川村二郎 『内部の季節の豊穣』

「トリスタンたちにせよロミオたちにせよ、彼らが死に到るのは、世間の掟を破ったからである。しかしそもそも、愛というのは、それに取り憑かれた人間を、掟に背き、掟の外にはみだし、現実世界を支えている秩序から脱落するように仕向ける力ではないか。」
(川村二郎 「主題を求める変装」 より)


川村二郎 
『内部の季節の豊穣』


小沢書店 
昭和53年9月15日 印刷
昭和53年9月20日 発行
261p 
四六判 丸背布装上製本 貼函 
定価1,700円
装画: 斎藤和雄



本書「後書」より:

「ここに集めたのは、主として、ここ十年足らずの間に書いた、同時代の作家たちについての解説的、もしくは時評的な文章である。」


川村二郎 内部の季節の豊穣 01


帯文:

「明晰な批評精神の放つ批評言語の的確な矢先は、対象の最深部を貫き、現代文学の状況を露呈する。「内向の世代」を論じて記念碑的な現代文学論集。
古井由吉。黒井千次、小川国夫、河野多恵子、渋沢龍彦、そして有明、露伴、鏡花など。」



帯背:

「「内向の世代」の
内実を探る――
現代文学論」



帯裏:

「――批評家として、たとえ状況について論じなければならない場合でも、その中の個々の対象を能うかぎり丹念に検証することを通じて、状況の基本線を示そうと思う、というのが、ぼく一個の願いなのだが、「内向」の小説家たちが小説家として取り組んでいることは、結局それと似たような仕事ではないのか。
(本文より)」



目次 (初出):


古井由吉――主題を求める変奏 (河出書房新社 『新鋭作家叢書 古井由吉集』 解説 昭和46年11月)
黒井千次 
 1 「反寓話」の空間 (「文芸」 昭和46年7月)
 2 『失うべき日』 (集英社文庫 『失うべき日』 解説 昭和52年9月)
小川国夫 
 1 自覚せるミダス (河出書房新社 『小川国夫作品集 2』 解説 昭和49年11月)
 2 『彼の故郷』 (講談社文庫 『彼の故郷』 解説 昭和52年7月)
河野多恵子
 1 『不意の声』 (講談社現代文学秀作シリーズ 『不意の声』 解説 昭和46年3月)
 2 『草いきれ』 (文春文庫 『草いきれ』 解説 昭和50年5月)
 3 『谷崎文学と肯定の欲望』 (「文学界」 昭和51年11月)


内部の季節の豊穣――一九七〇年の文学 (「文芸」 昭和45年12月)
「本音」の危機――一九七二年の文学 (「文芸年鑑」 昭和48年6月)
「文弱」の衰頽――一九七四年の文学 (「文芸」 昭和49年12月)
二つの -ment の谷間で――「内向の世代」解嘲 (「文芸」 昭和51年8月)


幸田露伴――『蝸牛庵聯話』頌 (「国文学」 昭和49年3月)
泉鏡花 
 1 鏡花の旅 (岩波書店 『鏡花全集 27』 月報 昭和51年1月)
 2 鏡花の楽園 (文学座 『十三夜・天守物語』 公演パンフレット 昭和49年12月)
折口信夫――『死者の書』 (中公文庫 『死者の書』 解説 昭和49年5月)
蒲原有明――塚穴からの光 (「現代詩手帖」 昭和51年10月)
澁澤龍彦――amor figurae (「文芸」 昭和52年9月)

後書
初出一覧



川村二郎 内部の季節の豊穣 02



◆本書より◆


「主題を求める変装」より:

「この喚起力は、おそらく折口信夫のいわゆる「類化性能」と「別化性能」の融合から生ずる。つまり、類似点を直観する能力と、咄嗟に差異点を感ずる能力との。両者の融合によって、遼遠な古代の相を明らかにすることを折口は望んだのだが、ただ、彼自身は、みずから認めるように、前者にくらべて後者に乏しかったという所がある。そこから『死者の書』のような、おそるべき一元的世界の茫漠たる風景が生れてくることになる。」

「愛といえば死とこだまする、それが、古くからの愛の物語の常道である。もちろん今日、トリスタンとイゾルデやらロミオとジュリエットやらのような、純愛悲劇のたぐいを書こうとすれば、大時代な月並調に陥らざるを得ないのは目に見えている。しかし、それはそれとして、愛と死とを同根の現象と見なす見方には、人間に関するある普遍的な認識が伴っているのだとはいえまいか。トリスタンたちにせよロミオたちにせよ、彼らが死に到るのは、世間の掟を破ったからである。しかしそもそも、愛というのは、それに取り憑かれた人間を、掟に背き、掟の外にはみだし、現実世界を支えている秩序から脱落するように仕向ける力ではないか。その意味では、たとえ現実の死に到らないまでも、愛する人間は、比喩的には必ず死を経験するはずである。すべて愛の物語は、もしそれが真に愛を捉えているならば、この死の味いを必ず含むことになるはずである。」

「たしかに、描写の安定の彼方から、一種の不安定な振動が伝わってくるようではある。しかしそれは、おそらく、現代小説の愛好する、あてどのない不安や不毛とは縁がないのだ。それはむしろ、生活の表層の下で、それが本来もたらすべき実りのために孜孜として伸びひろがる、重く暗い根の運動から伝わってくるのではなかろうか。それは同時に、愛という非現実的な現実が、日常性の中でどのように持続することができるかを、たしかめるための契機でもあるらしい。どうやら、夜の中に横になったまま耳を澄ましている主人公は、貝殻に耳をあててはるかな海の潮鳴りを聞き取るように、彼を取り巻く生活の空間から、愛のひそかなさざめきを、ひいては、生と背反しながら生を支えている存在の隠微な呼び声を、聞き取ろうとしているのである。」



「内部の季節の豊穣」より:

「一口にいえば、作品がどれだけ語りがたいものに近づいているか、それが当方なりの評価の基準である。もちろん文学作品は言葉だし、言葉は語られることによってしか存在し得ない。その意味で作品は、ごく常識的に語り得るものと多かれ少なかれ結びついている。これは大仰にいえば文学の宿命のようなものだろう。
 宿命に逆らうことはできない。文学が語り得るものから完全に脱出することはできない。(中略)ぼくが何より感動するのは、脱出への願望が、脱出不可能の認識によって抹殺されることなく、むしろこの認識の前でいよいよ激烈にたかまった行く形、認識と願望とのあいだに張られた緊張のはげしさを眺めたと思う時である。
 語り得るものとは、簡単にいえば、われわれの生存を規定しているさまざまな具体的な条件である。そしてそれらを支配する原理は、いうまでもなく有効性の原理である。そこで、文学は有効性の原理に支配されないなどといえば、あまりにも常識的、教養ある成人にイロハを講ずるようなことになるだろうか。」

「いや、芸術至上主義といってもいいのだ。ただし、この言葉で今意味させたいのは、芸術は芸術のための芸術であってはじめて人生のための芸術となるということ、無用に徹することによって芸術ははじめて有用となるということである。」



「二つの -ment の谷間で」より:

「小田切氏(引用者注: 小田切秀雄)が具体的にメンバーの名を列挙して「内向の世代」をあげつらったのは、「現代文学の争点」(昭和四十六年五月、東京新聞)という小文が最初だと思うが、(中略)小田切氏はこの「世代」の出現によって「現代文学内部の基本的な対立」が明らかになったといい、特に川村が「内部の季節の豊穣」という評論でこの「世代」の特色をおしだしたことで、問題がはっきりした形を取りはじめたとしている。
 小田切氏が名指したこの「世代」の小説家たちのうち、古井由吉に対してはぼくはたしかにこだわりない讃辞をその評論の中で送っている。しかしそれは「杳子」という作品に感心したからであって、「世代」だのグループだのとは何の関係もない。もし他の作家との所縁を考えるなら、ぼくにはむしろこの作が吉行氏や河野氏のそれと似た光に包まれていると見えたのだというべきだろう。」
「ぼくと一緒に「内向の世代」の批評家の檻に入れられて、同床異夢はさぞ御迷惑だろうと推察される秋山駿が、「内向の世代の文学について」(昭和五十一年五月、東京新聞)を書いていて、その中で、
 「この内向の世代は、最初から最後まで悪口と非難の言われどおしだ、すくなくとも文学批判の散集する大道では、オール否定の中を歩いてきたのだ」
 といっている。秋山氏のこの文章の論旨全体にはぼくは必ずしも同意しないが、現象についての今のような判断には全く同感である。悪口の言われ通し。ただ、なぜ悪いか、という理由が、最初と最後で違っている。(中略)簡単にいえば、最初は engagement がないからダメだということだった。今は、entertainment がないからダメだということになっている。この変化はすこぶる興味深い。最初の非難よりも後の非難の方がはるかに強力で、居丈高であるように見える所が、いよいよもって心を唆る。」
「entertainment がない。そのことを具体的に論じた文章を目にしているわけではない。しかし最近の新聞雑誌を読んでいれば、コラムや座談会の発言やその他で、いやでも捨てぜりふめいた片言隻句が目につく。いわく、面白くない、いじましい、視野が狭い、風通しが悪い、あわれなことといったらない……。よくまあこれだけ悪罵されるものだと感心するほどである。憎まれっ子世にはびこる、ということがあって、では憎まれっ子なのかと思えば、どうもそういう印象ではない。それだったら、非難はもう少し派手な、攻撃的な、陽性なものになるだろう。この悪罵はむしろ、ミソッカスに対する唾棄のようにきこえる。とっとと消えてもらいたいミソッカスが、仲間はずれにされたという顔もしないで平気でそこに坐っている。それが苛立たしくて仕方がない、といった調子の、非難する側が結構鬱屈し内攻しているような声にきこえる。
 これは、「内向の世代」にサービス精神が欠けているせいだと思う。ことさら不愛想というのではないにしても、早い話、「内向の世代」が誰と誰だかも知らないのである。つまり小田切氏の裁断などに、そもそも大した関心がないのである。それを敷衍していえば、自分が他人にどう見られているか、無関心だということである。普通は誰でもそのことを気にする。なるべくよく見えるようにと心がける。これは何も虚栄心の発露とは限らない。(中略)人の眼を喜ばせ、娯しませるために、身づくろいをする。その身づくろいが、場合によって裸体にひとしかったり、人の不快感を挑発するような異装であったりするとしても、挑発もまた、サービスの一種であると見なすことは可能である。
 媚態がないのはもちろんとして、挑発的、挑戦的な態度すら全く見せない。それは自分が他人にどう見られているかが問題でないのと同様に、自分の眼にうつる他人の姿にも、さして興味を持たないということだ。衣裳の見せくらべをするのは女ばかりではない。人間の社会が形成される場合、それがどのような性質のものであれ、また、どのように小さな単位であれ、その中で見せくらべが起きないということは考えられない。それが社会のルールである。社会という一つのゲームのルールである。虚栄心や自己顕示も、このゲームにおいては充分有効である、というより、それがなければゲームが進行しないことさえ考えられる。そのような場所で、自分の見てくれも人の見てくれも、一切われ関せずというのでは、興をそぐことおびただしい。ドイツ語に Spielverderber という言葉がある。「遊びの邪魔をする人」「人の楽しみをだいなしにする人」などと辞典には訳されている。「内向の世代」に対する悪罵は、何よりも、Spielverderber に対する悪罵であるように思われる。
 そこで、内向どころか彼らは自閉症なのだ、といってしまえば、話はけりがつくのである。だが、どんなものか。先にふれた座談会で、批判に対して何も反論せず、黙って仕事をしてきたという後藤氏の発言を受けて、古井氏がいっている。
 「内向の世代っていうのは鷹揚なんだな。」
 鷹揚。いみじくも自己規定したものだと感じ入る。勝敗優劣を競う気ははじめからないので、社会というものが何らかの意味で競争場であるならば、この鷹揚はほとんど無礼と呼ばれても致し方のないようなものである。
しかも、競う気はないのに、競争に対する好奇心は充分に持ち合わせている。自閉症なら、もちろん好奇心などを起すわけがない。」



ここでいったん引用を中断しますが、当時の日本にはまだ高機能自閉症といったニュータイプの自閉症の概念は存在していませんでした。それにしても、川村二郎が興味を持つ文学者は、ホフマンスタールとかノサックとか、日本だったら泉鏡花とか折口信夫とか内田百間とか、間違いなく高機能自閉症と診断できる人たちばかりです。もちろん、わたしが川村二郎に興味をもつのもそれゆえであります。

引用を続けます。


「自分ではしないで、するだけのサービス精神もなしで、ただ熱心に見物だけしている。そのことが人々を激昂させる真の原因ではないか。(中略)また、競争場から「おりた」と意思表示するなら、これはこれで、とにかく人を納得させることができる。劣等で結構、敗者で結構、何であろうと競争は御免だ、といえば、通してくれる所が世間にはある。」
「しかしそうやって通してもらっている限り、すね者は決して本当の世捨人にはならない。本当の世捨人は、やはり伯夷叔斉のように、のたれ死するのが身の定めである。一見世捨人めいていて、のたれ死しないすね者というのは、どこかいかさまくさい感じがある。
 その感じを、ぼく自身は格別好ましいとも思わないが、さりとて悪いとも思っていない。」

「それではなぜ、競争に参加しないのか。見ることが何より好きだからである。それも、勝負の見物などという安直な範囲にとどまらないで、勝負にこだわったり見てくれを気にしたりする場が、どのような力によって動かされているのか、人間をそのように行動させる原理は何か、といった、いわば根本的な問題の領分にまで眼を向けているからである。その眼の働きは、内向どころか、むしろ多分に外向的な性質のものだと思う。ただその外が、通念的な外界、社会、世間、何でもいいが、その現象的な局面を越えたひろがりになっている。現象の枠をはみだした所にまで眼が向いて行くために、外向的と思われにくいのである。いずれにせよ、そんな所まで見ようとするのでは、自分の見てくれも人の見てくれも気にしている暇はないわけだろう。いわんや、言いがかりをつけられて一々反撥する余裕など、あるはずがないだろう。
「鷹揚」が無礼に通ずるとは、ざっとこんないきさつを想像するからである。無礼がいいすぎなら、少くとも、傲慢。ただ、(中略)人の見ないものをあえて見ようとする態度が懈怠なく持続される限り、対人的な傲慢は結局自己の仕事への謙虚に止揚されるはずである。」

「たとえば宇野千代の近作で『ママの話』という聞書き風な物語があるが、(中略)戦後という時代の厚顔無恥、動物的な精力の空しい浪費、浪費の醸しだす頽廃、そういったものを作者は、それに対して何の抵抗も感じないかのように、まことに無邪気かつ闊達な語り口でもってくりひろげて見せる。(中略)宇野氏の作のあまりにも流暢な口調からはいかなる意味でもここに認識や批判がひそんでいるとは感じられないのである。
 この種の物語の単純明快な面白さに追随しかねる偏屈が、おそらく古井氏たちの作を、いつも何となくくすんだ、色合のはっきりしないものにしている一因だろう。要は、この曖昧な色合が、なまじいな鮮明さよりはるかに深い奥行から生じているのだと納得されるかどうかである。そしてこのことを読者に納得させることは、依然として彼らの最も重要な課題でありつづけるだろう。しかし少くとも、奥行を犠牲にして表面を華やかに輝かしたらよかろうなどとは、ぼくは毛頭思わないし、また彼らがそんなことを試みるはずもないと思うのである。
 ここまで書いてきて、他人が勝手にこしらえた檻ではあるが、その「内向の世代」の中に、ぼくも入っていてもいいな、という気持が湧いてくるのを感ずる。つまり批評家として、たとえ状況について論じなければならない場合でも、その中の個々の対象を能うかぎり丹念に検証することを通じて、状況の基本線を示そうと思う、というのが、はじめにいったように、ぼく一個の願いなのだが、「内向」の小説家たちが小説家として取り組んでいることは、結局それと似たような仕事ではないのか。状況に対して無関心どころではないが、それについての判断を、状況の奥にひそみ状況を支えている無名の見えにくい力との交渉を通じ、その交渉の報告を通じてあらわそうとしているのではないか。」



「鏡花の楽園」より:

「鏡花の描くおおよその女たちは、多かれ少なかれ、怖ろしげなものを持っている。たとえば鏡花の作中でも最も有名なものの一つ、『高野聖』の女主人公など、人間を馬や猿に変えてしまう魔女であるからには、当り前といえば当り前だが、不気味な美しさの印象はいかにも濃厚である。」
「それにもかかわらず、『高野聖』の女主人公ですら、どこか、慕わしくなつかしげな俤を宿しているところに、鏡花の文学の、実に独特な味いがある。大あぐらをかいて酒を飲み、大好物の鯉を食う「魔神」のような妖女が、しかも、やさしい母としての面を失っていない。この物語を語る旅僧は、危いところで彼女の誘惑を逃れ、動物に変身させられる運命をまぬかれた。しかし、それは本当に危険からの脱出だったのだろうか。むしろ、誘惑の手に従順にしたがって、妖女にまといつく動物の一匹に化してしまった方が、彼にとっては真の幸福ではなかったろうか。――そんなあてもない空想を誘いだすほどに、この怪異談の読後には、遠い楽園への郷愁に似た、ほのかなあこがれ心地が残される。」



そして、この『内部の季節の豊穣』が、「胡桃の中の世界」で「一人ひっそりとおのれの偏愛を育んでいる」澁澤龍彦へのオマージュで終わっているのは、いかにも爽快です。というか、いい気味です。澁澤龍彦は、「内向の世代」など何処吹く風で、扇風機に夢中になって我を忘れる純然たる自閉症児に心から共感することができた、当時としては稀なる感性の持ち主でした。
















































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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