ホフマン/フロイト 『砂男/無気味なもの』 (種村季弘 訳/河出文庫)

「だが、フロイト流の父親像のみが救済の契機として有効かどうかという問題は、依然として懸案にとどまるだろう。もしかするとそれはヨーロッパ思想の限界なのかもしれない。すなわち、無気味な機械人形オリンピアそのものが救済の契機たりうるかもしれないという観点は、そこからは出てきにくいのである。」
(種村季弘 「ホフマンとフロイト」 より)


E・T・A・ホフマン/S・フロイト 
『砂男/無気味なもの』
種村季弘 訳

河出文庫 ホ-3-1

河出書房新社 
1995年2月25日 初版印刷
1995年3月3日 初版発行
196p 
文庫判 並装 カバー 
定価400円(本体388円)
デザイン/フォーマット: 粟津潔
カバーデザイン: 中島かほる
カバー画: ホルスト・ヤンセン 「E・T・A・ホフマンの肖像」



本書「ホフマンとフロイト」より:

「ホフマン『砂男』のテクストは、『集英社世界文学全集18 砂男 他』に訳出した際に Reclam 版を底本に用いた訳稿に、さらに Winkler 版全集を参照して改訳した。」


ホフマン 砂男


カバー裏文:

「自動人形、二重人格などをテーマにしたホフマンの「砂男」は、怪奇幻想小説の傑作として有名であるが、後年フロイトによってとりあげられ、恐怖の源泉としての「無気味なもの」が作品ともども詳細に分析された。本書はその「砂男」とフロイトの論文を併せて収録し、訳者の明快な解説を付したもので、古典を古典的論文で読解するという新しい試みを意図したものである。」


目次:

砂男 (E・T・A・ホフマン)
 後記・訳註

無気味なもの (S・フロイト)
 原註
 訳註

ホフマンとフロイト (種村季弘)




◆本書より◆


ホフマン「砂男」より:

「あらゆるものが、人生の全体が、ナタナエルには夢と化し、予感と化していた。言うことはいつもきまっていた。人間は誰しも、自分の意志でやっているのだと称しながらじつは暗黒の力の残酷な戯れに操られているのであり、その力にどう抗(あらが)ってみても無駄なのだし、運命が定めた道に柔順にしたがわぬわけにはいかない、そう言うのだ。あまっさえ勢いあまって、芸術にしたって学問にしたって、自分の意志のままに創造していると考えるのはおよそ愚の骨頂だとまで言い募った。つまり彼に言わせるなら、精神の熱狂のなかでこそ人は創造に携わることができるのだが、その精神の熱狂は当事者の内部からやってくるのではなく、私たち自身の外部にある何か高次の原理に感応して起るからなのだ。
 かしこいクララにはこうした神秘的熱狂がどうにも鼻持ちならなかった。しかし反論したところで無駄なように思われた。」

「ジークムントは、(中略)次のように言い足した、「だけど変じゃないか、ぼくらの仲間内じゃかなりの連中がオリンピアについてはほぼ意見が一致しているんだぜ。彼女は(中略)何だか妙に強張って魂がないみたいな感じがするんだ。(中略)歩き方は奇妙にぎくしゃくしてるし、動作だっていちいちゼンマイ仕掛で動かされてるみたいだ。(中略)ぼくらにはあのオリンピアが薄気味悪くて仕方がなくなってきたんだよ。あの娘とは関り合いになりたくない。何だか生きた人間のふりをしてるだけで、それも特別な事情があるんじゃないかって気がするんだ」ジークムントがそう言うのを聞いてナタナエルは苦々しい気分になりかけたが、(中略)ただひどく生真面目にこう言った、「そりゃあ、きみたちみたいに冷たい散文的な人間にはオリンピアは無気味に思えるかもしれないさ。しかし詩的な心情の持主には自分と同じ出来具合の組織が見えるんだ。(中略)ぼくが失われた自分に出会うのは彼女の愛のなかでだけだ。たしかにきみたちには、彼女がそんじょそこらの浅薄な連中みたいに愚にもつかないおしゃべりにうつつを抜かさぬのが不都合に見えるかもしれないね。彼女はほとんど物を言わない。それは本当だ。だけどそのわずかに口にする言葉が、ぼくには、永遠の彼岸を見つめている精神生活の高度の認識と愛とに充実した内的世界のまじり気のない象形文字(ヒエログリフ)のように思えるんだ。だってきみたちにはそういうものに対するセンスがまるでないじゃないか。だから何を言っても迷い言というわけだ」」



フロイト「無気味なもの」より:

「ドイツ語の「無気味な(unheimlich)」という語は明らかに、heimlich(ひそかな)、heimisch(その土地の)、vertraut(なじみのある)の対立語であって、何かあるものは、それが既知のものではなく、親しみがないから怖いのだ、という結論がただちに出てきそうである。」
「われわれとしては、無気味な(unheimlich)=なじみのない(nicht vertraut)という方程式から離れてみたいと思う。」
「われわれが特におもしろいと思うのは、heimlich という語がその語に幾重にもわたるニュアンスをふくみながら、unheimlich なる反対語と符合する意味をも示すという点である。してみれば、heimlich なものが unheimlich なものになるわけだ。(中略) heimlich という語は一義的ではなく、一方では親しみのあるもの、快適なもの、他方では隠れたもの、隠されたままにされているものという、相互に対立しないままおたがいにまるで無関係であるような二つの表象圏に属しており、この点を特に銘記しておく必要がある。」
「heimlich は、両面価値感情(アンビーヴァレンツ)によってその意味を展開し、しまいには反対語の unheimlich と重なり合ってしまった語なのである。」
「E・イェンチュはえり抜きの例として、「見かけは生きているように見える存在(もの)にじつは生命がないのではないかという嫌疑、あるいは逆に、生命のない物体がなんだか生きていそうな疑い」を強調しながら、蝋人形だの、精巧に細工を施した人形だの、自動人形だのを引き合いに出す。」

「ある暑い真夏の午後、私はイタリアのさる小都市の、勝手知らない、人気のない街路をぶらついていた。私はたまたま、いかがわしい性格がすぐにピンとくる界隈に入り込んでいた。小さな家々の窓には厚化粧の女たちが鈴生りになっているのが見えた。私は足を速め、そのせまい小路を通りぬけて次の角を曲った。ところがしばらくやみくもにうろついてからふと気がつくと、前と同じ小路に出ているのである。そろそろ人目がこちらを見とがめはじめる。私はそそくさと立ち去ったが、結果は何のことはない、またまた新たな回り道をして三度目にそこへはまり込んでしまったのだ。すると私は無気味としかいいようのない感情に捉えられた。」
「これとは別種の一連の体験によく見られるのに、こんなのがある。意図せざる再帰のモメントがふだんはどうということのないものを無気味に思わせたり、ふつうなら「偶然」としかいいようのない場合になにやら致命的なもの、逃れられない運命という観念を押しつけてくるのだ。たとえばクロークに預けた衣服の預り証がかくかくしかじかのナンバー――かりに62としておこう――だったり、割り当てられた船室のルームナンバーがまたその数字だと知れたりする。たしかにどうということのない経験にはちがいない。ところが62という数字に同じ日に何度もお目に掛かり、それ自体としては無関係な二つの出来事が双方から接近してきて、しかもアドレス、ホテルのルームナンバー、鉄道車輌等々、数字表記のつくものすべてに、すくなくとも構成要素の一部にくり返し同一の数字が再帰してくるとなると、どうということのない経験という印象は一変してしまう。「無気味」と思うのだ。迷信の誘惑になしくずしに参ってしまう人間だと、えてして、この同一数字のしぶとい再帰には背後になにか隠された意味があると思うのである。」

「言語慣用が「なつかしいもの(das Heimliche)」をその反対語たる「無気味なもの(das Unheimliche)」に寝返らせるのもむべなるかな、と納得されることだ。なぜなら無気味なものは、じつは新奇なものでもなければ見知らぬものでもなくて、心的生活に古くからなじみのあるなにものかであり、それが抑圧の過程を通じて精神生活から疎外されてしまったものだからだ。この抑圧との関係からしてようやく、無気味なものとは「隠されたままでいなければならないはずなのに、それが表に出てきてしまったもの」というシェリングの定義の意味も明らかになる。」

「神経症の男性たちはよく、「女性の性器(ジェニタル)が無気味なものに見えます」と告白したりする。この無気味なものはしかし人間の子たるもののなつかしい故郷への、つまりだれしもがかつて最初にいた場所への入口である。「愛は郷愁である」という戯言(ざれごと)がある。夢のなかである場所もしくは風景を見て、「ここは知っているぞ、むかしいたころがあるものな」と夢の当事者が考えるとしたら、当の場所の正体はまず女性性器もしくは母胎と解釈して差し支えない。無気味なものはしたがってこの場合にも、むかしは故郷だったもの、古なじみのものなのだ。この unheimlich という語の前綴り「un」こそは、抑圧の着けている仮面なのである。」



種村季弘「ホフマンとフロイト」より:

「自然、故郷、家庭、身体、あるいはもっと小さい規模でなら女性性器。この「最初にいた場所」から疎外されること。第一次ナルシシズムの発顕を思うさま叶えてくれたアト・ホームな、つまりは heimlich な場所の喪失という「第一次ナルシシズムの抑圧」が、ひるがえって unheimlich な感情を生む。これが、フロイトの『無気味なもの』に一貫するモティーフである。」
「しかし「最初にいた」インティメートな場所の喪失による自動人形化という点では、ホフマン、フロイト両者にこの悪運を遺贈したデカルトその人が、当の宿痾をつとに身をもって体験している。(中略)その自動人形化した彼自身を隔離せんとして、二元論による身体疎外、身体幽閉を試みたのであるまいか。
 しかし幽閉された身体は監禁状態の孤独のためにさらに硬直して、同病の、すくなくとも同じ程度に早期離乳を強いられたホフマンやフロイトによって暴露され、白日のもとにさらされる。」
「デカルトが提起し、ホフマンが暴露した、身体の牢獄もしくは牢獄と化した身体をめぐる問題は、フロイトの分析後も、「あらかじめうしなわれた(ないしはあらかじめ奪われた)身体」をめぐるアルトーやフーコーのテクストによって、くり返し取り上げられた。といって、むろんはかばかしい解決策はおいそれと見当たりはしない。というよりも目下も治療中とでもいうほかない。」
「だが、フロイト流の父親像のみが救済の契機として有効かどうかという問題は、依然として懸案にとどまるだろう。もしかするとそれはヨーロッパ思想の限界なのかもしれない。すなわち、無気味な機械人形オリンピアそのものが救済の契機たりうるかもしれないという観点は、そこからは出てきにくいのである。
 一方、私たちはむしろ女性の救済力になじんでいる。(中略)泉鏡花の『照葉狂言』では、たとえばリューマチのために機械人形のように硬直した女芸人が、「姉の力」、「妹の力」の体現者として登場してくる。オリンピア(中略)の呪いが、むしろ母親像との関連において、ひるがえって救済の契機となることも、ないではないらしいのだ。」




こちらもご参照下さい:

ホフマン 『黄金宝壺』 (石川道雄 訳)











































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Author:ひとでなしの猫
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◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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