『吉田健一著作集 II 東西文學論/三文紳士』

「言葉が我々を打つといふ根本的な條件を離れて文学がある訳はないのみならず、文学作品で何が行はれようと、我々が最後に戻つて行くのは常に言葉と、言葉の世界が我々に約束する自由なのである。」
(吉田健一 『東西文学論』 より)


『吉田健一著作集 II 
東西文學論/三文紳士』


監修: 石川淳・河上徹太郎・中村光夫
編輯委員: 篠田一士・清水徹・丸谷才一

集英社 昭和53年11月20日第1刷印刷/同年12月4日発行
398p 四六判 丸背布装上製本 貼函 定価2,000円
装幀: 栃折久美子
本文正字・正かな

第二巻 月報 8p
不思議な縁(三橋一夫)/昼間の酒宴(寺田博)/図版3点(昭和30年3月/昭和30年7月/キングス・カレッジの周辺)



清水徹による「解題」より:

「編集にあたっては、著者の単行本群をその刊行順に従ってまとめるという方向で巻立てが考えられている。この編集方針によれば、第二巻では、(中略)三冊目の著書『宰相御曹司貧窮す』(文芸春秋新社、昭和二十九年七月刊)が収録対象と考えられることになる。
ところが、著者は生前この標題を好まず、まったく同一内容で標題のみ『でたらめろん』と変えた私家版三十部を同時につくって、(中略)言及するときはかならず「でたらめろん」の標題をもってし、流布本の標題はまったく用いなかった。また、『でたらめろん』(中略)の内容も、やがて解体されて、『三文紳士』その他に分散収録され、今回の『著作集』編集のための主要な底本となった垂水書房版『吉田健一著作集』には、この処女随筆集の標題は現われない。四冊目の著書『東西文學論』につづく『随筆 酒に呑まれた頭』と評論集『文学あちらこちら』の二冊も、同じく解体されて他の著書に分散収録されている。
それゆえ、生前の著者により底本として指定された垂水書房版『吉田健一著作集』にならって、『でたらめろん』=『宰相御曹司貧窮す』、『随筆 酒に呑まれた頭』、『文学あちらこちら』の三冊は、単行本としてまとめられたかたちでは、(中略)収録対象から除外される。それぞれの内容は、のちの分散収録先に従って(中略)読者は読むことができるであろう。」


『東西文學論』初版は昭和30年5月に新潮社「一時間文庫」の一冊として刊行。
「垂水書房版『吉田健一著作集』第三巻の著者手沢本を底本とする」(本書「解題」より)。
『三文紳士』初版は昭和31年10月に宝文館より刊行。
「この標題をもつ刊本は(中略)三種類あり、その収録内容にはかなりの異同がある。ここでは著者生前の指定に従って垂水書房版『吉田健一著作集』第四巻を底本とする」(本書「解題」より)。


吉田健一著作集2-1


目次 (初出):

東西文學論
 I 日本で文學が占めてゐる位置 (「新潮」 昭和29年5月号)
     文學は何も日本だけに限られた現象ではない。
     寧ろ文學の世界では、日本は例外的な存在である。
 II 日本文學とヨオロツパ (「新潮」 昭和29年6月号)
     影響といふのはどういふことかに就て考へる方が、
     獨創的であらうとすることよりも遙かに大切である。
 III 文學では何が新しいか (「新潮」 昭和29年7月号)
     問題にしたり、論爭したりすることが新しいのではない。
     新しさは文學の世界に最も古くからあるものなのである。
 IV 文學の實感 (「新潮」 昭和29年8月号)
     文學を窮屈に考へる位なら、本など讀まない方がいい。
     他にどうにもならない窮屈なことが幾らでもある。
 V 小説といふ觀念 (「新潮」 昭和29年9月号)
     小説といふのは日本の小説家が考へ出した神話である。
     そしてこれには、神話の美しささへもない。
 VI 森鴎外のドイツ留学 (「文學界」 昭和29年11月号)
     一人の日本の文學者がドイツでドイツ人になつたことが、
     日本の現代文學の發端になつた。フジヤマや茶の湯に日本
     的なものを求めるのは愚劣である。
 VII 永井荷風とフランス (同前)
     我々は外國へ行つて、日本のことを學ぶのである。
     外國へ行つて外國人になるだけが能ではない。
 VIII 夏目漱石の英國留學 (「文學界」 昭和29年12月号)
     外國に行つて日本のことを學ぶのにも、色々な型がある。
     併しそれが常に自分に就て學ぶことであるのに變りはない。
 IX 横光利一とヨオロツパ (「文學界」 昭和30年2月号)
     近代的であるといふのは、例へば、日本とヨオロツパの現實は違ふといふことを知ることなのである。
     その爲に一命を失つた日本の近代人もゐる。
 X 中村光夫のフランス留學 (初出未詳)
     現實と現實は違つても、そのどれをも身に付けることを妨げない。
     世界國家などといふのは、このことを知つてから先の話である。
     併し文學は常にその理想として世界的である。
 XI 結論 (書き下し)
     結論などといふものを付けなければ解らないやうな本は
     讀まない方がいい。
     併しこの本が讀まれないと、著者は困るのである。

三文紳士
 序に代へて (河上徹太郎)
 母に就て (「暮しの手帖」 第26号 昭和29年12月/『随筆 酒に呑まれた頭』収録)
 蓬莱山荘 (初出未詳)
 仲間 (原題「硝煙と軍靴の後に殘るもの」/「別冊文藝春秋」 第34号 昭和28年6月)
 酒と議論の明け暮れ (「東京新聞」 昭和35年5月9日夕刊)
 或る時代の横光利一 (原題「考へる人」/「新潮」 昭和36年3月号)
 我が青春記 (「東京新聞」 昭和30年1月12日夕刊)
 師走の酒、正月の酒 (初出未詳)
 中村光夫 (「新潮」 昭和31年1月号/初版収録時の標題「中村光夫君」)
 滿腹感 (「あまカラ」 昭和28年1月号/『でたらめろん』収録)
 櫻に錨のボタン (初出未詳)
 八月十五日 (初出未詳)
 乞食時代 (「文藝春秋臨時増刊 漫画讀本 7」 昭和30年7月/初版収録時の標題「懐しき哉・乞食時代」)
 晩年の牧野伸顯 (「文藝春秋増刊」 昭和30年6月)
 貧乏物語 (原題「宰相御曹子貧窮す」/「文藝春秋冬の増刊 爐邊讀本」 昭和28年2月/『でたらめろん』収録)
 世にも不思議な新聞社の話 (初出未詳)
 福田恆存 (原題「萬能選手・福田恆存」/「別冊文藝春秋」 第47号 昭和30年8月)
 父のスケツチ (「明窓」 昭和26年1月号/『でたらめろん』収録)
 食べる話に飲む話 (「小説公園」 昭和27年4月号/『でたらめろん』収録)
 昔の思ひ出 (初出未詳/『随筆 酒に呑まれた頭』収録)
 家を建てる話 (原題「宰相御曹子家を建つ」/「文藝春秋」 昭和29年3月号/『でたらめろん』収録)
 驛と廣い道と (初出未詳)
 ラヂオに就て (初出未詳)
 初めと終り (初出未詳)
 小休止 (「文藝」 昭和30年11月号)
 日本管見 (「小説新潮」 昭和30年11月号)
 暑さを忘れる爲の妄想 (「文藝」 昭和30年8月号)
 新年の豫想 (初出未詳)
 行つたことがない場所 (初出未詳)
 飲食行 (「新選現代日本文学全集付録35」 昭和35年10月)
 十年目の年末 (初出未詳)
 最後のレジスタンス 原題「最後のレジスタンス――鉢の木会」/「東京新聞」 昭和30年4月16日夕刊)
 商賣 (「文學界」 昭和31年9月号/初版収録時の標題「文士稼業」)
 本の話 (筑摩書房版 『石川淳全集』 月報3 昭和36年6月)
 恐しい時代 (「文學界」 昭和29年7月号/『随筆 酒に呑まれた頭』収録)
 「聲」雜記 (「新潮」 昭和36年2月号)

解題 (清水徹)




◆本書より◆


『でたらめろん』「後記」(本書「解題」に再録)より:

「評論が創造的であり得るならば、随筆で嘘を書くことも出来る。(中略)この集に収められたものの中で、嘘の最大含有量は八十パーセント弱である。併し他のものにも大概、少くとも五パーセントの嘘が混ぜてあるから、書いてあることを余り文字通りに受取らないで戴きたい。本当のこと程つまらないもはないことは、読者もよく御存じのはずである。
それに例外があるとすれば、どこか遠い所にある国のことなどを書いたものだらうか。英国に関する一聯の印象記には、嘘は混ぜなかつた積りである。」



『東西文學論』より:

「その、文學作品を讀む手引きに「文學入門」といふ題の本を買ふのが、もう一つの日本的な文學の觀念を現してゐる。文學が何か極めて高級なものであり、専門家の意見を聞いてからでなければうつかり近寄れないといふ考へで、これには他所で前にも觸れたが、かういふつまらない偏見を叩き壊すまでは何度繰り返して言つても足りない。文學の讀者までが苦勞するのなら文學まどない方がいいのに決つてゐる。苦勞するのは文學者の方である筈で、讀者までが迷惑するとすれば、それは文學者の怠慢である。尤も、文體の響きに胸を打たれることがない、文學と縁がない讀者は別である。」
「讀んでもつまらないのは、率直に言つて、文字通りにつまらなくて心が樂まないからである。高級といふことになつてゐる作品は書いた人間の苦勞を見せ付けられるばかりで、興味本位に書かれた筈のものは面白くも何ともない。何れにも、言葉で讀むものを魅惑するといふ文學の根本條件が缺けてゐて、だから文學ではないのである。
所が、同じ定義に從へば、興味本位に書かれたものが面白ければ、それが文學作品であることを疑ふ人間の方がどうかしてゐるので、外國文學なら探偵小説でも時間がたつのを忘れるのが幾らでもあり、讀んでゐて勇氣が出て來る。」

「河上、小林に就て、ジイド、ヴァレリイの毒を受けたと書いたが、毒される所まで行かなければ影響を受けたとは言へないといふことも重要であるとして、そこまで行つた人間が現はれたことで日本の現代文學も、漸く一人立ち出來る段階に達したのである。つまり、外國文学に感心することから出發したのはいいが、感心するのはまだ距離があることであり、それはその對象に影響されるのではなくて、依存してゐることになる。影響されるといふのは、對象を自分のものにすることである。それ故にそれが、毒を注ぎ込まれたと言つてもいい程烈しい體驗であるのは當然ではないだらうか。」

「かういふことが言へるのではないだらうか。ボウェンでも、グリインでも(或は一流の作家ならば、英國のに限らず誰でも)、次々に新しい思想を作品の形で發表してゐるのではないので、大概、初めから同じ一つの思想に表現を與へようとして苦心して來たのである。一つの作品で完全に表現し得たといふ氣がしなかつたので次のに取り掛つた。初めは、自分が語らうとしてゐる思想がどういふものかもはつきり解つてゐなかつたかも知れない。そして繰り返してゐるうちに、思想は作品で肉體を與へられて一箇の人間的な存在になり、その時、作者はそこに自分の思想の新しい面を見ることになつた。」

「言葉が我々を打つといふ根本的な條件を離れて文學がある譯はないのみならず、文學作品で何が行はれようと、我々が最後に戻つて行くのは常に言葉と、言葉の世界が我々に約束する自由なのである。」

「何かと區別を付けたがるのは、日本に見られるやはり窮屈な一種の考へ方であつて、これも錯覺に過ぎないのだから、錯覺はなるべく早く捨て去るのに越したことはない。例へば外國の文士が一般に日本のと比べて遙かに博學であるのは、外國の文士の方が學問に熱心だからではなくて、(中略)學問も言葉で傳へられるものであるといふことを、文學に對する愛着を通して身に付けてゐて、フレイザアの「金枝篇」を讀んでも、マルクスの「資本論」でも、それは勉強ではなくて、讀書なのである。言葉の専門家が言葉で書かれたものを前にしていぢけることはないので、小説を讀む積りで日本では學術書と呼ばれてゐるものを讀むから、小説に登場する人物に接するのと同じ親しさを知識に感じて、それだけ素直に知識を自分のものにすることになり、第一、知識の受け取り方といふものは本當はそれ以外にない。」

「文學の實感に就て色々と書いた積りであるが、その實感を一番正確に味つてゐるのは、フォオクナアも、キェルケゴオルの哲學も、「澀江抽齋」も、「暗夜行路」もエリオットも、今月の雜誌も、千年前の古典も讀んで黙つてゐることを知つてゐる讀者なのではないだらうか。讀者が常に文學の存在を保證してゐる。」



吉田健一著作集2-2

月報より。



























































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ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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