ジャック・ルゴフ  『中世の夢』 池上俊一 訳

「最高の知は、珍しいモノの知であり、それは例外的なモノの科学である。歴史が例外的な出来事の集成になる傾向があるのとおなじく、科学は、驚異現象・珍奇の集成となる傾向がある。」
(ジャック・ルゴフ 「中世の科学的驚異」 より)


ジャック・ルゴフ  
『中世の夢』 
池上俊一 訳


名古屋大学出版会 
1992年7月20日 初版第1刷発行
1999年9月20日 初版第2刷発行
v 288p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価2,800円+税
カバー絵: ヤコブの夢とベテル(神の家)の石への塗油
デザイン: 石川九楊



訳者による「解題」より:

「本書は、現代フランスを代表する歴史家で、「アナール学派」の領袖の一人であるジャック・ルゴフの論文を五篇集めてなった論文集である。この五篇は、わたしが論文の内容・重要性を、出版社の企図する容量とも考え合わせて選び、著者の了承をえた。うち三篇を『中世の想像界』 L'imaginaire médiéval, Paris (Gallimard) 1985 から、一篇を『もうひとつの中世のために』 Pour un autre Moyen Age, Paris (Gallimard) 1977 から、残りの一篇は、より最近スイスで出版されたJ・F・ベルギエ編の論文集『妄想・信仰・科学のあいだ』 Zwischen Wahn, Glaube und Wissenschaft, Zürich (Verlag der Fachvereine) 1988 から採った。」


ルゴフ 中世の夢 01


目次:

日本の読者へ (ジャック・ルゴフ)

中世の科学的驚異
西洋中世とインド洋――夢の領域
キリスト教と夢――二世紀から七世紀
西洋中世の荒野=森
ブロセリアンドのレヴィ=ストロース――宮廷風ロマン分析のための一試論

原注
解題 (訳者)



ルゴフ 中世の夢 02



◆本書より◆


「中世の科学的驚異」より:

「中世の驚異の輪郭をはっきりさせるため、わたしは、ひとつの図式を提示してみようと思う。」
「この図式は三分法で、驚異ないし超自然の三つの領域を区別する。
 両端には、一方に miraculum、つまり文字通り《神的な》超自然の領域である《奇蹟》があり、他方には、ars magica vel diabolica つまり、魔術、《悪魔的》超自然の領域がある。この両者の間に、mirabilia の世界、つまり厳密な意味での不思議な出来事、驚異の世界がある。そこで問題になっているのは、その表現が形容矛盾でないとしたら、現世的超自然、換言すれば、本質において、宗教的にもイデオロギー的にも、中立の超自然である。中世において、「科学的」驚異が発達したのは、まさにこの現世的超自然の内部でなのである。
 たしかに、これら三つのテーマは、同一カテゴリーには属さず、同一の概念上の地位をもたないことを認めねばならない。《奇蹟》は、神によって直接、または「公認の」仲介者たる聖母マリアや諸聖人を介して、惹き起こされる事実であり出来事である。悪魔的な「驚異現象」は、一種の技術、手腕である《魔術》の結果であり、(中略)起源は直接悪魔にあるか、あるいは本来のデモンないし悪魔的存在といった悪魔の「被造物」のひとつの仲介によって、間接的に悪魔にある、といえる。
 《驚異》は、その起源が神秘的な存在・モノ・現象の集合体であり、また尋常ならざるものではあるが、神や悪魔の介入に頼る必要のない諸力や諸性格である。《驚異》は、集合的複数形である。しかし各領域には、特有の形容詞がある――miraculosus (奇跡的)、mirabilis (驚異的)、magicus ないし diabolus (魔術的ないし悪魔的)――のであり、このことは今日の歴史家に、それら全体を総称としての驚異という一カテゴリーにまとめるのを許している。」
「科学的驚異は、世界に関係するもので、少なくともいまのところは、自然に関係するものだとはいうまい(というのは、驚異の知覚の中には超自然の可能性があるから)。科学的驚異の世界(宇宙)にたいする関係は、記念すべきものの歴史にたいする関係と相同である。記念すべきものが時間を枠組とするなら、科学的驚異は空間を枠組とする。
 最後に、科学的驚異探求の過程で見出せる、中世の人々にとっての世界と知の三つの根本特徴を忘れてはならない。
 (1)世界は連続しており、空隙はなく、創造は一度で、それはひとつのプラン、連続的に展開するひとつのプログラムにしたがっている。《驚異》は、「自然」と「超自然」の間のぼんやりした透過可能な境界の一方または他方の「極端な事例」である。
 (2)世界は、モノ(res)に対応する徴(しるし)(signa)によって構成されている。真実は秘されている。中世思想の師、アウグスチヌスは、『キリスト教の教えについて』 De soctrina christiana のはじめ(一巻一―二章)で、世界の構造を解く鍵を与えている――「あらゆる知は、モノか記号にかかわるが、ひとがモノを知るのは、記号を介してである」 omnis doctrina vel rerum est vel signorum sed res per signa discuntur.
 しかし、アウグスチヌスの付け加える言葉を忘れてはならず、それはすべてをややこしくするが、また、その厚みを世界と知に回復させるものでもある――「またすべての記号は、なにモノかである」 omne signum etiam res aliqua est. 驚異、それはむしろ記号だが、純粋な幻覚でも純粋な幻影でもない。
 (3)最高の知は、珍しいモノの知であり、それは例外的なモノの科学である。歴史が例外的な出来事の集成になる傾向があるのとおなじく、科学は、驚異現象・珍奇の集成となる傾向がある。」

「怪物と人間との中間に位する動物たちのなかで、とりわけ不安をあたえるものがひとつある。すなわちサル、なかでも尾なしザルで、それは、尾を偽善のために失ったのである。原罪・色欲・愚昧・酩酊のシンボルであるそのサルは、「人間の模造」であると同時に「悪魔の権化」であり、堕落した人間であるとともに、哀れな動物の驚異現象である。」

「教会は、(中略)とかく悪魔的驚異の領野に位置づけられがちであった危険な、不思議な出来事の数々を、無害な自然庭園の中に取り込もうと努めるのである。
 したがって、中世の科学的驚異とは、回収の強力な道具なのである。とりわけ脅威を与える二つの世界、すなわち古代=異教の世界と民俗世界――根本的に農民的で、前キリスト教的で、表面的にしかキリスト教化されていないいわゆる「民衆」文化の世界――の二つを回収するのである。」



「キリスト教と夢」より:

「しかしながら、夢はまた、文化的な反システムとしても組織されるとの印象をうける。そしてあらたに、夢の異議申立ては、異端的異議申立てに結びつく。ラウル・グラベールによると、シャンパーニュ地方の農民レウタルドゥスは、畑のなかで眠り込んで幻視を見て、紀元千年以降最初の「民衆的」異端となった。またエマニュエル・ル・ロワ・ラデュリーは、モンタイユーのカタリ派にたいする夢の魅了する力を示した。」


「西洋中世の荒野=森」より:

「荒野の「楽園的」ヴィジョンにおいては、そこに生活しまたは引き籠るものたちと野生の動物たちとの親密なつき合いを忘れてはならない。西洋にはライオンがいないので、クマ、シカ、リスらを隠者たちが友とし、話し相手としたのは、アントニウスとパウロを見習ってのことであった。(中略)一一七〇年に死んだゴドリックは、ダラム近くのフィンチェイルの孤独地に引き籠って、狩人に追われ逃げるウサギやノウサギをその庵に匿う。それはアジールとしての荒野であり、避難場所のなかの避難場所である。」

「シャルル・イグネとともに次のように強調しよう。すなわち、異教の礼拝や「そこに、《荒野》 eremum を求めにやってきた」隠者、あるいは敗残者や境界人――逃亡農奴・殺人犯・冒険者・盗賊など――にとって、それは境界であり、避難場所として役立っていたことを。しかしまた森は、まさに「有用」で「貴重」であり、猟獣の保存地、「ヨーロッパ全域でもっとも普及した飲み物」の原料となる蜜や灯明の臘採取をも含めた採集の空間、さらに木材・硝子・金属採取の場、家畜とくにブタの牧養の領域でもあった。」

「十二世紀初頭、ギベール・ド・ノジャンは『自伝』のなかで、シャルトル副伯のエヴラール・ド・ブルトゥイユのことを物語る。すなわちかれは、一〇七三年、世俗生活を捨てて孤独を求め、森に避難してそこで木炭を作ることで生活の糧をえた。西洋中世には、荒野への逃避という潮流がある。それは時代を問わない恒常的現象と見做しうるとはいえ、人跡稀れな土地への出立の波は、特定の時代に集中的に高揚するのである。まず四―七世紀には、都市の全般的荒廃と結びついて、そして十一・十二世紀には、逆に都市の飛躍に対抗して――「われわれはすべてを捨て去った。これこそ隠者の森を満たした言葉だ」と、一〇七二年に他界したペトルス・ダミアニは、ある説教中で叫ぶ。ほぼ一世紀後、聖ベルナールが、それに谺するようにいう。すなわちかれは、新たな都市学校に誘惑された若者たちに向かって、つぎのように説いたのである――「森は君たちに、書物以上の教えを授けてくれるであろう。木や岩は、科学の教師らが君たちにまったく教えもしないだろうことを、教授してくれよう」と。」

「孤独と野生にもっとも近づくには、発狂しなくてはならない。」
「《野生的》なるものとは、人間の手の範囲外にあるものではなく、人間活動の縁辺にあるものなのである。森(silva)は、野生的(silvatica)である。というのは、それは、人間に狩られる動物たちの棲む場所であり、また炭焼き人と豚飼いの棲処でもあるから。野生と文化という両者の非対称的な役割のあいだにあって、野生の狩人と狂人は曖昧な媒介者であり、また同様に、隠者もそれなりの仕方でそうなのである」

























































関連記事
スポンサーサイト
プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本