清水俊彦 『ジャズ・アヴァンギャルド クロニクル1967-1989』

「永遠に棘でありつづけること、それがコールマンの宿命であり、天賦の才能である。」
(清水俊彦 「フリー・ジャズの未来形」 より)


清水俊彦 
『ジャズ・アヴァンギャルド 
クロニクル 1967―1989』


青土社 
1990年7月5日 第1刷印刷
1990年7月20日 第1刷発行
433p 初出覚書1p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価2,600円(本体2,524円)
装幀: 戸田ツトム



清水俊彦の本は『ジャズ転生』をもっていたのですがうっかりして古書店に売ってしまいました。本書も出たときに買おうとおもって買い忘れていたのですが、今回アマゾンマケプレで600円(送料込)で売られていたので購入してみました。天にシミ、カバー&帯にイタミおよびカビ臭があるものの本文は良好でした。


清水俊彦 ジャズアヴァンギャルド 01


帯文:

「音楽の冒険者たち
20世紀を駆けぬける芸術のラディカリズムとして、
ジャズの先端に孕まれたアヴァンギャルドは、
さまざまな実験・解体・再生をかさね、
つねに同時代の芸術に対し、
鮮烈な挑発者でありつづけている。
音楽の冒険者たちが到達した極点をたどり、
その地平にジャズの新しい動向を予見。」



帯背:

「前衛ジャズの
行程」



帯裏:

「清水俊彦
一九二九年千葉県生れ。東京大学物理学科中退。故北園克衛に師事、詩を書くとともに、音楽批評、美術批評を書く。著書『清水俊彦ジャズノート』『ジャズ転生』(晶文社)、詩集『直立猿人』(書肆季節社)ほか。

[本書でとりあげられた
おもなアーティスト]
◎アート・アンサンブル・オヴ・シカゴ◎R・エイブラムス◎A・ブラクストン◎エアー◎S・レイシー◎D・ベイリー◎E・パーカー◎H・ベニンク◎O・コールマン◎J・B・ウルマー◎J・ゾーン◎S・コールマン◎ラスト・イグジット◎S・クリョーヒン◎B・フリゼール◎G・アレン」



カバー文:

「ネイキッド・シティ(Naked City)をはじめとして、ゾーンはハードコアの不穏な、反抗的態度や攻撃的な執拗さをさまざまなプロジェクトに利用しようとしている。しかも、この「Spy vs Spy」のなかでは、ハードコアはオーネットをふたたびさまざまなダウンタウン・ニューヨーク・シーン――オーネットの音楽そのものや、彼の飽くことなきパイオニア・スピリットが、このダウンタウン・シーンをつくり出すのに貢献し、それにエネルギーを与えつづけたのだ(ただし、ビル・フリゼールやジェリ・アレンの場合のように、亡きモンクの影響も無視するわけにはいかない)――に結びつける役割を果たしている。だから、ある意味では、ゾーンはハードコアを利用して、オーネットの音楽的系譜を拡大して、現在の予測できない方向へと結びつけ、それと同時に、過去にさかのぼるかたちで、その源であるオーネットの音楽を追認しているのである。…………………………」


清水俊彦 ジャズアヴァンギャルド 03


目次:

はじめに

1 シカゴ前衛派・AACM [’60年代後期―’70年代初期]
《フリー・ジャズの聖家族》の誕生 ロスコー・ミッチェル・セクステット『サウンド』
ユートピアをめぐるもうひとつの立場 リチャード・エイブラムス『レヴェルス・アンド・ディグリース・オヴ・ライト』『ヤング・アット・ハート/ワイズ・イン・タイム』
《集団的な記憶》をかき鳴らす永久祝祭の司祭たち アート・アンサンブル・オヴ・シカゴ『ピープル・イン・ソロウ(苦悩の人々)』
音楽、演劇、政治……あらゆる戦線におけるアタック ジョセフ・ジャーマン『ソング・フォー』
集団表現から個人的探求へ アンソニー・ブラクストン『フォー・アルト』

2 ニューヨーク・ロフト・ジャズとポスト・フリー [’70年代初期―中期]
《自由》の新しい定義をもとめて――ロフト・シーンとジャズの新しい波 サム・リヴァースのスタジオ・リヴビーから
インディペンデント・ジャズ――組織化するアーティストたちとジャズ・オーケストラの可能性 BAG/ヒューマン・アーツ・アンサンブル/CCC/JCOA
音楽的生存の戦術 フランク・ロウ+ラシッド・アリ『デュオ・エクスチェンジ』
歴史意識と即興表現の蜜月 エアー『エアー・ソング』
ポスト・フリーのパラダイムをきりひらく二人の先導者 スティーヴ・レイシー/アンソニー・ブラクストン
ジャズ・アヴァンギャルドの黎明よりつづくもうひとつの道 オーネット・コールマン

3 ヨーロッパ・フリー・ミュージック・シーン [’70年代後期]
《音楽の極北》あるいはフリー・インプロヴィゼーションの位相 デレク・ベイリー『デレク・ベイリー・ソロ』
イギリスのフリー・ミュージックの歩み エヴァン・パーカー+デレク・ベイリー+ハン・ベニンク『トポグラフィー・オヴ・ザ・ラングス』
ひらかれた即興集団カンパニーの誕生 マールテン・ファン・レグテレン・アルテナ+トリスタン・ホンジンガー+エヴァン・パーカー+デレク・ベイリー『カンパニー1』
予定調和への挑戦――カンパニーの実験と展開 エヴァン・パーカー+デレク・ベイリー+アンソニー・ブラクストン『カンパニー2』
ジャズの伝統からのラディカルな逸脱 ハン・ベニンク+デレク・ベイリー『カンパニー3』

4 ニュー・ウェイヴ・ジャズ [’80年代]
フリー・ジャズの未来形――ハーモロディックな流れ オーネット・コールマン+ジェームズ・ブラッド・ウルマー+ロナルド・シャノン・ジャクソン+ジャマラディーン・タクマ
音楽のポスト・モダンあるいは急速に変化する決定的に雑種の音楽 ジョン・ゾーン
表現媒体としてのM-Baseの提唱者とブルックリン=移植=軍団 スティーヴ・コールマン
ジャズを終わりのない冒険にむけて研ぎすましつづけること スティーヴ・レイシー『ザ・キッス』
’80年代の汎文化主義を払拭する《響きと怒り》 ラスト・イグジット『ライン・オブ・ファイヤー』
ソビエトのアヴァンギャルドの合流というメルクマールについて セルゲイ・クリョーヒン『ポリネシア~歴史概論』
エレクトロニクスと即興表現のインターフェイス リチャード・タイトルバウム『コンチェルト・グロッソ』
ギターと散乱 ビル・フリゼール
セロニアス・モンクの影――作曲と即興のバランス ジェリ・アレン

あとがきに代えて

前衛ジャズ関連年表
初出覚書



清水俊彦 ジャズアヴァンギャルド 02



◆本書より◆


「集団表現から個人的探求へ」より:

「本来は驚くべきことなのに、それがひんぱんに起こるので、いつの間にか当たり前のようになってしまうといった現象がよくあるが、ぼくがここでいおうとしているのは、七〇年代に入ってからソロ・アルバムが急にふえてきたということだ。(中略)つまり、かつてはピアニスト(中略)だけによって行われていたこの孤独な冒険は、この時点で他の楽器の演奏者のほとんどすべてに対して開かれるようになったのだ。
 これらのミュージシャンたちの大部分は、現実世界について多くの幻影を抱いていないし、革命的な態度もとってはいない。彼らを惹きつけているのは、個人的な解決を探し求めることだと考えられるが、その受け身の態度は明らかに離脱を示している。」
「「ぼくは曲のタイトルに好んで数学の公式を使いますが、実はそれは何も意味していないのです。というのは、何かをいおうと意図するのではなく、頭のなかを通過したものを書き記すにすぎないからです。それは世界についてのぼくのちょっとした考え、つまり不条理なのです。地球上のすべてのものが、ぼくには不条理に思われます。ぼくにとって人生は意義をもちません。(中略)すべてはぼくにとってどうでもよいことで、人がぼくに押しつける世界を辛うじて横切っていくことだけがすべてなのです……いいかえれば無関心と満足、この二つの言葉にぼくの哲学のすべてが要約されています。ぼくは楽しむ術を心得ており、外部からは何も期待しません。なぜなら、ぼくはうんざりするほど他人の倦怠を耐え忍んできたし、すでに十分自分自身の倦怠ともつき合わねばならなかったからです。」(ブラクストン『ジャズ・オット』誌、一九七一年四月号インタビュー)」
「アート・アンサンブル・オヴ・シカゴの面々とかアーチー・シェップのような《革命的》なミュージシャンたちと違って、彼らは《参加する》ことが絶対に必要だなどとは思っておらず、彼らにとって大切なのは自分自身であり、彼らは自分自身を音楽的に裸の状態に置いているのだ。たとえば、「数年前にぼくははじめてソロ・コンサートを開きましたが、その理由はただ一つ、もう一人の自分自身のようにぼくについて来る伴奏者が見つからなかったからです。ぼくはたった一人で演奏しながら、そのプロセスを思いどおりにコントロールしました。それはヒゲをそったり、風呂に入ったりしながら一人で歌をうたうようなもので、もっぱら楽しみのためなのです。」(ブラクストン/同じインタビュー)というように……。」
「こうした歩みのなかで意味をもってくるのは、政治的あるいは神秘的な企図(意味されるもの)ではなくて、ミュージシャン自身(意味するもの)である。つまり、彼らは社会の鏡としてのアーティストであるよりも、創造者としてのアーティストであることをより多く望んでいるのであり、そこでぼくらは個人の価値の回復という事態に直面するわけである。
 アンソニー・ブラクストンの論述の重要性が強調されねばならない理由の一つは、彼が、以上に述べたようなあり方を最もラディカルに生き抜いている、全く新しいヴォイスの一つであるからだ。」



「《音楽の極北》あるいはフリー・インプロヴィゼーションの位相」より:

「ヨーロッパの即興音楽のミュージシャンたちによる自己の利益の擁護は、もっと徹底している。レコード・ジャケットが手づくりである(中略)のもそのためである。つまり機械に頼るのではなく自分からいろいろな仕事に手を出しているのであり、アマチュア主義なのだ。それによって彼らの企ての統一性は強固になっており、それによって彼らは経済的、社会的な検閲をまぬがれているのである。そしてこのような“野蛮”な生産様式のおかげで、彼らには思いどおりのものを演奏する可能性が与えられているのだ。
 彼らはまた、芸術を、完成した生産物を、つまりは作品を引き渡すのを拒否することによって、活動の場を変えてしまった。その態度を謙虚というのは当たらない。むしろ首尾一貫しているように思われる。彼らにとって競争すること、資本主義のサーキットのなかで機能しているレコード会社と張り合うこと、そしてそれらと同じ音楽をつくり出すことなどは問題ではない。独自の機能を果たそうとするこうした意志は、リーダーがはっきりしたかたちで存在していないという事実にも示されている。そこで行われているのは、まぎれもない集団的な仕事なのだ。
 こうしたことの帰結として、発売されるレコードはドキュメントとして提出される。それは進行中の仕事の痕跡を記録する以外の何ものでもなく、それによって、彼らは規格化とか化石化とか同じ行為のくり返しといった危険を遠ざけている。この解決は別の面でも利益をもたらしている。すなわち彼らには、互いに出会ったり、外部の創造的なミュージシャンたち(中略)を招待したりしながら、今日の音楽の生きた力を、自分のまわりで触媒として作用させるといった可能性が与えられているのであり、動脈硬化や痙攣の発作から逃れることができるようになっているのだ。」
「では、こうした状況のなかで、ヨーロッパの即興音楽はどのように機能しているのだろうか。」
「まず最初にしなければならないのは、一見逆説的に見えるかもしれないが、この音楽がどのように機能しているかということよりも、どのように機能していないかということを明らかにすることである。なぜなら、くり返し述べてきたように、それは従来のジャズからはるかに逸脱しているからであり、この音楽にはその痕跡が見られないといった、いくつかの美学的/音楽的なモデルが存在しているからだ。
 《排除された最初のモデル》は、テーマ/インプロヴィゼーション/テーマという図式である。(中略)ある者たちにとっては、テーマという概念さえ博物館行きになろうとしている。」
「《排除された二番目のモデル》は、ソロイスト/リズム・セクションという伝統的な二分法であり、ヨーロッパの即興音楽のグループ構造はそれにもとづいてはいない。変革の対象になったのはとくにドラマーの役割であるが、他のミュージシャンたちも、グループやリーダーの考えがある範囲内で受け入れにくいと思った時には、それに従わずにもっと先へ進むこともできるのだ。原則にとらわれずに機能することは、プリミティヴな試みの一つにはちがいないが、同時にまた素晴らしいことでもある。」
「このようなヨーロッパの即興音楽について、作品をうんぬんするといったことはもはやできない。このことは、彼らがその組織の一つにつけたインスタント・コンポーザーズ・プールという名称にもはっきりと示されている。彼らの音楽はインスタント・コンポジション(即時的作曲とでもいうべきか)によっているわけだが、こうした概念が完成した作品にあてはまらないことは明らかである。それに接する時、最初にしなければならないのは、あるがままに聴くということだ。(中略)ぼくらはその解読を求められているのであり、それらは別の聴き方を規定し、別の聴き方を引き出そうとしているのだ。
 作品ではなく、それゆえに統一もなければ全体化もない。」

「以上のような状況のなかで即興言語のラディカルな拡張を企てながら、ヨーロッパの即興音楽の頂点に立っているのがデレク・ベイリーである。ベイリーについていえば、単なる言葉が彼の芸術的手腕のあり方を伝えることができるとはとても思えない。もし《ポスト・ウェーベルンのインプロヴァイザー》といった種類の概念があるとすれば、こうした用語によってこそベイリーの方向は真に説明されることができるだろう。」



「予定調和への挑戦」より:

「カンパニーを主宰するデレク・ベイリーがとくに避けようと思っていることは、彼がこれまでにつき合ってきたあらゆるグループのなかに彼が見出した傾向、つまり意識していると否とにかかわらず、同一と見なしうる、そしあて最終的には予測可能な《スタイル》の確立ということである。彼にとって集団音楽の最もエキサイティングな部分は、集団的なヴォキャブラリーが発展する以前の、形成の段階である。その点で、カンパニーは生きいきした真の実験の精神を維持するように計画されている。そして、そこに含まれるミュージシャンたちのすべてをつなぐ共通のきずなは、いうまでもなく彼らのすべてが音楽をつくるための手段としてフリー・インプロヴィゼーションを用いるということだ。しかもそれは非イディオマティックなインプロヴィゼーションであり、ミュージシャンたちがあらゆる種類のことをやれる領域である。彼らはそのなかに入っていき、演奏したいと思う音楽を見つけ出し、それを取り出して演奏することができる。しかし、それは思いのままに自由でありつづけようとする点で、何にもまして困難な仕事である。」


「ジャズの伝統からのラディカルな逸脱」より:

「カンパニーの音楽ひいてはヨーロッパの即興音楽について多くの場合いえることは、肉体的なものが音楽の場に荒々しく侵入してくることほど感動的なものはないということだ。」
「ある批評家によれば、「ヨーロッパの即興音楽はワイセツである。ベニンクは露出症であり、ブロッツマンはマザー・ファッカーであり、ブロイカーは恥知らずだ」という。ワイセツ性は今日では一種の流行のようなものであり、(中略)すでに一般に広く認められているものである。しかしヨーロッパの即興音楽では、プログラム化され、ショーの期待される要素として作用するようなワイセツ性は、ほとんど問題ではない。器質的でより確かなワイセツ性、いうなれば人が肉体を、束縛され閉ざされた状態から解放するや否やたちどころにあらわれてくるようなワイセツ性が問題なのだ。しかし、それゆえにそれは自由に途方も無く発展していく可能性を秘めているのであり、あえていえば音楽の擾乱にほかならない。そしてまた、それゆえにそれは(中略)ジャズの伝統からラディカルに逸脱しているのである。」




こちらもご参照下さい:

『間章著作集Ⅱ 〈なしくずしの死〉への覚書と断片』
植草甚一 『モダン・ジャズの発展』















































































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趣味: 図書館ごっこ。

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