『吉田健一著作集 XII 不信心/横道に逸れた文學論』

『吉田健一著作集 XII 
不信心/横道に逸れた文學論』


監修: 石川淳・河上徹太郎・中村光夫
編輯委員: 篠田一士・清水徹・丸谷才一

集英社 昭和54年8月20日第1刷印刷/同年9月4日発行
364p 四六判 丸背布装上製本 貼函 定価2,000円
装幀: 栃折久美子
本文正字・正かな



『不信心』初版は昭和37年朝日新聞社刊。本巻における底本は原書房版『吉田健一全集』第十巻。
『横道に逸れた文學論』初版は昭和37年10月文藝春秋新社刊。「収録内容および排列順は、著者によって編集された最終形態である『ポエティカ』第二巻所載のものに従い、本文は『日本の現代文學』からここに移された四篇については垂水書房版『吉田健一著作集』第十四巻所載のものを底本とし、それ以外の部分(中略)については、(中略)初版本にもとづき、正字旧仮名に改めて本文を定めた。」(清水徹による「解題」より)。


吉田健一著作集12


目次:

不信心
 不信心――序にかへて (書き下ろし)
 象牙の塔から誰が出たのか (「新潮」 昭和35年9月号)
 知識人と政治 (発表紙未詳 昭和35年11月15日)
 命が惜しいことに就て (「中央公論」 昭和36年6月号)
 擬態 (「中央公論」 昭和37年5月号)
 古い話 (「紳士読本」 昭和36年6月~昭和37年1月)
  1~8
 日本の風俗 (「中部日本新聞」 昭和37年1月~6月)
  1~6
 日本のよさ (書き下ろし)

横道に逸れた文學論
 讀者の立場から見た今日の日本文學 (『日本文化研究』第四巻 新潮社 昭和34年4月)
 文學昨今 (原題「文学は儲るか」/「早稲田文学」 昭和34年6月号)
 戰後の文學 (「群像」 昭和34年8月号)
 大衆と文學 (「読売新聞」 昭和34年8月28日号、29日号)
 横道に逸れた文學論 (「文學界」 昭和36年1月号~6月号)
 日本の批評家と小説家 (「自由」 昭和36年6月号)
 文學の目的 (初出未詳)
 讀物と文學 (「読売新聞」 昭和35年6月11日)
 一つの報告 (原題「現代文学の条件」上中下/「東京新聞」 昭和36年2月23、24、26日号)
 文學の範圍 (「東京新聞」 昭和36年11月4日号~6日号)
 二種類の文學 (「風景」 昭和37年5月号)
 文學の正體 (初出未詳)
 言葉に就て (「學鐙」 昭和37年6月号)
 文學の位置 (「文學界」 昭和37年8月号)
 飜譯論 (「聲」 第九号 昭和35年10月)

解題 (清水徹)




◆本書より◆


「古い話」より:

「アラビアの「千夜一夜」には、もしこのことが讀むものの眼に針で刻み付けられれば、非常に役に立つことがあるだらうといふ言葉が物語の途中によく出て來る。所が、その書いてあることがひどい惡人がこの世で適當にやつて成功したりする話で、惡いことを教へる他には餘り誰の役にも立ちさうもない感じがするのであるが、何度かこの物語を讀み返して樂んでゐるうちに、それがさうではなくなる。役に立つといふやうな言葉が使つてあるものだから、我々の方で精神修養とか、そんな意味のことなのだと早合點してしまふのである。
大體、本を讀んで心から前非を悔い、といふやうなことがもしあつたら、隨分妙なものである。そして「千夜一夜」を讀んでも勿論、そんなことにはならなくて、我々はただアラビア人の世界をさ迷ひ、間もなく自分と、物語に登場する人物の見分けが付かなくなる。併しそのアラビア人の世界といふのが人間の世界にあつた最も高度の文明の一つに屬するもので、我々は少くともこの物語を讀んでゐる間、そこに出て來る人物と同樣に洗練された精神の持主になつて振舞ひ、野暮を嫌ひ、けちであることを罪惡よりももつと惡いことに考へて、これを精神修養と呼ぶには大變な解説が必要になる譯であるが、兎に角、我々はさういふアラビア人になつて自由といふものの味を知る。アラビアといふ所自體が青空の下に平地がどこまでも續いてゐて、廣々としてゐるらしい。併しそれとどういふ關係があるのでも、アラビア人が文明を理解し、屈託がないといふこと以上に、細かに頭を、又、心を働かせる民族であることが、「千夜一夜」の人物達の行動にも現れてゐて、それによつて我々も自由といふのが、どこにも油が切れてゐない精密な機械のやうな精神に與へられるものであることを納得する。」



「日本の風俗」より:

「先日、新聞を讀んでゐたら、何日だつたか一日だけ、東京で人間が交通事故で一人も死ななかつた日があつたと出てゐた。その方の最低記録といふ譯であるが、それが大變いいことだと思へば、却つて寒氣がする。つまり、現在では人間が毎日、何人か交通事故で死ぬのが當り前になつてゐて、死者がゐないのは新聞種になる位、珍しいことなのである。併しこれが日本腦炎とか、さういふ病氣で人間が毎日、それも年がら年中、三人、五人と死んで行くのだつたとしたら、我々が警察の掲示を見て、昨日は六人、なる程と思ふだけで、もう忘れてしまふといふやうなことはない筈である。さうすると、我々は機械に關する限り、神經がどうかなつてしまつてゐることになる。」


「大衆と文學」より:

「日本の現代文學では、讀めることが文學の目標、或は少くとも、一般に認められた原則になつてゐない。そこに、その一部をなしてゐる大衆文學といふものの意味があるので、この名稱が普通に與へられてゐる作品では、我々が文學と考へる凡ての作品でと同樣に、誰にでも讀めることが第一の、或は最低の條件であつて、その成否は兎も角、もし讀めなければ作品にならないことを書く方で知つてゐる。」

「大衆は多勢の人間であることを忘れてはならない。從つて、銘々の人間の好みは違ひ、同じ人間の好みが變ることもある。(中略)併しここで指す選擇は、讀める作品の範圍内で行はれる。それは高下の問題ではなくて、好みであり、又、作品といふものの性質を考へるならば、讀める、讀めない、といふのは、文學であるか、ないかといふこと以外に例へば、エリオツトとモオムのどつちが上かといふやうなことは言へないことが解る筈である。」

「凡ては同じ言葉といふものの働きなのである。そしてそのことから我々は日本の大衆文學の問題に戻つて來られるので、我々はそこに少くとも、言葉が單位になつてゐる世界を見る。といふのは、それが掛け値なしの文學の世界なのであつて、喩へて言へば、取り澄した人間ばかりの集りを離れてやくざの社會に入る時、始めて人間らしい人間に會つた思ひをするのと同樣に、我々は大衆文學と呼ばれてゐる作品を讀んで文學の上での正氣に返る。所が、やくざはやくざ自身が人間の社會の外にあることを認めてゐるのに對して、その同じやくざの比喩を用ゐるならば、文學の世界ではやくざであることが、といふのは、眞實の人間であることが絶對に要請されてゐるのであつて、この一線を踏み越えた時に、我々は文學の世界にゐなくなる。小説といふものがあるにも拘らず、文學の世界でも嘘をつくことは恥なのである。」



「横道に逸れた文學論」より:

「幕末の頃にはまだ日本に確かに文學があつたといふことは、讀者が實在したといふことなので、例の、女子供といふ部類に屬してゐる人間が、今日では國文學といふ名稱で扱はれてゐるものを讀んでゐたことがそのことを何よりも明かに示してゐる。好事家がどんなにひねくれたものを讀んだ所で、それは文學が健在であることにはならない。駄菓子を買ふのと同じ氣持で三馬を、或は秋成を讀む人間がゐるのでなければ、文學は過去のものになる。
明治の頃にはまだ家庭の女が鴎外を讀んでゐた。といふことは、小説の書き方を勉強して一旗擧げませうといふのでもなければ、何々先生の解説を手引きに明治文學の研究をやらうといふのでもない人間が芝居を見に行つたり、長唄の稽古をしたりする位の積りで(中略)、ただ本を讀んだといふことなので、ここで言ふ家庭の女は、本を讀む暇がある他のどういふ人間と置き換へても差し支へない。そしてそれは鴎外であつて、(中略)それは(中略)高級なものが讀まれたといふことでもなくて、讀まれたのが兎に角、文學だつたといふことなのである。文學でありさへすれば、それが高級だらうと、低級だらうと、大體、同じ文學に高級と低級といふやうな區別を設けることが既に意味をなさないが、この場合、讀者は高級であつてはならないのである。」

「大切なのは、書くものと讀むものが實際には同一の人間であると見て差し支へない以上、讀むものが自分で讀んでゐるものを書いてゐる氣になつてこそ、その中に引き入れられるのであるのは勿論のこと、書く方も、自分の中の讀者、といふのは、自分が本を讀む時の讀者を見失つては碌なものが書けないといふことである。文學の根本がそこにあつて、自分が曾て本を讀んで達した状態が自分で書く時に目指すものにもなり、又、書いてゐることの可否を驗す材料にもなる。知識人と彼等が媚びてゐる積りの民衆の關係はここでは成立しなくて、エリオツトなんか、批評家の仕事は作品の解明と趣味の是正にあるなどと、よくもぬけぬけ言へたものだと思ふ。他人の趣味を是正するには、自分の方がいい趣味の持主であることが前提になつてゐなければならない。又、他人に解らない作品の意味が何故、自分には解るのか。これを、書くものと讀むものが不可分であることに照せば、自分よりもものを知つてゐるといふ態度でお説教する人間のやうに不愉快なものはない。」

「併し我々は猥本を讀んでゐても、ここに何かが確かに語られたと思ふことがある。それを書くことが文學であるだけで充分な筈である。」

「曾ては文士などといふのは、皆どうかしてゐることになつてゐた。その理由は色々あつたのに違ひなくて、(中略)その一つに、文學の仕事が當時の社會から食み出したものだつたといふことが擧げてあるのは、これは見方による。(中略)文學の仕事が完全に社會の枠内にあるのは支那とか、ロオマとか、古今東西に餘り類例がない極度に洗練された文明に限られたことなのであつて、明治の日本の文士達だけが社會から疎外を食つてゐた譯ではない。(中略)普通、社會から食み出してゐないやうな文學はその社會にとつて必要でないといふのは逆説ではなくて、極めて單純な事實なのである。
それ故に、彼等が疎外されてゐたこと自體を怪むことはないので、その仕事が實つて日本の現代文学は疎外されたまま、社會的にも認められることになるのでなければならなかつた。つまり、社會的に認められるのが凡てではないのである。」



「文學の目的」より:

「文學は言葉であり、言葉が有效に使はれれば、それは我々の精神を全幅的に搖り動かすに至り、精神はやがて搖り動かなくなつて、平靜に戻る。この作用は他の材料を通しても行はれるが、言葉にもそれがあり、言葉がその作用を人間の精神に及ぼすのが文學である。從つて小説に限らず、手紙でも、報告書でも文學であり得て、或る人間の優れた言葉に存分小突き廻された後は、精神は靜止する。これを指して、文學は言葉を通して無に歸する業だと、この頃は思つてゐる。讀むだけでなくて、書く時も同じである。」


「文學の範圍」より:

「人間は、誰のどういふ作品に出て來ようと、人間であることに變りはない。これは文學では、作品と作品を區別し、比較し、要するに、それぞれの作品がその作品であることを確認することは出來ても、その優劣を論じる方法も、根據もないといふことと同じである。それは、人間の優劣を論じることは出來ないからであつて、或る人間を他の人間の上に置くことが普通に行はれてゐる場所は文學の材料ではあつても、文學の仕事はそこではなされない。
無數の人間がゐることが一つの人間像を作り、そのことに即して無數の人間像が得られるものならば、無數の作品が集つて文學の世界をなし、文學といふのはそれ以外のものではない。エリオツトではないが、そのことが解らなくて傳統などといふことにどれだけの意味があるだらうか。」




































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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