ミシェル・レリス 『成熟の年齢』 松崎芳隆 訳

「ぼくは自分が変わりようのないこと、それに、もしも変えようとするならぼくは値打ちのない人間になってしまうことを、知っているのだ。」
(ミシェル・レリス 『成熟の年齢』 より)


ミシェル・レリス 
『成熟の年齢』 
松崎芳隆 訳


現代思潮社 
1969年12月 初版発行
1990年7月25日 第4刷発行
287p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価2,678円(本体2,600円)



本書「訳者あとがき」より:

「一九三〇年―三五年に書かれ、三九年に出版され、四六年には「闘牛として考察された文学について」を附して再刊された」
「レリスは彼の生活の「決算」として『成熟の年齢』を書いたといっているが、そうした決算を彼にせまったものは、一方では一九二九年ごろに彼をおそった極度の精神的沈滞と、失敗に終った精神分析療法と、〈地獄くだり〉すなわち自殺の試みであり、他方ではアフリカへの旅であった。」
「原題の《L'age d'homme》は直訳すれば成年期あるいは成人の年齢ということであろうが、レリスが初版の広告文で主張していることや、また別の書物で「第一の成熟の年齢」と言いかえていることなどを考え併せて、『成熟の年齢』と訳したことを申しそえておきたい。」



レリス 成熟の年齢


内容:

口絵 クラーナハ作 ルクレティアとユディット

闘牛として考察された文学について

成熟の年齢
 ぼくは一生の半ばの、三十四歳になったところだ
 老化と死
 超自然
 無限
 魂
 主体と客体
 悲劇
 古代
 古代の女性
 騎士の妻
 供犠(くぎ)
 娼家と博物館
 家庭の守護神
 ドン・ジュアンと騎士
 ルクレティア
 軽業師の伯父さん
 えぐられた目
 懲罰される娘
 殉教の聖女
 ユディット
 カルメン
 ラ・グリュ
 サロメ
 エレクトラ、デリラ、フロリア・トスカ
 幽霊船
 ナルシス
 ホロフェルネスの首
 切られた喉
 炎症をおこしたセックス
 傷ついた足、咬まれた尻、傷口をひらいた頭
 悪夢
 仲のわるい兄
 仲のよい兄
 縫合
 ルクレティアとユディット
 ホロフェルネスの愛
 ケイ
 ホロフェルネスの祝宴
 メドゥサ号の筏
 いまから一年半ほど前
 ターバンの女
 血のしたたる臍

作者ノート

訳者あとがき



本書より:


「闘牛として考察された文学について」より:

「つまり文学活動は、精神の修練という特殊性によって、「ある種のことがらをおのれのために明るみに出し、同時にそれを他人にも理解できるようにする」という以外に正当性をもちえない、そして、その純粋なかたち、つまり詩に帰せられている最高の目的のひとつは、ある強烈な、具体的に経験されて意味をもつに至った状態を、ことばによって復原し、そのようにしてことばとして表現することである。」

「さらに、彼は知性あるいは情念の面に位置しながら、われわれの現在の価値体系の訴訟に証拠物件を提出し、彼がそれによってしばしば圧迫される重みのことごとくを、すべての(引用者注: 「すべての」に傍点)人間の解放という方向にかけなくてはならぬということも残るであろう、さもなければ、いかなる人も彼の個人的解放には到達しえないだろうから。」



「無限」より: 

「ぼくが無限の概念と最初にはっきりした接触をもったのは、オランダ商標のついた、ぼくの朝食の糧であるココアの箱のおかげだ。この箱のひとつの面はレースの帽子をかぶったひとりの百姓娘を描いた絵で飾られていたが、その娘は、左手に、同じ絵で飾られた同じ箱をもち、ばら色のさわやかな顔にほほえみをうかべながらその箱を指さしていた。こうしてぼくは、同一のオランダ娘を無限回も際限する同じ絵の無限の連続を想像しては、いつまでも目まいのようなものにとらえられていた、なぜなら、理論的にいうならこの娘はけっして消え去ることなく、だんだんに縮小されていき、嘲笑するような様子でぼくを眺め、彼女自身が描かれている箱と同じココアの箱の上に描かれている彼女みずからの肖像を、ぼくに見せてくれたから。」


「悲劇」より: 

「ぼくの性格の根深い特徴のひとつである「憎まれ者」という一面には、これもまた芝居のそれである、次のような思い出が結びついている、それは、戦争の始まる何年か前にアンビギュ座で上演された『少年徒刑場』という、感化院に題材をとったレアリスムふうの芝居の身の毛もよだつポスターであった。そのポスターには、木靴をはき、青いベレーをかぶり、肉のこけた蒼白い顔の若者たちと、口ひげの濃い、目に怒りを含み、腹の出た、荒々しい大男の監督官とが描かれていた。この思い出は警察というものにたいして、ぼくの深い憎しみと嫌悪が現われる最初の思い出である、そしてこうした憎しみは、ぼくがポスターの若い囚人たちを見たときに感じた二重の感情のように、「泥棒仲間」がぼくにいだかせるいささか魅力のまじった曖昧で本能的なおそろしさと平行していたのである、つまりこの気持ちは、一方では蒼白い不良少年たちの顔にたいする耐えがたい嫌悪感であったし、また他方では、ぼく自身が、父親によって――ちょっとしたあやまちのために――感化院にいれられついには首をくくって死んでしまう良家の少年というこの芝居の主人公であるとも想像し、さらに、あの不良少年たちの一人でもあるとも想像した事実から生まれる、彼らの不幸にたいする憐れみと同情であった。」


「古代」より: 

「ぼくはつねに寓意(引用者注: 「寓意」に傍点)に魅せられてきた、寓意とは、解かねばならない謎であると同時にイメージによる教訓であり、また、自身の美しさと象徴というものに原則的に含まれる漠としたもののすべてとを兼ねそなえた魅惑的な女性の像である。かなりはやい時期に、ぼくは姉からこうした神話的表象のいくつかについて手ほどきを受けた――例えば、鏡を手にして井戸からはだかで出てくる「真理」や、魅力的な微笑をたたえ、豪華に着飾った女、「嘘」。ぼくはこの後者の出現にすっかり魅入られてしまったので、いまはもうそれが現実の女性だったか物語の女主人公だったか忘れてしまったが、ある女性のことを姉と話しているうちに、「彼女は嘘の女神のようにきれいな人だね!」といったことがある。」

「今日、ぼくが錬金術的秘法(エルメティスム)にもっている趣味の大部分は「寓意」への昔からの好みと同じ心の動きからきているし、さらに、ぼくが象徴的表現や類比やイメージによって思考する習慣――ぼくが意志するとしないとにかかわらず、この書物はそうした心的技術の応用にすぎない――のも、同様にそうした「寓意」への愛好と関係づけねばならぬ、とぼくは確信している。」



「ルクレティア」より:

「闘牛を見るとき、ぼくは剣がからだに突きささる瞬間の牛と同化するか、さもなければ、彼がいとも鮮やかに男性らしさを発揮するその瞬間に、角の一突きで殺される(あるいは去勢される?)危険を冒す闘牛士(マタドール)に同化する傾向がある。」


「軽業師の伯父さん」より:

「芝居にうつつをぬかし、それに、かなり喜劇的才能にも恵まれていたので、伯父はいずれは「テアトル・フランセ」の座付にでもなるつもりでまず演劇の勉強をはじめた、けれども、勿体ぶった大根役者どもと鼻をつきあわせていなくてはならないのにうんざりして、メロドラマの俳優になり、地方や場末の舞台でチャンバラ芝居に出ていた。やがてこの環境も、不自然で気取りすぎているように思えてくると、今度はミュージック・ホールの歌手に、ついでサーカスの軽業師になった。そこではじめて彼はくつろいだ気分になった、身も心も芸に捧げきっているまったく単純で実直な人びとを見出したので。」

「伯父にくり返し言われた教訓は、ぼくの頭の中に刻みこまれており、いまでもぼくはその通りだと思っている、例えばこれはとくに伯父に教えてもらったのだが、ミュージック・ホールの歌やだし物をマスターするには、多くの野心的な芸よりもはるかに才能が必要とされることがあると。「古典悲劇の中によりも三文歌謡曲の中により多くの詩が」あるかもしれぬ、そう教えてくれたのもやはり彼であった。
 勇気という点で自分をこの伯父にくらべようとは思わないけれど、ぼくは彼に親近感を覚える、というのも、彼は一生涯、他人には堕落としかみえないことをみごとな執念で追い求め、妻たちの一人をサーカスの競技場のおがくずの中で、もう一人はほとんど往来で拾い上げたほど、それほど伯父は赤裸々で本当のものへの、貧しい人たちのところでしか出会えないものへの趣味をもっていたし、また、それほどまでに彼は、自己を犠牲にすることによろこびを見つけなければならなかったからだ――この点で彼はぼくにきわめて似ている、なぜなら、ぼくも長いあいだ、苦悩や、破滅や、贖罪(しょくざい)や、懲罰などをさまざまなかたちで(恐れると同時に)追い求めてきたのだから。」

「伯父の死んだ日も、(その数年後)父が死んだ日のように雪が降っていた。伯父は一生のあいだ、雪が降るのを見るとかならず一種目まいのようなものにおそわれたそうだ。」



「ホロフェルネスの首」より:

「それは、アブラハムの犠牲を描いた絵で、両手を組んでひざまずき、喉をつき出している子供の真上に、大きな刀を手にした族長の腕があげられていた、そしてその老人は、息子をいけにえとして差し出す意地わるい神に同意を求めて、皮肉の色もみせずに目を天のほうに向けていた。
 この挿画(中略)から、ぼくは消すことのできない感銘を受けた、そればかりか、その他のいくつかの思い出もそれを中心にめぐっている。 まず第一に、歴史や神話の教科書で読んだその他の伝説、例えば、禿鷹に肝臓をついばまれているプロメーテウスの神話や、子狐を盗んでシャツの下にかくし、その狐にはげしく胸をかまれていながら盗みを白状するくらいなら千回も死んだほうがましだと思っているスパルタの子供の逸話。」

「ぼくの人生はこうした幼年時代の恐怖によってすっかり支配されてしまっているので、たえず迷信的恐怖のとりこになっている民族や、暗く残酷な神秘の影響下におかれた民族の運命にも似ているようだ。人間は人間にたいして狼であり、動物たちは人間をたべるか人間にたべられるかにしか適していない。こうした恐怖(パニック)的なものの見方は、ぼくが傷ついた人間(引用者注: 「傷ついた人間」に傍点)にたいしていだくさまざまな思い出と結びついているらしい。」



「ルクレティアとユディット」より:

「いつでもぼくは純粋なもの、民話的なもの、子供っぽく、未開で、無邪気なものを愛してきた。ぼくは厳格主義者が善(引用者注: 「善」に傍点)と呼ぶものの中にいるときには悪を希う、なぜなら気晴らしにある種の悪が必要となるから、悪(引用者注: 「悪」に傍点)と呼ばれるにふさわしいものの中にいるときには、ほのかな郷愁を善に感じる、あたかもたいていの人が善と呼んでいるものは、実際にそこから渇をいやしてくれる乳を吸うことのできる母親の乳房であるかのように。ぼくの生活はすべて次のような平衡から成り立っている、静かにしているとぼくは死ぬほど退屈になり、どんな混乱でも望むようになるけれど、生活の中に擾乱的な要素がわずかに生じるだけで、ぼくはたいてい途方にくれたり、ためらったり、回避したり、あきらめたりしてしまう。とにかくぼくは故意に言いおとしたり、後悔したりせずには行動できないし、言いなおすという底意なしには打ち明けないし、また、反省的でありつづけるにしても、はげしく望んでいるあの投げやり(引用者注: 「投げやり」に傍点)への哀惜の念がないわけではけっしてない。大人になってからもぼくは、ある人びとが下劣さと悪徳への卑小な耽溺と見なしているものと同時に、理想的な友情とプラトニックな恋愛への不断の欲求をもちつづけている。」


「ホロフェルネスの愛」より:

「ぼくの友人だったら誰でも知っているように、ぼくは告白の専門家、というか告白マニアだ、そして(中略)告白をぼくに強いるのはぼくの臆病さだ。」

















































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プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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