種村季弘 『影法師の誘惑』 (河出文庫)

「現実世界(法)との対面においてこそ自己同一性(アイデンティティ)の不在もしくは喪失は自己分裂の苦痛に通じているが、かつての魔術的空間にあってはそれは夢見ることという恩寵であり、あらゆるものがあらゆるものに変身可能であるという驚異の体験の基盤であった。」
(種村季弘 「遊戯の規則」 より)


種村季弘 
『影法師の誘惑』
 
河出文庫 126J

河出書房新社 
1991年11月25日初版印刷
1991年年12月4日初版発行
323p 
文庫判 並装 カバー 
定価720円(本体699円)
デザイン: 粟津潔
カバーデザイン: BISE



本書「あとがき」より:

「ここに収めたエッセイは、ほぼ一九六八年から一九七四年にかけて書かれた。その間、私の身辺にはさまざまのただならぬ出来事が起ったように思うが、私はそれを、もっぱら夢と睡眠の層を通して眺め、記述していたようだ。どうやらこれらのエッセイは、私が書いたのではなくて、私の影法師が書いたのではないだろうか。つまり、影法師の操る糸の暗示につれて、私は木偶の坊のように唯々諾々としてこれらの文章を書き連ねていたのではなかろうか。
 その意味では、「影法師の誘惑」のタイトルに適わしかろう、と自負してもいる。どうも奇妙な自負ではある。」
「以上は一九七四年冥草舎刊『影法師の誘惑』のあとがきである。(中略)冥草舎本はモスグリーンの地に黒の影法師をあしらった意匠箱入りの美装。私にとってはなつかしい本である。その後「種村季弘のラビリントス」第二巻(一九七九)に収録され、今回河出文庫の一冊として発刊される運びになった。
 今となっては若書きの気恥しい文章もないではないが、事実誤認や誤植など最小限のミスを訂正するのにとどめ、ほぼ原文のありのままを残した。」



図版5点、目次カット1点。


種村季弘 影法師の誘惑


帯文:

「少女、人形、魔術、幻燈…
幼少年期に魅惑されたさまざまなイメージやオブジェの秘密をときあかす夢幻的なエッセイ集!!」



カバー裏文:

「少女、少女の靴、人形はなぜ大人にとって危険な誘惑体なのだろうか? また、幼少年期に激しく魅了された、幻燈、魔術、見世物、覗きからくり、時計、映画といったオブジェやイメージなどの幻惑の秘密はどこにあったのだろうか? 幼少年期に遭遇するさまざまな恐怖と魅惑の発光体をめぐって、少年が意識する自己の分身としての影を考察しながら、その謎にせまる夢幻的なエッセイ集!!」


目次:

I 少女
小妖精アリス
シンデレラの靴
少女論
アリスの肖像画家たち
遊戯の規則――キャロル再訪
 
II 人形
人形幻想
人形貴種流離譚
器具としての肉体
ある人形破壊者の白昼夢――カール・ハイデルバッハ
人形の解剖学者――ハンス・ベルメール

III 幻燈
魔術時代の終焉
影法師の誘惑
幻想の時計師――フリードリヒ・メクセペル
暗箱の花咲ける洞窟

IV 玻璃
タロットの秘密
現代の妖怪
和洋怪談比較考――内田百間・深沢七郎をめぐって
面白い小説のからくり
つげ義春の退行的ユートピア
一枚の銅版画から――飯島耕一『空想と探索』をめぐる寄木細工

V 幼年
長広舌讃
十二階の崩れた日から
文字以前の世界――童話のアイロニー

VI 睡眠
求む装飾用隠者
睡眠者の全知
赤い靴

あとがき




◆本書より◆


「シンデレラの靴」より:

「ゲープザッテルはフェティシズム的体験を子供の人形遊びと比較して、そこに見られる驚くべき体験の豊饒さ、「石ころや貝がらや木片や鳥の羽根などに汲みつくせないほどの生命的な意義を与えうるような生命的体験の豊富さ」を指摘しているという。」
「さまざまなフェティシズムは、性的存在喪失者がそれを通じて部分にも全体にもひとしくエロスが充電されている汎性愛的な太古世界へ帰還するための想像力の多様な道程であり、めがけられた故郷は、おそらく、「多形の統一体」として失われた少年の王国の姿に似ているはずなのである。」



「遊戯の規則」より:

「ヨーゼフ・Kを責めさいなんでいるのは――アリスの場合と同様――不当な逮捕、不意打ちの懲罰に対等に見合っている罪悪感情ではなくて、無実(無垢)の感情であるということにほかならない。彼は罪の感情におびえているのではなく、みずからの(中略)無実を確信しているために懲罰する法とのはてしのない葛藤状況に巻き込まれて行くのである。法の立場からすれば、Kのこのいわれのない無実の感情は「子供よりも始末が悪い」のだ。なぜなら彼が正真正銘の子供なら彼の無実無垢は実状に見合っているのだが、彼はもはや子供ではない。したがって彼は無実ではないはずなのである。」
「彼らの間違いは、おそらく裁判所が裁こうとしているのが彼らの罪(Schuld)ではなくて、まさに彼らの無垢(Unschuld)であることに気がつかないという点にあるのだ。彼らがみずから自分の罪に同意していれば、裁判の必要さえなかったであろう。だが、彼らは無垢に固執するのでそれだけ裁判は長びかざるをえない。彼らがその無垢を否認し、子供であることをやめれば、有罪性を根拠にしたアイデンティティが確実に獲得されるはずなのだ。言い換えれば、つつがなく世の月並な大人になれるのである(同じことだが同時にダス・マンへの失墜が起るだろう)。それゆえに法は、彼らがおのれの有罪性を峻拒する根拠である無垢を告発する。すなわち無垢(無実)であるがゆえに罰せられるのである。「ヨーゼフ・Kは悪いことをしたこともないのに、ある朝逮捕された。」ありようはしかし、悪いことをしたことがないからこそ、逮捕されたのである。同様に、王様の使者はまだ罪を犯していないからこそ罰しておかなくてはならない。一般に、これが教育の鞭の効果、野生の無垢に特定の型を刻印する猛獣使いの訓致作業である。」
「それならばカフカやキャロルが固執しつづけた、法に汚染される以前の野生状態の無垢はどんな形をしていたであろうか。『鏡の国』にその恰好のモデルがある。アリスは物の名前がなくなる森のなかへやってくる。名なしの森では木が木という名前を失い、アリスもまた自分の名前をなくしてしまう。折からアリスは子鹿が通りかかるのに出会う。
 「(子鹿は)大きなやさしい目でアリスを見ましたが、いっこうに驚いた様子はありません。「さあ、おいで! おいで!」と、アリスは手を出して、なでようとしました。子鹿はあとへ少し飛びのいただけで、そこからふたたびアリスを見つめています。「君はなんというものなの?」と、ついに子鹿がいいました。とてもやさしい気持のいい声でした! 「それがわかりさえしたらねえ!」とアリスは思い、いくらか悲しそうに、「ちょうど今は、なんでもないものなの」「もう一度考えてごらん」と子鹿、「名まえがなくては具合が悪いよ」アリスは考えましたけれど、何も思いつきません。「あんたこそ、なんというものなのか教えてくれない?」とアリスはおずおずといいました。「そうしたら、いくらか、わたしの思いだす足しになるかも知れないわ」「もう少し先へ行ったら教えてあげるよ」と子鹿がいいました。「ここでは思い出せないんだ」そこで二人は、いっしょに森の中を通って行きました。アリスは子鹿のやわらかい首に腕を回し、愛情をこめて抱きしめていました。ついに別の広々した野原に出ました。ここへ来ると、子鹿はとつぜん宙にはね上がり、アリスの腕からすり抜けました。「ぼくは子鹿だ!」と喜びの叫びをあげました、「おやおや、君は人間の子供じゃないか!」とつぜん驚きの色が美しい茶色の目に浮かびました。そして次の瞬間、全速力で飛んで行ってしまいました。アリスはそのあとを見送っていましたが、愛らしい道づれをとつぜんなくしてしまったくやしさに今にも泣きだしそうでした。」
 やや長い引用となったが、『鏡の国』全篇中でももっとも甘美なやさしさに満ちた、名なしの森のエピソードの、これがほぼ全体である。森のなかでアリスと子鹿はたがいに名のないもの、名づけられていないものとなってこの上なく優しい感情を交し合う。名づけることによる個的限定以前のこの世界では、すべてのものが分け隔てなく言葉のない交流を伝え合っている。(中略)言葉の不必要な、このすべてのものが名前の悪しき洗礼に浴していない純粋な無垢の世界では、おそらくアリスや子鹿の形さえまだないのだ。アリスも子鹿もまだ存在のなかに生れ落ちてはいない。(中略)しかし彼らはいつまでも森のなかにとどまってはいられない。やがて森の外に出るとアリスはアリスになり、子鹿は子鹿になる。名前が二人の間を情容赦もなく切断するのだ。アダムが名づけることによって存在の大殺戮をおこなった最初の過失について語った、ヘーゲルの言葉が思い起される。こうして無名性の闇はむごたらしく明るみ、アリスと子鹿は別々の方向へ分れて行かなくてはならない。」
「カフカもキャロルも、無名性の闇にやさしく閉ざされていた子供部屋からいきなり襟首をつかまれて放り出されたという感情を、世界という法廷にたいしてたえず持ちつづけていた。」
「現実世界(法)との対面においてこそ自己同一性(アイデンティティ)の不在もしくは喪失は自己分裂の苦痛に通じているが、かつての魔術的空間にあってはそれは夢見ることという恩寵であり、あらゆるものがあらゆるものに変身可能であるという驚異の体験の基盤であった。」



「つげ義春の退行的ユートピア」より:

「昼の世界を抑圧の世界、夜の世界を神経症の世界、と定義したのはジークムント・フロイトだが、おそらくつげの世界も後者すなわち神経症の世界に属しているにちがいない。抑圧の世界では、私たちは現実原則に導かれるがままに、遮二無二進歩に向って駆り立てられている。そこでは教育、生産、生殖が基本的な法則であり、時間はひたすら未来に向って前進しつづける。一方、夜の、神経症的な世界はアルカイック(太古的)なものに固着しており、私たちが見る夜の夢は、たえず母のふところや子宮のような球体が宇宙と同一のものとして感じられる、自我と宇宙が未分化であるような黄金時代にとどまっている。むろん悪夢もあるが、悪夢はたとえば十九世紀末芸術の画家たちが描いた地獄や頽廃の世界とひとしく、それ自体は楽園であるものが、昼の世界の影にそまってどす黒く風化した、いわば地獄のパラダイスにほかならないのである。」
「つげ義春はたぐいなくエロティックだが、(中略)つげのような人のエロティシズムは、(中略)まったく無益であり、幼児エロティシズムとして現実的に無効であるという、だれの目にも明らかなこの負性を通じて、まさに苦痛も快楽もふくめた総体的な抑圧の体系にたいして総体的な破壊としてあらわれる。」



「十二階の崩れた日から」より:

「蒐集家はいわば、かつて自分が所属していた世界が没落したあと、自分が属しているのではない、新しい見知らぬ世界に一人ポツンと取残されてしまっているのである。そこで一種の空間恐怖衝動が起り、身のまわりを廃物や襤褸でびっしり埋めてしまおうとする。動機になる世界没落は、かならずしも体制交替や地震大火や戦禍のような社会的事件にかぎらない。当人にとっては全世界にもひとしい肉親の死や、失恋も没落体験たりうるだろう。『悪霊』のレンブーケ氏などがさしずめ後者の好例で、彼は失恋をするとミニアチュールのオブジェを集めて世にも精巧な停車場の模型を作るのである。
 ギリシャ神話の拾いの神はヘルメスであった。ヘルメスはほかに、盗み、詐欺、催眠術、魔法、錬金術、商業の神でもある。しかしいずれにせよ、この神は、本来オリュンポスの神々の仲間だったのではなく、オリュンポス神に滅ぼされて没落したティターン(巨人族)の末裔である。それゆえに神々の序列のなかでは彼の位置は低く、つねに卑しい活動を割りふられて蔑視されている。蒐集狂がいかがわしい目で眺められるのは昨今にはじまったことではないようである。」
「蒐集家のコレクションの背後には、つねに廃墟と焼土の追憶がひろがっている。(中略)コレクションにはどことなくいくつもの焼土に通ずるキナ臭い硝煙のにおいがする。風流、風狂も、一つの閉ざされた世界がものの見事にぶっ壊れ、無数の破片が漂遊物のように風に漂う事後の世界に生きる人間の知恵であった。夏爐冬扇とはよくぞ言ったもので、日用品をそれ本来の機能とはことごとく逆に使えば、いながらにして周囲のあらゆるものが無用の長物となり、日常空間そのものがたちまち化して幻想的な蒐集室になってしまうわけである。」
「グラリときて十二階が折れた日のこと、二人の青年が下町の惨状を目撃して強烈なショックを受けたとしよう。その後、一人は二度と惨禍を見ぬように古きを捨ててあらゆる不幸な予測に耐える最新式のコンクリート建築を建てようと決意する。もう一人は焼け跡をぶらぶら散歩しながら、好奇心の赴くがままにあちらと思えばまたこちらと散々寄り道をしていっかな飽きない。前者の典型が、さあ、プラグマチズムを経て未来論を講ずるにいたる「自衛のための安全第一」的センスの社会科学者あたりではあるまいか。後者の方は、これはもうはっきりしている。「散歩と雑学が好き」な植草甚一である。私の好みは後者につく。(中略)後者はガラクタ堆(うずたか)い焼け跡のいまここを、ただちに逍遥の道八方に通ずる「不思議の国」と化してしまうからである。終末の後は、その場からすぐに楽しく面白いのに越したことはない。」




カール・ハイデルバッハ
Karl Heidelbach - Galerie

フリードリヒ・メクセペル
Friedrich Meckseper







































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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