「カイエ 特集: ロートレアモン」  (1979年6月号)

「続いて第四のストローフでは、そうした人間どもの非人間的な悪虐にかかってこちらもいつ非人間化されてしまうか分らないのであってみれば、こちらが一足先に、人間の形をしたまま ひとでなし になって、人間及びその創り主たる神とどこまでも闘いぬいてみようという決意が、正直すぎると言っていいほど正直に表明される。」
(阿部良雄 「ひとでなしの詩学」 より)


「カイエ」 
特集: ロートレアモン 
1979年6月号(第2巻第6号)

Cahiers de la Nouvelle Littérature

冬樹社 1979年6月1日発行
238p 出版図書案内8p
22×14cm 並装 
定価760円
編集人: 小野好恵
表紙・目次・扉作品・特集カット: 古川タク



カイエ ロートレアモン1


目次:

◆手帖
海外文学 円環の時間 (木村栄一)
現代音楽 聴いているものと聴こえているもの (安芸光男)
美術 死の意識を切り裂こうとする芸術――エゴン・シーレ展 (鈴木志郎康)
◆詩
ニーナへの手紙 (白石かずこ)
赤いコップ (清水哲男)
◆短篇
履き物 (黒井千次)
薔薇と柩と (中井英夫)
◆評論
滅亡過程の文学 方法としてのイロニー――保田與重郎 (松本健一)
◆連載
同時代の文学 二つの「青春小説」――村上春樹と立松和平 (川本三郎)
いつも音楽があった 赤とんぼ (倉本聰)
らくがき帖 やさしい男とやさしい女 (樹木希林)

特集: ロートレアモン
◆エッセイ
ロートレアモンと私 (栗田勇)
ラ・プラタ河のロートレアモン (小中陽太郎)
◆討議
ロートレアモンをどう読むか (渋沢孝輔/阿部良雄/豊崎光一)
◆翻訳
ロートレアモンとわれわれ (ルイ・アラゴン/訳: 松浦寿輝)
彼自身によるロートレアモン (マルスラン・プレネ/訳: 豊崎光一)
インタビュー ロートレアモン再論 (フィリップ・ソレルス 聞き手: フランス・ド・アース/訳: 岩崎力)
◆エッセイ
現場のロートレアモン (出口裕弘)
ロートレアモンと楕円球またはタルブの花 (豊崎光一)
言葉の壁・夏の沼――ロートレアモンとコルターサル (土岐恒二)
◆評論
絶望と希望の弁証――ロートレアモンについての二章 (渡辺広士)
ひとでなしの詩学 (阿部良雄)
◆翻訳
ロートレアモン、筋肉と叫びの詩人 (ガストン・バシュラール/訳: 及川馥)
マルドロールの引用 (ミシェル・ドゥギイ/訳: 及川馥)
◆資料
イジドール・デュカス/ロートレアモン伯爵書誌 (豊崎光一 編)

◆短篇
春雨 (立松和平)
◆翻訳
新たなアナロジー――詩とテクノロジー (オクタビオ・パス/訳: 野谷文昭)
◆連載
犯罪調書 ピルトダウン人偽造事件 (井上ひさし)
手帖 VIII (柄谷行人)
小林秀雄を歩く 12 (高橋英夫)



カイエ ロートレアモン2



◆本書より◆


「ロートレアモンをどう読むか」より:

豊崎 その神の問題には直接かかわらないんですけど、一九三〇年代ぐらいのフランスの文学界で、非常に流行ったことばの一つにオータンティシテ、むしろ形容詞のオータンティックっていうのがありますね。訳しにくいことばだけれど、要するに個人としての実感、体験というものに根ざした考えでなければいかん、作りものはだめだ、というようなことです。そうなるとランボーはどこをとってもいかにもオータンティックだ。ところが、そういう眼でみると、ロートレアモンはどうも信用できない。『マルドロール』にしろ『ポエジー』にしろ、どこまで本気か、どこまで冗談か、全体が巨大な冗談みたいな感じもする。そういうような不信感も一般にあったんじゃないかな。」

阿部 ロートレアモンはなにかっていうと、真面目になろうじゃないかって言うでしょう。笑うっていうことは人間の尊厳を喪失して動物に似ることであると。涙を浮かべるか、涙が出ない場合は小便をしろと。なにか液体がなきゃいかん、それも大変なユーモアだと思うんだけど。
豊崎 ユーモアってのは、必ずしも笑いじゃないですからね。
阿部 アンドレ・ブルトンも『黒いユーモア選集』の中で、ロートレアモンのユーモアというのを、そのテクストを貫く、強力な否定の論理みたいなものとして把えていると言えるような気がしますね。」



カイエ ロートレアモン3


阿部良雄「ひとでなしの詩学」より:

「たった独りのマルドロールが、全人類および彼らの創り主たる神を敵に廻して闘うという、思えば月並なロマン主義的=堕天使物語的=悪魔主義的筋立てないし配役は、ロートレアモンが事あるごとに飽きもせず念を押すところだが、この闘いのさまざまな位相の一つを、非人間化 deshumanisation と名付けることにしよう。この位相は、第四の歌の冒頭、「これから第四の歌を始めようとする者は一人の人間もしくは一個の石もしくは一本の樹木である」という宣言が掲げられた後、さながらこの歌章のライト=モチーフとして展開される。そしてさまざまな非=人間化の様相は、同類(サンブラーブル)、類似(ルサンブランス)、差異(ディフェランス)……等々の縁語の使用を促し、同類=似て非なるものと定式化される弁証法の、豊かな形象化と、執拗な論理的追究を可能にするのだ。
 そしてこの非人間化がさらに二つの位相、すなわち書法の主体としての「私」あるいは主人公マルドロールの非人間化、そして他方、敵である人類の非人間化という二つの位相を含みつつ進行するのであることは、先ほどの力学的考察からしても当然のことと予想されよう。今しがた引いた有名な宣言の直後に来る比喩(コンパレゾン)を次に掲げることにするが、それらの比喩に基づいての結論は、厭うべき同類どもを非人間化するまでもなく彼らはすでに非人間的な実相をもつそのことの認識・表現はその認識・表現の主体の非人間化を伴わずには遂行され得ぬ捨身の業でありその捨身の決断こそが文学的(修辞的)エネルギーの源泉であるという、先ほど措定した力学(ディナミーク)を、すでになまなましい様相の下に呈示する。

 ★足が一匹の蛙を踏めば、嫌悪の感覚(サンサシオン)が感じられる。だが、人間の身体に手でもって軽く触れるか触れぬかに、指の皮は、槌で打ちこわす雲母の塊の鱗片のようにひび割れる。そして、一時間も前から死んでいる鱶(ふか)の心臓が甲板の上で執拗な生命力をもって動悸し続けるのと同じように、われわれの内臓は、接触の後も長い間、隅々まで鳴動し続ける。さほどに人間は彼自らの同類(サンブラーブル)にぞっとするような嫌悪を覚えさせるのだ。

 そして、一見とりとめもない比喩の連続として展開されるこのストローフ全体は、「意識」ゆえに自らを同類と似て非なるものとして非人間化せずにはいられず、そのことによって、天使ならぬ身の浅ましさ、もとの自分とも似ても似つかぬものになってしまう悲劇(=喜劇)の、明晰な認識の過程なのである。」

「続いて第四のストローフでは、そうした人間どもの非人間的な悪虐にかかってこちらもいつ非人間化されてしまうか分らないのであってみれば、こちらが一足先に、人間の形をしたままひとでなしになって、人間及びその創り主たる神とどこまでも闘いぬいてみようという決意が、正直すぎると言っていいほど正直に表明される。」

「豚どもに嘔吐をもよおさせるほど汚いこの「私」は、一つ間を置いた第六のストローフでは、「断崖の上に眠りこんでしまった」ある日のこと、今度は自分自身が豚に変身する夢を見るのであって、非人間化の過程のまことに論理的な進行は、ここで一つの終点に達すると見てよい。

 ★私は夢見たのだ、自分が一匹の豚の身体の中に入ってしまい、そこから出ることは容易でなく、自分の毛をこの上もなく泥んこな沼地の上にころがしているさまを。これは何かの報酬だったのだろうか? 私の願(がん)はついに叶って、私はもう人類に属してはいなかったのだ!

 〈豚(プールソー)の身体の中へ入る〉という表現はただちに、新約聖書(『ルカによる福音書』第八章)で、レギオンという名の人にとりついた悪霊たちが豚の群の身体の中へ入ることをイエスに願い出て許されそのまま豚の身体もろとも湖へなだれこんで溺れ死んでしまうくだり――われわれには、ドストエフスキーの小説のエピグラフでなじみ深いくだり――を思い起させて、ロートレアモンの想像力の跳梁する場の悪魔学的境界ともいうべきものが改めて強く浮き出てくるのでもある。だがそれよりもここでは、「一つの完全な幸福の高く堂々たる反響」としての「変身」を久しい前から希(こいねが)ってきた「私」が、その願望の実現を機会に、自らのかくもみごとな非人間化を可能ならしめた原理と力を逆用して、敵なる人類の非人間化を執拗に推進するのであることを、特記しておかなければならない。

 ★ついにやってきたのだ、私が一匹の豚となる日が! 私は自分の歯で木々の表皮をかじってみた。自分の豚鼻をうっとりして眺めた。もはや神性のほんのわずかな破片も残ってはいなくて、私はこの筆舌に尽し難い悦楽の過度の高見にまで能(よ)く私の魂を高めることを得たのだ。だからして私に耳を傾けるがよい、そして顔を赤らめるな、美の尽きることなきカリカチュアどもよ、この上もなく侮蔑に値する汝らの魂の笑うべきろばのような鳴き声を真に受ける者どもよ。そして、至高の権力者たる神が、たしかにグロテスクの一般的大法則を超えるものでないとはいえそれなりに優秀な道化ぶりを思いついた稀な機会に、とある惑星の上に奇妙な顕微鏡的存在、人呼んで人類〔原文イタリック〕と言い、その材質は朱色の珊瑚のそれに似るものたちを住まわせるというすばらしく楽しいことをやってのけたのは何故であるか、理解せぬ者どもよ。

 非人間化とは、ここまでくれば、肉を斬らせて骨を斬る戦術であり、また思えば、貴重な自由――ここでは、具体的には、一個の言語的自由――を身に備えるために自らに施さねばならぬ変身の手術でもあるのだ。それにしてもこの武器、この自由を獲得するためにロートレアモンの踏む手続きは慎重と言っていいほど入念であることが、強調されなければならない。それは後に、シュルレアリスム俗流の影像(イマージュ)作法にとりこまれるような、ただ恣意的に語と語を結びつけるだけの術ではない、というか、むしろ、そういう「万人によって」利用され得る術が出来上る前の、苦心の段階なのだ。
 第四の歌第七のストローフは、非人間化というのが、堕天使マルドロールを初め本来は邪悪でなかったかも知れぬ者たちの側にあっては、同類にして同類ならざる者たちの元来非人間的である性質をこちら側へ引き受けさせられる=引き受ける過程なのであることを、もう一度念押しして示すエピソードを含む。

 ★大陸(おか)の住人たちに嫌気がさして、というのも、あの人たちは、私の同類と名乗っていながら、それまでのところいかなる点でも私に似ているようには私には見えなかったからなのですが(もし彼らが、私は彼らに似ていると思っていたのなら、なぜ私に危害を加えたのでしょうか?)、私は浜辺の小石たちの方へ足を向けたのです。自らに死を与えようという確固たる決意を抱いて……

 こう語るのは水かきをもって水禽のようにみごとに泳ぐ男なのだが、彼は、両親およびその溺愛する兄弟(双生児の片割れ)に迫害され、土牢の中で十五年間蛆虫と泥水を糧に生きのび、「詭計によって自由をとりもどすことに成功した」後、死ぬつもりで入った海の中で「摂理によって、部分的に白鳥の身体を与えられた」のであって、非人間化が半ば自発的半ば他律的な現象であることが、正確に示されている。」

























































































































関連記事
スポンサーサイト
プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本