「ユリイカ」 臨時増刊 総特集: ステファヌ・マラルメ 

「落伍者と言ったって……僕たちは皆なそうなんだよ。他にどうなりようがあるかね。僕たちの有限性を無限性と競わせようとするのだから。僕たちは自分の短い生涯を、か弱い力を、定義そのものからして達しえない理想と釣り合わせようとしているわけだ。つまり、僕たちは皆な、あらかじめ落伍者たるべく運命づけられているのだよ。〔……〕僕はこう思いさえする。他の誰よりもむしろ僕こそ、この落伍者という形容語を奉られる権利があるんだ、とね。僕は異様な企てをあえて試みようとしたのだから、なおさらのことさ」
(マラルメ)


「ユリイカ」 臨時増刊号 
総特集: ステファヌ・マラルメ

第18巻第10号

青土社 
1986年9月25日発行
1992年6月20日(第2刷)
440p 
22×14.2cm 並装 
定価1,800円(本体1,748円)
編集人: 歌田明弘
装幀: 宇野亜喜良
カット: 河原淳一/松浦久美



折込図版(カラー)1点、本文中図版(モノクロ)多数。


マラルメ ユリイカ臨時増刊 01


目次:

Textes de Mallarme
 マラルメ 「魔術」 (訳・解説: 菅野昭正)
 竹内信夫 「「マラルメは答える」 訳・解説」
 井原鉄雄 「J・ドゥーセ図書館とマラルメ」
マラルメの宇宙
 高橋英夫 「マラルメの遺品」
 アバスタド 「マラルメの《書物》――ひとつの神話的自画像」 (訳: 松本雅弘)
 高橋睦郎 「幼溺註――人に驕(あま)えし少年(せうねん)の美(は)しき夢路(ゆめぢ)に その昔(むかし)」
 竹内信夫 「余白に何が書かれているのか?――一つの問題提起」
徹底討議
 菅野昭正・荒川修作・渋沢孝輔 「虚無の闇の中で苦闘したマラルメのあとで」
マラルメと十九世紀
 クリステヴァ 「マラルメにおける〈金銭〉――マラルメのテクスト経済学」 (訳: 松島征)
 高山宏 「白のメトドロジー――詩人ステファヌ・マラルメの世紀末」
 立仙順朗 「パナマ事件とマラルメ銀行」
 川瀬武夫 「マラルメとアナーキズム」
 吉田城 「一八七四年の上流生活点描――『最新流行』をめぐって」
    *
 竹内信夫 「マラルメと同時代の言語学――「ブレアル原理」をめぐって」
 川瀬武夫 「マラルメのドイツ嫌い?」
マラルメを読む
 ド・マン 「マラルメを読むブランショ――あるいは非人格性について」 (訳: 加藤光也)
 三好郁朗 「デリダとマラルメ――「二重の会」について」
 イポリット 「骰子一擲とサイバネティクス」 (訳: 西谷修)
    *
 川瀬武夫 「『死者の太陽』」
生成する詩的言語
 清水徹 「ある対話について――マラルメとヴァレリー」
 兼子正勝 「マラルメの『エロディアード』――あるいは境界線の劇」
 ノイバウアー 「マラルメのアルス・コンビナトリア」 (訳: 山西龍郎)
    *
 丘沢静也 「言語の格子――マラルメ・ツェラン・三島」
マラルメと芸術
 市川雅 「エロスと観念の鳥――S・マラルメと舞踊」
 M・A・コーズ 「マラルメとデュシャン――鏡、階段、そして賭博台」 (訳: 松田嘉子)
 平島正郎 「マラルメとドビュッシィ――夢想から羽搏きあらわれる心象――歌」
 ブレーズ 「ソナタよ、お前は何を私にのぞむのか――『第三ソナタ』について」 (訳: 笠羽映子)
    *
 庄野進 「マラルメの観相学のために」
資料
 田中成和 「マラルメ詳細年譜――マラルメ自身によるマラルメ」
 川瀬武夫 「マラルメ書誌」



マラルメ ユリイカ臨時増刊 04


マラルメ ユリイカ臨時増刊 02



◆本書より◆


「マラルメの《書物》――ひとつの神話的自画像」(クロード・アバスタド)より:

「詩や論稿や書簡などのテクストが書かれるにつれて、来たるべき著作の計画は、接近することも実現することも不可能な絶対的な一つの〈書物〉の観念へと変貌していく。一八六二年にマラルメは「古い祈祷書の黄金の留め金」や「不可侵の象形文字」への憧憬を語ってはいるが、それは未だなお選良主義的態度であり、詩を神聖化して「煩わしい俗衆」を詩から遠ざけたいという欲求にすぎない。これに対して、一八六四年から六六年にかけては、彼の関心は全く別なものになってくる。ボードレールの影響から解放された――彼自身が書くように「脱ボードレール化した」――マラルメは、自らの美学を探究し始めるのである。「僕はひとつの言語を、全く新しいひとつの詩法から必ずや迸り出てくることになる言語を、創り出すのだ」。「僕には自分の作品の計画とその詩的理論とがあります。これは次のようなものになりましょう〔……〕」。「昨夜、僕はとても幸福だった。我が〈詩〉をその裸形において再び見ることができたからだ。今夜その創作に挑んでみたいと思う」。一八六六年、マラルメはまだひとつの(引用者注: 「ひとつの」に傍点)作品のことを語ってはいるが、この年から全(引用者注: 「全」に傍点)作品と〈大いなる作業〉についても語り出す。この用いられる言葉の変化は、これ以後、特定の作品というよりも、むしろ精神的存在の全体性を危険にさらす一つの企てが、マラルメの夢想の対象になる、ということを証している。「僕は壮大な全作品の基礎を据えた。人は誰しも自らの内にひとつの秘密を忍ばせているものだが、多くの者はそれを見出し終えないままに死んでいく」。「僕が君に語りたかったのは、ただこういうことだけなのだ。つまり、僕は自分自身の鍵、穹窿の頂きの要石、〔……〕あるいは中心と言ってもよいが、これを発見し終えた後に、自己の全作品全体の構想を練り終えたところだ、ということだ」。これは人智を超えた創造であり、「〔マラルメの〕諸能力の通常の展開によってではなく、自己の〈破壊〉という罪深くも性急な、また悪魔的で安易な方法によって」見出されたものなのである。この創造は、もし実現するものであるならば、地上における絶対的な《美》の三つの発現(あらわれ)のうちの一つになることであろう。「ミロのヴィーナス(引用者注: 「ミロのヴィーナス」に傍点)〔……〕、ダ・ヴィンチのジョコンダ(引用者注: 「ジョコンダ」に傍点)、この二つの作品がこの地上における〈美〉の二つの大きな燦めきであるように僕には思われますし、現実にそうなのです(引用者注: 「現実にそうなのです」に傍点)。そして僕の夢見ているあの作品、これが三番目の燦めきです」。夢見られた作品は生涯に見合っている。「僕はこう考えています。つまり、作品が完成する前に自分の脳髄が消え去ってしまうなどとは考えられもしない、と思っているのです。というのも、構想を抱く力があった訳だし、今なおその構想を受け入れる力があることを思えば、僕の脳髄は一刻も早くその構想を実現したいとおそらくは望んでいるからです。〔……〕作品が完成すれば、死んでしまってもかまいません。もし生きながらえていれば、長い休息が必要になることでしょう!」。一八六六年には、「僕の予想では、二十年の歳月が必要だろうと思う」と書いている。二十年の後、マラルメが依然として変わることなく語っているのは、未完の作品のことなのである。と言うよりもむしろ、「定義からして達しえない」理想として語っている、と言う方が正確かもしれない。「火曜会」の時代に、ある夜マラルメは、ヴィリエ・ド・リラダンを「落伍者」呼ばわりした記事に激昂しているC・モークレールに向かって、次のように断言する。
 
  「でも、モークレール、落伍者と言ったって……僕たちは皆なそうなんだよ。他にどうなりようがあるかね。僕たちの有限性を無限性と競わせようとするのだから。僕たちは自分の短い生涯を、か弱い力を、定義そのものからして達しえない理想と釣り合わせようとしているわけだ。つまり、僕たちは皆な、あらかじめ落伍者たるべく運命づけられている(引用者注: 「あらかじめ~」以下傍点)のだよ。〔……〕僕はこう思いさえする。他の誰よりもむしろ僕こそ、この落伍者という形容語を奉られる権利があるんだ、とね。僕は異様な企てをあえて試みようとしたのだから、なおさらのことさ」。

 閾は越えられ、決断がなされる。〈書物〉はもはや具体的な計画ではなく、ひとつの「理想」、ひとつの「無限」、ひとつの絶対、さまざまな欲望が備給されたひとつの夢、すなわち、幻想となる。」



「白のメトドロジー」(高山宏)より:

「一方、「言葉」が「もの」に対して透明な媒介者でもはやないという認識はその同時代に完全言語の夢をうみおとした。自らに透明に「もの」をうつし出すオルフィック(オルペウス的)な言語を人々は夢みた。世界とたしかなつながりをもつことのできる言語、というわけである。コメニウスの普遍言語などがそれ。現実の流通言語をその線で「純粋」化しようとする動きや、そういう目的のためにいっそ人工の言語をつくろうとするさまざまな動きがあった。ところで、この夢の言語のプロジェクトが進むうちに、言語が実は外の世界とはひとまず無縁に、言葉同士の内的な関係のみで成り立つ、記号の体系であることがみえてきてしまった。ジョン・ウィルキンズや王立協会の名と結びつけられて考えられている「哲学的言語」という人工普遍言語プロジェクトの孕んだ根本的な問題がそれだった。」
「世界ないし「もの」をうつしとることのない自閉的システムとして言語をみるこうした言語観を、いま名著『近代詩と言語観念』(一九七四)のジェラルド・ブランズにならって「ハーメティック」な言語観と名づけてみよう。「ヘルメース的な」という意味だが、われわれが今般この言葉に感じるような、「活性化する」ものといった意味あいとはむしろ逆に、隠蔽された、とか自閉したとかいう意味の形容詞として、ブランズのいう「ハーメティック」観念は成り立っている。すると、先にいったオルフィックな言語観とハーメティックな言語観が対立しあうことになり、現に「言葉」と「もの」のあいだ(引用者注: 「あいだ」に傍点)が不安定になるような時代には必ずこの対立する言語観が現われる。たとえば、それが右にみた十七世紀の普遍言語運動の周辺の時代、植民地主義とニュー・テクノロジーのインパクトの下、ヨーロッパの室内(アンテリエール)にみる如く「もの」が溢れでてきた十九世紀末にも、「もの」をうつしとる、つまりコミュニケーションの媒介者としての言語の能力への、未曾有の反省意識が生じてきた。
 早速いえば、マラルメの「究極の本(ル・リーヴル)」の観念、そして区々がその観念のためのエスキースであるかの如きマラルメの詩、ことに「骰子一擲」が帯びた、おそろしくハーメティックなあり方というものは、ほぼ世紀末の右のような言語の状況に根を持っているものとおぼしい。
 「あらゆる地上の実在が究極的には一冊の本のなかに含まれなければならない」とマラルメは記した。「世界は一冊の美しい本に到達すべくつくられている」とも。ブランズも言うように、これは「世界の創出は、その世界が芸術作品のなかに存在するようになるまでは完成することはないとみる、ことさらに十九世紀末的な芸術-崇拝(カルト)の動向に掉さした思考形式」なのである。詩人アルフレッド・テニソンの「芸術の殿堂」というテーゼを思いだす。そこでは芸術は「殿堂」なのであり、つまりは世界に対して閉ざされた一空間として成り立っていた。もう一度だけ、ヨーロッパの、自らを〈外〉から隔離し、〈内〉に充足する文化相がついに行きついたものとしての室内(アンテリエール)のことを思いだすべきであろう。」
「たとえば部屋というメタファーと言語というメタファーが重なりあって〈本〉という究極のメタファーをつくりだす。」



マラルメ ユリイカ臨時増刊 03

折込み図版は荒川修作「The Virgin, the Vivid, the Fine Today」。




























































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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