中野美代子 『三蔵法師』 (中公文庫)

「玄奘の歩いた道のま上を、一三〇〇年後の私はジェット機で駆け抜けてしまった。そのことをけっして進歩とは思えないという私の感想は、いまでも渝(かわ)ってはいない。」
(中野美代子 『三蔵法師』 より)


中野美代子 
『三蔵法師』
 
中公文庫 な-35-4

中央公論新社 1999年6月3日印刷/同18日発行
280p 付記1p 
文庫判 並装 カバー 
定価762円+税
カバー: 熊谷博人

「本書は『三蔵法師』(一九八六年一〇月、集英社刊)に加筆を施し、図版を一部差しかえたものです。」



本書「文庫版あとがき」より:

「本書初版は、集英社版『中国の英傑』シリーズ(一九八六)の一冊として書かれた。「三千世界を跋渉す」というサブタイトルが、同シリーズの編集者によって付せられていた。」


本文中図版(モノクロ)多数。


中野美代子 三蔵法師1


帯文:

「『西遊記』の原点、西天取経の旅をなし遂げた三蔵法師玄奘の実像」


カバー裏文:

「三蔵法師玄奘の西天取経の遥かな旅は、こんにち「西遊記」という物語を通して、われわれに親しまれている。史実のなかの苦難に満ちた旅の足跡を、文献と写真資料によって克明にたどるとともに、時代を超えたイメージの総体としての玄奘像を探り、フィクション成立の背景をも解明する。」


目次:

はじめに――時代を超えて

第一章 そのイメージの原型
 1 少年時代
 2 そのかおかたち
 3 旅の序章
 4 出立前夜

第二章 西天取経(一)――中央アジアの旅
 1 旅のいでたち
 2 国境までの潜行
 3 『般若心経』と奇跡
 4 高昌国今昔
 5 天山南路の旅
 6 西へ、そして南へ
 7 サマルカンドの金の桃
 8 ヒンドゥークシュの黒嶺

第三章 西天取経(二)――インドの旅
 1 インドの旅のあらまし
 2 仏陀の聖跡にて
 3 異教徒たち
 4 外交家としての玄奘
 5 受難の記録
 6 動物たちの物語
 7 帰国までの道のり

第四章 帰国ののち
 1 太宗と玄奘
 2 『大唐西域記』をめぐる悲劇
 3 太宗と高宗と訳経
 4 その死と「唐三蔵」の誕生

三蔵法師関連地図
 地図1 中国・中央アジア・インド全体略図および玄奘行程略図
 地図2 洛陽周辺および長江下流
 地図3 蜀および雲南(長江上流)
 地図4 河西回廊
 地図5 タクラマカン砂漠周辺
 地図6 A.D. 640年ごろの中央アジアの言語状況
 地図7 インドおよびその北部の玄奘行程
三蔵法師関連略年表

あとがき
文庫版あとがき



中野美代子 三蔵法師2



◆本書より◆


「「雅正の籍に非ざれば観ず」とは、由緒正しいテクストでなければ読まなかった、ということであるから、のちの西天取経の旅を決意した動機と通じるものがある。それまで漢訳されていた仏典に飽き足らぬものを感じたからこそ、インドに原典を求めようと旅立ったのであるから。
 また、子供たちと群れなして遊んだり、まちの門を通って城外に出ることもなかった、というのだから、孤高を愛する性格だった。とはいえ、それは家に閉じこもることが好きだった、というのではないであろう。通りに鐘(かね)や太鼓がにぎやかに鳴り響き、見せ物の呼びこみの声や歌がかまびすしく、大勢のひとびとがどっと集まっても、そんなところには行こうともしなかったのである。つまり、かれは群れるのがいやだった。そのかわり、自分ひとりででも、これと決めたことは断固やり抜くといった子供であった。
 こんな子供は、まちがっても愛らしいものではない。伝記作者は、主人公の後年の偉業から演繹(えんえき)的に逆算し、その幼少期を飾り立てるのが常であるから、玄奘とても、まことのところは、もっと子供らしい、やんちゃな少年だったかもしれない。しかし、このように書かれると、「なるほど」とうなずける。伝記は、それじたいすでに、伝説をも孕(はら)んでしまうものなのである。
 伝説といえば、この『慈恩伝』には、玄奘が生まれたばかりのときに、かれの母が見たという夢がしるされている。それによると、かれは白衣を着て西に向かうところであった。母が「そなたはわが息子です。いったい、どこへ行こうというの」とたずねると、「求法(ぐほう)のためにインドへ行くのです」と答えたという。
 かれの母が、ほんとうにそんな夢を見たかどうか――そんなことは、どうでもよろしい。大事なのは、かれの母がそんな夢を見たと伝えられ、記録されていることである。」
「この夢の話を胚珠(はいしゅ)として、かれの出生を、いわば貴種流離譚(りゅうりたん)ともいえる江流和尚説話にまで発展させたのは、数百年以上にもわたる民衆の、おもしろい話を求めるエネルギーというほかはない。」

「私の乗った飛行機は、せまい河西回廊の上を飛んだので、涼州も張掖も酒泉も窓からは見えなかった。(中略)玄奘の歩いた道のま上を、一三〇〇年後の私はジェット機で駆け抜けてしまった。そのことをけっして進歩とは思えないという私の感想は、いまでも渝(かわ)ってはいない。」

「砂漠である。道もない。道しるべは、骨や馬糞(ばふん)ばかり。骨のなかには、人骨もあったかもしれない。そんな砂漠に蜃気楼(しんきろう)が見えたが、玄奘には、それが軍隊やら賊やらに見えるのだった。また空中よりの「怖(おそ)れるな」という声も聞こえた。砂漠を行く旅人がしばしば耳にする幻聴である。」

「中国では、孔子が紀元前五五二年に生まれたとされるが、シッダールタのちの仏陀の生年を紀元前五六〇年ごろとすれば、仏陀と孔子は、ほぼ同時代の人ということになる。
 同時代といえば、中国の老子はその存在すら確かめられていないのだが、孔子と同時代の人とされている。この老子が、青牛に乗って函谷関(かんこくかん)を出、その後の消息を断ったというのは有名な伝説だが、のちに、老子は流砂をわたって胡(えびす)の地に至り、仏陀となって仏教を興したのだという説が中国に生まれた。その説は、『老子化胡経(かこきょう)』という偽経に書かれ、道教徒のあいだでけっこう流行した。」

「あれほどの苦難の旅を閲(けみ)してインドに来た玄奘を、純粋な意味での理論家と呼ぶことはむずかしい。いままでしばしば指摘したように、かれには卓抜なる探険家としての資質がそなわっていた。周到な用意、そしてその半面の果敢な行動力。――とはいえ、玄奘をこの歴史的な大旅行に駆り立てたものは、一言もって之(これ)を蔽(おお)うなら、仏教理論の探求であった。別のいいかたをすれば、かれは理論のために、結果的には大旅行家ないし大実践家になってしまったのである。」

「史実の玄奘とはまた、月とスッポンほどもちがう腑抜(ふぬ)けの三蔵なのだが、小説でしばしば陰風とも書かれる黒い風が起こると、妖怪が三蔵をさらう、史実では賊を懲らしめる、という仕儀になる。
 では、そもそも史実の玄奘に、実際このような奇跡が起こったのかといえば、私にとっては、そんな事実の有無などどうでもよいのだ。事実はどうあれ、『慈恩伝』や『行状』などの伝記に、そのように書かれていることだけは事実なのであり、そこに、史書なり伝記なりの記録が不可避的にもつすぐれて規範的な性格が見られるという点だけが大事なのである。
 同じ玄奘を主人公としていても、小説『西遊記』は荒唐無稽なフィクションであり、『慈恩伝』は事実に忠実な伝記である、と人はいう。そうにはちがいないが、このフィクションにはおどろくほど建築的な論理性が張りめぐらされているいっぽうで、伝記にも、その規範的性格からして、後智恵(あとぢえ)が生んだ奇跡がまぎれこむ。そのようにして記録された奇跡は、おのがじし増殖を遂げながら伝説と化して、フィクションの世界へとなだれていく道理だ。」

「この偉大なる生涯はこうして閉じられたが、しかし玄奘のイメージは死ななかった。入寂後二十四年の垂拱(すいきょう)四年(六八八)の序を有する『慈恩伝』は、本書ももっとも多くを負うた玄奘の伝記として最古、最良のものであるが、これは、(中略)事実に近いことは申すまでもないのだが、追慕の心が玄奘を神秘化している部分もまた随所に見られる。(中略)玄奘の誕生のときの母の夢などもその例の一つで、それが事実であるかどうかは別として、かれの西天取経の旅が、いわば前生から宿命づけられたものだったのだと後人が意識しはじめた点が大事なのである。
 かれの旅が前生から宿命づけられたものだったという意識は、かれは前生においても西天取経の旅を幾度も試みて失敗したのだという、新たな伝説を生むであろう。なぜ失敗したのかといえば、往路の砂漠において、深沙神(じんじゃしん)に食われたからである、と説明される。そして深沙神が首にかけている九つないし七つのされこうべは、すでに述べたように、いずれも玄奘のものであるというふうに伝説は増殖され、のちの小説『西遊記』の成立の歴史へと、重大なかかわりをもつようになる。」














































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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