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グスタフ・ヤノーホ 『カフカとの対話 増補版』 吉田仙太郎 訳 (筑摩叢書)

「「それほどあなたは孤独なのですか」と私はたずねた。
 カフカはうなずいた。
 「カスパル・ハウザーのように?」
 カフカは笑った。「カスパル・ハウザーよりもはるかに惨めです。私は孤独です――フランツ・カフカのように」」

(G・ヤノーホ 『カフカとの対話』 より)


グスタフ・ヤノーホ 
『カフカとの対話
― 手記と追想 
増補版』 
吉田仙太郎 訳

筑摩叢書 101

筑摩書房 
昭和42年12月25日 初版第1刷発行
昭和50年10月25日 初版第11刷発行
311p 
四六判 並装 カバー ビニールカバー 
定価1,100円



Gustav Janouch : Gespräche mit Kafka
若き日の著者がカフカと交わした会話の記録。本書はのちに「ちくま学芸文庫」版が出ています。


ヤノーホ カフカとの対話


帯文:

「カフカの生涯の最後の四年間に、青年ヤノーホは彼と親交を結び、人生、文学。芸術について語り合い、手記に留めた。戦後この手記が発表された後、旧著に倍する原稿が発見され、一大センセーションを巻き起した。本書は、その増補決定版の新訳である。」


内容:

この書物について
日本語版によせて
まえがき

カフカとの対話

この書物の物語――あとがきに代えて
伝記的スケッチ

訳者あとがき (吉田仙太郎)
第二刷あとがき (S・Y)




◆本書より◆


「「ドクトル・カフカは、お父さんのことをとてもいい人だといっていました」私は父に言った。「最初はどうして知り合ったのです」
 「役所で知り合ったのだよ」父は答えた。「近しくなったのは、私がカード・キャビネットを設計して後のことだ。私の試作は大そうドクトル・カフカの気に入った。(中略)そのとき以来、私たちはよく個人的な話をするようになった。そうしたことからお前の詩を見てもらったのだし、私たちは、つまり、――親しい知人になったというわけだ」
 「なぜ友人と言わないのです」
 父は首を振った。
 「友達づき合いをするには、あの人はあまりに控え目で、あまりに自分を閉している」」

「「私は作業場の仕事が好きです。鉋(かんな)をかけた白木の匂い、鋸(のこぎり)のうたう歌、槌(つち)のひびき、見るもの聞くものが私をうっとりさせます。午後はそうやって瞬く間に過ぎてしまう。いつも夕暮になって私は驚いたものです」」
「「疲れてはいても幸福でした。これほど純粋で、明白で、何にでも有益な手仕事ほど美しいものはありません。木工のほかに、農場や園芸の仕事をしたこともあります。役所の強制労働に較べると、これらはすべてはるかに美しく、価値のあるものでした。見かけは、役所の方がなにか高級で高等のようです。けれどもそれはどうしても見かけにすぎない。実際はより孤独で、従ってより不幸なだけです。それだけのことです。知的な仕事は、人間を人間の共同生活から引き離す。手仕事は逆に、人間を人間の仲間へと導きます。作業場や庭の仕事が出来なくなったのが残念です」
 「でも、今のこのポストを棄てようとはお思いにならないでしょう」
 「何故でしょう。私は農夫か手職人になって、パレスチナへ行こうと夢想していました」
 「何もかもここに残して?」
 「何もかも。確実で美しい、意味のある生活を見出すために。あなたはパウル・アドラーという詩人を知っていますか」
 「彼の『魔笛』を知っているだけです」
 「彼はプラーハにいます。妻や子供たちと一緒に」
 「何か職業は」
 「全然、彼には職というものがない。彼のもっているのはただ天職です。妻と子供を連れて、彼は友人たちの間を渡り歩いています。自由な人間、自由な詩人です。私は彼の傍にいるといつも良心の苛責を覚えます。私は役所勤めのなかに、私の生活を溺れさせているのだと」」

「私が、ガーネットの書物(引用者注: 『狐になった貴婦人』)は「変身」の方法を引写しているのだというと、彼は疲れた微笑を浮べ、小さく拒絶するような手振りをして言った。「そんなことはない。それは私から得たものではない。それは時代というものにあるのです。私たちはどちらも、それを時代から写し取ったのです。動物が、私たちには人間よりも近しい。これがその鉄格子です。動物との親和は、人間とのそれよりも容易です」」
「「人間は誰もが、自分の持ち歩いている鉄格子の中に暮しています。だから今日では、動物のことをこれほど多く書くのです。これは自由で自然な生活への憧憬の現れです。しかし、人間にとって自然な生活とは人間の生活でなければならない。しかし(中略)人間の生存があまりにも困難になったために、人はそれをせめて幻想のなかで、振い落そうとするのです」」
「「人間が動物に戻ってゆきます。その方が人間の生活よりもずっと簡単なのだ。居心地よく家畜の群に投じて、人は都市の街路を仕事場に向って行進します。飼葉桶と満足感に向って。それはちょうど役所におけるように、一分の狂いもなく計測された生活です。奇蹟というものはなく、正確な使用説明書と、書式と、訓令の世界です。人間は自由と責任を怖れ、その故にむしろ、自分ででっち上げた鉄格子の中に窒息することを、よしとするのです」」

「「一八九一年と一八九四年の間です。そのころ私はまだ小さい子供で、チェコ人の女家庭教師に連れられて、毎日タイン小路を通ってフライシュ・マルクトの方の学校に通っていました。」」
「「私には喧嘩の経験もなかったし心底怖かったけれども、いつも私は一番ひどい掴み合いの中にとび込んでゆきました。(中略)しかし彼らを説得するには到らなかった。大抵私はやられてばかりいたからです。こうした遠征の後、私は眼を泣きはらし、泥まみれになり、上衣のボタンは千切れ、シャツの襟は裂けて家に帰ったこともよくありました。」」
「「そんなとき、料理番の女中が幾度かこう呟いたことがあります。『あんたはラヴァホルね。』私は何のことか分らなくてたずねたのですが、『そうなのよ、まるでラヴァホルなのよ』と言うばかりでした。こうして彼女は私を、私の全然知らない人種に分類したわけです。彼女は私を、ぞっとするような暗い秘密の一分子にしてしまったのです。僕はラヴァホルなんだ! この言葉は私を堪えがたい不安に陥し入れる恐ろしい呪文のように響きました。その不安を逃れるために私はある晩、両親が居間でトランプをしていたとき、ラヴァホルとは何なのかたずねてみました。父はカードから眼も放さずに答えました。『犯人だ。人殺しだよ』――私はひどく驚いて、ぽかんとしていたに相違ありません。」」
「「ラヴァホルという名前はもうそれから誰も口にする者はありませんでしたが、それは私の内部に棘のように、正確にいえば、折れた縫針の尖(さき)が身体中をめぐるように、突きささっていました。(中略)皆の扱いも以前と変らなかったけれども、私はそれでも自分が放逐された人間、犯罪者、要するに――ラヴァホルだということを知っていました。それが私の態度をすっかり変えてしまいました。私はもう他の少年たちの掴み合いには加わらず、私はいつも家庭教師に連れられて大人しく家に帰りました。私が本当はラヴァホルだということを、嗅ぎつけられてはならなかったのです」
 「なんて無意味な!」と、私は思わず口走った。「時がたてば、そんなことはどこかへ消えてしまったでしょうに」
 「ところがそうじゃないのです。」カフカは苦しそうに微笑を浮べた。「根拠の分らぬ罪悪感ほど烈しく魂のなかに定着するものはありません。それは――はっきりした根拠がないからこそ――いかなる悔いと償いをもってしても除き去ることはできないからです。」」

「「堕罪は人間の自由の証左です」」

「「病気はわれわれに、自己を確証する可能性を与えてくれるのです」」

「「祈りと、芸術と、学問の研究と、これは姿こそ違え、同じ坩堝(るつぼ)から燃え上る三つの焔にすぎないのです。人は、かりそめに与えられた個人的な意志の偶然性を踏み破り、自らの小さい自我の限界を超越しようとするのです。芸術と祈り、それは暗闇に向って差し出された両の手にすぎません。人は自らを与えんがために物乞いをするのです」
 「では学問は?」
 「これも祈りと同じ物乞いの手です。人は確かな存在を小さい自我の揺籃に定着させるために、消滅と生成の間に渡された暗い光の弧に身を投ずるのです。それが学問と、芸術と、祈りなのです。だから自己自身に沈潜するということは、無意識の世界に下降することではなく、暗い予感にすぎぬものを明るい意識の表面に浮び上らせることなのです」」

「「私は政治問題が全然分りません。」」

「或る日私たちがグラーベン街を通り過ぎたとき、ノイゲバウアー書店のショーウインドーに、神智論者(テオゾーフ)ルドルフ・シュタイナーの講演の小さな黒刷りの案内が出ていた。
 カフカは私にこの人を知っているかとたずねた。
 「いいえ」と私は言った。「私はシュタイナーという男がいるということしか知りません。父の意見では、彼は一種の神秘屋(ミスタゴーゲ)で、金持のために口当りのいい宗教の代用品を製造しているとのことです」」
「「空気が身体にとってそうであるように、真実は人間の魂にとって、だから勿論肉体にとっても、代用の利くものではありません」カフカは微笑した。「創造という行為に、分業はない。そこでは常に、全体と個が同時に問題となるのです。専門に分けるなどということは、全体という大海原、昨日、今日、明日という途方もないもの、を、怖れひるんだ人間の発明したものです。神智論(テオゾフィー)、即ち意味への愛は、しかし、全体への憧憬に他なりません。それは道をもとめるということなのです」
 「その道をシュタイナーが示しているのですか」と私はたずねた。「彼は予言者なのか、それとも山師なのですか」
 「私には分らない」とドクトル・カフカは答えた。「彼のことは、私にはなかなか合点がゆきません。彼はおそろしく言葉に巧みな男です。この特性はしかしまた、山師の武器ともなるのです。シュタイナーが山師だと言う積りはない。しかしそれもあり得ることかも知れないのです。詐欺師はつねに、困難な問題を安易なやり方で解こうとします。ところでシュタイナーの取組む問題は、およそ困難極まりないものでしょう。それは、意識と存在との間の暗い傷口、限りある水滴と無限の大海との間の緊張ということです。ここではゲーテの姿勢だけが正しいのだと、私は思います。人は、認識し得ぬものを静かに畏敬しつつ、すべての認識し得るものを整理し、摂取しなければなりません。どんな小さいものも、途方もなく大きなものも、すべて身近で価値あるものとならねばなりません」
 「シュタイナーの見解もそうなのですか」
 カフカは肩をすぼめて答えた。「私には分らない。でもそれは多分、彼のせいではなく、私が悪いのです。シュタイナーは私には遠すぎて、近づくことができない。私はあまりにも自分自身の殻に閉じ籠っているのです」
 「あなたは蛹(さなぎ)ですね」と私は笑った。
 「ええ」とドクトル・カフカは真面目にうなずいた。「私は、この蛹がいつか蝶になって飛び立つという一抹の希望もなしに、鉄のように硬い繭のなかに潜んでいるのです。しかし、これも私の欠陥にすぎない。いいかえれば、いつも立返って来る絶望という罪の仕業なのです」
 「ではお書きになるものは?」
 「あれは試み、というか、風に散らした紙屑にすぎません」」

「「写真は視線をものの表面に縛りつける。そうやって写真は、隠れた本質を曇らせてしまうのが常です。本質というものは、光と影の醸(かも)す一抹の吐息のように、わずかにものの相貌の後ろに透けて見えるにすぎないのであって、いかにシャープなレンズをもってしても、それだけでは到達できるものではありません。深い感性でもって手探りするほかないのです。」」

「「写真ほど人を欺き易いものはない。真実はしかし心情の問題です。芸術だけがこれに迫り得るのです」」

「「真のリアリティはつねに非リアリスティックです」」

「「真実にいたる道に、道案内はありません。ここでは、辛抱強い捨身の冒険だけが有効です。処方箋というものがすでに、退却であり、不信であり、従って迷路の始まりではありますまいか。だからこそすべてを、辛抱強く、毅然として、受け入れねばなりません。人間に下された刑の宣告は生であって、死ではないのです」」

「「私は精根を使い果すような、しかもおよそまず勝目のない叛逆に巻込まれているのです」
 「誰に対してのですか」と父がたずねた。
 「私自身に対してのね」とドクトル・カフカは半ば眼を閉じて答え、椅子の背に凭れた。「自分の限界と怠惰に対しても。だからつまるところ、この事務机と、私の坐っている椅子に対してもそうなのです」」







































































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Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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