種村季弘 『ビンゲンのヒルデガルトの世界』

「救済史的には、堕罪以前の無垢のアダムが「原素質」(constitutio)であり、人間の現在は「降格」(destitutio)された存在として病と窮乏状態にある。そして究極の救済=治癒は、来たるべき「海の星」(stella maris)としてのキリストにおいて達成されよう。人間に課せられた歴史は、この「海の星」に行き着くまでの、艱難辛苦をきわめる巡礼行としての時間なのである。いずれは時は止まり、歴史は廃棄されるであろう。」
(種村季弘 『ビンゲンのヒルデガルトの世界』 より)


種村季弘 
『ビンゲンのヒルデガルトの世界』


青土社 
1994年8月10日 第1刷印刷
1994年8月15日 第1刷発行
422p 人名索引vi 口絵(カラー)16p
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価2,800円(本体2,718円)
装幀: 高麗隆彦



口絵カラー図版17点、本文中モノクロ図版43点。


種村季弘 ビンゲンのヒルデガルトの世界 01



帯文:

「掘り起こされた
西欧最大の
女性
幻視者

独特な聖書解釈だけでなく、医学・動物学・植物学・宝石学、そして音楽や建築、あるいは料理術にまで及んで、中世ヨーロッパ最大の幻視者ビンゲンのヒルデガルトの眼が捉えたものは、何だったか。ひとりの女が聖女へと変貌する魂のドラマを辿り、中世的世界像の転写ともいえる、特異な自然学・宇宙論の全容を探る。」



目次:

第1章 十字軍と幻視者
第2章 光り輝くもの
第3章 ルチフェルと宝石
第4章 教皇の認可状
第5章 卵と車輪
第6章 二人の娘
第7章 赤ひげ王バルバロッサ
第8章 花咲く女子修道院
第9章 光と音響
第10章 知られざる文字
第11章 ラインの魚類学者
第12章 女庭師の帰還
第13章 病気の治癒力
第14章 ジグヴィツァ共同治療
第15章 メランコリアの涙
第16章 性と睡眠
第17章 風の薔薇
第18章 彼岸の王国

ヒルデガルト年譜
家系図
参考文献について

あとがき

人名索引



種村季弘 ビンゲンのヒルデガルトの世界 02



◆本書より◆


「金地の背景に美しい僧院が浮かび上がっている。左手に赤い塔、右手には緑の塔、中央のアーチ形の天井から五本指のような光の焔が、一人の成熟した年齢の修道女の頭をとらえている。彼女は何か書いている。いや、彼女が書いている、というのは正しくない。焔が彼女の脳髄をとらえているからには、焔の伝えるメッセージを書かされている、と言ったほうがいい。つまりはお告げを自動筆記しているのである。
 右手の緑の塔からは、一人の年配の修道士が顔をのぞかせている。中央やや左寄りの自動筆記中の修道女のほうに耳をそばだたせるようにしているところからすると、彼女のあふれるように次々にわき出るヴィジョンまたはお告げの恣(ほしいまま)な繁殖を、この修道士が一定の秩序へと整理し、いわば校正しているのであるらしい。」
「といってこれは、霊媒のお告げとそれを受けとめる審判者との一般的な図式を描いた絵図ではない。この光景は特定の日付けと特定の場所において現実に起こった。日付けは一一四一年のある日、場所はプファルツのディジボーデンベルク修道院である。
霊媒もしくは女性幻視者の名はビンゲンのヒルデガルト(Hildegard von Bingen)、この日四十二歳と七箇月に達した中年の修道女である。審判者または校正者は(ディジボーデンベルクの)フォルマール修道士。ラテン語に堪能ではない、という点ではいわば文盲に近いヒルデガルトのヴィジョンの自動筆記を、ラテン語化しつつ文字通り校正し、ときには構成もした協力者である。」
「たしかにヒルデガルトはヴィジョンを受胎(コンセプト)したのだった。受胎し、出産した。そしてその記録が『スキヴィアス(Sci vias=神の道を知れ)』という厖大な幻視の書に結実し、これに彼女とその身辺にいた修道女たちが描いた三十五葉の美しい挿絵が付された。申し忘れたが、冒頭に述べたのは表題も「女性幻視者」と称する図版第一葉であり、『スキヴィアス』全体の構成のなかでは序文の挿絵に相当する。」

「幻視者が幻視者として自律するためには、青壮年者の行動力という裏づけが欠如していなければならないようである。中年にさしかかって老化がきざし、ヴィジョンを与えられてもそれを実現する体力に欠けている。なんなら常人以下の病人でしかない。眼ばかりキラキラしているわりに身体のほうがさっぱり動かない。これが、ヴィジョンが純粋にヴィジョンとして発露する条件と言えそうだ。」
「いずれにせよ青春期における特殊能力の発顕は、得てしてこれ見よがしの虚飾に終わるおそれがないではない。思い上がる。盛期中世に生きたヒルデガルトがなによりも避けたかったのが、この種のあからさまな思い上がりだった。それかあらぬか彼女は、外界から孤絶した女子修道院にこもって稀有の幻視力を殺し、細部の分からない青春期を人目から遮蔽し続ける。ということは、おのれ(の能力)を殺してへり下りにへり下り続ける。そして私というものが完全に空の「器」になり、天上の声がその空の器のなかに遅滞なく流れ込み流れ出す時がくるまで待ったのだ。「すべてのものを錯誤の不安においてではなく、単純さという純粋性において受け入れる」時がくるまで、幻視の公開は遅延される。
 幸いにも、ヒルデガルトは生来の病身だった。」

「しかしながらヒルデガルトは、ひたすら女子修道院にこもってヴィジョンをはぐくむ、単なる幻視者ではなかった。精力的に外界に働きかけもした。内部のヴィジョンの強度を外界に裏返すように、強烈に対社会的活動を展開した。ために意志に反してではあっても、当代の説教師、演説家ともならざるを得なかった。対社会活動は宗教政治の分野に限られない。まずなによりも幻視者であり、そのヴィジョンを根拠にして癒す医者であり、医学史家だった。医薬調製のために植物、動物、鉱物の観察研究に没頭した。最晩年には宇宙論を口述した。中世の博物誌はこの女性において頂点を究めた。宝石学の書も著した。
 のみならず女子修道院の年下の修道女たちのための聖歌を作詞作曲し、音楽劇を書き、いうまでもなく『スキヴィアス』の挿絵画家として絵画制作にもしたがった。それをすべて独学で、ということは同時代のありきたりの権威や知的水準を一顧だにせずに、それぞれの源泉から直接(じか)に汲んでこの地上に媒介した。したがって先入見に囚われずに対象を正確に観察した。それが期せずして、目に見えないイデアをさえ具体物によって認識しようとする中世人の好みと一致した。
 方法は無私である。おのれを空にし、中身のからっぽな通路(チャンネル)と化せしめて、遠い源泉をここに引き込むこと。ちなみに彼女は、中世最初に修道院の室内に水道を引き込んだ工学的発明家でもあった。」

「『スキヴィアス』のこの章において彼女がくり返し説くのは「へり下りと貧しさ」である。現世の最下位にあって、教権の位階制度をもふくむ世俗的価値からあらかじめ見放されている劣性。それこそが見神の条件なのだ。世俗的にはクズ同然に貧しくへり下っている存在の、この世の最下層において、至高存在の声を受け止め、かつ発言せよ。
 現世を構成する中間的強者(王、貴族、教皇、教会の僧侶等々)には天上の声は聞こえない。最下層にあって身に一物もない貧者にあってこそ、そのきれいさっぱりすっからかんの空間に天上の声が響きわたった。あらためて断るまでもなく、男性と対等関係に立つ近代の個性的なフェミニストとは異なり、中世の修道女は横方向にではなく下から発言する。教会はしたがって、天上の声にじかにつながる下からの声に脅かされて文字通り「ゆり動かされ」、震撼せしめられるのである。」

「ヒルデガルトの存在が(ほぼ二十世紀にいたるまで)忘れられていたのは、彼女の粗野なラテン語のせいだという説もある。十五世紀ルネサンスの人文主義者たちは、彼女のテクストが読むに足らぬ稚拙なラテン語で書かれているとして頭から軽侮した。したがってルネサンスにも啓蒙主義時代にもヒルデガルト復活は起こらなかった。実証主義的十九世紀に無視されたのはいうまでもない。啓蒙主義時代にヒルデガルトに注目した数すくない人びとの一人は、ライン旅行の途上ヴィースバーデン・コーデクスをひもといて驚嘆したゲーテだった。
 同時代の水準からしても「無学」(indocta)だったとされるのは、ヒルデガルトがラテン語テクストのなかにしばしばプファルツ方言のドイツ語をまじえたためらしい。洗練された教養の学者たちから見れば、それは掘り出したばかりの根菜のように泥臭くごつごつして、さだめし読むに耐えなかったでもあろう。彼女はしかし確実に、その泥臭い文体でなければ語れない何かを語った。フォルマールはそれを知って、彼女の文章をあえて洗練させようとしなかったのである。」

「一一四六年末、ヒルデガルトは一通の手紙を書く。宛て先はクレルヴォー修道院のベルナール(ベルナルドゥス)、「世紀の無冠の皇帝兼教皇」として絶大な権威を行使したカリスマ、みずからも神秘家であり、神学者、政治家として当代最重要の人物であった、あのベルナールである。」
「彼女はいくつもの不安を訴える。幼いときから異常な能力を恵まれたために自分を異物として意識せざるを得なかったことの不安、人びとのように安らぎを得られなかった被疎外者としてのたえまのない不安。なによりもまずそれがある。
 もうひとつの不安は、『スキヴィアス』のテクストそのものに関わる不安である。ヴィジョンは詩篇や福音書の解釈を教えてくれた。それはむしばむ火のように心に食い入って、解釈の深いところを教えてくれた。しかしながら世に流通している凡百の解釈書は何も教えてくれない。「私はただ素直に読むことしかできず、テクストをばらばらにほぐすすべを知りません。どうかお答え下さい、こうしたことをどうお考えかを。私は外的事物についていかなる学校教育による教えも受けなかった人間でございます。ひたすらたましいのうちにおいてのみ教えを受けてまいりました。」
 だから学校教育による知識と(聖書)解釈にシステム化された公的世界にそれが通用するかどうか、「どうかお答え下さい。そうすれば安心できます」なのである。」
「これに対するベルナールの返事はどちらかといえばそっけない(中略)。特に積極的な助言と言えそうなものは見当らない。」
「それにしても私たちは、ベルナールがことばの人であるよりは行動の人であったことを思い起こしておいたほうがいい。ベルナールの事実上の返事は、それから数箇月後に一連の行動として実現されるからである。」
「一一四七年十一月三十日から翌一一四八年二月にかけての三箇月間、教皇エウゲニウス三世陪席のもとにトリーア公会議が開催された。(中略)そしてヒルデガルトのヴィジョンは、いわばベルナールの隠然たる後盾によって、このトリーア公会議の席上において教皇みずからの裁可にしたがってヴィジョンの正統性を承認されることになるのである。」

「ヒルデガルトは早くから異言を語ったり、秘密文字を書き記したりしていたのではないかと思われる節々がある。そもそも彼女がフォルマール修道士に口述させた『スキヴィアス』の言説そのものが、異言(に近いことば)によって語られたのかもしれないのだ。」
「ヒルデガルトのことばを信ずるなら、彼女は「知られざる文字を組み立て」、「知られざることばを生み出し」、なおかつ多声構造的な「しかしながらそれ自体において調和している旋律」を作曲したのだった。これを真に受ければ、彼女は新造語(ネオロギスムス)を発明し、流通語とは似ても似つかない異言を語ったことになる。それが世界没落の明日に来たるべき言語ででもあるかのように。」
「しかしながら彼女の異言的ヴィジョンは、むしろ非言語的表現の場で本来の力を発揮したとおぼしい。たとえば音楽と自然学における実物提示である。理性的に語るよりは、むしろ音響や自然物を黙示すること。『スキヴィアス』をはじめとする厖大な著作群にもかかわらず、彼女はまるで唖者のように口を緘(と)ざし続けていたとさえいえる。語ることをあらかじめ禁じられていたので、「ありきたりの人間の語り方」ではない語り方で語った。黙して語り、異言によって語る、というよりは意味不明の舌言葉でジャズった。それもこれも、そもそもが女は語ることを許されていないからである。」
「このようにあらかじめ語ることを禁じられている者は、歌い、奏し、踊り、自然物を黙って差し出すほかはなかった。むろんそこでも、ヴィジョンの過剰のあまり、期せずして教会の言語秩序を超出もしくは解体してしまうことがある。」
「知られざることばの音としての現前は、教権的知識(体系)の意味の重力場から逸脱し、逸脱しながら現前する。」

「注目すべきは女医ヒルデガルトが病人でもあったという、同一人物における治療者と病人の共存の事実である。医者であって患者。自分が(病気にも)汚染され穢されているからこそ、福音宣伝において自分をも世界をも治癒しなければならない。」
「神話では、病(傷つけるもの)が病人(傷つけられたもの)を治す。プシュケーは彼女を傷つけたクピドの矢によって癒された。ユング派の医師C・A・マイヤーは、奇しくも「病気の治癒力」の逆説を次のように語っている。
 「病気にこうした高い尊厳をもたせることには、それに治癒力を帰しうるという大きな利点がある。そうなれば病気という神的な苦悩は、自らの診断、治療法、予後を含むことになる。(略)彼(神的な医師)こそが病気であり治療薬なのだ。これら両概念はもともと同一なのである。彼は病気であるから、彼自身が病んでいる。すなわちアスクレーピオスないしトロポーニオスのように傷つきあるいは迫害されている。そして神的な患者である彼は同時に治癒への道も知っている。」(『夢の治癒力』 秋山さと子、筑摩書房)」

「おもしろいのは、メランコリアの病因であり、したがってあらゆる病気の病因でもある黒胆汁そのものも、条件次第では、あの「完全な心身状態」(status perfectus)を実現し保存する、輝かしい(体内)物質でもあり得ることである。というよりこの体液は、かつてはそのような万能薬であり、次いでその正反対の、あらゆる病気の病因となる最悪の毒物にまでまっさかさまに堕落したのであった。ここでもう一つの楽園追放の物語、ある物質の楽園喪失の物語が語られることになる。
ヒルデガルトの医学書『病因と治療』の第十三章「心の動き」は、おそらくヨーロッパ中世におけるもっとも首尾一貫した、しかも美しくも壮麗な構造をそなえた、心理療法もしくは精神医療の手引きである。そこにはひとまず、いまはあらゆる悲惨の源泉である黒胆汁が完全性の源泉として光り輝いていた楽園の記憶が想起されている。
 「アダムが神の掟を踏み越えるまでは、いまは器官のなかで胆汁になっているものが、アダムのなかでさながら結晶のように光り輝き、あらゆる良き作業の感覚をそなえ持っていた。いまは人間のなかで黒胆汁となっているものが、アダムのなかで曙光のように輝き渡り、あらゆる良き作業の叡知と完全性をそなえ持っていた。」
しかしアダムが神の掟を破って楽園から堕ちたとき、一切が逆転した。アダムは天上ではなく地上に、しかも無垢ではなく有罪者として実存することになった。この一切の価値の転倒とともに胆汁の価値も逆転する。
 「けれどもアダムが過ちを犯すと、彼のなかの無垢の輝きは遮蔽された。それまでは天上の荘厳をながめていた彼の目の光は消え、彼の胆汁は苦さへと、黒胆汁は神不在の暗黒へと変容した。このように彼はまるで異なる実存様態にすっかり変容したのである。」
 そこから変容した胆汁の産物であるところの悲しみが生じ、同じく変容した黒胆汁の産物であるところの怒りが生じた。アダムの流謫の地である地上において輝く結晶からメランコリアの発生装置と変じたこの胆汁に、どのようにかつての天上の輝きを回復させるか。そこにヒルデガルトの救済作業、もしくは精神医療の眼目がある。」
「ところでこれらとは別に、外部の自然界ではなく、人体内部に脱メランコリアの契機となるような物質がみつからないものだろうか。鉛のような黒胆汁を黄金に回帰させ、地上最悪の体内物質の遮光幕をひっぺがして内奥に隠されている光をふたたび輝きださせる錬金術の賢者の石に相応する物質が、人体そのもののなかに救済の契機としてあらかじめ用意されているのではあるまいか。「心の動き」の章にはその解答が出されている。しかり、メランコリアの救済薬は人体そのもののなかにある。それは、涙である。」
「ヒルデガルトのメランコリア治療手段としての涙はしかし、中世医学一般のそれとはちがう。(中略)彼女にあって恩寵が下されるのは、カトリック的に定義された「痛悔(Reue)の涙」だけなのである。」
「ヒルデガルトがここで語っているのは、いわば涙の無意志的想起作用(レミニッサンス)である。涙は、一方では地上に流謫されたアダムの悲しみであり、人間にとってメランコリアの所産ではあるけれども、他方ではまた、胆汁の天上的起源のために天上のうしなわれた楽園を想起するよすがであり、迷える巡礼に故郷への帰還を呼びかけるサインなのだ。それゆえに涙は悲しみであるとともによろこびであり、メランコリアの身体的表現であるとともにメランコリアを止揚する体内物質なのである。涙の下降する脈管がアダムの堕ちてきた道であるなら、逆さまにそれをよろこびとともに上昇すれば天上の楽園にたどり着くはずだ。と同時に、胆汁は光り輝く結晶に戻り、メランコリアもアメンチアも、地上における転倒形から永続する純粋な歓喜の本源に立ち戻るであろう。」

「神は永遠の無時間にとどまっているが、その人間的性質である肉の時間性のなかに人間を包み込み、人間が自己自身を否定して神とともに飛翔するにいたるまで歴史の試練を課し続ける。最初の人間アダムは悪魔の誘惑によって堕落するが、第二のアダムとして地上に遣わされたキリストは、同じく肉をまといながらも東方に出現してアダムの違反を贖罪する。救済史的には、堕罪以前の無垢のアダムが「原素質」(constitutio)であり、人間の現在は「降格」(destitutio)された存在として病と窮乏状態にある。そして究極の救済=治癒は、来たるべき「海の星」(stella maris)としてのキリストにおいて達成されよう。人間に課せられた歴史は、この「海の星」に行き着くまでの、艱難辛苦をきわめる巡礼行としての時間なのである。いずれは時は止まり、歴史は廃棄されるであろう。」

「彼女は自分を、世の通常の大人たちの「生活態度を解しかねている子供のよう」と感じ、生まれついての特殊体質を打ち明ける。だからこそこの特殊体質のために、(中略)「ヴィジョンの後には自分が老女ではなくて、単純な幼い女の子のように感じられた」のであろう。生まれついての童女(幼児)体質が、七十五歳の老年期にいたるまで無傷のままに持ち越されてしまったのだ。それが彼女に、聖霊の斎女(いつきめ)たらしめる清浄な処女性を保持せしめたと言ってもいい。」



本書「あとがき」より:

「教会公認のヒルデガルト像も、いかがわしげな魔術師ヒルデガルト像も、近代科学の許容範囲内のそれも、許容範囲を超えるもしくは下回るそれも、すべてをひっくるめてヒルデガルトの世界と捉えること。純粋よりも多様な猥雑の集積として、日に日に分裂を深めながら回帰するパラドクスとしてヒルデガルト像を構成すること。
 楽園から地上に堕ちたアダムは、つとに地上の時間に接触した瞬間に分裂する。彼は分裂を分裂として押し進め、分裂の極限に起こる元素の大混乱のうちに終末を迎える。同時にしかしそれが救済=治癒の過程であり、本来のアダムもしくは第二のアダムたるキリストへの回帰の物語でもあった。それならばヒルデガルトの物語もアダムのそれに添うものとして語られてよい。
 清濁併せ呑む大河が蒸発昇華して、天空からふたたび慈雨となって頭上に降り注ぐように、とりあえずは多様な、あまりにも多様なヒルデガルト像を気儘に大きな流れに投じてみるとする。収拾はつきそうにない。あるいは、結果として生ずるパラドクスをどう収拾するかは、読者各自の実存の問題であるとしか言いようがない。それ以上の何かを言えば、ヒルデガルト像は霊験あらたかな聖女さま、早すぎたエコロジスト、フェミニストその他もろもろの既成の表象に、たちどころに銘柄品として固定されてしまうほかない。ところがそうした固定点から切り離して、むしろ時の終りまで巡礼としてさまよい続ける流動状態に彼女を置いてみるのが、この物語のそもそもの思惑だったのである。」



種村季弘 ビンゲンのヒルデガルトの世界 03
















































関連記事
スポンサーサイト
プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本