渾沌(こんとん)たるものである。渾沌には目鼻があってはならない。北海の帝である忽と、南海の帝である儵(しゅく)とが、中央の帝である渾沌のところで世話になった。お礼のしるしとして、目鼻のない渾沌に、人並みの目鼻をつけてあげようということになった。七日がかりで七つの竅(あな)をうがち終ったとき、渾沌は死んだ。(中略)儵・忽とは時間的限定をいう。実在は時間や運動のように、分割することを許さないものである。分割は死を意味する。人はなぜ存在を存在として、道を道として、そのままに把握しようとしないのか。矛盾にみちたこの現実を、どうすることができるというのか。あるものはただ、己れだけではないか。存在とともにあるところの、己れだけではないか。そこに自己の存在根拠としての、荘子の本体論が生まれ、認識論が展開される。」

「儒家に対するきびしい批判者とされる荘子は、その精神的系譜からいえば、むしろ孔子晩年の思想の直系者であり、孟子は正統外の人である。」

「坐忘とは、知覚的なもの、理性的なものの放棄をいう。いわば直観である。それはノモス的な原理としての仁儀礼楽を棄てたところに生まれる。孔子において明らかにされたイデア的な世界は、やがて儒墨の徒によって、ノモス的な社会的一般者に転化された。それは集団のもつ規範性に、すべての人が服従しなければならぬ世界である。(中略)しかしそのような一般者は、その集団の超越性のゆえに、主体的な生の自由に息づくことを許さない。生の衝迫は極度に抑圧される。従ってノモス的な世界の否定は、個の主体性の回復の主張となり、より根源的な生の解放の主張となる。生の哲学、実存の哲学とよばれるものが生まれるのは、おおむねそのような思想的要求からである。荘周の思想が、しばしば生の哲学、実存の哲学とされるのもまた、その意味においてである。」

「老荘の思想を郭氏は封建的地主階級のイデオロギーであり、二千年来の土豪劣紳の哲学であるというが、それにしては、その思想は高尚にすぎるようである。先秦の文献においても、『荘子』ほどみごとな思想的文章はない。そしてまた、これほど高踏的で、政治への無関心を示したものはない。占卜の神亀として、死して廟堂の上におかれるよりも、生きて尾を泥中に曳くことを理想とする〔荘子・秋水〕。徹底的な反社会的な態度であり、生の主張である。このような独善主義、個人主義が、支配者や封建的勢力の思想、ノモス的世界のイデオロギーであるはずはない。それは脱ノモスの思想である。敗北者の思想であり、基本的には敗北の哲学である。そしてその敗北主義は、『老子』に至ってはなはだ明確な形をとる。」

「老荘の思想というが、『老子』の書は『荘子』より後に成立したものと考えられる。(中略)荘子は蒙の人であるという。その地は当時、宋に属していたらしい。」
「おそらくかれらは、亡殷の後である宋の人であろう。宋は時勢おくれの国であった。古い伝統を、愚直なほど守りつづけようとした地である。宋人といえば、切り株で兎が首を折るのを待って耕すのをやめる「待ちぼうけ」の話や、苗の生長を早めたいと思って引き抜いてしまう「助長」の話のように、間の抜けたことばかりする男である。それは、その国の国王からしてそうであった。「宋襄の仁」ということばがあるように、襄公は仁義の軍を行なうと称して奇襲策をしりぞけ、そのため大敗を喫して、ようやく成就しようとした覇業を失ったりする。また饑饉のときに、景公は、その遠祖の湯王が行なったように、積薪の上に坐して、自らを焚いて雨を祈ろうとした。(中略)宋襄の仁」は後までも世の笑い草となったが、『史記』「宋世家」の論賛には、礼譲ある行為として、君子の賞賛をえたとしるしている。この君子とは、おそらく宋の古い氏族や郷党の長老たちのことであろう。かれらは「我は愚人の心なるかな」「我獨り頑(かたく)なにして鄙(いや)しきに似たり」〔老子、二十章〕とし、しかもそれを真の生きかたであるとして肯定し、主張してやまないのである。
 宋はそういう国がらであるから、当時のノモス的世界からとり残された、特殊な地域であった。おそらく古い制度や習慣が、その氏族的なもののうちに多く保たれていたのであろうと思われる。」
「おそらく列国期の宋人も、他からは違和的な人びととみられていたのであろう。「國の垢(はぢ)を受くる、これを社稷(国)の主といふ。國の不祥を受くる、これを天下の王と爲す」〔老子、七十八章〕というような敗北の倫理は、そこから生まれる。そのような思想を生み出したものは、亡殷の余裔として長い屈辱に堪え、ノモスの世界からもはみ出している、この地の特殊な歴史地理的風土を考えなければならぬであろう。かれらは斉物棄知説や全性説を受け容れるのに、最も適した条件をもっていたのである。」
「思想は本来、敗北から生まれてくるもののようである。」



「『論語』について」より:

「『荘子』の文は、思想的文章としてはほとんど空前にして絶後である。その文は、稷下諸学士の精緻な理論を駆使し、奔放にして博大を極めた修辞を以て、超越者の自在な精神的世界を表現した。この超人は、孔子ののちに失われたロゴスを、またよびかえした。ことばはその自在な活力を回復する。」

「荘子のこのような神秘主義的な思想については、おそらく宋・楚の地をはじめとして各地に残された古い氏族や郷党の伝統を重んずる長老や祭式の関係者たちが、深い共感を寄せ、あるいはその思想の宣布に努めるものもあったであろう。かれらもまた当時のノモス的な社会のなかで、その生きかたを問われている人びとである。長老たちは同時に司祭者でもあった。その伝統をどのようにして保ちつづけるか。巨大化していよいよ暴威をほしいままにするノモス的世界から、その生活を守らなければならない。(中略)古くは「戸を出でずして天下を知る」〔老子、四十七章〕という、無事の時代であった。(中略)淳朴の時代であった。その淳朴の世に帰らなければならない。」
「それはなお、文字のない時代である。約束ごとは、縄を結んでしるしとした。それで違約のおそれはなかった。土俗の生活が疑うこともなく伝承される。そのような社会にこそ、人の真実の生活がある。しかし社会の巨大化が、すべての真実を奪うのである。長老たちは、かつての氏族社会、郷党の生活を、ノモス的社会の反極にある理想的なものとし、ユートピアとして追想する。」

「儒教のノモス化は、孟子によって促進され、荀子によって成就された。それはもはや儒家ではない。少なくとも孔子の精神を伝えるものではないと思う。儒教の精神は、孔子の死によってすでに終っている。そして顔回の死によって、その後継を絶たれている。イデアは伝えられるものではない。残された弟子たちは、ノモス化してゆく社会のなかに、むなしく浮沈したにすぎない。」

「孔子の時代は、中国の文化の伝統が、なお深く息づいていたときである。孔子はそれを象徴的に、周公の姿として夢にみることができた。孔子は「己れに克ち、禮に復る」〔顔淵〕こと、すなわち主観を捨ててその伝統の意味に参入することによって、イデアがその体認において実現される場所としての、仁を見出した。」
「ただそれは、孔子においては、具体的な形象において、実現されることはなかった。現実の上では、孔子はつねに敗北者であった。しかし現実の敗北者となることによって、孔子はそのイデアに近づくことができたのではないかと思う。社会的な成功は、一般にその可能性を限定し、ときには拒否するものである。思想が本来、敗北者のものであるというのは、その意味である。
 孔子は、ノモス化しようとする社会のなかで、仁を説いた。しかしもはやイデアへの福音が受け容れられる時代ではなかった。(中略)孔子は、ノモスの外に立とうとした。」

「孔子は晩年、巻懐の人であった。そしてそのような巻懐者としての孔子に近づこうとしたのが、「微子篇」の伝承者たちであった。かれらはおそらく南方の儒であり、荘周の学派とも交渉をもつものであろう。かれらは完全に政治を否定する。ノモス的な社会を否定するのである。そしてその立場から、孔子の政治的彷徨を批判するが、それは孔子のそのような生きかたを否定するというよりも、むしろその彷徨の果てに、巻懐者となっていった孔子に対する、共感を伴うものであった。そのゆえにそれは、『論語』の一篇として録されているのである。
 しかし孔子のこの政治的彷徨は、孔子の精神を樹立させるために、絶対に必要であった。はじめからの巻懐者というものは、ありえないからである。その極限的な状況のなかで積み重ねられてゆく内面の葛藤を通じて、人は成長する。偉大ともなるのである。(中略)孔門の晩年の高弟たちが、孔子の高い精神に容易に近づきえなかったのは、かれらが亡命の漂泊の苦しみを知らず、はじめから順調に仕官して、社会的にも尊敬される地位にあったからであろう。高い教養をもつかれらは、ノモス的な社会の指導者となった。」

「ノモス的社会といえば、今日ほど巨大な社会、物量化された社会は、かつてなかった。そして今日ほど、ノモスが社会的超越者として、おそるべき支配力と破壊力を示している時代はない。数千万の、ときには数億の民衆が、ただ一つの規範に服している。人は完全にノモスの支配下にある。しかもノモスは、いよいよみずからを巨大にするために、巨大都市を作り、巨大国家を作る。人は巨大都市が文化の破滅につらなることをおそれるが、巨大国家が人間の生きかたと、どのように関与するかを問わない。「子、九夷に居らんと欲す」〔子罕〕と孔子が脱出を望んだ圏外の世界は、次第に失われつつある。空間的な世界のことだけではない。精神の世界において、それはいっそう深刻である。」







































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

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