『埴谷雄高作品集 2 短篇小説集』

「この浪人を主題にしたところの〈ニヒリズムの時代〉は、なおあえていつてみれば、ふたつのものを私のなかに成長せしめることになつたといえるのである。そのひとつは、すべてに疎外されたところのアウトサイダーは打ち払つても打ち払つても果てもなく押しよせてくる現実の無限の波を前にして最後まで〈たつたひとり〉で闘うべきこと、そして、他のひとつは、そこには、つねに敗北と死の運命しかないのであつて、徹底した敗北と死を闘いきることが自己自身にとつての唯一の完成であること、というぐあいな暗示なのであつた。」
(埴谷雄高 「影絵の世界」 より)


『埴谷雄高作品集 2 短篇小説集』

河出書房新社 
1971年8月15日初版発行/1974年9月25日7版発行
387p A5判 角背紙装上製本 貼函 定価2,000円
装画: 駒井哲郎
装本: 杉浦康平

月報 2:
わが友、埴谷雄高(中村真一郎)/迷惑のかけつ放し(久保田正文)/屋根裏の哲学者(開高健)/埴谷雄高氏の姿勢(真継伸彦)



埴谷雄高全集の黒い装幀がすきなので家にあるとよいなとおもいますが、全集を買うとよまなければならないので面倒です。とりあえず旧版の作品集(全六巻+別巻。のちに増補されました)が家にあったのでそれをよむことにしました。駒井哲郎の装幀がよいです。


埴谷雄高作品集2-1


目次:

不合理ゆえに吾信ず (「構想」 昭和14年10月1号~16年12月7号)
虚空 (「群像」 昭和25年5月号)
意識 (「文芸」 昭和23年10月号)
深淵 (「群像」 昭和32年10月号)
闇のなかの黒い馬 (「文芸」 昭和38年12月号)
宇宙の鏡 (「文芸」 昭和43年1月号)
夢のかたち (「文芸」 昭和43年8月号)
神の白い顔 (「文芸」 昭和42年5月号)
影絵の世界 (ロシア・ソビエト文学全集月報、昭和39年2月~41年1月)
 魂の同質性
 ロシア的雰囲気
 オブローモフとペチョーリンとムイシュキンと〈主義者〉
 ニヒリズムの容器
 反抗の〈夜〉と〈昼〉――アナキズムとコンミュニズム
 〈政治への没入〉の時代
 灰色の壁――1
 灰色の壁――2
 さかさまになつた夜と昼――無職業の時代
 戦争のなかの顔
 検挙と数冊の本

意識を主題とする小説 (秋山駿)
解題 (白川正芳)



埴谷雄高作品集2-2



◆本書より◆


「不合理ゆえに吾信ず」より:

「――私はソフィスト達を愛した。彼等が見放しまた見放されたものに対して、幽霊のごとく憑きまといまた憑きまとわれるいわば執拗な魂によるのであつた。つねに正しさを自覚しているソクラテスのごとき輩に対しては、私はつねに憎悪を覚えた。」

「――薔薇、屈辱、自同律――つづめて云えば俺はこれだけ。」

「――俺の味わう存在の不快。それは目をそむけることが本来出来ないものなのだ。俺は俺を苛らだたせるものは凡て目をもそむけず貪り啖つてやる。」

「――《君とおなじ病気、つまり、気狂(きちが)い……。》
すべて考えてはならぬことを考えたがる俺の性癖に、さていまはいかなる営みを負わすべきか。」



「意識」より:

「恐らくその金魚は四寸に足らなかつたが、ひたと眼を合わせていると、その眼球の黒点は次第に私の眼の前で拡がつてゆくように思われた。私は水槽の裏側へ手をのばしてこつこつと軽く硝子を叩いてみた。(中略)事実金魚は眠つているらしく微動もしなかつた。けれども、私は操作をやめなかつた。私は眼を硝子の肌へぴたりとつけたまま、その顔をゆつくりと横へ移動させはじめた。私の意図では、もし金魚が目覚めていながらもこちらをただ凝つと眺めているとすれば、こちらの顔の移動につれてその眼球が動くかもしれなかつた。私は視点をゆつくり移しながらなお凝つと横からみつめつづけた。生えかかつた鶏冠をそこにつけたような膨らんだ頭部からさながら一つの独立体をなして飛びでている金魚の小さな黒点は、私の眼には私の移動につれて動いているとも見えなかつた。けれども、なお執拗に私は眺めつづけていた。すると、私はふと息をのんだ。私はそのまま長く息をとめていた。尖つた鼻梁からやや受け口に突き出た金魚の口がゆつくりと開きかかつた。私は瞬きもせずに眺めていた。金魚はゆつくりと口を開いて、そのままそこに目に見えぬ棒でもさしこまれこじあけられているように暫く私へ向つてその咽喉を展いていたが、また、その動きが手にとれるほどのろく口を閉じた。透明に澄んだ水の重さがその口の動作を抑えとめているような速度だつた。私は息をとめて眺めていた。金魚はそのまま微動もしなかつた。私はたち上ると深く息をついた。
私は疲れはてて寝台に横たわつた。
私は疲労していた。私は眼を閉じていた。ものうい仮睡へ私はおちこみそうだつた。けれども、私の芯は眠れなかつた。瞼を透かし通つてくる一つの湖水のような仄明るさにひたりながら、私はぼんやりと一本の高く聳えたつた樹を思い浮べていた。《ヘッケルの系統樹――》と、私は胸のなかに呟いた。私が嘗て食いいるように眺めた系統発生史の図では、あの透明に澄んだ水中に微動もせず眼を見開いている金魚の発生の位置は私達に真近かかつた。私達の眼球が嘗て歳月知れぬ太古におくつた水中生活期の痕跡を示すものだとして、と私はさらに呟きつづけた、この眼球を覆う瞼はいつ頃発生したのだろう。私はほとんど胸のなかで叫びあげるようにそう呟いた。私の芯は澄みわたつたように目覚めていた。私は眼を閉じたままその想念にしがみつづけた。この瞼は私自身の内部に闇をつくつた。そしてまたさらにそこからはあの眩ゆく自発してくる光をも。《もしその内部に闇と光をたたえる瞼の蓋がなければ、恐らくこの私の意識はなかつたろう。それはこのようなものとしてはあり得なかつただろう。そうだ。その蓋がなければ、それはつねに外界を映しつづけている金魚の意識とそつくりそのまま同じだつたろう。》そう私は胸のなかで叫んだが、そう不意に叫びあげてみると、それはすでにそれだけで、この私がいまだ知らなかつた一つの怖ろしい発見のように思われた。(中略)私はぴくりとも身動きもしなかつた。肌寒い木の寝台の上であの鬱寥たる系統発生にからまるとりとめもない物想いにふけりはじめた私の眼前に、不意と湿つた羊歯類が生え茂つている太古の沼地の幻想が浮んできた。そこに蠢き這いまわつている目もなく耳もない一つの触覚が蒼白い光の方向へ這いよりつづけてのたうつさまが思い浮んだ。それはのろのろと這いまわつて、しかもその動きをとめない数億年にわたる暗い鬱寥たる時間だつた。私は息をとめたようにその時間の幅へのめりこみつづけた。想像もできぬほどの時間の歩みを辿りながら、私達のすべてがそのかたちを変え積みあげてきたその太古から、遠い霧のなかへかたちもなく沈みこんでいるような遙かなあの終末にわたるまで。《もしその太初へまで遡れるほどの時間を私達が終末までつづけ得るとして、さて果たしてこの私の眼は何になり得るだろうか。》私はその最後の語尾がほとんど顫えるように呟いた。あたりは怖ろしいほど静かだつた。ただ寝息をひそめたようなひそかな夜明けの気配が漂い寄つていた。」

「いつしか細い葦が密生している地帯へ私は踏みこんだらしく、腰のまわりにつきささる葦が鋭い音をたてて折れはじめた。(中略)びしびしと折れる鋭い音を聞きながら、密生した葦にとりかこまれたなかで、私はゆつくり眼をつむつた。《この眼のなかにしか私の光はない。この眼のなかに私がたもちはぐくんでいる小さな光……。》そう自身の闇の隅に佇みながら私は呟いた。私は眼のなかの闇をまじろぎもせずみつめていた。すると、そこに一つのkたちが現われ木の葉のようにひらひらと舞いおりてきて、ぴたりと止まると、あの丸い魚眼が微動もせず、真空のような闇の奥から、凝つとこちらをみつめているのを私ははつきり認めた。私は大きく息をついた。それを持ちきれるかどうかは解らなかつた。」



「闇のなかの黒い馬」より:

「私は古くから確信しているが、私達の体質には昼型と夜型との二つの型があつて、前者は活動と前進、つまり、現在とすぐ隣りあつた次の未来へ向つて精神の窓が展いているのに対して、後者は、総体において、それが過去に向うにせよ、未来に向うにせよ、殆どひたすら、見渡しがたいほど遙か彼方の渾沌と虚無へ顔を向けて終生倦むところを知らないのである。もし私が、夜、果てもない漆黒の闇のなかで思念しはじめれば、それは必ずとめどがなくなり……そしてまた、原始の渾沌のようにとりとめもなくなつてしまう筈である。何故なら、暗い夜の思索は、こちらを限定づけてくれる図形のかたちを備えた何かが必ず存する明るい白昼のそれとは異なつて、無限の果ての晦暗のなかに沈んでいる漠たる遠い原始と未来、つまり、確然たるかたちも認められぬ或る根源と窮極へ必ず辿りゆくばかりでなく、そこで忽ち自己という記号をもつや否やも知れぬ一個の小さな微塵と化し、そしてついに……地水火風の四大のなかへ目にもとまらず解体されてしまうに至るのが通例だからである。しかも、そこには、一種戦慄に充ちた不思議な眩暈と、嘗て私達が出てきたところへ還つてゆくような、敢えていつてみれば《静謐な虚無》のなかへ無垢な嬰児のごとく睡りこむ一種甘美な陶酔さえ備つているのだ。」


「夢のかたち」より:

「《これは、盲人宇宙のあくびだ!》私は闇のなかで思わず声もなく叫んだ。すると、そのとき同時に、私は不意にぞつとしたのである。
拡がり、膨らみはじめた私は何かを私の内部へ吸いこみ、のみこもうとしていると同時に、まつたく同じような強烈な力によつて、私もまた何かに吸いこまれ、のみこまれ、ひきこまれようとしているのであつた。つまり、永劫の闇のなかで或る飽和乗時間に達した私のすぐ前面にも、また、側面にも、自身をもちきれぬ永劫の闇のなかの何ものかが蹲つていて、自身を越えてしまつたところのかたちもない一つの巨大なかたちのあくびをしはじめているのであつた。」



「影絵の世界」より:

「そのころのドイツ映画は、暗い、というのが最大特徴で、しかも興味深いことには、当時の私たち映画少年のあいだでは、暗い、ということと、芸術、とはほとんど同義語なのであつた。」
「思い返してみると、このドイツ映画のもつている深刻さ、といつた特殊な雰囲気は、成長期の私の脳裡にある種の、目にとまらぬ深い影響を及ぼしているかもしれないと思われる。軽妙で澄んだフランス映画の影響が支配的になつたそのあとの世代からみると、恐らく非常に滑稽であるだろうが、私たちの時代の映画少年は、画面が暗いというただそれだけの理由で、胸をしめつけられるように感激したのである。」

「そのころ新潮社から出されていた暗緑色の擬革装の書物《オブローモフ》は、恐らく六号と思われる小さな活字でびつしりと密集して組まれている私がはじめて接するきまじめな長編であつたが、いつまで読みすすんでも筋がさつぱり進展しないその悠揚たる内容が小さな黒い文字と文字が互いに緊密に支えあつているようなふしぎな緊張を持続している事態が、まず、私を驚かしたのであつた。それは、これまで私がまつたく覚え知らなかつた種類の黒い文字の質なのであつた。そこでは、これまで私が乱読してきた多くの書物とはちがつて、無数の小さな虫のような黒い文字は白い紙の上を先へ先へとひしめき走つてはいず、その小さな黒い文字はその場に静かに立ちどまつて互いに肩をよせあつたままいつまでも静かな反響が重なつている静かな合唱を行ないつづけているのであつた。
たしか山内封介訳のこの《オブローモフ》の読みさし途中のページをひらく前に、私は、いつも、私を心底から驚かしたまつたく未知の質の静謐な合唱が封じこめられているこの暗緑色の擬革装の書物を、無数の森の小びとたちがひそんでいるひとつの小さな魔法の箱ででもあるようにしばらくのあいだながめていたものである。そして、その途中のページをひらくと、寝台のなかに終日寝そべつているオブローモフの「ザハール!」と召使を呼ぶ高い声が小さな黒い文字と文字が発する静かな合唱のあいだから不意ときこえてくるのであつた。
そして、私にとつて決定的だつたのは、文字の質についてのこの衝撃的な啓示が一冊の書物によつて行なわれたのではなくして、《オブローモフ》とほとんど同時に《現代の英雄》が読まれ、さらに相次いで《白痴》までそこに加わつて、いわば、十九世紀ロシア作家のみの三重に複合された力で行なわれたという事態である。無気力なオブローモフと気迫にみちたペチョーリンと霊性のみ輝くムィシュキンが相ならんで少年時代の私の前に出現したことは、その後の私の二重三重に相反し矛盾する精神の成長の幅とかたちをいちはやく決定してしまつたかのごとくであつた。」
「私にとつて、怠惰と勤勉、まじめとふまじめ、架空と現実は、次第に同一の重みをもつようになつてきたが、この魂の二重性の傾向が時代の傾向と打ち当たりはじめたとき、夜昼二十四時間、あたりをしやにむに打ちまわつて灰色の壁に突き当たる政治的行動と、薄暗い寝床のなかに寝そべつたまま夜昼とりとめもなくふけつている宇宙論や悪魔論の果てもない暗い妄想とがまつたく同格になる時期がひそかに準備されたのであつた。」

「現在では、ロンブローゾオの《天才と狂人》はもはや晦暗の闇のなかへ遠く消え去つてしまつた忘れられた書物であり、私自身もこの書物のくわしい内容がなんであつたかをすでに忘失してしまつているけれども、ようやく社会に対して目がひらきかかつていた少年時代の私を刺激し、興奮させ、そして、なにごとかを納得せしめる重要な契機になつたのが、この一般向けの精神病理学の書物であつたのはふしぎなほどであつた。私は、この書物のなかに収められている数葉の写真を、幾度も幾度もひらいては、ながめた。そこに示されているのは、幾人かの狂人によつて描かれた素朴な直線とそれが放射状に広がつた先の曲線の錯綜した奇妙な集塊であつたが、それらを繰り返しながめているうちに、この自然と社会のなかにそれまでなかつたなんらかの新しいかたちと構図をあえて置くことが、狂気という刻印をうたれる暗いふしぎな影を帯びざるを得ないことを私は次第にぼんやり会得しはじめたのである。」
「それは奇妙に構成されたデッサンで、眼前にある現実のなかの何かをそのまま写したものでないことはたしかであつた。それは、あえていつてみれば、魂の暗い奥につらなつている茫漠とした恐ろしいほど巨大なのつぺらぼうの壁をひたすらながめながら描いたものであつて、この自然のなかでまとまりのあるかたちをもつたなんらかの物体、社会のなかのなんらかの器具を写したものではなかつたけれども、そのページをひらいて幾度も幾度もながめているうちに、〈魂だけをみつめて〉描いたその狂人の簡明素朴なデッサンが一枚の完成したふしぎな絵にみえてくるところに、思いがけぬ秘密の啓示があつたのである。
それは、この現実のなかにない何かをあえて描きだそうとするふしぎな絵がこの世にあることを私に教えたばかりでなく、のつぺらぼうな暗い魂の奥だけをひたすらみつめて描いたその錯綜した線のぼんやりした集塊が一枚の模型図となつて、逆に、この現実のなかにひとつの思いがけぬ鮮明なかたちを浮きださせることをも啓示しているのであつた。」

「私の考え方ははなはだ非現実的で、精神も肉体も病的でなければ誰にも見えないものをあえて見るようなとぎすまされた鋭い感受性を備えることはできないといつた一種の狂気説に立脚していたのである。」

「あとで思い返してみると、この少年時代の終わりにかかつた結核は、私がそれまでひそかにたずさえてきたニヒリズムの小さな芽を、全体として透視しがたいほど密集した葉々をつけた一本の巨大な樹木にまで成長せしめるところの最初の機縁になつたのであつた。
そのとき、私の外部でニヒリズムを公然と準備していたもののひとつは、いまから考えるといささか奇妙な現象であるけれども、あえて無理にいつてみれば、寿々喜多呂九平と阪東妻三郎のティームによる剣戟映画なのであつた。」
「そこには、典型的な日本的なニヒリズムがあつた。そこに登場してくるものは、すべて、浪人であり、彼は状況のなかでつねにただひとり孤立した苦悩の闘いを闘うが、苦闘したあげく、押しよせてくる捕り手の大群の現実の前についに破滅してしまうのである。この日本的なニヒリズムは、ちようど、明るい日ざしと鮮明な物体の影がうつつている白い障子をしめきつた部屋のなかの薄暗いニヒリズムのように一種ほのかな明るさをも備えていて、その適度な感傷性が少年の日の私を強くとらえたのであつた。《影法師》にはじまるところのこれらの映画は、《雄呂血》とか《魔保呂詩》とかいつたいわゆる呂九平好みの変わつた題名を備えていて、ちようど禁断症状の麻薬患者がモルヒネやコカインにまつわる陰語を薄暗い部屋の隅でようやくききとつたときのような一種戦慄をともなつた深い陶酔感を私にあたえたのであつた。
この浪人を主題にしたところの〈ニヒリズムの時代〉は、なおあえていつてみれば、ふたつのものを私のなかに成長せしめることになつたといえるのである。そのひとつは、すべてに疎外されたところのアウトサイダーは打ち払つても打ち払つても果てもなく押しよせてくる現実の無限の波を前にして最後まで〈たつたひとり〉で闘うべきこと、そして、他のひとつは、そこには、つねに敗北と死の運命しかないのであつて、徹底した敗北と死を闘いきることが自己自身にとつての唯一の完成であること、というぐあいな暗示なのであつた。」

「私は結核に固有なゆうぐれの陰熱の不快さのなかにいわば存在自体がもつている根源的な不快感を覚えたが、他方、深夜、熱がひいたあとの澄みきつた透明な精神のなかにもはや眠れぬ目を見ひらいて、果てもない乱読にふける習慣がついていたのであつた。」

「ところで、アンドレーエフにおける暗い自殺の場面に心酔しているとき、私は他方で、スティルネルの《唯一者とその所有》にも、深く酔いどれたふうにのめりこんでいたのであつて、底もない自殺の暗い気分と果てもない自我の強靭な拡大は私のなかでふしぎな均衡をとつているのであつた。」

「そしてニヒリズムは私の魂のなかで暗く成長しつづけた。」

「そのころ、私たち映画少年のあいだでしばしば繰り返して思い出され、言及される印象的な映画に《カリガリ博士》があつたが、その表現派映画のなかにこういう場面があるのであつた。ウェルネル・クラウス扮するところのカリガリ博士が、かたわらの長方形の箱のなかに立つている眠り男のセザーレを差して、こういうのである。「めざめよ、セザーレ!」
ウェルネル・クラウス扮するところのカリガリ博士は、そのとき、さながらあやつり人形のようにぎくしやく動く誇張した演技をして、さつと眠り男のセザーレを差すのであるが、他方、コンラッド・ファイト扮するところのセザーレは薄気味悪く道化るカリガリ博士とまつたく対照的に凝然と無気味に立つたまま微動もしないのである。すると、博士のかけ声に応じて、不意に起こる変容が眠り男のセザーレの顔の上にあらわれてくる。
まず小鼻の縁がひくひくと動き、口辺が目に見えぬ何者かにひつぱられるように引きしめられると、やがて、まぶたの蓋がゆつくりともちあがつてきて……ついに、かつと目をひらいて眼前の人間を射すくめるのである。この変化の場面の印象、小鼻がうごめき、口辺がひきしまり、まぶたがゆつくりとあげられてゆく瞬間瞬間の迫真的な印象は、いつてみれば、息をのんでいるまに、この世界が見る見るうちに色あせ変容し、まつたく思いがけぬ新しい事物が現出してくるような戦慄的な印象なのであつた。そのころはまだ宇宙人という言葉がなかつたけれども、眠り男のセザーレという蝋人形細工の容器をつかつて、私たちのまつたく見知らぬ種類の宇宙人がかつと目を見ひらくといつてもよいような無気味な変容の瞬間がそこにあつた。」
「それは、さらにいつてみれば、永劫の時間のなかで〈必ず変化しなければならない〉事物の本性の幅を瞬間のうちに見てとつてしまつたような陶酔的な戦慄でもあつたのである。」

「アンドレーエフに《犬のワルツ》という短い戯曲がある。(中略)その戯曲の最後の幕切れで、劇の主人公は表題になつている《犬のワルツ》を静かにピアノでひいて隣の部屋へはいつていつてしまうと、無人の舞台の空虚な数秒間が過ぎたあと、隣の部屋から不意と短銃の音がにぶくきこえてくるのであつた。漠とした暗黒の層を自分の掌のなかにどうにかにぎりしめようとしている突飛な論理癖をもつたおしだまつた哲学少年であつた私には、劇の主人公がたつたひとりでピアノを静かにひいて立ち去つたあとの無人の舞台の空虚がこの上なく好ましく思えるのであつた。」



埴谷雄高作品集2-3






















































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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