『吉田健一著作集 IX 近代詩に就て/英語と英國と英國人』

「夏休みは宿題で過し、夏が終つたか終らないうちにもう又、學校が始るのでは、夏も秋もあつたものではない譯である。お花見の騒々しさが年中續いてゐて、それもお花見氣分でのことではなしに、勉強と稼ぎに明け暮れしてなのだからやり切れない。」
(吉田健一 「英國の四季」 より)


『吉田健一著作集 IX 
近代詩に就て/英語と英國と英國人』


監修: 石川淳・河上徹太郎・中村光夫
編輯委員: 篠田一士・清水徹・丸谷才一

集英社 昭和54年5月20日第1刷印刷/同年6月4日発行
373p 四六判 丸背布装上製本 貼函 定価2,000円
装幀: 栃折久美子
本文正字・正かな



清水徹「解題」より:

「『近代詩に就て』に収められた文章の大部分は、執筆の日付から言えば(中略)最初期に属するものであり、しかも《近代》という著者の生涯の主題が、ここですでにきわめて鮮明なかたちで追究・展開されているという事実は、いくら強調しても強調しすぎることはあるまい。」

『近代詩に就て』初版は、『近代文學論』(垂水書房 昭和32年10月)の後半に収められた三篇のフランス文学についてのエッセイにラフォルグの詩集「最後の詩」の翻訳を加えて『近代詩について』(垂水書房刊 昭和35年6月)として刊行。その後、垂水書房版著作集第三巻(昭和37年4月刊)、垂水叢書17(昭和41年5月刊)、『ポエティカ』第一巻(小澤書店 昭和49年10月刊)に、それぞれ内容を変更しつつ収録された。本巻では収録内容は『ポエティカ』に従い、本文は垂水書房版著作集その他を底本としている。
『英語と英國と英國人』初版は、『英語上達法』(垂水書房 昭和32年7月)、『随筆英語上達法』(垂水書房 昭和36年6月)収録エッセイを中心に、英語および英国について書かれた文章を集成して『英語と英國と英國人と』(垂水書房 昭和35年8月)として刊行された。
本巻における底本は垂水書房版著作集第十六巻(昭和40年11月)。


吉田健一著作集9


目次 (初出):

近代詩に就て
 近代に於る純粋の觀念に就て (「批評」 昭和17年10月号)
 ラフォルグ (原題「ラフォルグ論」/「文學界」 昭和14年1月号/『ハムレット異聞』初収)
 ヴァレリイ (『文学あちらこちら』初収「ポオル・ヴァレリイ」)
  1 (原題「ヴァレリイの詩に關する試論」「ヴァレリイの詩」/「新潮」 昭和14年11月号 および 「批評」 昭和15年1月号)
  2 (原題「ヴァレリイ論」/「批評」 昭和15年11月号~昭和16年1月号)
  3 (初出未詳)
 ボオドレエル 
  1 (初出未詳)
  2 (原題「『惡の華』をめぐりて――古典性と近代性」/「批評」第9巻第2号 ボオドレエル特輯 昭和23年3月)
 近代と頽廢 (「批評」 ’68夏季号/『餘生の文學』初収)

英語と英國と英國人
 英語 (「英語教育」 昭和35年4月号)
 英語教育に就て (「英語教育」 昭和34年6月号)
 英語上達法 (「別冊文藝春秋」 昭和30年10月号)
 續英語上達法 (「英語教育」 昭和33年1月号)
 英語修得法 (原題「英文直読、直解のすすめ」/「ユース・コンパニオン」 昭和31年10月号)
 讀むことと話すこと (「ユース・コンパニオン」 昭和31年8月号)
 英語と英會話 (原題「話し言葉の面白さ」/「ユース・コンパニオン」 昭和31年11月号)
 英作文に就て (原題「読むことと書くこと」/「ユース・コンパニオン」 昭和31年12月号)
 英語の感覺 (原題「或る言葉を美しいと感ずる心」/「ユース・コンパニオン」 昭和32年5月号)
 英語と英文學 (「英語教育」 昭和32年4月号)
 戰後の英語教育 (「英語教育」 昭和31年1月号/『文学あちらこちら』初収)
 二十四時間勤務 (初出未詳)
 英國の文學といふもの (「英語青年」 昭和29年5月号/『文学あちらこちら』初収)
 語學と文學 (原題「英語学と英文学」/「ユース・コンパニオン」 昭和31年9月号)
 英文學と英語學 (「ユース・コンパニオン」 昭和32年12月号)
 私の修業時代 (「英語研究」 昭和32年7月号)
 文學以外 (『英語教育」 昭和33年8月号)
 チャアチルと沙翁の臺詞 (「藝術新潮」 昭和26年12月号/『でたらめろん』初収)
     *
 英國再檢討 (原題「イギリスの再檢討」/初出未詳)
 感想 (原題「〈帰朝談〉の阿呆らしさ」/「文藝春秋」 昭和28年11月号/『でたらめろん』初収)
 旅の印象 (原題「英國の佳さ惡さ」/「旅」 昭和28年12月号/『でたらめろん』初収)
 英國點描 (「旅」 昭和28年11月号/『でたらめろん』初収「點描」)
 マンチェスタア漫歩 (「ユース・コンパニオン」 昭和32年1月号)
 チェスタア (初出未詳)
 ロンドンの公園めぐり (初出未詳)
 ロンドンの公園と郊外 (初出未詳)
 英國の四季
  1 (原題「英国の厳冬とエヴェレスト征服」/「ユース・コンパニオン」 昭和32年3月号)
  2 (原題「イギリスの春と春の詩」/同 昭和33年4月号)
  3 (原題「美しく、短かすぎる夏」/同 昭和32年8月号)
  4 (原題「イギリスの秋に寄す」/同 昭和32年10月号)
  5 (原題「英国の秋」/同 昭和33年11月号)
  6 (原題「イギリスの冬の楽しさ」/同 昭和33年2月号)
 日光浴 (原題「英国の夏――海水浴と日光浴」/「ユース・コンパニオン」 昭和33年8月号)
 英國のビイル (原題「忘れえぬイギリスの味」/「ユース・コンパニオン」 昭和32年9月号)
 英國のクラブ (原題「イギリスのクラブ」/「あるびよん」 昭和29年9月号)
 英國の料理 (初出未詳)
 食べものと飲みもの (原題「英国の食べもの」/「あまカラ」 昭和28年12月号、昭和29年1月号/『でたらめろん』初収)
 飲んで食べた思ひ出 (「東京新聞」 昭和28年9月15日、16日/『でたらめろん』初収)
 英國人の食べもの (「ユース・コンパニオン」 昭和33年5月号)
 お茶の時間 (原題「英国人とお茶」/「ユース・コンパニオン」 昭和33年6月号)
 パンとバタ (原題「英国人がパンにつけるもの」/「ユース・コンパニオン」 昭和33年7月号)
     *
 國民性 (「讀賣新聞」 昭和28年10月22日号/『でたらめろん』初収)
 對日感情 (原題「英國紳士の對日感情」/「新潮」 昭和28年11月号/『でたらめろん』初収)
 英國の落ち着きといふこと (「ユース・コンパニオン」 昭和32年2月号)
 シェイクスピア (原題「英本国のシェクスピア」/「ユース・コンパニオン」 昭和32年4月号)
 英國人に就て (原題「紳士ではない英国人の話」/「ユース・コンパニオン」 昭和32年6月号)
 常識 (原題「英国人の常識と個人主義」/「ユース・コンパニオン」 昭和32年7月号)

解題 (清水徹)




◆本書より◆


「ラフォルグ」より:

「ラフォルグは、近代に於る人間行爲の著しい乏しさを熟知して、その理論を完全に身に付けてしまつてから世に登場した人間だつた。彼は意義をまだ豐富に、冷酷に殘つてゐる過去にしか認め得ず、既に生きてゐないそれ等のものの徐々に朽ち果てて行く有樣が、彼の眼には美として映つた。即ち近代には、過去の絢爛たる死體に接して漸く勢付く程度の生命力しか殘つてゐないことを彼は知つてゐた。凡てが既にある近代に於ては、過去への囘顧と頽廢の賞玩との他に生甲斐のある行爲はなかつた。唯物的な蟻の世界も、彼にとつては輝かしい未来ではなく、一つの不愉快な結論だつた。ワツトオの繪に於る、時のせゐでか眞黑な背景が浮び上らせてゐる宮廷人のきらびやかな絹の衣裳の光澤を思ひ出すべきである。ワツトオの繪の絹の艷が、ラフォルグの詩人としての身上だつた。
即ち近代の救ひをラフォルグに求めることは出來ない。それはヴァレリイに待つべきである。併しながら、私が言ふ近代、即ち十九世紀の終りから第一次世界大戦後に至るまでの、未曾有の文化的な頽廢期が今日まだ充分に現實である時、私はその近代の、我々凡てに親しい特徴や惡徳、「周知のごとき騒音をこらへ、嘔吐を催すやうな臭ひや、強烈な、或は極度に對照的な照明に曝され、……どぎつい興奮劑や、極度に調子外れの音や、恐ろしく強い飲物や、短時間の獸的な感情が必要なのである」(ヴァレリイ、「精神の政治學」)。近代の空ろさを、半ば豫見的にせよ、ラフォルグ程見事に抒情し得た詩人を他に知らないのである。」



「英國點描」より:

「要するに、五時か五時半から後が娯樂と社交の時間で、そして何かの形での社交が英國人の主な娯樂なのだといふ印象を受けた。家庭生活も一種の洗練された社交になつてゐることは、英國の小説を讀んで見ても解る。
それだけに、ロンドンのやうな都會で一人で暮すといふことがどんなことなのか、想像を絶するものがある。他人には干渉しないといふ不文律がどこででも行はれてゐることは、自分が付き合つてゐる人間以外に、誰にも構つて貰へないといふことでもあり、それが嚴守されてゐる世界に一人でゐれば、孤獨といふものの味を否應なしに噛み締めて生きて行くことになる。そしてさういふ人種が事實、公園のベンチや、バスの二階や、クラブの片隅で煙草を吸つたりしてゐるのを見掛けることがあつて、この英國的な嫌人思想に比べれば、ボオドレエルからショオペンハウエルに至るまでの大陸の厭世主義などは、恐しく安手なものではないかといふ感じがして來る。それとも、ロンドンの人間が噛み締めてゐるのは、もつと何か豐かなものなのだらうか。」



「英國の四季」より:

「フイツィンハといふオランダの歴史家によれば、中世紀のヨオロツパでは何もかも極端な對照をなすのが特色だつたので、華麗の脇に貧苦があり、粗野が甘美と同居してゐたのださうである。」
「或る種の切實に豐かな効果はさうした對照からしか得られなくて、例へば、我々は死を思ふ時に、一番生きてゐる喜びを感じる。
英國の秋にもさういふものがあつて、やがて英國の冬が來ることをこつちで考へなくても、自然の方がそれを知つてゐて最後の宴を張ると言つた具合なのである。
そしてその有樣を見て、やがて冬が來ることをこつちも感じないではゐられない。豪奢の極致には既に少しばかり死の腐敗臭が混じつてゐて、それだから極致なのであり、又その爲に却つて一種の生々しさがそこに漂ふ。これはただの形容ではなく、色とりどりに紅葉した木の下では、もう落ち葉が濕つて腐り掛けてゐて、その匂ひにも秋の日差しの温みがあり、匂ひといふこの別な感覺で眼で見てゐるものの美しさを支へてくれる。
英國の秋がはつきり秋であるのは、一つには學校が九月の末、或はもつと後でなければ始らないからである。大學は十月になつてからのことで、つまり、秋も夏休みの中に入り、一夏ゆつくりした後で、その延長の上で秋が來ればそれを感じないではゐられない譯である。
我々日本人は四季の變化に敏感であることになつてゐて、確かに割合に最近までは、その變化に他所では見られない微妙なものがあつたが、今日ではさういふものが假にまだあつても、我々の生活の方がそれを認めるのに適してゐないのではないかと思ふ。
夏休みは宿題で過し、夏が終つたか終らないうちにもう又、學校が始るのでは、夏も秋もあつたものではない譯である。お花見の騒々しさが年中續いてゐて、それもお花見氣分でのことではなしに、勉強と稼ぎに明け暮れしてなのだからやり切れない。
英國の秋といふことに就て書いてゐるとここに一つ面白い問題が頭に浮ぶ。それは、四季の變化が大事か、それとも勉強して成績を上げることかといふ、見方によつては單純な性質のものなのである。併し大概のものはこれに對して、勉強することだと答へるに違ひない。」



「英國の落ち着きといふこと」より:

「スコツトランドのエディンバラに毎年、藝術祭といふものが催されて、これには英國は勿論、ヨオロッパ各國の一流の劇團や、歌劇團や、管絃樂團や舞踊團が参加して、一ヶ月ばかりの間、藝術祭と呼んでも少しも可笑しくない豪奢な番組が町の方々の小屋で樂める。丁度、英國にゐる時に、この藝術祭があつたので、英國人に案内して貰つてエディンバラまで行つて見た。旅程の都合で一日しかなくて、番組のうちで何か一つしか選ぶことが出來なかつたから、オォルド・ヴィツク座が「ハムレツト」をやつてゐるのを見物することにした。その出來榮えのことはこの話とは關係がないので、要するに、これも汽車の都合で、この生れて始めて見たといふ感じがする「ハムレツト」の途中から驛に引き返さなければならず、案内の英國人と二人で殘念に思ひながら、第四幕でハムレツトが英國に行かされる場面の後で劇場を出て、タクシで驛に向つた。そしてその途中でその英國人は、確かに「ハムレツト」は面白い芝居だと言つてから、
 「あすこから先はどうなるのです、」と聞いたのである。
これが英國と英國人に見られる落ち着きなのだと説明するのが一番、事實に合つてゐる氣がする。これと逆の場合を考へればいいのであつて、もし我々が外國人を歌舞伎を見に連れて行くことになつたらば、自分が知らない出しものの筋を前以て讀んで行く位のことはする筈である。或は少くとも、相手に何か聞かれたら、知らないことでも知つたか振りの返事をするに違ひないし、兎に角、あの芝居の先はどうなるのだと相手に聞いたりする氣遣ひは絶對にない。これは何も、日本人は虚榮心が強いとか、外國人に馬鹿丁寧だとかいふことなのではなくて、ただ案内役を引き受けさせられれば、その方が先に立つて、他のことが考へられなくなるやうなものが何か今日の日本の空氣にあり、それが外國人を案内するのに限らず、凡てのことに及んで、我々を落ち着かなくさせてゐるのである。
併し英國人にして見れば、シェイクスピアが英國の劇作家だからと言つて、シェイクスピアの作品を全部知つてゐなければならないといふことはない。一つも知らなくても、實際には別にどうといふことはないので、「ハムレツト」が如何に有名でも、劇文學に興味がない人間ならば、それ切りの話である。何々位は知つて置かなければといふことが日本にはあるが、さういふもので是非とも知つてゐなければならないものは殆どなくて、從つて我々はこれを知つてゐはしない。知つて置かなければならないことになつてゐることが多過ぎる一方、本當は誰も知つてはゐないのだから、ただ氣忙しい思ひをするばかりである。そしてそれを一度認めれば、自分が知らないことを人に聞くのは恥ではないし、相手が外國人でも、英文學者だとか、歌舞伎の研究家だとかいふ觸れ込みならば、自分の國の芝居に就て知らないことを教へてくれるといふこともあり得る。つまり、「ハムレツト」がどう終るか、英國人が日本人に聞いても少しも可笑しくないのである。
併しかういふ考へ方をすると日本では、ノンキダネといふことになる。それでさういふノンキな話をもう一つして置く。かうしてノンキでゐられるのは、銘々が自分の生活に何か安定したものを持つてゐて、その自分の立場からものごとを判斷して暮してゐるからなのであるが、それ故に英國に行つても、人からもの珍しさうに見られるといふことが殆どない。英國だから英國人しか住んでゐないなどと誰も思つてはゐないので、英國も廣い世界の一部である以上、どこの國のどんな人間が來るか解らず、從つて、來た所で別に驚くことはないといふ譯なのである。」
「だから、日本人が英國に行つても、その點は實に氣樂である。その昔、英國で日本人が、日本は支那の屬國かと聞かれて憤慨したといふことを聞いたことがあるが、我々はさう世界中の國の名前を知つてゐる譯には行かない。日本といふ餘り聞いたことがない名前にぶつかつて、それがどこか東洋の國だと解れば、その日本が支那の屬國の一つかも知れないといふ考へが浮んだ所で、これも別にどうといふことはないのである。」







































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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