『吉田健一著作集 VI 舌鼓ところどころ/英國の文學の横道』

「文學は常に反逆であつて、それは時代に對する反逆でもあり(中略)、或る作家が典型的にさうだつたとするのは、その作家が典型的な文學者だつたといふことでしかない。」
(吉田健一 「ロレンスとミラア」 より)


『吉田健一著作集 VI 
舌鼓ところどころ/英國の文學の横道』


監修: 石川淳・河上徹太郎・中村光夫
編輯委員: 篠田一士・清水徹・丸谷才一

集英社 昭和54年2月20日第1刷印刷/同年3月4日発行
451p 四六判 丸背布装上製本 貼函 定価2,000円
装幀: 栃折久美子
本文正字・正かな

月報 8p
教わったこと、いろいろ(辻義一)/不意の客として(吉野正弘)



『舌鼓ところどころ』初版は昭和33年6月文藝春秋新社刊。本巻における底本は原書房版『吉田健一全集』第七巻。
『英國の文學の横道』初版は昭和33年10月大日本雄辯會講談社刊。垂水書房版著作集第十二巻(初版とは収録内容に異同がある)を底本とし、『近代詩について』所収「シェイクスピアの「不死鳥と鳩」」および『英語 英文学に就て』所収「イィヴリン・ウォオ――人と生涯」「アンガス・ウィルソン氏のこと」を追加。

清水徹による「解題」より:

「本文中の引用については、次の方針により校訂した。
1 (中略)原語のままの引用は可能なかぎり原典と照合した。(中略)
2 著者による翻訳が刊行されている作品からの引用は、原則としてそれら翻訳単行本との照合・統一を行なった。
3 ただし、著者自身の解釈のはばをはっきりと示しているような場合(中略)は、あえて統一しなかった。」



吉田健一著作集6


目次:

舌鼓ところどころ
 食べものあれこれ (書きおろし)
  一 日本
  二 支那
  三 西洋
 舌鼓ところどころ
  新鮮強烈な味の國、新潟 (「文藝春秋」 昭和32年3月号)
  食ひ倒れの都、大阪 (「文藝春秋」 昭和32年4月号)
  瀬戸内海に味覺あり (「文藝春秋」 昭和32年5月号)
  カステラの町、長崎(附・島原の食べもの) (「文藝春秋」 昭和32年6月号)
  味のある城下町、金澤 (「文藝春秋」 昭和32年7月号)
  世界の味を持つ神戸 (「文藝春秋」 昭和32年11月号)
  山海の味、酒田 (「文藝春秋」 昭和32年12月号)
  以上の裏の所 (原題「舌鼓ところどころの裏の所」/「あまカラ」 昭和33年1月~3月号)
 胃の話 (原題「食うために生きる」/「文藝春秋」 昭和32年8月号)
 女房コック論 (「文藝春秋漫画讀本」 第18号 昭和32年9月)
 饗宴 (「あまカラ」 昭和29年12月~昭和30年2月号/『酒に呑まれた頭』初収)
 當て外れ (「風報」 昭和32年8月号)
 仕事をする氣持 (「朝日新聞」 昭和32年1月1日号)
 驛辨の旨さに就て (「あまカラ」 昭和30年11月号)
 東京の食べものや (「旅」 昭和32年5月号)
 飲み食ひの思ひ出 (「あまカラ」 昭和30年4月号/『酒に呑まれた頭』初収)
 酒と人生 (書きおろし)
 酒の飲み方に就て (「酒」 昭和31年8月号)
 飲む話 (「洋酒天國」 昭和31年4月号)
 文學に出てくる食べもの (「あまカラ」 昭和31年2月~4月号および10月~12月号)

英國の文學の横道
 英國の詩に就ての一考察 (「文學界」 昭和14年5月号)
 ハツクスレイに就て (「批評」 第2号 昭和14年5月号)
 シェイクスピアの喜劇 (初出誌未詳 昭和22年4月)
 イィヴリン・ウォオの近作に就て (初出誌未詳 昭和22年8月)
 オォデンの「不安の時代」 (初出誌未詳 昭和23年9月)
 今日の英國の文學 (初出誌未詳 昭和24年3月)
 二十世紀初頭の英國の文學 (前半「十九世紀の英國の文學」は初出誌未詳 昭和24年8月/後半「第一次大戦前後」初出は「英語青年」 昭和35年2月号)
 スティヴンソンに就て 初出誌未詳 昭和25年11月)
 ロレンスの思想 (「群像」 昭和25年12月号)
 裏返しにされたユトオピア文學 (原題「ユトオピア文學」/「人間」 昭和26年5月号)
 エリオツトに就て (原題「T・S・エリオット」/『英語英米文学講座』 第5巻 河出書房 昭和27年4月/『文学あちらこちら』初収)
 グリインの小説 (「英語青年」 昭和27年9月号)
 ボウェンの「日ざかり」に就て (「英語青年」 昭和27年12月号)
 シェイクスピアの十四行詩に就て (「英語青年」 昭和29年4月号/『文学あちらこちら』初収)
 オスカア・ワイルド (「英語青年」 昭和29年4月号/『文学あちらこちら』初収)
 ハツクスレイ (初出誌未詳 昭和30年9月/『文学あちらこちら』初収)
 ロレンスとミラア (「知性」 昭和30年9月号)
 シェイクスピアの悲劇 (「英語青年」 昭和32年8月~10月号)
 ポオの詩に就て (「英語青年」 昭和33年5月号)
     *
 シェイクスピアの「不死鳥と鳩」 (「學鐙」 昭和39年3月号/『近代詩について』初収)
 イィヴリン・ウォオ――人と生涯 (吉田健一編 『イヴリン・ウォー、二十世紀英米文学案内』 研究社 昭和44年12月)
 アンガス・ウィルソン氏のこと (「英語文学世界」 英潮社 昭和45年1月)

解題 (清水徹)




◆本書より◆


「食べものあれこれ」より:

「それよりも寧ろ、我々は先づ三色アイスクリイム、或は親子丼に眼を開かれて、次第に複雜な味を覺えて行き、そこにも同じ境地を味ふことになるのに違ひない。そこにも、であつて、そこにだけではないのである。文學の世界に深入りして、子供の時に讀んだアンデルセンのお伽噺に興味を失つたものは文學に就て語る資格がない。
それ故に、初めに言つたことをもう一度繰り返せば、食通などといふものにはなりたくないものである。例の、何は何といふ所のに限るといふ奴で、それに比べれば、秋刀魚は目黑に限ると考へた殿樣の味覺の方がどれだけ健全か解らない。」

「支那の食べものに就ては、この街で賣り歩いてゐる、或は、最近までは賣り歩いてゐた種類のもののことを抜かすことが出來ない。どういふのか、かういふものになると店を廣げて賣るのではなしに賣り歩くのが多くて、苦力のなりをした男が汚い籠に入れたのを、ただ黙つて街の中を持つて廻つてゐる。今でも時々思ひ出して食べたくなるものもあつて、その一つに何だか解らない各種の、丁度、一口になる位の大きさの果物を飴でくるんだのを幾つか串に刺したのがあつた。果物の肉にまで飴の味が染み込んでゐるのだから、これは相當に濃厚な砂糖水に果物を漬けて、中も外も飴になるのを待つて出來上るものなのかも知れない。併し一串が確か銅貨一枚で、さう手間を掛けたものとも思はれず、兎に角、この果物の砂糖漬けは酸つぱくてやり切れなくはない程度にどろつと甘くて旨かつた。勿論、方々持つて廻つて埃を被つたのを買ふのだから清潔である譯がなくて、從つて親の目を盗んで買ふといふ興味もあり、廻りの飴を通して中の果物が僅かに赤かつたり、靑かつたりするのが解るのまで、まだ覺えてゐる。
それから、やはり籠に入れて持つて廻られてゐる食べものの中に、要するに、うどん粉を棒の形に捏ねて揚げたものがあつた。これも中まで揚つてゐて天麩羅の衣が棒になつてゐるやうなものだつたが、それが一尺位の長さでしなふ程の柔かさで、手を油だらけにして食べるのが何とも樂みだつた。當時の苦力、或はそれに相當する階級の支那人はこれとマントウと大蒜といふ風な取り合せで食事をしてゐたものらしい。さうすると、果物の砂糖漬けの方はお八つだつたのだらうか。支那では階級の違ひで食べものの方も大分違ふやうであるから、その邊のことはよく解らないが、さう言へば、しまひまで食べる機會がなかつたものに厚さが一寸位あつて、直徑が一尺か一尺五寸位の圓形にうどん粉を燒いたのがあつた。これは晝頃、何か工事をしてゐる現場に運ばれて來るのしか見たことがなくて、粉をぎつしり型に嵌めて押し付けて燒いたらしい重量感が如何にも頼もしかつた。苦力達はそあれを割つた一部と大蒜で晝の食事をしてゐたやうだつたが、一度でいいからあれが食べたかつた。」



「以上の裏の所」より:

「又旨いものを食べながら、これをどんな言葉で書き立ててやらうかなどと考へるのは下の下のことであつて、食べてゐる間は浮かれた氣分になり、その日も過ぎて、もつとずつと後になつてからそのことを思ひ出し、自分も曾てはアルカディア、或は桃源境、或はどこかそのやうな場所に遊んだことがあるのだと感じて、そこから言葉が生れて來るのでなければならない。」


「スティヴンソンに就て」より:

「この世に生きてゐることを願つた彼は、その生きてゐるといふ、そして又、過去の瞬間瞬間に生きてゐたといふ印象を、言葉の上で捉へることを念願とした。それ程彼は、自分が生きてゐる生命といふものに確信を持つてゐた。これを捉へることが出來れば、それによつて言葉が生き、さうして生きた言葉の生命は失はれないものであることを彼は知つてゐた。彼にとつて或る文學作品の價値は、さういふ生命感の有無によつて決定された。文體の彫琢といふことは、そのやうにして言葉を生かす作業に他ならなかつた。生命を賭けて生命を得ることに、彼が文學の仕事の意義を認めた。
そして彼が愛讀書の中に、デュウマや「千夜一夜物語」を擧げてゐる理由もそこにある。小説が彼にとつて物語を意味したのは、小説が架空の人物に生命を與へ、假構の境涯を人生の一場面と感じさせるものでなければならなかつたからである。」



「ロレンスとミラア」より:

「ロレンスとミラアといふこの二人の作家が、二十世紀の文學に現れた典型的な反逆兒であるといふのも、二人の特色を指摘する上で餘り適切な言葉とは思へない。文學は常に反逆であつて、それは時代に對する反逆でもあり(中略)、或る作家が典型的にさうだつたとするのは、その作家が典型的な文學者だつたといふことでしかない。つまり、ロレンスも、ミラアも一流の作家であるといふことになり、それで出發點に戻つたやうなものである。」


『英國の文學の横道』「後記」(本巻「解題」中に収録)より:

「極く初期に屬するものから、今年になつて書いたものまであつて、かうして一冊にして讀むと、文體やものの考へ方が少しづつ變つて行くのが解り、中にはその後に書いたものと、又同じこの一冊に収められたものの間でも、正反對のことを言つてゐるのがある。併しこれは個人的に興味があることであつて、さういふことと切り離してこれを讀んだらどうなるか、著者自身は知る由もない。」




























































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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