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『定本 西脇順三郎全集 V 詩論 1』 

「あゝ、なんちゆう紫の瓢箪だ」
(西脇順三郎)


『定本 西脇順三郎全集 V 詩論 1』 
超現実主義詩論 シユルレアリスム文学論 
輪のある世界 純粋な鶯 梨の女 斜塔の迷信

筑摩書房 1994年4月20日初版第1刷発行
viv 680p 口絵i
A5判 丸背紙装上製本 貼函
定価8,600円(本体8,350円)

月報: 
1971年9月初掲/1994年4月再録 8p
夏の野ばら(篠田一士)/上機嫌な詩人(黒田三郎)/自在な魔術師(三好豊一郎)/貴婦人はアランポエポエとす(稲垣足穂)/図版3点(昭和41年 金子光晴氏と/昭和11年 書斎にて/絵画作品)



本書「後記」より:

「すべて初版本を底本とした。」
「旧漢字表記はすべて新漢字表記に改めた。ただし仮名は旧表記に従った。」
「『超現実主義詩論』は巻頭に写真二葉(中略)巻末に瀧口修造の執筆になる「ダダよりシュルレアリスムへ」と題した論文及び索引を収録してあるが、本巻ではそれらを割愛した。」
「『シユルレアリスム文学論』は巻頭に写真四葉(中略)があるが、本巻では割愛した。第二章の「トリトンの噴水」は内容が散文詩であるため、本巻から除外し、第一巻『詩集1』に収録した。」
「『輪のある世界』は『シユルレアリスム文学論』中の「ナタ豆の現実」を再録しているため、本巻では除外した。」
「『梨の女』は第九章から第十三章までに『純粋な鶯』全篇を再録しているため、本巻ではそれらを除外した。」



西脇順三郎全集5-1


目次:

超現実主義詩論 (昭和4年 厚生閣書店)
 序
 PROFANUS
 詩の消滅
 ESTHÉTIQUE FORAINE
 超自然主義
 超自然詩の価値

シユルレアリスム文学論 (昭和5年 天人社)
 序
 文学運動としてのシユルレアリスム
 一般超現実的思考
 超現実文学理論
 Satura の文学
 ナタ豆の現実
 シユルレアリスム批判

輪のある世界 (昭和8年 第一書房)
 序
 人形の夢
 牧人の笑ひ
 檳榔子を食ふ者
 輪のある世界
 文学青年の世界
 文学と人間の発達
 詩の歴史
 文学の思想的価値
 彫刻
 テオクリトス
 田園の人生観
 文学批判に於ける〈自然〉の意味
 動物的睡眠から
 間接な批評
 文学へ蝋燭を立てる
 単純な楽器の世界
 小説
 マリタンに関する会話
 ゲーテと十八世紀思想
 ヘーゲルの文学理論
 黄色の葡萄樹
 二人のロマン主義者
 英国民俗の一面
 津軽の若い民俗学者

純粋な鶯 (昭和9年 椎の木社)
 詩の感覚性
 詩の内容論
 オーベルジンの偶像
 詩人の顔色
 純粋な鶯

梨の女 (昭和30年 宝文館)
 序
 詩と眼の世界
 ヴァレリ考
 青年期と文学
 詩の貧困
 三人の男
 詩の幽玄
 ヂョイスの思想と象徴的技巧
 ヂオイスの抒情詩的テーマ
 MAISTER 萩原と僕
 詩の外面と内面
 八月
 詩論
 ゴーガンの村
 文学教養主義
 デカダンスの芸術
 世界の諷刺文学

斜塔の迷信 (昭和32年 研究社)
 斜塔の迷信
 ヨーロッパ詩の伝統の一面
 パルナスィアン以後
 ロマン主義の歴史的一面
 文学批判としての中庸説
 詩の世界について
 詩美の問題
 伝統と現代詩の方向
 人生派からデコル派まで
 悪魔学の魅力
 現代詩の意義
 私の詩作について
 「詩と詩論」の回想
 文学に於けるデフォルマション
 日本人好みの詩
 宇宙の神秘を夢見る
 「荒地」について
 英詩の言葉
 喪服の笑い
 ダンテ「神曲」
 永遠への仮説
 詩・雑感
 考えをかくすもの
 マチスの挿絵
 ピカソと近代芸術
 国際美術展をみる
 現代画の悲劇
 風流人
 タイフーン
 曖昧な意味
 美について
 東方のベレスプリ
 詩の言葉
 詩の効用
 芸術崇拝
 水鳥の言葉
 日本絵画
 絶対詩から純粋詩へ
 ロマン主義詩
 矛盾と偶然
 日本語の詩の言葉
 詩の限界
 追憶の美
 イバラの幽霊
 トランプ
 人間いじめ
 悪文の技術
 ひとりで歩く猫
 人間の話
 樵夫と近代芸術
 そくず
 鳳仙花
 心遠
 雑草考

後記 (鍵谷幸信・新倉俊一)



西脇順三郎全集5-2

口絵 (1933年)。



◆本書より◆


「PROFANUS」より:

「人間の存在の現実それ自身はつまらない。この根本的な偉大なつまらなさを感ずることが詩的動機である。詩とはこのつまらない現実を一種独特の興味(不思議な快感)をもつて意識さす一つの方法である。俗にこれを芸術といふ。
習慣は現実に対する意識力をにぶらす。伝統のために意識力が冬眠状態に入る。故に現実がつまらなくなるのである。習慣を破ることは現実を面白くすることになる。意識力が新鮮になるからである。併し注意すべきことは習慣伝統を破るために破るのでなく、詩的表現のために、換言すれば、詩の目的としてつまらない現実を面白くするために破るのである。実際に習慣伝統を破るならばそれは詩でない、倫理であり哲学である。人間が現実を意識する習慣上の方法は普通の感情であり、理性である。この通俗の感情、この理智を破るときは、意識力が習慣伝統より脱して現実を新鮮に意識することが出来るのである。これは俗に批評家が近代の詩は破壊のみをなし建設せぬと言つて罵るところであるが、実はこの破壊は詩の建設である。この破壊がなければ詩が創造力を得ない。理智は現実を理性をもつて意識するが、詩は理性を破り或は軽蔑して現実を意識するのである。
Pascal が「哲学を軽蔑するは真の哲学者である」と言つてゐる。これは Nietzsche の哲学である。如何に偉大なる権威を有する伝統でも、伝統はこれを受くべきものでないとは彼の考へである。詩の形式も一個の伝統である。
十九世紀になつてから詩の伝統が著しく亡びつゝあるは近代意識であつた。」

「詩は現実に立つてゐなければならぬ。しかしその現実につまらなさを感ずることが条件である。なぜ人間の魂は現実につまらなさを感ずるのか。人間の存在自身が淋しい。その辺に遊んでゐる犬もつまらない気持がしてゐるのかしら、人間の魂を解剖してそのどん底まで行つてみると、この淋しい気持が本質的に存在してゐる。人間が penser するが為めに却つて苦しむ。」
「現実は人間を無限に圧迫する。山の中へ逃げてもそこにはカモシカのやさしい眼や薔薇の様な雪があつて人間の感覚を苦める。又三十年位沙漠の中で商業を営んでから妻をすてゝ遠くの国へ行つてもそこには又シトロンの花が咲いてゐたりして現実がある。こゝに異郷憧憬者の心理上の破産がある。現在の現実に飽き、過去の現実を懐しがる古典主義もある。宗教と共に未来を目的にする未来派がある。すべてを否定して死と共に自滅する破壊主義もある。併し詩は現実を認めなければならぬ。あくまでも現実を受入れなければならぬ。詩は現実主義である。現実は習慣で当然つまらなくなる。埃の様につまらない。けれども詩はこのつまらない現実を常に新鮮に保たなければならぬ。これが詩である。さうでないと人間の魂は現実を受け入れられない。
詩は又真理を認めなければならぬ、併しその真理を想像力により変形して、それを魂の中に吸収するのである。
詩は故に、意識する一つの方法である。現実を非現実に変形し、真理を非真理に変形して、現実、真理を魂の中に吸入するのが詩である。外形からみると詩は非現実で非真理であるが、実は現実、真理を認識するのである。」

「詩は認識である。その方法は人間の理智の発展につれ変遷するものである。
常に新しい方法により、習慣の中に冬眠を起す人間の魂を意識の世界へ呼び戻すことが詩人の尊い努力である。」
「吾人の意識界の或る瞬間に現実の対象となる永遠とか無限とか神とかとして表し得る一種絶大なる存在が反射的に人間の存在をつまらなくする。この時小なる人間の魂がこのつまらない現実に対してカンシヤクを起す。これが詩的魂で emotion と言ふ。このカンシヤクは理性を軽蔑して「想像力」 imagination となる。この想像によりてつまらない現実が興味ある現実となる。現実に対する意識が新鮮にされた為めである。これが詩の目的である。
詩を論ずるは危険である。もう断崖から落ちてしまつた。」



「文学運動としてのシユルレアリスム」より:

「土人崇拝は十八世紀に起つた事実ではあるが、私が土人的に今日の文明人をみようとすることは十八世紀の人達の見地からでない。寧ろ人類学的な方法としての観察にすぎない。今日、文学運動としてのシユルレアリスムなどは、人類学的な歴史として考へた場合は、一つの土人の風習であると考へられる。乃至は土人のお祭り騒ぎにすぎないだらう。また一般文学とか芸術とかいふ制度も土人が特に好んだ風習とも考へられる。あらゆる思考の流れは、人類学的な見地からは、単に土人の風習として、みるべきである。この意味からは、与へられた文学に関する思想は、そのよしあしを考へる程のものでない。単にそれを土人の風習を研究するやうに、その事実のみを先づ、発見すべきである。
今日の世界で、自ら文明人と考へてゐる社会からみれば「野蛮人」といふものがゐる。それ等の人達の多くはシユルレアリストである。例へばある一人の穴居人が云つた『肩の上に雨が落ちて来るのを感じながら、イモを掘りに出かけて、ずぶ濡れになつて家にもどり、穴の中で焼いてゐる火を見ながらその火のぐるりに坐つてゐることは、いゝことである』
土人の中へ、土器や武器などを探しに行くことばかりが学生の注意すべきものでなく、土人の個人的な思考を標本として採集することも大切である。
ギリシヤ文明などは文芸復興以来、ヨーロッパでは、如何にも文明の源の如く考えて来たために、今日、吾々は古代ギリシヤなどを余り、センティメンタルになつて崇拝しすぎる。私は古代ギリシヤに対する文芸復興的伝統を好まない。私がギリシヤを興味あるものと思ひ得る場合は、ギリシヤ語などを土人の言語として考へ、プラトンの哲学や、アフロオデイテの石像なども土人の風習心理として考へたときは、直ちに、土人崇拝者として、ギリシヤに対する研究のあこがれが出るものである。」
「土人の社会にある風習を笑ふことが出来ない。皆、新しい思考として研究すべきである。」
「土人研究の如き態度でシユルレアリスムのみならずその他の文学組織をみることは大切である。此処に与へられた一つの文学に関する思想があるとする。それは皆土人の風習として考へてみると、それに腹を立てる必要がなくなる。単に歴史の一部分である。」

「花を人間が愛するといふことは本能であるか、それとも土人時代の風習であるか、パラドクスのやうだが興味ある問題である。音楽を愛することも、またダンスをすることも。」
「シユルレアリスト的乃至近代芸術は、土人の世界にもどつて行く傾向がある。絵画や彫刻の思考は、土人の作品に似てゐる。これは単に近代の進んだ思考から発展して来た独立したものかも知れないが一方からみると、それは土人時代の伝統が復活して来たものとも考へられる。」



「人形の夢」より:

「音楽家の友人の紹介でノッティンヒル・ゲイトの近くのケイムブリッヂ・スクウエアの個人ホテルに移つて、夜は大体、音楽を聞きに出かけ、帰りにはカフエで音楽的な文学論などをやつてゐた。昼は古本屋に毎日出かけていつも少しづつ本を買つて来て、余り読まないでベッドの下に積んで置いた。この時分は脳病であつたためか、また思考組織が変化したのか、人の書いた思考がどうしても受け入れることが出来ないので本を読む気がしなかつた。本を読むこと自身が現実でないやうになつた。しかし本を買つたことは、自分の思考を養ふために枕の用か、空気を作るに幾分貢献したやうであつた。この当時買つた本は一つも残さないで、皆売つてしまつた。
思考は水のやうに流れて、同一の思考に足をつき込むことが出来なかつた。」



「牧人の笑ひ」より:

「自分はいつも自分自身の重さで心持が暗くなる。いつも重い古い帽子をかぶつて歩いてゐるやうな気がする。時々非常に思考の新しい世界を暗示させてくれるものを求める。いつもルネサンスを求める。窓を開けてヒバリの声が流れ込むことを望む。またアサギ色の空でも牧場からでも青白いスミレを摘みとる如きことを欲することがある。」


「文学青年の世界」より:

「こんな会話は畑のほこりの中に消えて行つた。これは一つの暗示的な文学青年の気持である。僕は文学青年の世界を非常に好む。文学青年の世界は純粋に保護すべきである。文壇に名声がある人達の文学は必ずしもよい文学ではない。必ずしも少くとも面白い文学ではない。青年が文学といふものを愛する気持は生理的であつて非常によい。」
「文学青年の世界は文壇や雑誌界から独立して存在するものと思ふ。僕自身は勿論文学青年ではあるが、しかし永遠に文学青年であることを寧ろ望んでゐる。」

「今日の文学青年は反人間的で人間に対する認識態度は物理的で物体化さうとする。そしてセンティメンタルなすべてのものを嫌つてゐる。文学青年の祭礼は人情といふ羊を殺して血まつりにするがしかし人情は時にあまりに感傷的になるために嫌ふのであつて、人情それ自身が悪いためではない。透明な理智を重んずるためには人情がさまたげになるからである。次に文学を一つの人生観として考へず、文学は一つの人間記述の方法として考へるために人情が彼等の直接な問題にならない場合がある。次に今日のメカニズムと物質文明の影響とも考へることが出来る。文学青年の文学は商業的な通俗文学に対立して前者はいつも後者を軽蔑してゐる。(中略)特にベスト・セラとなる作家は全然無視されてゐる。(中略)美術の方も同様に僕の知つてゐた文学青年などはロンドンで夏の初め頃開かれるロイアル・アカデミイの展覧会に行つてみることを恥と心得てゐた。」



「文学と人間の発達」より:

「文学といふ世界は作者が考へたり、感じたりした一つの世界にすぎない。面白い文学の世界といふのは面白い世界観、思考、感覚といふものから出来てゐることになる。だから文学論といふやうなものは主として世界観、思考のスタイル、肉体、感覚といふものに就いて考へることであると思ふ。」

「人間を地面にたたき落すことは人間が新しい世界をつくることになる唯一の希望を示すのである。
今日の現実主義は残酷なところはあるが、十九世紀伝統の自然主義の如き憂欝はない。実に透明なほがらかな残酷のグロテスクである。その裏に理智の光線が貫通してゐるところが、僕をひきつけるのだと思つた。」



「単純な楽器の世界」より:

「僕はカゼをひいて熱があると、非常に憂欝になる。即ち原始的になり、土人の世界になりたいと思ふ。(勿論僕自身は土人であるが、いはば他の種類の土人になりたいと思ふことである。)先づギリシアのリリクがすきになる。七絃琴と牧人パイプの楽器だけしかない文明の世界が欲しくなる。ギリシアの詩は結局、七絃琴の音に終るか、パイプの音に終る。」
「日が暮れると、僕の太陽がのぼる。」
「病気になると自然といふ中に這入つてゆく気がする。暗黒な深い肉体の中だけで住んでゐる気がする。とにかく自然は光明でない。」



「オーベルジンの偶像」より:

「詩の対象は(面白い思考をつくること)である。「面白い」といふことは critique d'omoshiroi で茄子畑の美学である。このクリテイクはしかしあらゆるクリテイクを包擁してゐるものである。世の学者を笑はせるものである。学者や哲学者を笑はせる術は近世の喜劇的精神である。またこれは学者や哲学者を怒らせる。これが近世の悲劇的精神である。
葡萄畑でささやく jacques bonhomme の美学で、その真理は彼の青いスモツクの中にかくされてゐる。ギリシヤ的な詩の女神は去つた。ここには茄子の女神が立つてゐる。」
「いま茄子に関する詩をつくるとする。
《あゝ、なんちゆう紫の瓢箪だ》といふ思考が出来たとする。
この場合この詩の対象は茄子でない。この思考をつくることが詩の対象である。不正確ではあるが便宜上、《あゝ、なんちゆう紫の瓢箪だ》といふ思考それ自身が詩の対象である。」
「茄子をみて《あゝ、なんちゆう紫の瓢箪だ》と人間が感じたとする場合、それはさういふ sentiment をつくつたことにすぎない。「つくる」といふことが詩である。」
「《あゝ、なんちゆう紫の瓢箪だ》といふことは、先に感じたものがあつてそれを表現したのでなく、感じたものそれ自身である。
詩の重大な場合は、《あゝ、なんちゆう紫の瓢箪だ》といふ思考が詩の直接の目的であつて、茄子自身は詩の目的でない。
しかし詩人は茄子自身をつくるのではない。若し詩人が茄子に就いて考へた場合とすれば、茄子に関する面白い sentiment をつくるのである。」



「詩と眼の世界」より:

「僕の求める美はこれを定義することが出来ない。それは、グロテスクでもなく、神秘的でもない。グロテスクも神秘的も自分を安心させない。僕の求める美はすべてを忘れさせ、すべての情慾、情念、思考、感覚それ自身の活動を停止させてしまうようなものである。非常に稀薄な人間の世界である。ものそれ自体の中をぼんやりみていることを求める。」


「斜塔の迷信」より:

「私の詩論はどうすれば心を慰めてくれるような詩が書けるのか考えることである。四月の八日はこの小さい本のために序文を書くために摘み草に多摩川へ行ってみた。菜の花、天人唐草、ほとけのざ、狐のぼたんといったようなものが咲いていた。川端の二階へ上ってアユと鶉を食べて壺を傾けて考えた。殆んど天の一角にみみ傾けるばかりである。きこえない詩はきこえる詩よりも美しいというキーツ的な論理にとらわれてしまった。
ポウエトリの世界は関係的な世界であってものそのものでない。遠い二つのものゝ間にあって、その二つのものゝどちらでもない。ポウエトリはタビラコの世界のようにか弱い淋しいものであるがその根のように苦々しい根強いものである。ポウエトリは天国と地獄との間をフラフラ歩いている乞食の夢であってポウエトリは天国でもなく地獄でもなく、ただその二つのものゝ間にある摩擦から起る一種の光線である。私の経験によると詩というものを作るときはなるべく遠い関係に立つ二つの現実をぶつけ合わせてその摩擦によって起る光線のようなものを作るのである。
この春の野に出てキーツの壺を傾けるとき永遠の女性としてのポウエトリは永遠に天の一角へ向って傾くのである。しかし果てしない存在を考えると地上の思考は斜塔のような酒壺から流れ出る迷信にすぎない。」



「伝統と現代詩の方向」より:

「新しい詩を一つのものの見方としてみる場合は、(中略)与えられたものの存在を出来るだけ切断された遠い関係において知覚することである。その時そのものの詩的存在が発生する。」
「 一つのかたい庭
庭という通常の関係では、硬度で庭を見ることは遠い関係である。
ジオットの描いた庭、蒼白たる樹と裸の岩を考えよ。」



「現代詩の意義」より:

「人間は土の上に生れて、その上で生活して、また土へ戻って行く。どうにもならない人生。ここに一つの土のかめがある。このかめの存在のもとは何か。それは土である。それがかめのどうにもならない、いたましい現実である。」

「考えてみると、自分は詩という作品を作るよりも、詩ということを考えて来た方だと思う。一般的にいえば、文学を作るよりも、文学ということを考えてばかり来た方だということになる。
俗にいえば描かざる画家に等しいものでもある。
しかし詩ということを考え、それを追及して考えつづけることは自分にとっては一つの詩である。
詩を哲学的に考えるのではない。しかし詩を考えることは自分にとっては一つの哲学である。
いろいろの時代や所の詩人を読み、詩論を読んできた。それはどれ程詩が好きだというのではないが、詩というものを考えてみることが病みつきになって来た。近頃はもう詩論を読んで歩いて来た世界のどんづまりに到着したかの如く思われる。
詩人自身よりも詩を愛する人をみていることが非常に好きになった。これは昔からそうであるが、近頃は特に詩を好む人はほとんど道徳的に立派な人であるとさえ考える。」

「詩を感じさせない詩を作る詩人よりも、詩を感じる詩人でない人の方がより詩人であろう。」
「作品を書くか、書かないかは詩人と詩人でない人との区別にならない。
詩を感じる人は詩人だと思う。詩の作品を作る人は必ずしも詩人ではない。(中略)私は詩を作るが、必ずしも詩を感じさせる詩はつくれない。魚釣りと同じく偶然をたのむ他ない。昔の人は、詩をのべる前に必ずミューズの女神を呼んで、どうぞ私はこれから……をいうが、助けてくれという。詩は人間わざでない、御ふでさきかのように考えていた。詩を作るのは人間でなく女神である。私には偶然は女神である。今日の詩人または詩つくりはあまり人間的であって、自己の力だと思っている。詩の作品が詩になるためには、何か神秘的な偶然が必要である。長くなったが、要点は詩は、人の心の中に感ずるものであって、作品自身は詩ではないと思うから、詩をつくるときは、詩を感じさせるものを描こうとするのである。作品を夏とすれば薔薇は詩である。私は薔薇をつくるのでなく、夏をつくるのである。
「夏がその魂を野ばらにうちこむ時」
は私には千ざいの思いである。」



「私の詩作について」より:

「自分の理想とする詩は何物も象徴することをやめた詩でありたい。それは絵画的であって、その image そのものを単にみて何物かを感じたい詩がほしい。そういう image をつくるのが詩の内容である。
その image はわれわれを神秘的にひきつけるのである。それは詩の美ということにする。詩の作品は image それ自身に終るのである。」

「「旅人かへらず」は死人の言であり、その表面上の構成は平凡な田園の世界であり、茶ばなしであるが、その中にまむしをかくして置いてあった。だがそのまむしはあまりに貧弱であって、その田園を歩いてみる人の足にかみつく程のものでなかった。また eroticism もひそませているが、それも野に叫ぶ声になり百姓のたわごとにすぎなく気づかずに消えて行く。要するにその当時の自分はあまりに人生的で新しい関係を発見しようとしないからであった。即ち純粋に美を求めた詩の世界ではなかった。恐らく人間の自然の神秘を求め、それを感じたまま描いたためである。」

「最後に詩をつくる人にいいたいことは、(中略)詩の美は現実と夢の世界との中間にあることである。即ち現実と夢の調和である。それがためには詩人として成功するには最大に現実を知ると同時に最大に夢みる人でなければならない。」



「永遠への仮説」より:

「もし自分が詩を作るときもち合せの人生観があるとせば(どんな人生観でもそれは詩でない)それは人間は永遠からみればつまらない悲しいものだということ以外には考えられない。
詩の世界にはどんな人生観も必要ではない。即ち詩の世界は中心がなくこうばくとしているのが正しい形だと思う。詩は死の象徴としか思われない。
詩はある永遠的なものに対する仮説として作られる。詩は現実とか実在というものに対する反抗であって、決してエスケイプでない。
詩の世界はつまらないものであるから、詩というものの無常のほほえみを多少感じるのだと思う。つまらないものに興味をもつことは最後の人生観としてのこされる。
詩は夢ではないが、詩は実在と夢の実在との間を示す線である。」











































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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