ミシェル・フーコー 『レーモン・ルーセル』 (豊崎光一 訳/叢書・ウニベルシタス)

「自己だけしか言いあらわさない言語の創案者、その倍加された存在において絶対的に単一な言語、言語の言語、われとわが太陽を、その中心にある至高の欠落の中に閉じこめている言語の創始者」
(ミシェル・フーコー 『レーモン・ルーセル』 より)


ミシェル・フーコー 
『レーモン・ルーセル』 
豊崎光一 訳

叢書・ウニベルシタス 60

法政大学出版局 
1975年1月25日 初版第1刷発行
1997年9月20日    第7刷発行
261p 目次1p 口絵(モノクロ)i
四六判 丸背布装上製本 カバー 
定価2,900円+税

Michel Foucault : Raymond Roussel, 1963



本書「訳者あとがき」より:

「ルーセルの作品はわが国ではまだ一つも翻訳されていない(中略)。彼に関する本が出るのもこれが初めてである。そこで、この余りにも知られざる作家に関する知識を補う意味で、原書にはない二つのテクストを付録として添えた。」


フーコー レーモンルーセル 01


カバーそで文:

「本書『レーモン・ルーセル』が、まさしく全篇これ「ことばともの」の関係についての特殊、個別論であることは見易い。その人にとっては、ことばがすなわちものであった一作家を語ることにより、本書はことばとものとの関わり合いの極限的な一ケースを提出しているのだ。ただ、その主題がことばとものであって人と作品ではないにもかかわらず、本書では人と作品、狂気と作品との関係がはらむ問題の微妙さが、他のどこにおけるよりも突っこんで論じられている。対話体をとった最終章が、その間の事情を雄弁に物語っている。… (「あとがき」より)」


目次:

1 閾と鍵
2 撞球台のクッション
3 韻と理
4 水受板、鉱脈、水晶
5 変身と迷宮
6 ものの表面
7 空のレンズ
8 閉じこめられた太陽

付録I ルーセルに関する資料 (M・レリス)
付録II 恍惚の心理的諸特徴 (P・ジャネ)

訳註
訳者あとがき



フーコー レーモンルーセル 02



◆本書より◆


「5 変身と迷宮」より:

「ルーセルの機械仕掛の数々は存在(いきもの)を作り出しはしない。それらは物を存在の中につなぎとめるのだ。それらの役割は残存させることである――似姿を保存し、遺産や王権を保持し、栄光をその太陽と共に保全し、財宝を隠し、告白を記録し、打ち明け話を埋蔵する、要するに球蓋ガラス(グローブ)の下に維持することである。(中略)だがまた――この維持を限度を越えて確保するために――通過させることでもある。つまり、障害を乗り越え、動、植、鉱物の三領界を股にかけ、牢獄や秘密を覆えし、夜の向こう側にふたたび姿を現わし、眠っている記憶を克ち得ることである(中略)、彼の思い出は実に多くの鉄格子や、沈黙や、陰謀や、世代や、暗号などを乗り越え、道化役者の軽薄そうな頭の中のメッセージになり、クッションの中に隠された人形になるのだ。これらすべての機械仕掛は外界から保護する閉鎖の空間を、それはまたすばらしい通じ合いの空間でもあるが、開くのである。囲いである通過。閾と鍵。『ロクス・ソルス』の冷たい部屋はこの役割を、最も注目すべき経済性をもって演じている――生を死に移行(パッセ)させ、(中略)生と死を分かつ隔壁を打ち砕くことである。だがそうしたすべては、回数の無際限な上演=再現(ルプレザンタシオン)のあいだ変化せずにいる特権を享けている生命という形象を維持するためなのだ。そして生と死は、見られることを可能ならしめるガラス窓に保護され、この透明で凍てついた括弧の陰に身を避けて、一方はもう片方の中に、一方は他方があるにもかかわらず、それらがあるところのものとして無際限にとどまるために通じ合いうるのだ。
 この過ぎ去らない過去、だがそれなのにこれほど多くの通じ合う道が穿たれている過去、それは恐らく、あらゆる伝説がそれを呼吸している過去、唯一無二の、つねに反復される《むかしあるとき》によって、掛け金の同じ一つの音を立てて魔法のように開かれかつ閉じられる過去であるにちがいない――言語のこんなにもこみ入った機械仕掛が産みだす、ルーセルの物語(レシ)の数々は、子供向きの話のような単純さで呈示されているのだ。この世界、そこにひとを導き入れる言葉の儀式によって到達範囲の外におかれている世界では、存在(いきもの)たちはたがいに、盟約を行ない、交わりを結び、ささやきを交し、数々の距離や変貌を乗り越え、他者になりかつ同じ存在であり続けるという不思議な力をそなえている。《むかしあるとき》は事物の、現前する到達不能な中核を、遠くに、過去の間近な宿場にとどまっているがゆえに過ぎ去ることのあるまいものを、露呈するのだ。そしてのっけから、あるとき(ユヌ・フワ)の物語や日々や事物、それらの唯一無二な祝祭があったとおごそかに告げられるその瞬間に、実はそれらがすべてのとき(フワ)において反復されるだろう――言語の飛翔が、限界を乗り越えて、つねに同一であるあの反対(べつの)側にふたたび見出されるたび(フワ)ごとに反復されるだろうということが、言外に約束されているのである。ルーセルの機械の数々は、存在を存在の中に維持するあの同じ滑らかな作動によって、自分自身から物語を創造する――寓話という、花壇のふちによって、絶えず守られている幻想の一形体だ。彼の物語の数々を二つの意味=方向に読みとりうるものにする曖昧さにおいて(中略)、物語を作り出すのは機械仕掛であり、そしてまた同様にして、機械仕掛の中に歩をとどめるのは物語のほうでもあるのだ。レリスはこう卓説を述べている――「ルーセルの想像力の産物は精髄化された紋切型である。彼が大衆にとってどんなに当惑のたねであり奇矯であろうとも、彼は実際には民衆および子供の想像力と同じ源泉に汲んでいたのだ……ルーセルがそれに衝き当たって苦しんだ、あのほとんど一致した無理解は、恐らく、普遍的なるものに到達する能力のなさによるよりも、日常茶飯事と精髄とのこの奇妙な結合によるにちがいない。」 手法(プロセデ)は、既産物に類するものを産み出し、そして太古の物語は、かつて見たことのない機械を生む。この閉じられた言説、その諸反復によって密閉された言説は、内側から言語の最も古い出口に向かって開いており、突如としてこの言語の、過去なき構築を現出させるのである。たぶんその点にこそ、彼のジュール・ヴェルヌとの親近性が感じとられるのだ。」

「実を言うと、レーモン・ルーセルの作品くらい、旅することが少なく、じっと動かずにいる作品はない。そこでは何一つ動かない、機械仕掛の閉じられた空間があらかじめ定める内的な動きによる以外は。何一つとして移動しない。すべてが休止の完璧さを歌っており、この休止はみずからを土台にして顫動し、その一つ一つの形象が逸走するのは、みずからの場所をいっそうよく示し、ただちにそこに戻るためにすぎない。ルーセルにおいては未来の先取りもまたない。発明はいかなる未来に対しても開かれていない。それはすべてこれ内向しており、時間とその腐蝕に抗して一つの形象を保護する以外の役割を持たず、この形象を技術的な、むき出しの、冷たい永遠の中に維持する力だけをそなえているのだ。パイプとか、電線とか、磁気の拡散とか、光線とか、化学的発散物とか、ニッケルの列柱とかいったものは一つの未来を設定するために配置されたのではなくて、現在を過去から分かつかすかな厚みの中にだけ忍びこむために、そしてそうやって時間の諸形象を維持するために配置されたのである。だからこそ、それらの装置を利用することなどまったく問題になってこないのだ――無比の人(アンコンパラーブル)たちの難船、彼らの救われた不可思議な装置や能力のすべて、祭のあいだに彼らが行なう、それらの実演などは、カントレルの〈庭園〉の孤独がなおいっそう強調することになるあの本質的無償性を象徴しているのである。これら未知の装置すべては、スペクタクルとしてのそれらの反復と、同一なるものへの回帰とのうちにしかそれらの未来を持たないのだ。
 この回帰の強迫観念こそジュール・ヴェルヌとルーセルとに共通しているものである(空間の円環性によって時間を廃絶しようとする、同じ努力)。彼らは自分たちが絶えず発明し続けるあれら未聞の形象のうちに、出発、喪失、回帰といった古い神話、またそれらと相関的な、〈他者〉になる〈同一者〉と根底では〈同一者〉だった〈他者〉という神話、無限に延びる直線でいながら同一の円環であることの神話を再発見していたのである。」

























































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Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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