『吉田健一著作集 VII 英國の近代文學/ひまつぶし』

『吉田健一著作集 VII 
英國の近代文學/ひまつぶし』


監修: 石川淳・河上徹太郎・中村光夫
編輯委員: 篠田一士・清水徹・丸谷才一

集英社 昭和54年3月20日第1刷印刷/同年4月4日発行
406p 四六判 丸背布装上製本 貼函 定価2,000円
装幀: 栃折久美子
本文正字・正かな

月報 8p
吉田さんの優しさ(辻井喬)/十九歳の頃から(幾野宏)



清水徹による「解題」より:

「本文校訂において引用文は、特別な場合を除き、著者による翻訳が上梓されたものはそれに従った。」

『英國の近代文學』初版は昭和34年10月垂水書房刊。垂水書房版『吉田健一著作集』第十三巻を底本とし、筑摩叢書版(昭和49年7月)の著者による訂正を取り入れている。
『ひまつぶし』初版は昭和34年11月講談社刊。本巻における底本は垂水書房版著作集第七巻。


吉田健一著作集7


目次:

英國の近代文學
 I ワイルド (原題「近代文學論」/「文學界」 昭和32年2月号/『近代文學論』初収)
 II シモンズ、ヒュウム (『近代文學論』初収)
 III エリオツト (『近代文學論』初収)
 IV リチャアヅ、エムプソン、リイヴィス (『近代文學論』初収)
 V ストレエチェイ (『近代文學論』初収)
 VI イエイツ (「聲」 創刊号 昭和33年10月)
 VII エリオツト (「聲」 第2号 昭和34年1月)
 VIII ホツプキンス (「英文学風景」 第1冊 昭和33年12月)
 IX トオマス、ルイス (「英文学風景」 第2冊 昭和34年3月)
 X ロレンス 
 XI ジョイス (以上二篇 原題「ロレンスとジョイス」/「聲」 第3号 昭和34年4月)
 XII ウォオ (「英文学風景」 第3冊 昭和34年7月)

ひまつぶし
 ひまつぶし (「婦人画報」 昭和33年1月~12月号)
  爐端
  早合點
  流行
  普通の食べもの
  他所行き
  一息つくにも
  ピアノ
  眠る町
  一つの言葉
  日本食
  移り變り
  平和
 毛竝 (昭和33年9月執筆)
 日本人であることの不安 (「文藝春秋」 昭和33年6月号)
 日本語に就て 
  1~15 (「北海道新聞」)
  16~17 (「隨筆サンケイ」 昭和33年7月号)
  18~22 (「群像」 昭和33年8月号)

解題 (清水徹)




◆本書より◆


「ワイルド」より:

「英國では、近代はワイルドから始る。」

「人間は、人間の概念を失つても、存在しなくなるのではない。併し存在しながら、それを實感する状態にないのは不都合であつて、何れは自分が人間であることを再び認める方に人間は引き戻される。或は、凡ての方面に分析を進めて行つて中心が空虚になつた時に、そこをもう一度、人間といふものが占める。(中略)そしてもしさういふ意味で近代が一種の人間喪失の時代だつたならば、それは今度の戦爭で終つて(中略)、その後は如何に足を引き摺つてであつても、我々は現代といふ人間再建の時代に向ひつつあるのだと考へなければならない。」
「ワイルドは近代といふ時代の精神に通曉してゐる點では近代人であり、大體、それ以外にこのことを判定する基準はない。併しそれが彼から人間の實感を奪ふことはなくて、そのことが彼の近代に對する批評に、近代の批評にはなくても構はない何か一種の爽快な幅を持たせてゐる。(中略)彼は人間の肉聲を忘れもしなければ、又、忘れようともしなかつた人間であつて、彼がその最も重要な批評を對話體で書いたことも注目に價する。そしてこのことに就て我々は彼のうちに(中略)、一箇の古典學者を認めることが出來るが、彼が古典學者であることを止めなかつたのは、彼の場合は英國の文學の傳統といふものを我々に思はせる。英國では、人間は自分を見失ふ前に自分の骨を、又その骨が何れは土になることを意識する。ワイルドの近代精神を支へてゐたものは、英國人の肉體だつた。」



「シモンズ、ヒュウム」より:

「シモンズの「象徴主義文學運動」が英國の近代文學の批評で必ず取り上げなければならないものになつてゐるのは、ワイルドが近代文學の世界をその可能性とともに英語で描いて見せて、これを英國の文學でもう動かせない現實に變へた後に、今度はシモンズがこの作品で、それまで近代文學の主流をなしてゐたフランスの象徴派の詩を英國の文學の領域に加へたからである。」


「エリオツト」より:

「我々は何かの形で我々が我々であることを助けるものを相手に認めるから、その影響の下に置かれるので、假にそれが邪魔であつても、それが足掛りになることに變りはない。」


「日本語に就て」より:

「別に言ふことがないから默つてゐる、といふ所から出發しなければ、どういふ形でだらうと言葉を使つて何かを表す仕事は嘘だといふ氣がする。言ふことがあるから言つたり、書いたりするのだと普通には考へられてゐる譯であるが、それならば、實際に何か言ふことがあるか、或はあると思ふ時に、それを書いてみるといい。といふのは、それは書けないのであつて、實際に何かあるといふのは、結局は、いつもたださう思つてゐるだけのことに過ぎない。何かあるのと、それを表す言葉は違ふので、言葉は改めて探さなければならず、その時、それがないことに氣が付く。例へば、それは他人の言葉ですむこともあり、さうすれば、これは引用であつて、それ以外に言葉がない限り、初めからただその言葉を指すだけでよかつたのである。
併し引用も生きる爲には、それが自分の言葉にならなければならない。さうすると、やはり言葉を探す状態は續いて、しまひには、凡てが既に言はれてしまつた言葉ばかりではないかといふ感じがして來る。(中略)そして事實、凡ての言葉は多勢のものがそれまでに使つてゐるから言葉なので、さうしてそれに與へられた形を一應は破らなければ、我々の言葉にはならない。併し無理をすれば實際に破れて、言葉ではなくなる。そこに一種の暗闇が生ずる。凡てのことは言はれてゐて、それがそこに充滿し、我々には手が付けられなくて、從つて何も言ふことはない。併しそれでもそのままではゐられないのは、多勢のものが前に既に生きて死んだのに、我々もやはりそれを繰り返す他ないのと同じことだらうか。
確かに、さうして誰かが探し出した言葉が我々には新鮮に感じられるのと變らず、我々自身もそれをやることで、助かつた氣がする。言葉に生命があると思はれるのはその時で、何もなかつた筈の所から現れた言葉は、生れたといふ印象さえ與へる。併し實際は、そんなに神秘的なことでもないのかも知れない。他人に使はれて増した言葉の光澤は、その言葉のものであつても、それも含めて言葉が意味を持つのには、さうして幾度も人に使はれ、それが相手に受け取られてゐるうちに貼り付いた無駄な雜念や聯想が先づ剥ぎ落されなければならず、言葉を掻き廻して探すのがその掃除になるのだとも考へられる。かうして、強引に人の感情に訴へず、詮索すればする程どう取つていいのか解らなくなることもなくて、金屬を打つた時に起る音と同じく自然に、過不足なく我々の胸に響く言葉が得られる。併しそれには、先づ言葉の上では何もない状態に自分を置かなければならなくて、これはさう簡單に出來ることではない。」


































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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