アンドレ・ブルトン 『秘法十七』 入沢康夫 訳

「子供のころ、墓地へ連れて行かれるようになってまだはじめのある時――数多い、気も滅入るような、あるいはばかばかしい、墓碑のあいだに――「神なく主人なく」という傲然たる銘が赤い大文字で刻んであるだけの一枚の簡素な花崗岩の碑板を発見したことによって私にひきおこされた、心の安らぎや高揚や誇りを、私は決して忘れないだろう。」
「反抗なのだ、反抗だけなのだ、光を創り出すものは。」

(アンドレ・ブルトン 『秘法十七』 より)


アンドレ・ブルトン 
『秘法十七』 
入沢康夫 訳


人文書院 
1993年8月25日 初版第1刷印刷
1993年8月30日 初版第1刷発行
217p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,472円(本体2,400円)



本書「訳者覚え書」より:

「アンドレ・ブルトンの『秘法十七』 Arcane 17 の本邦における初訳は、故宮川淳氏の手になるもので、一九六七年の秋に、『秘法十七番』の題名で晶文社から刊行されている。
 いっぽう、ここに収めた拙訳は、宮川氏の訳書刊行の数年後、「アンドレ・ブルトン集成」収録のために二年がかりでなされたものだが、(中略)収録予定の巻の刊行を見ないうちに同全集の刊行が中断され、(中略)訳稿は約二十年間にわたって、版元のロッカーで冬眠状態になっていた。それが今度、完結しなかった全集の枠をはなれ、同じ社から単行本として上梓されることになった次第である。
 上記宮川淳氏の訳本は一九四四年刊の初版本にもとづいているが、拙訳は、一九四七年にフランスで出た、巻末に「透し彫り」 Ajours と題された三章からなる文章が追補された増補改訂版(中略)を底本としている。」



André Breton: Arcane 17
本文中図版1点(キルヒャー『エジプトのオイディプス』より「女神イシス」)。


ブルトン 秘法十七 01


帯文:

「いまシュルレアリスムに注がれる
熱いまなざし!
詩と自由と愛への限りない欲望。」



内容:

秘法十七 付: 透し彫り

訳者覚え書



ブルトン 秘法十七 02



◆本書より◆


「あの愛、私がその愛のうちに真の万能薬を、どんなにそれが宗教的その他の目的ゆえに、うちまかされ、声価を傷つけられ、嘲けられていようとも、見ようと固執するのを、何物も妨げるわけにはいかないだろう。贖罪という欺瞞的でがまんのならないいっさいの観念を別にすれば、実存と本質との最高度の融合が実現されるのは、まさしく愛によって、ただただ愛によってのみなのであり、愛なくしてはつねに不安で対立的でありつづけるこれら二つの概念を、ただただ愛だけが、苦もなく、完全な調和において、曖昧さなしに、和解させることに成功するのである。当然のことながら、私が言っているのは、全権能をほしいままにする愛、生の全持続に合致する愛、その対象をもちろん唯一人の存在のなかにのみ認めることしか肯(がえ)んじない愛のことだ。」

「ここでは、(中略)人間よりもずっとずっと遠くから来て、そしてまたずっとずっと遠くまで行く何物かがあるのだ。」
「そもそもの最初からあって、いまもわれわれにとってなによりも有害でありつづけている誤りの筆頭にあげられるのは、宇宙のもつ意味はただ人間だけが感知できるのであって、そのとき、たとえば動物たちには意味を欠いている、という考えである。人間は、万物創造における大いなるエリートであると慢心している。」
「人間の思想とは、一つの総和である。そうだ、厳密性を欠いたさまざまの仮定の総和であって、それらはいずれも、かならずしもそれでなくてもよいようなものであり、その大部分は決定的に無効が宣告されているというのにそれでもどこ吹く風とみずからの結論をまくし立てている。こうした思想の運命は、何が起こっても、おのれの辿ってきたそれまでの道筋を引返すことができないということであるようだ。」

「いかなるものであれ通念となっているものが、あらゆる先入見からまぬがれた定義によって検討され、すみからすみまで検査されることを条件としてでなければ、もはや受けいれられない。そういったまったく新しい実験室ができるのは、一体いつのことか?」

「何よりもまず良いことは、もろもろの概説書が喧伝しているような、人間の文化というものは秩序整然たる必然的な活動の所産であるなどという考えから、手を切ることだろう。」

「芸術が、いわゆる女性の《非合理性》に、決然として優先権を認めんことを。うぬぼれて自分を確実なもの強固なものと思っているが、実は男性の非妥協性の刻印を受けているものすべてを、芸術が遠慮会釈なく敵とみなさんことを。(中略)今はもはや、はっきり言うが、(中略)芸術においては男性に反対し女性の味方をすると何のあいまいさも止めずに宣言すべきときであり、男性がこれまで存分に悪用して来たことが明白になった権力を、男性から取り上げて女性の手に返すべきときであり、女性がこの権力のうち自分の公正な持ち分をとりもどすまで、それももはや芸術のなかでなく生のなかでとりもどすまでは、男性のあらゆる要求をはねつけるべきときなのだ。」

「子供であり女であるもの。芸術が組織的に用意せねばならぬのは、感性が支配する国全体への、彼女の到来である。」

「自由はあらゆる形式の隷属や強制に対する反対ということで非常によく定義づけられる。この定義のただ一つの弱身は、自由を一般に一つの状態として、つまり不動性において、表わしていることで、ところが、その不動性がたちまち自由の破産をひきおこすことは人間の経験があげて立証しているところなのである。人間の自由へのあこがれは、絶え間なく自らを再創造する力として維持されなければならない。だからこそ、自由は、状態としてではなく、絶えざる前進をひきおこす生きた力として、想いえがかれねばならないのである。その上、これは、やはり絶え間なく、この上なくたくみなやり方で自らを再創造する強制や隷属に対して、反対しつづけることのできる唯一のやり方なのである。」
「自由の観念は、(中略)自分で自分を完全に統御している観念であって、人間の特性をなすものについての無条件な見通しを反映しており、これだけが人間の生成に、尊重に価いする一つの意義を賦与するのである。自由は、解放とはちがって、病気に対する闘いではない。それは健康である。」

「ふたたび、ここで見出されたその星は、大いなる明けの明星、窓で他の諸天体を蝕せんばかりの勢いだったあの星だ。」
「反抗なのだ、反抗だけなのだ、光を創り出すものは。そして、この光は自分にただ三つの道しか認めることができないが、その三つの道、詩と自由と愛とは、いずれも同一の熱狂を鼓吹して、人間の心のもっとも秘められた、もっとも光を吸収しやすい地点へと、それを永遠の若さの杯(さかずき)そのものに作り成すまでに、集中されなければならないのである。」



本書「透し彫り」より:

「ある若く美しい婦人で、私がしたしんでいる予言風な夢想の一つに打ち込んでいる人が、いつか私に言ったものである。「ねえ、差当っては、固いことは何一つ言ってはいけないのですわ。固いの反対は何でしょう? (中略)今日は雲の子供たちを作らなくては。よくって、雲のような子供たちではなく、体の部分部分が雲の子供たち、そう、雲の子供たちですの。」

「くる日もくる日も、あらゆる点で、敵の行なったのと同様の一連の行為を、必要にひきずられ、不承不承、果たしていかねばならないわれわれは、敵とともに、一つの共通の限界を持つに至るのを、どうやって避けられるだろう? その点に用心しよう。敵が用いた手段を採用せざるをえないという、まさにその事実のゆえに、われわれは、われわれが勝利をおさめたと思っている当のものによって汚染されるという危険を、おかしているのである。」




こちらもご参照下さい:

アンドレ・ブルトン 『秘法十七番』 宮川淳 訳 (晶文選書)























































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