『吉田健一著作集 IV 日本に就て/甘酸つぱい味』

「現実に密着するといういやな言い方がある。蠅が蠅取り紙にくっ付いているようなべたべたした感じがするが、これも現実から遊離するだの、(中略)逃避するだのという、まるで現実というのがそこに我々が密着していなければならないものだという風な、欲張りが財布をしっかり握っているのに似た考えから生れて来たものに相違ない。」
(吉田健一 『甘酸っぱい味』 より)


『吉田健一著作集 IV 
日本に就て/甘酸つぱい味』


監修: 石川淳・河上徹太郎・中村光夫
編輯委員: 篠田一士・清水徹・丸谷才一

集英社 昭和54年1月20日第1刷印刷/同年2月4日発行
372p 四六判 丸背布装上製本 貼函 定価2,000円
装幀: 栃折久美子
本文正字・正かな

月報 8p
ヨコハマの吉田健一さん(白幡憲佑)/文・酒・人(竹之内静雄)/図版1葉(1962.5.21 銀座「大隅」にて)



清水徹による「解題」より:

「発行順にいえば、(中略)第三巻に収めた『文學人生案内』につづく単行本は『英語上達法』(昭和三十二年七月刊)であるが、この本はのちに解体されて、その内容はすべて『英語と英國と英國人と』その他に分散再録されたので、この巻の収録対象としない。」

『日本に就て』:
初版は『日本について』の表題で大日本雄辯會講談社より刊行され(昭和32年8月)、第四回新潮文学賞を受賞。のち垂水書房版『吉田健一著作集』第七巻(昭和36年9月刊)に収録され、さらに内容を再構成して表題を『日本に就て』に改めたものが筑摩書房より刊行された(昭和49年11月)。底本は垂水書房版著作集。
『甘酸つぱい味』:
昭和32年3月17日から6月25日まで「熊本日々新聞」に連載。初版は昭和32年8月新潮社刊。垂水書房版著作集第八巻(昭和41年10月)に収録。底本は垂水書房版。


吉田健一著作集4


目次:

日本に就て
 知識人批判 (「新潮」 昭和30年9月号)
 二十年後の日本文學 (「新論」 昭和31年1月号)
 文士稼業 (初出未詳)
 チャアチルと文學 (「群像」 昭和29年5月号)
 新書判が意味するもの (「小説公園」 昭和31年7月号)
 輕評論 (「キング」 昭和32年5月号)
 英國の景色 (原題「英國の自然美と日本の自然美」/「旅」 昭和28年3月号/「自然美」として『でたらめろん』に収録)
 或る田舎町の魅力 (「旅」 昭和29年8月号)
 女と社交 (原題「女と社交について――妹麻生和子の存在理由」/「文藝春秋」 昭和30年1月号)
 女子大學の問題 (原題「女子大は撲滅すべきか」/「文藝春秋」 昭和30年12月号)
 保守黨の立場 (原題「保守黨の任務」/「中央公論」 昭和31年2月号)
 牧野伸顯 (「改造文藝」 昭和24年12月号/『でたらめろん』収録)

甘酸つぱい味
 書き出しの言葉
 季節季節
 懐古の情
 新しいもの
 中古のもの
 規格品
 食べもの
 高級なこと
 日本の小説
 地を這ふ文化
 眼の前にあること
 平凡
 浪漫主義
 紙の世界
 言葉の力
 齒と耳
 足
 再び食べものに就て
 飲むこと
 理想
 人間であることに就て
 おでん屋
 東京と大阪
 都市
 家
 古い家
 庭
 自然
 我々の體
 彫刻
 博物館
 バア
 飲み屋
 カフェ
 日本の場合
 生きて行くことと仕事
 暇潰し
 一本の酒
 我々の場合
 他所の場所
 ここ
 昔通り
 機械文明
 未來圖
 時代
 近代
 或る時代
 その頃
 煙草の煙
 戰爭
 戰爭の跡
 亂世
 年月
 日本
 昔話
 歴史の教へ方
 採集
 思ひ出
 縁日
 我々の生活
 趣味
 縮圖
 暇
 現實
 重箱の隅
 技巧
 距離
 歸郷
 執着
 住居
 アパアト
 樂天主義
 暗黒面
 笑ひ
 負け惜み
 眠ること
 お談義
 そつぽを向く
 小事件
 軍部
 海軍
 漸進主義
 明治調
 校長の禿げ頭
 地理
 古人の月
 チンドン屋
 今日のこと
 拙速
 觀點
 釣り合ひ
 暇な人間
 言葉遣ひ
 自分の國の言葉
 まだまだの精神
 傳統
 この一筋の道
 名稱
 息抜き
 おしまひ

解題 (清水徹)




◆本書より◆


「カフェ」より:

「それがフランスのカフェであつて、名目はコオヒイを賣る店なのであるが、それよりもこれは實は、何もしないでぶらぶらしてゐる爲の場所なのである。そして何もしないでゐるのにも道具がなくてはならないから、コオヒイを出し、その他に安ビイルを含めた酒類もあつて、簡單な食事も出來るし、頼めば便箋と封筒、それにペンとインクも持つて來てくれる。新聞は幾通りか綴じて置いてある。だから、カフェに行けば、そこで手紙も書けるし、新聞も讀めるし、そして飲みものや食べものにも不自由せず、フランス人の多くはかういふカフェの一軒で朝の食事をして、それから一日中そこにゐても誰も文句を言ふものはない。手紙を書いたり、新聞を讀んだりする必要が起る毎に、どこかに行かなければならないなら、同じ場所にぶらぶらしてゐることは出來なくて、それでカフェには凡てさういふものが揃へてあるのである。
従つて、本當に何もすることがなければ、さういふ人間が行く場所であることがカフェの役目である。町中であつて、人や乘りものが通るのを眺めてゐるだけでも時間がたつし、飲みものでも何でも何か注文してしまへば、後は一時間でも、一日でも、カフェの人達と沒交渉でただそこにさうしてゐられる。急の用事を思ひ出したならば、電話があり、そのうちに又喉が渇いて來れば、これは説明するまでもない。そして飲みものを飲むのも、電話を掛けるのも、何かすることのうちに殆ど入らなくて、かういふことを書いたのは、日本にもこのやうな場所があつたらどうだらうかと思ふからである。」



「或る時代」より:

「その頃、東京には乞食がゐなかつた。失業者はあつたが、或る外國人が、日本の失業者といふのはその多くが親や親類に養はれてゐるから、その數が幾らと發表されても、外國の失業者とは非常に話が違ふことを指摘したのは、決して事實を歪めたものではなかつた。人を養ふだけの餘裕が人間にあり、文士は一年のうちに仕事らしい仕事を殆どしなくてもどうにか暮して行けて、學生は、こんなことはしてゐられないといふので左翼運動に走る程、(中略)惠まれてゐた。思想の自由が共産主義を許容し、その獨斷的な宣傳も黙視するといふ、近代の典型的な状態をこの時代は呈してゐた。治安維持法や危險思想といふ言葉にも拘らず、共産主義は或る具體的な危險ではなくて、多くの思想があるうちの一つの思想に過ぎなかつたのである。
そして我々は、この豐かな國力を土臺に健全な退屈を經驗してゐた。フランス文學が廣く讀まれて、文學が始めて我々を知的にも悩ましたり、喜ばせたりする一つのはつきりした存在になつた。パリで出たジイドやプルウストの新刊が、一月とたたないうちに東京の街頭にも現れた。その街頭で思ひ出すのは、銀座の尾張町の角近くに、小さな建物の二階でコオヒイを飲ませる所があつたことである。(中略)コオヒイを出すだけの小さな部屋で、窓際に腰掛けると、向うに服部の時計塔とその下の街が見えた。客はいつも二、三人しかゐなくて、それでも結構やつて行ける時代だつたのである。そこでゲルベ・ゾルテといふドイツの煙草を吸ひながら、文學に就て考へた。戦爭が始つて、物資が缺乏して行つたことは皆言ふが、そこで日本でも近代が終つたことに就ては、黙つてゐる。」



「その頃」より:

「當時はまだ文學が一つの情熱であり、情熱以外のものではあり得なかつた。賣れなくて、誰も文學で一儲けしようなどとは思はなかつたからである。」
「本を一冊出すといふことが、既にその著者にとつては大變なことだつた。原稿が一冊分溜れば、自動的に本になるといふものではなくて、それにさう原稿は溜らず、そんなに書く必要もないし、書くこともそれが稼ぎの手段である以上に、一つの仕事だつたから、今日のやうにやたらに書ける譯がなかつた。それで、毎月出る本はもつと粒選りだつたといふ氣がする。本といふものがさう賣れず、それでも賣れただけで採算が取れるならば、一冊毎に印刷、造本に念を入れた限定版の出版を始めるものが出て來たのも當然だつた。江川書房といふ限定版專門の本屋が名乘りを上げて、堀辰雄の「聖家族」といふ短篇がこの本屋から一冊で出たのを覺えてゐる。眞白なケント紙に刷つてあつて、白いボオル紙の箱が二重になつた、凝つたものだつた。
つまり、妙な言ひ方かも知れないが、文士の生活がまだ文學、或は文學といふ名が付いた事業に脅されてゐなかつたから、それはもつと街の生活とも結び付いてゐた。」
「我々は、誰かの作品が一つ世に出る毎に興味を持つた。これからしなければならない仕事が澤山ある氣がして、それには海外からの強い刺戟もあつた。併し兎に角、頭ではさういふことを考へてゐて、體は新宿の横丁を歩いてゐたり、淺草をうろついてゐたり、銀座の不二屋の隅でコオヒイを飲んでゐたりした。(中略)その頃は、本當にハイカラな喫茶店などといふものもあつて、そこには實際にハイカラな人間が集り、その中に文士が混じつてゐることもあつた。音樂會は、音樂が好きな人間が聞きに來るものだつた。毎年、秋に二科展を見に行つて、その歸りに上野の景色に差す光線に秋が來たのを感じた。文化といふ言葉がまだ珍しくて、恐らく當時の日本は、世界でも有數の文明國だつたのである。」



「採集」より:

「話は飛ぶが、江戸時代に布かれた鎖國令のことを思ふと、いつも不思議な氣がする。これに就ては戰前から戰爭中に掛けて、日本の軍部は今日の左翼歴史觀の人達に劣らない單純な考へ方をしてゐて、もし家光の時代にあんな消極的な政策を取らなかつたならば、當時のヨオロツパ諸國が盛にやつてゐた植民地獲得競爭に參加することが出來て、今頃は名ばかりではない大日本帝國が出來上つてゐたのにと頻りに口惜しがつたものだつた。併しあの時、鎖國令を出すことがそんなに消極的なことだつただらうか。貿易や植民地の獲得による利益に目もくれずに、二百五十年間の平和といふ世界史上の記録を作る基礎を築き、その間に日本を文化的に充實させる機會を日本人に與へたのは、大したことである。家光がやつたことではないならば、老中に偉い人間がゐたのに違ひない。」


「技巧」より:

「「聊齋志異」に、こんな話がある。或る村の青年がお祭で一人の美しい少女に會ひ、又の日を約束して別れるが、それ切りになつて、青年は少女が戀しくてたまらず、教へられた通りの山奥の村に使をやることを思ひ付いても、誰もそんな村があることを聞いたことがない。それで自分で出掛けて行くと、村がある筈の邊りに木が茂つてゐる庭に圍まれた屋敷があつて、庭にはその女がゐる。青年は入つて行つて、女にその老母に引き合され、その家が青年の親類筋に當ることが解つて、一日そこの客になる。
女は美しいが、笑つてばかりゐて、花に蔽はれた木に登つて下にゐる青年を見ながら、まだ笑つてゐる。青年が結婚の申し込みをしても、その意味が女には解らない様子で、青年が説明すると、女は、自分は人と寝るのは嫌ひだと答へる。そして母親に、青年が説明したことをそのまま傳へようとするので、青年は慌てて止める。といふ風なことがあつて、結局、話が纏り、青年は女を連れて自分の村に歸り、そして初めの態度に似合はず、女はいい嫁になつて、二人は青年の家で幸福に暮す。そのうちに、男の子が生れて、女は青年が山奥の屋敷で會つた婆さんは青年の家と縁があつた狐で、自分もその狐の子であり、屋敷は母狐が埋めてある塚だつたことを打ち明けるが、その後何も怪しいことは起らず、男の子は役人になり、二人は無事に一生を過す。
さういふ、お伽噺とも、怪談とも付かない話なのであるが、我々がこれを讀んでゐて、少くともその間だけは書いてあることを信じるのは、例へば、花を付けた木に登つて女が笑ひ續ける所や、女と青年の問答が、確かにその通りだつたのだと、我々が現實に就て知つた現實といふもののあり方から直感する爲である。そしてもしそれが現實だつたならば、全くそのやうである他なかつたのだといふことは、それが現實だつたことなので、實際にあつたかなかつたかは二の次の問題になる。」



「お談義」より:

「現實に密着するといふいやな言ひ方がある。蠅が蠅取り紙にくつ付いてゐるやうなべたべたした感じがするが、これも現實から遊離するだの、(中略)逃避するだのといふ、まるで現實といふのがそこに我々が密着してゐなければならないものだといふ風な、欲張りが財布をしつかり握つてゐるのに似た考へから生れて來たものに相違ない。」


「そつぽを向く」より:

「皆が、ハイル・ヒツトラアと言つてゐる時に、自分も右手だか、左手だかを擧げて、ハイル・ヒツトラアと言ふのは少しも面白くないことなのであつて、面白くないのみならず、その間我々は夢遊病者も同樣に行動してゐるのである。そこには一點の疑念もなくて、さういふことを我々は一切、ハイル・ヒツトラア、或は親には孝、或は又民主主義に預けてゐるのであり、さうしなくては申し譯ない相手が、あの世間樣といふ言葉に要約されてゐる。世間樣に對して申し譯がないから、我々は世間樣が言ふ通りになり、世の中はと講釋する横丁の御隠居、或は、今日の社會はと演説する知識人に耳を傾け、我々の精神は休業状態にあるのだから、それは夢遊病者と同じことではないだらうか。千萬人と雖も、と誰か偉い人が言ふと、千萬人と雖も、と千萬の人間が言つて、歩調を揃へて歩き出す。それに一度逆つて反對の方向に歩いて行つて見たら、孟子の言葉も少しは生きるかも知れない。」




















































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プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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