川村二郎 『感覚の鏡 ― 吉行淳之介論』

「無垢であればあるだけ、精神は、対立する現実と、なしくずしに折り合いをつけ曖昧に妥協することを忌避する。どの道現実とかかわらねばならぬなら、曖昧な妥協への誘惑にみち、建前や偽善によって厚く粧われたその中間的な部分ではなく、どんな折り合いをつけようもない、現実の本質的な成分だけが重く沈殿しているその底辺と接触した方が、かえっておのれの無垢を保つために得策だと考える。いわば、自己の強度を維持するために、おぼろげな薄明ではなく濃い闇を要求する光のような、精神。」
(川村二郎 『感覚の鏡』 より)


川村二郎 
『感覚の鏡
― 吉行淳之介論』


講談社 
1979年4月20日 第1刷発行
203p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価1,000円
装幀: 平野甲賀



本書「後書」より:

「なおこれは、「群像」一九七八年の一月号から十二月号まで、一年間にわたって連載された文章である。」


川村二郎 感覚の鏡


帯文:

「小説も芸術の一分野であるが、その香気に満ちた、繊細な芸術家らしい小説家が吉行淳之介といえる。著者は日本的リアリズム批評とは切れたところで、作品のもつ喚起的イメージをバネに対象と同化する、魅惑する一つの新しい批評形式を誕生させた。」


帯背:

「長篇作家論」


帯裏:

「この書物は、吉行淳之介の文学の、包括的な解説、乃至手引を意図したものではない。著者自身が、同時代において最も生理的な親近感を感ずることのできるこの文学者の世界に、共感をこめた観察を通じてどの程度接近し得るか、思いつくままの角度から、とはつまりかなりわがままに、試みた末の産物である。(著者後書より)」


内容:

感覚の鏡――吉行淳之介論
 (一)
 (二)
 (三)
 (四)
 (五)
 (六)
 (七)
 (八)
 (九)
 (十)
 (十一)
 (十二)

後書




◆本書より◆


「想念のイメージ化。それをいうと、ここでどうしても引用せずにはすまされない文章の一節がある。

 昭和十六年十二月八日、私は中学五年生であった。その日の休憩時間に事務室のラウド・スピーカーが、真珠湾の大戦果を報告した。生徒たちは一斉に歓声をあげて、教室から飛び出していった。三階の教室の窓から見下ろしていると、スピーカーの前はみるみる黒山の人だかりとなった。私はその光景を暗然としてながめていた。あたりを見まわすと教室の中はガランとして、残っているのは私一人しかいない。そのときの孤独の気持と、同時に孤塁を守るといった自負の気持を、私はどうしても忘れることができない。

 エッセー『戦中少数派の発言』の冒頭。」

「三階と一階(かあるいは校庭か)とは、ただ空間的にへだたっているというばかりでなく、生活的にも全く別の世界である。下には血の匂いへの熱狂があり、上にはその熱狂によって、肉体の死にまでおびやかされる醒めた心がある。この対立は、すでにほとんど比喩の域を超えている。」
「そもそもこの文章は、冒頭のイメージが浮ばなかったら、果して書かれただろうか、と考えてみたくなる。まず絵があった。書き手としては、その絵を提示すれば気はすむのだが、それだけではいかにも愛想がないから、多少の注釈を書き加えた。そう考えれば、イメージが主で論理は副、それどころか、イメージの内にすでに論理が潜在しているのだ、ということさえできそうである。
 このイメージに対応するのが、論理に対応するのが思想だという意味で、生理であるのだろう。(中略)生理は生理、ことさら誇示したり顕揚したりするいわれはないが、さりとて人間の内部における下位の未発達の部分として、隠蔽しなければならぬ性質のものでもない。それはただ、人間において、まさしくそのようでしかあり得ない感覚的な特性として存在している。誰でも持っているその特性を、しかし、誰もがありのままに認めようとするわけではない。大抵は、思想か、信念か、論理か、倫理か、何かその種のさまざまな顔料を用いて、修飾し糊塗しようと努力する。それをしない人間が、素直に感じ、かつ見、見たことを言葉に言いあらわす時、表現は一種原型的なイメージとなり、同時に、修飾を受けつけぬ生理の度しがたい頑なさの、比類ない証明となる。」

「拒否的な心性、ということを先にいった。(中略)拒否の姿勢を取るのが、自己を守ろうとする潔癖な生理の要求だったとすれば、(中略)現実ではなく夢を選ぶのも、やはり、夢に自己の拠るべき砦を築こうとする内心の欲求から発しているということができよう。声高な人間なら、勢いこんで「現実逃避」と叫ぶ所である。叫びたい人間には叫ばせておけばよい。(中略)縮小された無力な一人の若者の自己が、いわばその最後の自己表現を、夢に託する、その夢の表現がどれほどとりとめなく希薄であろうと、そこにこめられているのが、とりとめない青春の感傷や夢想をはるかに超えた、痛切かつ濃厚な思いだということは疑い得まい。ここにおいて、拒否は、好悪とか、愛憎とか、ともかくも日常生活の次元に属する選択の基準からかけ離れた所で、もはや選択の余地ないまでに迫害され損われた崩壊寸前の生の、ぎりぎりの自己主張としてあらわれている。
 このことを一般的な言い方に還元すれば、一見、ただそれだけのものとして提出されているように見えるイメージが、実は、自己、乃至「私」の内的欲求によって生みだされ、その強い執着によって支えられているのだ、ということである。」

「吉行氏の作品の世界では、通りすがりにちらと見てそのまま見すごしてしまえる程度の、目立たぬ片隅の風物が、微妙に変化して全く別の広い場所に移されたり、予想外の状況に挿入されたりすることがしばしばある。意識的な操作がそこでおこなわれていないはずはない。そのことは自明だとして、しかもこの作業がうかがわせるのは、心に思い浮んだ好ましい旋律を、曲想や規模の異なるさまざまな楽曲に使用しながら、調性によって、リズムによって、和声によって、あるいは強弱によって、そのたびごとにニュアンスを変えるのを入念に吟味しているかのような風情である。意識的な操作は、ほとんど愛玩にひとしい。」

「しかしそれにしても、縮尺されるとは、稀薄化されること、いわんや矮小化されることとは全く別である。逆に、小さくなればなるだけ、内部の密度が増すということが起り得る。しかもさらにこの密度は、心をこめてその世界を眺める者をあらがいがたい力でもって引き寄せ、自己の圏内に閉じこめてしまう魔力たり得る。眺める側からすれば、高みから見下していたはずなのに、いつの間にかその小さな世界に吸い寄せられ、思わず知らずその内側に入りこんでしまう、という経験が生ずる。ガラスの瓶に閉じこめられた精霊。小箱の中の王国を支配する女王の恋人となる若者。ホムンクルスやメリュジーヌなど、小さな異界にまつわるさまざまな民話伝承は、突きつめていえば、この経験の比喩的表現にほかならぬだろう。『美しき町』(引用者注: 佐藤春夫の小説)では、登場人物が実際にミニアチュアの街に入りこむことはなくて、入ることができないという悲哀がむしろ物語の基調だが、その悲哀がかえって、並の夢物語めいた異界訪問記以上に、異界の魅惑を切なく思い知らせるようである。『原色の街』が、このような異界そのもの、ミニアチュアの街そのものだといおうとするのではない。ただ、本来窓の中をのぞくことを好むようにできている作者の眼が、街の風物を眺める時にも、それを、日常の現実から遠ざかった、気疎くもあればなつかしくもある、不思議な世界の風景へと変容させるような眺め方をしている。そのことを指摘しておきたいのである。」

「修道院に入るかわりに娼家に入る、と先ほど書いた。しかしそう書いて思いだしたのは、ハムレットがオフィーリアに向って叫ぶ、あの有名な一句だ。
 「尼寺へ行け。」
 この尼寺、言語で nunnery は、隠語的に娼家を意味するはずだ。シェイクスピアがそこで、故意に双方のイメージをダブらせているのかどうかは、よく知らない。しかしこの種の言葉の両義性は、考えを進めれば、かなり深い所まで行きつくはずである。われわれの語彙でも、「比丘尼」といえば下級の娼婦を指す言葉として用いられた。その語法は、由来をたどれば、神に仕える巫女が同時に春をひさぐ女でもあったという、古い民俗の記憶に淵源するにちがいない。
 こうしたことを言い立てるのは、いかに論には論者の自由があるとはいえ、連想の恣意に奔りすぎるというものか、と、自分でも多少気がかりにならぬではない。吉行氏が民俗についての知識などにもとづいて書いているわけはないのだから。それにもかかわらず、あえてその連想にこだわるのは、修道女が遊女であったという事実それ自体を問題にしたいからではなく、両者の同一性を自明のこととした古い思考の原理が、現代の小説を支える観念とも呼応し得る普遍性を持っているのではないか、と推測するからである。一見今日の常識には疎遠な、それどころか、グロテスクですらあるような過去の事実が、実は、われわれの思いも及ばぬ深い人間と世界の認識を踏まえている、ということは珍しくない。知識の有無にかかわりなく、人間と世界について、自己の流儀での洞察を獲得している現代の作者が、おのずから、古代的な思考の原理に即してしまうことが起きようと、格別不思議はないのだ。
つまり今の場合、思考の原理とは、神聖と不浄とは相ひとしい、上と下とは同じ世界だという認識にほかならない。それがひとしいのは、いずれも、日常生活という、ほどほどに清潔で凡庸な中間の枠から外れ、中間から排除されるに値する世界であるからだ。」
「男たちの欲望から逃れるために、ほかでもないその欲望が最も露骨に、言葉を換えれば純粋に、発現する場所を避難所とする。黄金伝説の類における聖女発心のくだりとでもいうならとにかく、リアリズムの観点からは、この設定は、かなり受け入れがたかろう。(中略)しかし、その観点をずらしてしまえば、そこに見えてくるのは、一個の無垢な精神の、強い志向の輪郭だけではなかろうか。無垢であればあるだけ、精神は、対立する現実と、なしくずしに折り合いをつけ曖昧に妥協することを忌避する。どの道現実とかかわらねばならぬなら、曖昧な妥協への誘惑にみち、建前や偽善によって厚く粧われたその中間的な部分ではなく、どんな折り合いをつけようもない、現実の本質的な成分だけが重く沈殿しているその底辺と接触した方が、かえっておのれの無垢を保つために得策だと考える。いわば、自己の強度を維持するために、おぼろげな薄明ではなく濃い闇を要求する光のような、精神。」

「ビルドゥングス・ロマン、教養小説は、生における何らかの限定、乃至枠の承認を、最終的な条件とする。『すれすれ』の結末は、この条件には当てはまらない。いうまでもなく、技術的な進歩による新しい発見はあっても、そのことを通じて精神が成長することはないからだ。だが、生きている限り愚かでありつづけるよりほかはなく、死によってはじめてその愚かさから解放される精神とは、なまじいに錯誤を通じて賢くなる精神に比べて、はるかに力強く重いものではあるまいか。」

「実のところ、吉行氏において矛盾と見えるものは、(中略)おおよそ平衡にひとしいのであり、(中略)しかしそれにしても、この平衡は、舟が右へ傾けば左へ寄るというたぐいの、合理的思考に裏づけられた、そしてそれだけ明快な意識の働きにくらべて、より曖昧かつ隠微な、そしてそれだけ根強い本能のような力に支えられていたのではなかろうか。意識というなら意識といってもよい。しかしそれは、舟が右に傾いた時咄嗟に左に寄ろうとし、しかもその同じ瞬間に、左に寄ろうとする衝動の健康な良識性に反撥し、一層右へ身をかしげたくなる、といった、奇妙に屈折した動き方をする。その屈折は、意識それ自体の働きというより、意識がその底にある未知の大きな力に強いられている、とでも考えざるを得ないほど、非合理的な印象を与える場合がある。
 つまり平衡といっても、安全よりは危険の色合が濃厚なのであり、それでは、そもそも平衡などという言葉を用いるのがおかしいということになるかもしれない。にもかかわらず、あえてそう呼びたいのは、矛盾撞着を前にした時、当然予想されるあれかこれか、二者択一の構えを、この心の態度が一向に示さないからである。一方に私への執着があり、他方に私を離れた空白の中に顕現するイメージへの執着、冷やかな形式への執着がある。執着がすでにあり、それぞれに相拮抗するだけの強さを備えている時、どちらかを切り捨てようとは、この心は思わない。(中略)もっとも、双方が無理なく統一され止揚されるなら、それに越したことはないわけで、統一の意図が吉行氏に見られないといっては、もちろん誣いることになる。だが、弁証法的統一などというものは、実に多くの場合、政治的に好都合な美辞麗句であって、そのありようは、適当な切り捨てや妥協や折衷を含んでいるのが常である。ほどほどの統一によって中和するには、相反するそれぞれの執着はおそらく強すぎるし、また、偽善的な良識性の前で瞬間的に屈折するほど敏感な意識が、適度の折衷を肯んじるわけもないのである。
 統一の意図が強力でない以上、時として、作品全体の輪郭がくっきり浮び上らぬことがあってもやむを得ない。しかし僥倖に恵まれれば、なまじいな意図的な統一が示すよりはるかに本然の、内部の充実がおのずからもたらした統一の形を生みだすことが可能である。僥倖といったが、芸術家が制作に当って運を天に任せるのは、怠惰以外の何物でもないという考え方は、当然一半の根拠を持っている。そして、あれかこれかに対して明確な決断を示すことなく、不決断の上にいわば腰を据えている制作者の態度は、怠惰とまでは行かぬにしても、普通に不精とかぐず(引用者注: 「ぐず」に傍点)とか呼ばれる態度だが、吉行氏に、不精者の風貌があることはほとんど覆いがたい。肝腎なことは、この不精が、並外れた精励の別の顔だということである。日常的に見ても、不精者はしばしば非常な凝り性で、実のところ、よく学びよく遊べといった健全な処世訓を守り得ない人間だからこそ、凝りもし不精にもなるのだと思われるが、いずれにせよ、そのような人間は、てきぱきと事を運び、順序をたがえず、思惑通りに仕事を仕上げる体の資質には猜疑の眼を投げるばかりで、自分はただ、執着する所に凝りに凝るのである。僥倖はおそらくこの種の精励にしか恵まれないので、それならばしかし、僥倖とは精励の成果だといってもいいのである。」

「不精な拘泥は、実の所、必然への忠実な固執にほかならぬと考えられるのだ。」

「変っていないといえば、はじめから何も変っていないのだ。同情のない読者なら、一つの旋律を、そのたびごとに少しずつ移調させたり、テンポやリズムを動かしたりしてくり返しているだけではないか、と見るだろう。まさにその僅かな違い、粗野な耳には聞き取りがたい音の移行を、本質的な変化たらしめようとする努力でもって、吉行氏の文学世界は支えられている。」

「イメージの収縮、断片化は、その外にひろがる暗黒、もしくは空白を、一層強化することになるともいえるが、闇が濃くなったために、その中に点ぜられた灯が一層鋭く光るという効果をめざすこともできるのである。その光は事実、収縮することによって鋭くなっているのだということができる。(中略)そもそもの出発から、こちら(引用者注: 吉行の作品)が指し示しているのは、断片の方向なのだ。日暮れて道遠し、という所にたどり着いたとしても、最初からその場所に向って、長い道を歩きつづけてきたのだ、と見ることさえ可能なのだ。」
「疑い得ないのは、このような光の捉えた小さな生の局面が、精緻なミニアチュアのように、あるいは輪郭鮮明だが遠い感じの鏡像のように映しだされる時、その規模のささやかさが、ささやかどころかおよそとりとめなく茫漠としたわれわれの生への、沈黙の批判となっていることである。輪郭鮮明な鏡像が、輪郭を失って解体して行く無定型な時代に、その存在それ自体を通じて、異議を提出していることである。(中略)吉行氏は時代の不幸を共感的に知っている。秩序の回復を求めて時代の無定型無秩序を断罪するには、戦中の記憶を重く持ちすぎている。成長発展を信ずることができないのも、資質ばかりでなく、同じ記憶の作用と考えられるふしが多分にある。したがって、光と照らしだされた像は、明確な秩序のうちに静止することは不可能で、たえずその縁辺を無定型な世界の波に洗われ、不安定に揺れ動かなくてはならない。しかしそうあることを、作者自身が要求しているのだ。上の世界と下の世界、秩序の領域と無秩序の領域とのひそかな関連、照応を、常に注意深く探りたしかめている心が、その動揺を要請しているのだ。だからこそ、この動揺する鏡像の提出する異議は、時代にとって切実な意味を持つに到るのであり、同時に、鏡像の作者に対するわれわれの信頼は、その動揺と裏腹に、いよいよ固く動かぬものとなることができるのである。」





















































































関連記事
スポンサーサイト
プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本