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川崎寿彦 『森のイングランド ― ロビン・フッドからチャタレー夫人まで』

「中世民衆の英雄像は、権力を無視して〈森〉にたてこもる側にあったことだけは確かだ。」
「なんといっても〈森〉は狂気、情念であり、理性や法秩序に対決する原理であるのだ。」

(川崎寿彦 『森のイングランド』 より)


川崎寿彦 
『森のイングランド
― ロビン・フッドからチャタレー夫人まで』


平凡社 
1987年5月14日 初版第1刷発行
333p 
20×15.4cm 角背紙装上製本 カバー 
定価2,200円
装幀: 中島かほる



本書「あとがき」より:

「西洋庭園の姿態をつぶさに眺めていると、森との折り合いをつけるのに工夫をこらす様子が手にとるようにわかる。ある場合には森をそっくり外に押し出してしまう。またある場合にはなんとかうまく手なずけて内部に取り込もうとする。
 そもそも庭園それ自体が、文明の内部にたぐり込まれた自然の記号なのであって、だから庭園と森とのこのような角逐は、長い西洋文明史のなかでの〈自然〉対〈文明〉という力学(ダイナミックス)をくっきりと図示してくれているわけだ。庭園はすすんで文明と妥協した自然。それに対して森はなかなか妥協を肯んじない、頑固な自然。
 ……というわけで今回の私のこの本は、これまで私が西洋庭園について考えてきたこと(たとえば『庭のイングランド』『楽園と庭』など)の延長線上にある。ただし文明論的な切実さは、いっそう身に迫るものがあった。」
「ここで題名について一言弁明をしておきたい。言うまでもないこととは思うが、『森のイングランド』はかならずしも『イングランドの森』ではない。本書はイングランドを中心にした英国の森の諸相を、とくに英文学史の流れに沿って文化誌的に考察しているが、その場合〈森〉は実体でありつつ文化の記号として機能する。〈森〉のイメジャリーを通して英国の歴史と文学に新しい角度から光を投げてみたかったのである。『(記号論的に)森(であるところ)のイングランド』とでも理解して頂ければありがたい。」



本文中図版(モノクロ)多数。


川崎寿彦 森のイングランド 01


帯文:

「緑の森の木の下で、耳を澄ませば聞こえてくる、ロビン・フッドの角笛が、チャタレー夫人の歓びの声が。文明の営みを映しつづけた森と〈空想の森〉の歴史。森では不思議が起こる……。」


帯背:

「森と〈空想の森〉の歴史」


川崎寿彦 森のイングランド 02


目次

1 森はうやまわれ、そして破壊される 〔古代世界〕
  森はつねに二つの顔をもつ
  未開人の感情とは……
  森の木は宗教的感情を生む
  人は木であり、木は人である
  〈樹下美人〉と〈木の神々〉の系譜
  金の枝の森
  ドルイド僧は森を支配する
  ローマは〈森〉を攻める
  古代世界における森林の破壊
  森は母の原理であった
  〈鉄の時代〉が森を滅ぼす

2 ロビン・フッドはシャーウッドの森を駆ける 〔中世〕
  アングロサクソンも〈森の人〉であった
  農民は森をたくみに利用した
  森と動物たち
  ノルマン人が新しい森の歴史をつくる
  〈御猟林法〉のうらみ
  森はアウトローをかくまう
  そしてご存知ロビン・フッド
  〈森の自由民〉は戦う
  ロビンは森の精だったのだろうか?
  ロビンは〈五月祭の王〉となる
  もう一人の〈緑の騎士〉

3 シェイクスピアはアーデンの森の衰えを知る 〔近世初頭〕
  〈森〉とロビンはやはり反体制だった
  ロビンに対する締めつけが強化される
  ロビン・フッド像の分裂――その卑小化
  ロビン・フッド像の分裂――その高貴化
  〈森〉そのものが分裂しはじめた
  森林衰退の記録
  ドルイドの森の呪いは続く
  劇作家の森に影は交錯する
  ミラノの森のロビン・フッド
  森では不思議が起こる
  妖精の森に五月祭は続く
  宮廷人も森に逃れる
  恋人たちも森に逃げる
  フォールスタフはオークの力で浄化される
  森の力で世直しは成就する

4 クロムウェルは森の歴史を二つに分ける 〔一七世紀〕
  森に対する二つの態度
  メリー・イングランドは守れるか?
  森は王の切札(トランプ)になるか?
  ウィンザー周辺の風景は調和していたか?
  カントリー・ハウスの森の諸相
  清教徒革命は森をめぐる攻防であった
  革命は森を破壊した
  ウォラーの森は旧くて新しい
  イーヴリンは近代林業の出発点を作った

5 ウィンザーの森はざわめきをやめない 〔一八世紀〕
  王の森は森の王
  ポープはウィンザーの森に何を見たか?
  ウィンザーの森は秩序と平和を表わす
  森のスポーツも実態が変わった
  ウィンザーの森は海に向かって動く
  ウィンザーの森を攻める者
  森の経済的性格が明確になる

6 ロマン派は広葉樹を愛す 〔ロマン主義時代〕
  森を美しいと感じる態度
  ロマン主義とオークへの嗜好
  ドイツのロマン派も広葉樹を愛した
  ゴシック教会はブナの森
  木と人の同類共感(ホメオパシー)
  ワーズワースと森の木々
  テニソンもオークを熱愛した
  しかしとにかく森の劣勢は覆い難い
  森は高次の知識の源泉
  森は聖性だけでなく魔性ももつ
  ロマンスの森、童話の森

7 チャタレー夫人はロビン・フッドの森によみがえる 〔現代〕
  イギリスにも針葉樹林が増えはじめた
  ハーディと森の木々
  ニレの木の運命
  フォークナーとアメリカ南部の森林
  ヘミングウェイとアメリカ北部の森林
  ロレンスと神秘の森
  森によって救われる人びと
  それはロビン・フッドの森だった!
  現実の森とロレンスの文学

終章 ゼウスの森はよみがえるか?
  ヨーロッパの森の新しい傾向
  ゼウスとプロメテウスの和解


あとがき
参考文献




◆本書より◆


川崎寿彦 森のイングランド 05


「五月柱のまわりで踊る」


「森はヤーヌスである。それはつねに二つの顔をもつ。おそろしい顔と、恵みゆたかな顔と。」
「森の二つの顔とは、とりもなおさず自然の二つの顔であるにちがいない。(中略)私たちは森を、もっとも自然らしい自然と呼ぶことが許されるのではなかろうか。
 そして人間は〈自然〉とのかかわりにおいて〈文明〉を築いていきた――あるときはそれに助けられ、あるときはそれと対決し、またしばしばそれと妥協をくりかえしながら。これがまさしく〈森〉と〈文明〉との関係である。まず、森の恵みがなければ人間は文明を築くことができなかっただろう。しかしその反面、森を征服することなしには、文明はありえなかった。
 この事実は語源的にも確かめられるはずだ。そもそも〈文明〉(civilization)とは、ラテン語の civis すなわち〈市民〉を語源にしている。森が切りひらかれ、そこに人間の集落が造られ、それがだんだん大きくなって〈都市〉に育っていく――この過程こそが〈文明〉の過程である。それは森を滅ぼす行為にほかならない。
 いっぽう〈文明〉の反対は〈野蛮〉だが、こちらは〈森〉と語源的につながっている。すなわち英語の savage やフランス語の sauvage をさかのぼれば、後期ラテン語の salvaticum そしてもっとさかのぼってラテン語の silvaticus に達する。まさしく〈森の(人)〉を意味する言葉だ。暗い森をそのままにして隠れ住むのが〈野蛮人〉。それを切りひらいて明るくし、耕地や牧場や村や町を造れば〈文明人〉であった。」
「文明はつねに森をおそれ続けねばならなかった。それはいつ復讐してくるかもわからない〈野蛮〉だったからである。反面、それは身近にある恵みの源泉でもあり続けた。隠れ家、食料、燃料、建築材……これらはすべて森から与えられたからである。というわけで、森のヤーヌス性はそのまま人間文明の両面価値性(アンビヴァレンス)に反映されている。森は人間の文明という営みの実体を照らす合わせ鏡である。この事実は文化のいろいろな局面に映し出されているだろう。なかでも文学はかなりシャープな焦点を結んでそれを見せてくれるように思われる。」

「地理学者ジェイ・アプイルトン(Jay Appleton)がコンラート・トレンツを援用しながら提唱した〈眺望・逃避理論(プロスペクト・レフュージ・セオリー)は、〈森〉をめぐるわれわれの考察にも、かなりな意味をもつと思われる。すなわち、動物にとっても人間にとっても、追う立場でも追われる立場でも、もっとも快い状況とは、わが身を森のはずれの茂みに隠しておいて、目の前にひろがる明るい草原を見渡しているという状況にほかならない。それは逃避(レフュージ)と眺望(プロスペクト)を同時的に達成させてくれる、唯一の地点なのだ、と。
 森と草原との接点――それは記号論的にもきわめて含蓄豊かな一点である。多くの文化、そして文学は、そこから発するであろう。」

「ケルト民族は紀元前九世紀以降、ライン下流を含むガリア全土、ブリテン島、イベリア半島、北部イタリアに居住し、一部は小アジアにまで達していた。その宗教的・文化的遺産の痕跡がヨーロッパ各地に残っていたとしても、あやしむに足りない。フレイザーの『金枝篇』はドルイド教起源のオーク崇拝の民俗について詳述し、かたわらゼウスの神託をオークの葉ずれに聴いたギリシア人の〈ドドナの森〉の信仰についても語っている。古代作家の何人かはギリシア古来の信仰とケルトの信仰とが、〈オーク崇拝〉という一点で同根、またはすくなくとも同質と考えたがったのだが、それを否定すべき根拠は今日に至るまで見出されていない。」

「森は原始・自然であり、火(およびその火によって作られた鉄)は文明・人工であった。ギリシア神話はこの両原理の対立を、〈ゼウス=自然の具現〉対〈プロメテウス=人工と文明のチャンピオン〉という図式で表わしているといえよう。しかし無邪気なゼウスが森に君臨するオークを依代(よりしろ)に、天と地を昇り降りしている間に、プロメテウスの復讐は着実に進んでいた。これが文明の歴史である。やがて全ヨーロッパの森が、オークも含めて、鉄斧で切り倒され、火で焼き払われることになるのだ。」

「しかし文明とは、けっして光明だけがみなぎりわたった状態ではない。どんな時代にも〈われらの内なる原始人〉は死なない。だから森はもう一つの顔を持ち続けるのだ。
 ギリシア語 ὕλη (ヒュレ)は、ほんらい〈森〉〈木〉〈材料〉を意味する。アリストテレースおよびそれ以後のギリシア語では〈質料〉の意味で用いられることになるが、これは形相となる以前の混沌(カオス)にほかならない。そもそも木が材料一般と同義語になるのは、人類にわりあい普遍的なことであって、ラテン語の materia (マテリア)についても、漢字の〈材〉についても、同じことがいえる。加えてラテン語で森を意味する silva (シルウァ)は、同時に〈材料〉を意味し、〈混沌〉を暗示するのである。
 言いかえれば〈森〉がすなわち〈カオス〉であるとする先祖返りした意味は、西欧思想の原点にひそんでいたのであろう。時代が下って紀元一、二世紀のグノーシス派では、〈ヒュレ〉は擬人化された原理となり、〈混沌〉〈暗闇〉〈悪魔〉などを意味することになる。この感じ方はグノーシス主義の歴史とは別個に、西欧人の思考のなかで祖型として生き残り、とくにロマン主義以降の文学にはっきりした姿を見せるように思われるが、これについては後述をまつほかない。
 しかしすくなくともこの段階で考えておきたいのは、〈森〉が暗い〈混沌〉であり、同時に万物の〈材料〉であったという事実の意味である。それは〈母〉なる原理、暗黒の子宮であった。ラテン語では materia (材料)が、本来の〈木〉という意味を抱えこんだ一方で、mater (母)という語との類縁性を否定できないという事実があるが、これとどこかで通底しているといえるだろう。
 ローマ人は森とその成長の偉大な力を人格化して、これを〈森の神(シルウァーヌス)〉と呼んだ。別名〈森の支配者(ドミヌス・シルウァーヌム)〉であり、ときに〈陰の支配者(アルビテル・ウンブラエ)〉と性格づけられることもあったようだ。文明は光の原理であったけれど、ローマ人たちは森の暗い陰の力がけっして無視できないことを知っており、それに当然捧げられるべき崇敬の念を、かなりな程度に制度化して捧げたらしく見うけられる。」

「文明はハードな父性、森はソフトな母性であった。文明の力は鉄の斧として森に迫り、ついでそれを石の建物で置きかえていく。civis-civitas 化すなわち都市化の原理であった。心やさしい詩人たちが、とかく〈鉄〉や〈石〉でなく、〈木〉のぬくもりに身をすりよせていったのは、ごく自然なことだったと思われてくる。
 ローマとカルタゴが前後三次にわたって戦ったポエニ戦争は、地中海を隔てて古代世界の東西超大国が覇権を争った、当時の世界大戦であった。地中海が舞台であったから、海軍力が戦いの帰趨を決定したであろうことは容易に想像がつく。結果はローマの完勝であった。しかしこの勝利の犠牲として、ローマ領内の目ぼしい森林が、艦船建造のためにかなり大量に切られたことが知られている。
 船舶→交易→戦争→より多くの船舶……。この古代文明世界に始まった悪循環は、まさしく森を滅ぼす力であった。そしてその結果を見聞した詩人たちは、人類の〈黄金時代〉が終わって〈鉄の時代〉が到来したことを痛感したのである。プロメテウスの復讐は、いよいよエスカレートしてきた。」
「文明史を進歩と反動という単純な力学で割り切れば、文学者、なかでも詩人はしばしば反動的であり、さらにその反動性は〈牧歌詩〉においてもっともあからさまに表われる。ウェルギリウス、オウィディウスが〈黄金時代〉を「船が必要でない時代」、したがって「木が切られない時代」としてイメージした伝統は、その後ながく西欧の牧歌文学に受け継がれる。」

「中世農民(ペザント)たちの異教(ペイガン)的な魂は、森を生命力の源泉とみなし、それにあやかろうとする渇仰を村落共同体のさまざまな祝祭に託した。〈五月祭(メイ・デイ)〉はその代表である。」

「近世にさしかかると、かつてノルマン人たちが一一世紀に見たイギリスの森は、すでにかなり失われていた。原因はさまざまだが、基本的には民衆の需要に応えたため、というほかない(森を守ろうとしたのは、むしろ暴君たちだった)。一例をあげよう。チェシアのウィラル・フォレストはチェスター市の西、ディー川を隔ててリヴァプール市の南に位置するが、中世には有名な言い伝えがあって、その森の見事さを称えていた。
 ブレイコン岬からヒルリーまで
 リスは木から木へつたって行ける。
しかしチェスター市民は王様に請願書を提出して、この森の処分されんことを願うた。理由は森が市の城門すぐ近くにまで迫っていて、盗賊の隠れ家になるということであった。つまり市民がロビン・フッド的なる力を警戒し、〈都市=文明〉が〈森=野蛮〉を排除したのである。」

「ロマンスの森は祖型の森。だからそこには悪魔や魔女も集うが、文明の束縛を超えた高次の自由が発見されるかもしれない。それは都市という〈超自我〉(良心)と対決する、〈イド〉の空間なのである。」

「〈自然〉と〈文明〉の対立は、ギリシアの昔から明瞭に図式化されている。すなわちゼウスとプロメテウスの対立抗争の神話である。火を盗んで人類に与えたプロメテウスは、それによって〈文明〉の創始者となるわけだが、〈自然〉界全体の支配者であるゼウスに罰せられ、カウカソス(コーカサス)の岩に鉄の鎖で縛りつけられ、猛禽たちに内臓をついばまれる苦しみを受ける。
いっぽう人間は、プロメテウスにもらった火を頼りに、ほそぼそと生き続けた。」
「この段階では、〈自然〉の神ゼウスは確かに暴君であった。そして彼に罰せられたプロメテウスこそ人類の恩人、解放者であったろう。後世、ヨーロッパのロマン派詩人たちが、暴君を憎み、人類の解放者を賛美する趣旨をこめて、幾編ものプロメテウス賛歌を書いたのは当然であった。
 しかし彼らは〈自然〉の原理が暴君ゼウスの側にあることを見落としていた。〈人工〉を憎み〈自然〉を熱愛したロマン主義者なら、その限りではゼウスとプロメテウスとの価値判断は逆転してもよかったはずである。」
「ゼウス=自然の暴政は、いつまでも続かない。いやそれどころか、無邪気なゼウスの専政支配と見えたものは、早い段階からプロメテウス=人工の奸計に足元を掘り崩され、実体はどんどんもろくなっていった。このプロセスは、イギリスの森の歴史に目をこらすだけでも、くっきり浮かび上がってくるのである。
 そして今日の危機的な文明の状況が生じてしまったのであろう。今やプロメテウスの鎖を解く時代ではない。彼はすでに大手を振って人類の間を闊歩し、人類はむしろ彼に踏みつぶされないように逃げまどう有様だ。
 ゼウスこそ、復権を許されるべきなのであろう。高木仁三郎氏は『いま自然をどう見るか』と題する刺激的な著作のなかで、本来のギリシア思想の内部でも、ゼウスを暴君とみなすより、高次の正義の原理の体現とみなす考え方のほうが、正統であったことを指摘している。そしてその古代の知恵にもとづき、今日の自然界を高次のエコロジーの視点から再把握する必要を力説する。」



川崎寿彦 森のイングランド 03


「第一質料/最初の母としてのアダム(14世紀の版画)」


「フロイトも『精神分析入門』(一九一七年)に説いていることだが、〈森〉や〈木〉がしばしば女性原理として意識される理由の一つは、ラテン語の〈母(マテル)〉なる一語と関係があるはずだ。すなわち「ラテン語の materia (物質)という語は mater (母)からの派生語であり、物を作り出す材料はいってみればその物の母の役割をもつから」である。森の木々に密着して生きなければならなかった時代の人びとにとって、木が母(マテル)なる物質(マテリア)だという感じ方はごく自然に身についたと思われる。文明は父性であったのだろうが、その眼光を避けてすがりつくような魅力が、森にはあったのではないか。
 そしてもう一段ひるがえって考えれば、中世キリスト教徒がアダムを prima materia (第一質料/最初の母)と考えた事実がある。一四世紀の一枚の版画は彼を大地に静かに横たわる姿で描き、その巨大な男根には豊かな枝葉を茂らせている。彼は天上の父なる神のきびしい視線を、まったく感じていないようだ。彼のおだやかにくつろいだ表情は、男・女の分化以前の、アンドロギュノス的な円満具足を表わしているのかもしれない。理想の混沌である。」



川崎寿彦 森のイングランド 04


「今日に残るポラード(上)とコピス」


「中世農村は人口も少なく、生活もつましかったから、建築用材の需要は限られていた。むしろ日常の燃料用、および補助的な建材(たとえば柵や編垣用)として、細い雑木類の恒常的な供給が必要だった。
 この目的のために農民たちは二つの方法を編み出した。一つは〈ポラード〉と呼び、ブナでもニレでもトネリコでもポプラでも、木の幹を地上から二、三メートルのところで切ってしまう。幹の成長を止めるのである。すると木は次の年の春に、幹の切られた部位から何本かの若枝を出す。それを数年後に利用するわけだ。
「地上から二、三メートル」というのは、じつはシカなどの野獣や、牛、馬などの家畜が若芽を食べない高さ、ということである。この点はよく考えてあったのだが、なにしろ中世農民は鋸を持たず、斧で作業したから、その高さに梯子をかけて斧を振るうのはあまりらくではなかったと思われる。
 そこでもう一つの方法が、いっそう好まれたらしい。それは〈コピス〉といって、思いきって地上すれすれのところで木を切ってしまう。」



川崎寿彦 森のイングランド 06


「『シベールの日曜日』より」


「『シベールの日曜日』と題する美しいフランス映画があった。(中略)フランスのある田舎町で、戦争神経症から立ち直れない一人の帰還兵(中略)が、ふとしたきっかけで隣町の孤児院のさびしい少女と知り合いになる。名はシベール。一〇歳くらいか。毎日曜日、青年は孤児院を訪ね、シベールを連れ出して附近を散歩する。しかし「正常な」町の住人たちは、二つのさびしい魂の触れ合いを理解しない。」
「作品中、カメラは何度も公園の冬木立を振り仰ぎ、その梢の忘れがたい美しさを描いた。それには象徴的なメッセージがこめられていたのだろう。なぜならこれは一般の映画鑑賞者があまり気づかなかったことだが、シベール(Cybèle)は、ほかでもない、キュベレーのフランス語読み。つまりその孤児院の少女は、あの木の女神であり、太母であり、地母神であったのである。
 太母キュベレーが一〇歳そこそこのさびしい孤児となり、彼女と理解しあえたのが戦争神経症のさびしい青年だけであったという事実。そしてその二人の無邪気な愛すら、「正常な」市民たちには理解されず、悲劇的な死が、しかも二人の小さなクリスマス・ツリーの下で襲ってくるという事実。このような事実で構成されたこの物語は、これまた文明の崩落のヴィジョンを描いてみせたというべきであろう。」





こちらもご参照下さい:

イタロ・カルヴィーノ 『木のぼり男爵』 米川良夫 訳 (白水Uブックス)


























































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