『增補 石川淳全集 第十一巻』

「人間が希望にぶらさがらうといふ料簡をおこしたときは、じつは運動が停止したときであつた。といふのは、希望ほど生活を殺すものはないからである。(中略)人間は絶望から運動をおこさなくてはならぬといふことをさとつたのは、(中略)近世の人間の發明であつた。」
(石川淳 「畸人」 より)


『增補 石川淳全集 第十一巻』

筑摩書房 昭和49年12月20日第1刷発行
509p 口絵(モノクロ)i 21×16cm 
丸背布装上製本 貼函 定価3,800円



著者生前に刊行された全集。解説・解題等はありません。
さて今回の夷斎さんは「夷齋筆談」「夷齋俚言」「夷齋清言」の三本です。


石川淳全集11-1


第十一巻目録:

夷齋筆談 (昭和27年4月)
 面貌について
 娯樂について
 沈默について
 戀愛について
 權力について
 風景について
 技術について
 惡運について
 仕事について

夷齋俚言
 ジイドむかしばなし (昭和26年4月)
 亂世雜談 (昭和26年8月)
 芝居ぎらひ (昭和26年9月)
 論爭ばやり (昭和26年10月)
 中間物とは何か (昭和26年11月)
 金錢談 (昭和26年12月)
 摸倣の效用 (昭和27年1月)
 孤獨と抵抗 (昭和27年2月)
 藝術家の永遠の敵 (昭和27年3月)
 藝術家の人間條件 (昭和27年4月)
 歌ふ明日のために (昭和27年5月)
 フィルムあれこれ (昭和27年6月)
 ニヒルと政治 (昭和27年7月)
 革命とは何か (昭和27年8月)

夷齋淸言 (昭和29年4月)
 ワビ
 花
 髪
 袋草紙
 和歌押韻
 蝦夷日誌
 譜
 狂歌百鬼夜狂
 珍珠舩
 和訓
 畸人
 東坡禪喜



石川淳全集11-2


口絵: 「昭和四十三年十二月 栂尾高山寺にて (金井塚一男撮影)」



◆本書より◆


「面貌について」より:

「散文は人間のことばの決定的な形式であり、それゆゑに萬人の生活に通用すべき性質のものである。小説の限界はおのづからこの方法の中にある。この方法はそれ自身に於てエネルギーである。エネルギーは散亂させてはならない。必ず集中させなくてはならない。それの集中したところに、よい作品が打ち出される。よい作品のことを、よく造型できたといふのは當らない。よく力が出たといふべきである。」


「風景について」より:

「てくてく足であるく。駕籠も、驛馬も、わたし舟も、みな人間の手足が支配するものであり、その速度に人間の呼吸を合はせることができるのだから、足の延長にほかならない。この足をもつて、文人畫の藝術家は天地の間に遨遊し、山靈水精と仲よくして、自然の條件と人間の生理とがみごとに親和したところに、達觀の目を光らせて、庖丁の牛を解くやうに、風景といふ一臠の滋味を切り取つた。このとき、自然はいはばあそび友だちに似た。しかるに、今日われわれはつねにたたかふべき敵としての自然を知らされてゐて、これとあそぶひまが無い。いや、これとあそぶところに入りこむべき道具が無い。山川草木と親和するためには、人間はかならずみづから足といふ道具をもつてその地を踏みわたらなくてはならない。あるくといふことは、足の機能であつたはずである。」
「おもへば、足があるくといふことを忘れなかつたむかしには、旅といふ生活樣式があつた。」



「仕事について」より:

「藝術家は自分の仕事から抜け出して行くところに生活の意味を發見する。(中略)仕事に於て固定したがる世間一統の生活の側からながめると、これは逸脱といへるかも知れない。なにから逸脱したのか。もし人間の本性が世間一統の側にあると假定すれば、これは狂氣といへるかも知れない。あいにくなことに精神が運動するものである以上、人間の本性の在りどころは固定的な圖形としてかんがへることはできないのだから、狂氣はかへつて世間一統の側に氾濫するといふ實績を示してゐるやうである。」


「亂世雜談」より:

「萬人の幸福といふものがともかく約束されうるためには、地上の人間の世界にまづ平和といふ條件がなくてはならない。いや、一足とびに平和とまで飛びあがらないでもいい。戰爭と名のつくやつはいかなる戰爭でも、絶對に準備しないことさ。戰爭の反對は平和ではなくて、戰爭のおこらないやうな状態、すなはち戰爭をおこさないための人間の努力をいふね。戰爭はもはや文明の建直し工場でもなく、人間鍛錬の正念場でもなく、派手な興行物でもなく、また金まうけの企業でもなく、單にある日突然何の理由もなくたくさんの人間がどかんと死んでしまふといふ奇怪な運命、あるひは死なないまでもなま殺しにひくひく生きてゐるといふ無慙な運命のことだよ。そして、この運命は天變地異ではなく人間がこしらへあげるものなのだから、人間はまたこれに反對する當然の權利をもつね。ただし、この當然の權利に物をいはせないやうなものが戰爭だね。かういふバケモノの運命とたたかふのに、女こどもの愛玩する希望なんぞで間にあふものか。戰爭くそをくらへ。バカなやつらを相手にしないで、われわれは絶望を極とするところのエネルギーの運動をどこまでも持續するほかない。それが人間の生活といふものさ。もし戰爭不可避といふことの絶望感があるとすれば、それを運動の極に於ける絶望の中に幸便に繰入れておく。あとは個人の覺悟があるだけさ。べらぼうな。たれにしても、他人の註文どほりのくたばり方はしてやらないものだよ。亂世またかならずしも住みにくからずさ。
わたしはいくさのあひだ、國外脱出がむつかしいので、しばらく國産品で生活をまかなつて、江戸に留學することにした。」



「藝術家の人間條件」より:

「「ハック人 les Hacs は毎年いくたりかのこども受難者を仕立てるといふ取りきめをする。かれらはこどもたちに對して、恐怖と神秘との雰圍氣の中に、何事につけてもウソでかためた宛にならぬ理由だの亂脈だのをでつちあげては、虐待を加へ、あきらかな不正を押しつける。この職務の係として、殘酷辣腕の首領に依つて指揮されるところの無慈悲なこころの人間、ケダモノが配置される。かうして、かれらは大藝術家、詩人を仕立てた。しかし、不幸にしてまた殺人者、アナーキストをも。(にがい後味といふものはいつもある。)(中略)風俗と社會制度とになにかの變化がもたらされたときは、それはこの受難者たちのおかげであつた。(中略)ぼろを著た悲慘な絶望的なガキどものおかげである。(中略)藝術家の迫害のための社會といふものがつねに設置されてゐるものである。」(アンリ・ミショオ「グランド・ガラバアニュの旅」)」
「文化人のよわい齒はにくむべき野蠻人を取つて食ふに堪へない。あきらかに文化人のコンプレックスだね。コンプレックスから編み出される計略はなにか。じつに「ウソでかためた宛にならぬ理由」をもつて、野蠻人に「不正」を押しつけて、これを「虐待」するといふ恐怖すべき複雜な仕掛を案出することになるだらう。かういふこまかい藝は野蠻人の知らないものだよ。ところで文化とはいつたいなにか。これはどうしたつて自然の状態ではなくて、人間の運動のエネルギーに關係するものだね。そして、このエネルギーは決して文化人の發明したものではなくて、人間が古代から、すなはちその野蠻に於ける位置から運動を持續して來たものに相違ない。さうでなくては、人間の歴史といふものは書かれなかつたはずだらう。しかるに、野蠻人がその位置のエネルギーをもつてたまたま文化人の中にあらはれると、それが文化運動の根元にほかならないエネルギーであるにも係らず、そこには「恐怖と神秘との雰圍氣の中に」迫害の仕掛が待ち受けてゐる。この野蠻人の不幸を何と呼ぶか。その不幸が人間の歴史の性格に關係するがゆゑに、これを受難と呼んでいいだらう。」
「すなはち知る、受難とは矛盾にみちた文化現象の中に置かれたところの、野蠻エネルギーの運命であつた。いや、矛盾はこの迫害者と受難者との關係の上にあるのかな。」
「人間の歴史の中で、典型的な大受難者はたれか。これは何といつてもナザレのイエスだらう。」
「當時の文化との關係についていへば、イエスは一箇の野蠻人であつた。しかし、當時の文化人の顔はとうに消えてしまつたが、イエスのすがたは今日なほすくなくともカトリックの禮拝堂には殘つてゐる。聖母に抱かれたこどもの像だね。こどもイエスといふ思想的造型は、おそらくその發明者の意圖に反して、どうも野蠻エネルギーの象徴のやうに見える。聖母觀念は母なる大地といふ思想に關係があるとすれば、こどもイエスはやつぱり野生のガキだね。なるほど人間よりは神のはうに近いらしい。(中略)人間のたましひの歴史に、また文化の性質に「なにかの變化がもたらされた」のは、あきらかにこのガキの「おかげ」であつた。」
「われわれの國にあるとかいふ「小軍隊」がもし實在のものとすれば、それがすでにいくさの部分なるがゆゑに、あきらかに地上の惡にほかならない。おそらくこの「小軍隊」の組織は、どこにも敵があらはれなくても、われわれの國の人民をみなケダモノ化するやうな方向に擴大して行くだらう。藝術家の精神は單純なものだから、すべての複雜曖昧な仕掛とたたかふ。ここにこの「小軍隊」と、ならびにそれを支配する力とたたかはなくてはならぬといふことは、やつぱり藝術家の不幸だらうね。この不幸は例の「ガキども」の運命に通ずるものだよ。」
「つねに迫害される「ぼろを著た悲慘な絶望的なガキども」の不幸から遠ざかつて行くやうなところには、絶對に藝術家の存在は無い。」



「ニヒルと政治」より:

「スポーツ奨勵の政治的傾向はつとにいくさのまへから軍官こぞつて血道をあげて來たところだが、今日でも尚武の風また舊に依つておとろへないやうだね。いふまでもないことだが、これは美の觀念といふ筋金が通つてゐる大むかしのギリシャ的體育法の建前とはいつしよになりつこない。和朝のスポーツ政策がねらつてゐるのは、肉體の美的造型ではなく、精神の訓練でもなく、謂ふところの健全娯樂ですらなくて、じつは精神をモーローとさせるやうな雰圍氣の蔓延だよ。」
「かれらは明日のために惜しみなくあたへるといふことを知らない。したがつて、今日に於てなにものをも拒否するといふことを知らない。いや、すべての拒否を忘れさせるやうな雰圍氣がここに仕掛けられてゐる。すなはち、ここには叛逆者といふものがありえないやうな計略がめぐらしてある。「叛逆はすなはち愛と豐饒であつて、然らざれば無である。」とカミュがいふ。愛も豐饒も、ここでは二つながらおあいにくさまらしい。その代りに、當地の名産は逆上と貧困だよ。」
「わたしは世界各國のスポーツ政策をしらべたわけではないから、よその國ではどういふ仕掛になつてゐるか知らないが、むかしいくさのまへのドイツで、ヒトラーといふ人物が賣出しの當時、ひどく派手にオリンピックをぶつて見せたことがあつた。スポーツ政策の理想はどうもオリンピックにあるらしい。オリンピックの番があたると、ノーベル賞でももらつたやうにうれしがる傾向がある。たれがうれしがるのか。人民の名に於て、はなはだ平和的に、ファッショがうれしがる嫌疑があるね。精神の貧困をオリンピックで埋合せようといふ計算かも知れない。」



「革命とは何か」より:

「政府はみづから世論の上に立つてゐるかのやうに擬装してゐる。世論とはなにか。アタマをバカにされた人民のうはことの中から適宜に採集されたものが、官製の世論の化の皮だよ。これは拷問に依つてデッチアゲられた口述書の效果に似てゐる。つまり、無效といふことさ。たとへば、兵隊さん、ありがたう。オマリサンもたいへんだね。吉田さん(東條さんだつたかな)はえらいね……はつは、よさねえか。それはもつぱら讃美にかたむくがゆゑに、じつはなにものをも尊重せず、意味のない感傷に落ちる。棒とピストルと愚鈍と逆上と感傷とをもつて構成されるところの惡法の内容を、下司どものことばでは治安維持と呼ぶ。どこに治安の文明論的意味があるのか。人民のことばでは、きはめて明白に、これを文明上の犯罪と呼ぶ。人民を性急に革命のはうに追ひ立てるのは、笑ふべし、この犯罪の逆效果だね。ただし、それだけ餘計に人民の流血の量がふえるのは、これは決して笑ひごとではない。」
「革命の理論については、すでに西洋の本にいろいろ書いてあるから、はやく外國語をまなんでそれらの本を讀めばいい。革命とは人間が歴史の中に發見した運動の法則であつて、決してコワイものではないといふことが判然とするだらう。コワイのは運動の法則に反する暴力だよ。」

「さて、わたしはこの欄に書きはじめてからすでに一年あまりつづけて來たが、ちかごろうつかり政治談にひつかかつたおかげで、わたしのペンもだいぶよごれた。政治談、いやだねえ。うんざりするよ。げつとなる。わたしはもういやになつた。やめたいね。いや今囘でやめる。しかし、まだ死んだわけではないのだから、あたらしいペンをとつて、今後は政治談ごとき不潔なものは一切抜きにして、もつぱら舊に依つて文弱に流れることにしたい。」


※「吉田さん」は吉田茂、「惡法」は破壊活動防止法のこと。


「畸人」より:

「俗中にあつて俗に非ざるものはなにか。雅である。雅とは、末代の批評家が見當ちがひに推量するところの、反俗の精神といふごとき俗惡なしろものの謂ではない。じつは、これこそ近世の市民の世の中が發明しえた唯一の榮養學的觀念であつた。すなはち、人生の幸福といふものである。」
「かつて人生の幸福といふものが信ぜられてゐたかぎり、畸人と呼ばれるもののすがたはかならず世の中のどこかに見つけられた。」
「ときに、わたし幼年のみぎり、家は東京の下町にあつた。家のうしろがちよつと空地になつてゐて、その空地の向うの隅に、古い物置小屋に似たものが一棟、軒かたむいて、荒れるにまかされた。ほとんどひとの住むに堪へないやうなその小屋の中に、一箇の老人が身を托してゐて、天氣のよい日には朝から車を曳いて出て、日くれてもどる。わたしのうちの女中がをりをり惣菜の煮物なんぞを屆けると、老人は格別ありがたがるでもないが、しかし素直にこれを受けて、皿はかならず丁寧に洗つてかへす。その物腰は柔和であつた。この老人は人形つかひの安さんと呼ばれた。安さんが巷に曳いてあるく車には小さい舞臺が仕掛けてあつて、奧に黑い幕を垂らして、當人は幕のかげにゐながら、小さい人形をつかつたり、聲色をつかつたり、鐘を鳴らしたり、また見物のこどもに飴を賣つたり、ひとりで器用なはたらきをして見せる。わたしは買食といふことを禁ぜられてゐたので、安さんの飴の味は知らないが、その舞臺はいくたびか道のほとりにこれを見かけたことがある。安さんが好んで演じたのはオバケ芝居であつた。そのもつとも得意とするところに怪談森の小鴉と題するものがあつた。こどもの目をもつてして、安さんの演技は至藝と見えた。とても後の紙芝居ごときものの比ではない。(中略)ひとは安さんの言行に於て何の奇なるものを見ない。またその身邊について何のわるいうはさも聞かない。しかるに、近隣はこのひとを評して變りものといつた。安さんにあつて、なにがどう變つてゐたか。後日にこれを考へるに、安さんは行住坐臥とくに奇なるものを示さないといふことに於て、じつは近隣との交渉を完全に拒否してゐたのだらう。他人の意を迎へることも、またこれに逆らふこともしないが、ただ他人のはうから聲をかけなければ決して口をきかない。それもほとんど聽きとりがたいほどの短綴音をもつて應へる。道を行くに粗服かへつて目に立たず、默默と下をむいて、近隣にひとあることを見ざるに似た。そのくせ舞臺の演技では、オバケの人形と附合ふこと至つて親密であり、聲色は男女の情をうつしてはなはだ微妙であつた。憶測するに、この老人はオバケの世界といふものがあると信じてゐたにちがひない。その信ずるところのオバケの世界に據つて、地上に見つけた身の置きどころは巷の片隅である。(中略)人間の發明に係る幸福論をもつてオバケの世界を律することはできないのだから、安さんはかならずしも生活に於て不幸であつたともおもはれない。かういふ生活形態は、近隣の世界の側には、たしかに異樣と見えたのだらう。その近隣の世界にむかつて、安さんのはうから交渉しかける唯一の仕方は、日日の糧をうる最低の必要のために、オバケ演技に依つてこどもに飴を賣るといふことだけである。その得るところの小錢は、一日の米を買ふぐらゐにはたりたのだらう。まことに一日の苦勞は一日にしてたりた。このとき、オバケの世界と近隣の世界とは、安さんといふ人格に於て、いかなる關係を保つたか。じつに何の關係も無かつたといふことにひとしい。すなはち、飴を賣つたのが縁の切れ目である。安さんのはうでは、ほかのことは知らねえといふだらう。近隣のはうでは、いよいよこれを異樣と見ないわけにゆかないだらう。すこしは感情を害したといふことになるのかも知れない。すでに、二つの世界のあひだの關係の意味は絶縁である。その次元の高低、領域の廣狹を論ずるがごときは、またしたがつて意味無きにちかいだらう。安さんは黑い幕のかげにかくれて、こどもの見物を相手にオバケの人形をつかひ、オバケのことばを語つてみせるほかなかつた。」
「わたしはこのオバケつかひの老人に於て謂ふところのエトランヂェの一つの型を見たやうにおもつてゐる。ただし、安さんはみづから意識せざるエトランヂェであつた。」

























































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プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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