『增補 石川淳全集 第九巻』

「「山椒大夫」は無慙にも駄作である。(中略)仕上げがきれいに行つてゐるだけ惡質である。失敗の危險もないやうなところに美があるはずもなかつた。鴎外集中、くそおもしろくもない作品である。」
(石川淳 『森鴎外』 より)


『增補 石川淳全集 第九巻』

筑摩書房 昭和49年10月20日第1刷発行
453p 口絵(モノクロ)i 21×16cm 
丸背布装上製本 貼函 定価3,800円



著者生前に刊行された全集。解説・解題等はありません。
「森鴎外」「文學大概」収録。


石川淳全集9-1


第九巻目録:

森鴎外 (昭和16年11月)
 鴎外覺書
  澀江抽齋
  北條霞亭
  古い手帳から
 詩歌小説
  抒情詩風
  我百首とその前後
  追儺以後
  灰燼まで
 傍觀者の事業について
  翻譯概觀
  諸國物語
  傍觀者の位置
  傍觀者の運動
  大鹽平八郎
  自然を尊重する念
  新なる性命
 あとがき

文學大概 (昭和11年より19年まで)
 文章の形式と内容
  一 書かれたことばのはたらき
  二 文章を殺すもの生かすもの
  三 文章の美について
 短篇小説の構成
  一 なにが作品の長さを規定するか
  二 短篇とはなにか――その名稱のいろいろ
  三 短篇の領域
 俳諧初心
 江戸人の發想法について
 能の新作について
 虚構について
 雜文について
 惡文の魅力
 歴史と文學
 文化映畫雜感
 ラゲエ神父
 ことばと常識
 牧野信一
 あけら菅江
 鴎外についての對話
 ヴァレリイ
 マラルメ
 バルザック
 スタンダル
 アナトール・フランス
 祈祷と祝詞と散文
 二葉亭四迷
 岩野泡鳴
 岡本かの子



石川淳全集9-2


口絵: 「昭和四十三年十一月 大塚先儒墓所にて (金井塚一男撮影)」



◆本書より◆


「森鴎外」より:

「鴎外の感動は怒號をもつて外部に發散して行く性質のものではない。それはひとに知れたとき云訣をしなくてはならなかつたほど、ひつそり内部に沈潜する底のものであつたが、そこからおこつた精神の運動が展開して行つたさきは小宇宙を成就してしまつた。なにか身にしみることがあつてたちまち心あたたまり、からだがわれを忘れて乘り出して行き、用と無用とを問はず、横町をめぐり溝板をわたるやうに、はたへの氣兼で汚されることのない清潔なペンがせつせとうごきはじめると、末はどんな大事件をおこすに至るか。仕合せにも「抽齋」一篇がここにある。出來上つたものは史傳でも物語でもなく、抽齋といふ人物がゐる世界像で、初めにわくわくしたはずの當の作者の自意識など影も見えない。當時の批評がめんくらつて、勝手がちがふと憤慨したのも無理はない。作品は校勘學の實演のやうでもあり新講談のやうでもあるが、さつぱりおもしろくもないしろもので、作者の料簡も同樣にえたいが知れないと、世評が内内氣にしながら匙を投げてゐたものが、じつは古今一流の大文章であつたとは、文學の高尚なる論理である。
鴎外みづから「敬慕」「親愛」と稱してゐるところの、抽齋といふ人間への愛情が作品に於てどんなはたらきをしてゐるか。鴎外はその愛情の中に自分をつかまへることに依つて書き出したのではあつたが、またその中に自分を取り落すことに依つて文章の世界を高次に築き上げてゐる。」

「霞亭といふ人間は俗情滿滿たる小人物である。學殖に支持され、恣態に扮飾されて、一見脱俗清高の人物かと誤認されるだけに、その俗物ぶりは陰にこもつて惡質のものに屬する。」
「自分の内部の情緒が結託したところの、親愛する人間像を追究して行く途中で、鴎外はその對象の人物のいやなものにそろそろ氣がつき出したに相違ない。氣がついて、これを抛擲するか、あるひは剔抉するかに至らなかつたのは、いや、むしろ(中略)身をもつてこれをかばふかと見えるのは、おそらく鴎外自身の裡にさういふ種類のいやなものが潜んでゐたせゐではなからうか。なにも鴎外の大にケチをつける次第ではない。しかし、鴎外の大の中にもはなはだ霞亭的な小部分があつたらしいと診斷するのは別のはなしである。ただ鴎外の場合は、その霞亭的なものがよく作用したのであらう。おかげで、學問藝術の士にして、明治の官僚イエラルシイを馬に乘つて驅けのぼつて行けたのであらう。結果として、これは疑ひなくよいことであつた。それにも係らず、最後に霞亭といふ人物に邂逅したのは鴎外晩年の悲劇である。かかる悲劇がかつて「抽齋」に於て演じられなかつたのは、抽齋と霞亭との人間の出來工合の差異に因る。霞亭追究に於て、鴎外が究極につかみえたものは自分の心中の痛いところにほかならなかつた。」

「「妄想」といふ文章に於て、鴎外はなにを語つてゐるのか。要するに、自分はげんにかうしてゐる自分よりほかのものではありたくないといふ氣持を表白してゐる。」

「このやうな人物のことを何と呼ぶべきか。鴎外みづからのことばを借りれば、傍觀者とでもいふのであらう。」
「けだし傍觀者といふものは環境とか生活條件とか外部からの規定に依つて變動されないやうな、また當人の自己強制をもつてしても左右しえないやうな生れつきの氣質に由來するのであらう。」

「道德觀では、生活者鴎外はきはめて無毒な世間並の常識人であつた。」
「鴎外の人生觀は世間並の道德と、別誂への藝術との二元から成り立つてゐる。そして、たれの眼にもをかしくない、バカに見られないやうな位置に自分を置くことに依つて、氣恥かしい思ひをせずに兩者を調和させようとしてゐる。それは自分でモラルを發明することなしにすませうる位置である。實際、通俗モラリストたる鴎外は特製のモラルを掲げようなどと野暮な眞似はしなかつた。一般に無モラル的の態度は傍觀者の通性ではあらうが、鴎外の天稟はこの態度を文學の領域に徹底させることに於て大事業を成就するに至つた。」

「人生には難關を切り抜けるために fou にならなくてはならぬやうな時機があるものだと、そんな意味のことをラ・ロッシュフウコオがいつてゐる。自分をバカにしたりをかしくしたりする眞似を嚴重に禁じてゐた鴎外は自分を fou にすることの何たるかを身にしみて知るには至らなかつた。せつかくの博識も理解力も、かへつて精神の運動をそこに停頓させるための限界をなしたかのごとくである。もつとも日常生活では堂堂たる危機などにぶつかるおそれはなかつたであらう。役人と學者では、どちらにころんでも疊の上の行き倒れにしかならない。文學の仕事でも、うまくもない歌を作つたり、讀むはうが氣恥かしくなるやうな脚本を書いたりしてゐるあひだは、人品骨柄が物をいつて、首尾よく靜謐を領してゐた。ただこの靜謐を「阿部一族」「堺事件」にまで張り通せたのはさすがだといつてよい。しかるに「大鹽平八郎」では形勢が一變する。それも無礙圓融にひびが入つたといふやうなだいそれた事件がおこつたのではない。今まで靜謐と見えたものはじつは椅子の底に落ちこんだきりの平衡状態にほかならないといふことがいやらしく露呈されただけである。しかも、作者は泰然と威儀をつくろつてゐて、さつぱり雲行に氣がつかないていなので、いよいよでくの棒の恰好があざやかである。」
「鴎外ほどの器量人でも、大鹽の亂のやうな事件にぶつかると、その考へ方はずゐぶん扁平で遅鈍で窮屈で貧寒なものだといふ感を如何ともしがたい。」
「ことに依ると、社會主義に對するきはめて世間並の漠然たる恐怖と嫌惡の中に、鴎外もまた身を固くしてゐたのかも知れない。そこでは、この大教養人は市井の頑童よりも侏儒であつたかも知れない。」
「鴎外は武士道の精神をよく理解してゐる。けだし鴎外が把握した武士の生活條件の中で、武士社會といふ圖形の中で、精神が不動だからであらう。理解したものを解説することにかけては非凡な手腕があつた。大鹽事件でも、天保飢饉の何たるかを把握し、その實状を叙述する筆には事を缺かない。しかし、飢饉の中には固著しない大鹽の精神はこれを解説するすべがなかつたであらう。といふのは、運動する精神に對しては、鴎外は初めから理解を抛棄してゐるけはひだからである。(中略)しかも「社會主義」といふまぎらはしい名を勝手に附けて、無意識にしろ俗情の嫌惡するところと結託してゐるのは文學の破滅である。(中略)元來、鴎外は合理主義者であつた。ともかく自分を fou にしたには相違ない大鹽に對して、鴎外は合理主義に據りつつ判斷の偏頗ならざることを期してゐる。油揚の世界の法則をもつて鳶の世界を規定しようとするごときものなのだから、偏頗も公正もあつたものではない。(中略)精神のたたかひへの參加が強要されるとき、大才ある傍觀者も一箇の無能者でしかない。「大鹽平八郎」はさういふ無能者のみづから揣らざる仕事である。」

「「山椒大夫」は無慙にも駄作である。(中略)俗情を傳説の中にすべりこませて、あまり奔放でもない空想で肥大させて、美文の衣を著せたものである。褒め上手のひとは詩があるとでもいふかも知れないが、あいにくその詩が恬然として腐臭を放つてゐるのだから、褒めたことにはなるまい。仕上げがきれいに行つてゐるだけ惡質である。失敗の危險もないやうなところに美があるはずもなかつた。鴎外集中、くそおもしろくもない作品である。」
「さすがに、鴎外は「山椒大夫」のはうに行きつ放しにはならなかつた。(どうか、「山椒大夫」のはうとはロマンティスムのことかなどと見當ちがへをしないで下さい。わたしはロマンティスムといふものをさうまでやすつぽくは踏んでゐない。)」

「わたしは今讀者のはうにむき直つて、つぎの懇請の一語を發する。「どうか、抽齋、蘭軒、霞亭を熟讀玩味して下さい。」」



「文章の形式と内容」より:

「書いた人間との關係に於てのみ玩味されるやうな文章よりも、書いた人間から高次に分離してそれ自身の世界を形成してゐるやうな文章をこそ、われわれはみごとだと見る。」

「確實に書かれた一行のことばはかならずそれ自體の運動をおこす。それらの運動することばの流に於て、文章は生命をもち、生命の息吹であるリズムをもつ。このやうな變化する、柔軟なることばの中に、文章に關する一切の秘密がある。」



「短篇小説の構成」より:

「第一に、ペンを取ることからはじまる。そして、もう世にいひふるされてはゐるが、アランの見つけた通り「ペンとともに考へる」道が開かれる。」
「ペン以前に於て、われわれには地上的現實のほかなにもない。(中略)作者は(中略)純粋に作者的な方法でペンとともに考へねばならぬといふ宿命を負はされてゐる。ペン先がそれ以前の諸因縁を切斷したとき、作者はとたんに全身を投げ出して、知られざる別世界の中へと乘りこむ。(中略)書く當人の心理よりも高次に飛翔して、ことばは緊密に精神と結びつく。(中略)作者はいきなりことばに於て、ぶつつけに、ぎりぎりに、考へ出すのだ。すなはち、作者の努力はつねにまだ判らないところから出發するのだ。すでに判つてしまつたものの後くされを作品の世界に持ち越す料簡ならば、いつたいその世界をどこに切り開くつもりなのか。げんに在るものを懐中電燈で照らして、明るいうちに早くペンでなぞりませうでは、挨拶にこまる。書く前に、作者に判つてゐることは、ペンの前途が濛濛たる闇だといふことでしかない。」



「ラゲエ神父」より:

「ラゲエ師はまたたくまざる座談の名手であつた。(中略)それはヴィリオン神父が馬に耳を食はれたはなしである。(中略)今は故人となつたが、そのころはまだ在世で山口に住み、同國人の神父たちとも附合はうとせず、ジョリイ師などには「オリヂナル」(變り者)と呼ばれてゐた。ヴィリオン師はある日ぼんやりと生垣のほとりに立つてゐた。のどかな春の眞晝であつた。垣の向うに、小馬が一頭、これもぼんやり立つてゐた。すると突然、なにゆゑともなく、その馬が師の片耳を食つてしまつたのださうである。ヴィリオン師は耳もとで馬がなにかはなしかけるやうに思ひ、うん、うんと返事をしてゐるうちに、氣がつくと、耳がなくなつてゐたといふ。どうして耳を食はれてしまふまで、師はぢつとしてゐたのか、凡慮の及ぶ限りではない。」


「バルザック」より:

「量に於て比類のないバルザックの作品をいちいち打診してゐるひまはない。そこで、便宜のためにある噂ばなしを引用する。
「ウヂェニイ・グランデ」が書かれてゐるさいちゆうに、バルザックの助手が休暇を乞ひに來た。あはれな母親が病氣なのだ。そして、その憂ふべき病状を綿綿としやべり出す。バルザックはぼんやり聞いてゐたが、やがて大きい聲でかういつた。「きみ、そんな實(み)のないはなしはやめにして、現實のはなしをしようぢやないか。われわれのウヂェニイ・グランデは……」
もしこの噂ばかしがウソだとしたらば、ひとはそれを捏造してもさしつかへない。まつたくバルザックにとつて、現實は作品の世界の中にしかなかつた。」






































































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プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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