『谷崎潤一郎全集 第九巻 金と銀 鮫人』 (新書判)

「「どうして生活して居るんだか自分にも分りやしない。――僕はたゞ淺草が好きなんだ。さうして淺草のお蔭で飯を食はして貰つてるんだ。」
彼は劇場の背景を畫き、俳優の財布を搾つて暮して居る、だが其處から得た金は劇場の金でもなく俳優の金でもない、みんなあの偉大な淺草公園の渾沌たる坩堝(るつぼ)の中のあぶく錢だ。――服部は正直にさう思つて居たのである。」

(谷崎順一郎 「鮫人」 より)


『谷崎潤一郎全集 第九巻』
金と銀 鮫人


中央公論社 昭和33年11月20日印刷/同30日発行
262p 口絵i 新書判 布装 貼函 定価180円
装釘: 棟方志功
正字・正かな/ニ段組

附録 18: 4p
谷崎氏のこと(尾崎士郎)/谷崎先生についてのおしやべり(古川綠波)



伊藤整による「解説」より:

「「金と銀」は、大正七年五月號の「黑潮」に前の部分四分の一ほどが掲載され、同年七月發行の定期増刊「秘密と開放」號の「中央公論」に多少加筆して後の部分と一緒に「二人の藝術家の話」といふ題で掲載された小説である。この年、作者は數へ年三十三歳であつた。」
「大正九年、谷崎潤一郎は數へ年三十五歳である。この年の一月から十月まで、彼は「鮫人」を「中央公論」に連載したが、未完に終つた。」



「金と銀」は、青木繁みたいな性格破綻者の天才画家の話ですが、その才能を嫉妬した同窓の画家に殺され、おっと、いきなりですが「ネタバレ」というものをしますのでご注意下さい。そういうわけで殺されそうになるのですが一命を取りとめて、しかしそのせいで白痴になってしまうという話です。
「鮫人(こうじん)」は、ルンペンプロレタリアートというか、高等遊民の主人公の服部という青年と、その友人の南というまじめな青年、そして浅草オペラの踊り子の謎めいた少女真珠を中心に、大正時代の浅草と支那を股にかけた甘美で退廃的な物語が展開される、というか、展開されそうなところで中断されている、未完の長篇小説です。


谷崎潤一郎全集9-1


目次:

金と銀 
鮫人
 第一篇 或る藝術家の憧れ
 第二篇 公園に住む俳優の群
 第三篇 林眞珠
 第四篇 深夜の人々

解説 (伊藤整)



谷崎潤一郎全集9-2



◆本書より◆


「金と銀」より:

「實際、靑野のやうに自分で自分の惡い性分を十分に知り抜いて、散々愛憎を盡(つ)かして居ながらも、その性分(しやうぶん)を遂に改めることが出來ず、生涯それに引き擦られて生きて行かなければならない人間は、かうして自分を嘲けることが、たつた一つの自分を許す逃げ道であつた。さうしなければ彼は到底自分の體の置場がなかつた。」

「彼は時々、はつと我に復(かへ)つた如く立ち止まつて、初夏の往來を眺め廻した。きれいに晴れ渡つた朝の靑空や、新綠の上野の森や、鮮かな日光を受けて目の醒めるやうに明るく照つて居る屋根や地面や、そんな景色が彼には特別に美しく見えた。かうして此處に彳(たゝず)んだまゝ、いつまでも此の景色に見入つて居られたら、どんなに幸福だか知れないとも思つた。ふと、五六年前、彼がまだ今日のやうに落ちぶれない時分、フランスから歸朝する際に暫く足をとゞめて居た中央印度のガンヂス河の流域の風光が、蜃氣樓(しんきろう)の如く彼の眼の前に浮かんだ。ベナレスや、ラホールや、アムリツアルの町々の、夢の都のやうな不思議な色彩、寶石の結晶したやうな殿堂や寺院の建築、其處に住んで居る市民や行者(ぎやうじや)の、お伽噺(とぎばなし)の人間じみた奇妙な服装、――それ等の物が朧ろげになつた記憶の底から、嘗て目撃した實在の世界とも、彼自身の空想の産物とも分らない程自由に精細に、燦然(さんぜん)と彼の瞳(ひとみ)を射るのであつた。今もあの大陸のあの地方へ行けば、此の六月の靑空の下に、あれ等の光景がまざまざと展開して居ると云ふ事實が、靑野には何だか本當とは信ぜられなかつた。」

「靑野にしたつて、順當に行きさへすれば、決してそれだけの地位を得られない筈はなかつた。卒業當時の評判から云へば、誰を措いても彼が眞先に立身しさうな形勢であつた。その形勢に狂ひを生じさせた罪は云ふまでもなく、靑野自身にある。みんな自分の心がけが惡いのである。我ながら呆れ返るほど淺ましい、社會の公人として立つて行くべき資格のない、忌まはしい天性の背德病(はいとくびやう)のお蔭である。」

「自分はいつも社會へ出ては惡い行ひやさもしい行ひをする。だが其れは決して自分の本當の願ひではない。自分には世間の善人どもに數等勝つたいゝ物がある。彼等の夢にも知らない、とても理解の出來ない、貴い高い境地がある。此の世の中の凡べての物にも換へ難いほどの價値を持つた、藝術の天地がある。自分には何だか、その天地こそ永遠の存在であつて、此の世の中は假(かり)の幻影であるやうな氣がしてならない。さうだとすれば、此の世の中で惡人と呼ばれながらも、藝術の國へ這入つて行く事の出來る己は、世間の奴等よりずつと幸福でずつと偉大ではないか。――それは今度に限つたことではなく、いつも製作に從事する時は、こんな考へが靑野の胸に湧くのである。此の世の中では忌まはしい不具者として繼兒扱(まゝこあつか)ひにされる代り、藝術と云ふ優しい母は一層彼を不憫(ふびん)がつて、その暖かい懷ろに彼を抱き上げ、彼を慰め、慈愛に溢れた接吻を與へてくれる。「お前は世間からどんなに排斥され、どんなに嘲弄されても、決して失望したり落膽したりしてはならない。お前の素質は私がよく知つて居る。さうして、外の人にはめつたに見せてやらない美しい國を、お前にだけは内證で見せて上げる。だからお前は自分の運命を呪つたり悲しんだりしないがいゝ。お前はほんたうに可愛い兒だ。」かう云つて勵ましてくれる彼女の囁きが、何處からともなく青野の心に傳はつて來る。その慰めと囁きとがあればこそ、自分は此の不愉快な、矛盾だらけ苦惱だらけな世の中に、自殺もしないで生きて行かれるのだと、云ふやうな心地もする。」

「――どうして人間と云ふものは、こんなにいろいろの苦しみを受けたり、矛盾した感情を味はつたりしなければならないのだらう。………だが、どうせ不完全な此の世に生れて來た以上は、人間だつて不完全なものにきまつて居るのだ。まして己なんかは、その中でも一番出來の惡い、不完全な代物(しろもの)なんだ。人間が自分の意志を理想通りに實行できるくらゐなら、最初から人間なんぞに生れて來やしないんだ。――
しまひに彼はさう考へるやうになつた。もうどうしても逃れられない人間の宿命であるとあきらめて、せめてさう云ふ苦しみの中に生きがひのある自分を見出さうと努めた。」

「彼の痴呆状態は日を追うてますます顕著になるばかりで、到底恢復の望みのない事が、醫師の診斷に依つて確められた。」
「實際、靑野の腦髓は決して死んでは居なかつた。彼の魂は此の世との關係を失つてから、始めて彼が憧れて居た藝術の世界へ高く高く舞ひ上つて、其處に永遠の美の姿を見た。彼の瞳は、人間の世の色彩が映らない代りに、その色彩の源泉となる眞實の光明に射られた。嘗て此の世に生活して居た時分に、折り折り彼の頭の中を掠めて過ぎたさまざまの幻は、今こそ美の國土に住んで居るほんたうの實在であつた。(中略)彼はたしかに自分の故郷へ歸つたのに違ひなかつた。」



「鮫人」より:

「その頃服部はもう一年近く其處に住んで居た。それは三四年前から始まつて居た欧州大戰がまだいつ終るとも見えなかつた千九百十八年の春の半ば過ぎのことで、彼が住んで居た家は、淺草の本願寺の裏の方にある、松葉町の露地の奧の長屋だつた。(中略)大抵の日は彼はいつも寝道具を敷き放しにしてある二階の六疊にごろごろしながら、何を考へるともなく暮らすのが常で、食事の時と便所へ行く外はめつたに下へ降りては來なかつた。尤も、時々金が欲しくなつたり、うまい物が食ひたくなつたり、酒が飲みたくなつたりする場合には、不承々々に立ち上つて、寝るにも起きるにも着たきりの古洋服を着けたまゝで、穿(は)く物と云つては何にも彼(か)にも一足しかないぼろ靴を穿いて家の外へ出て行くこともないではなかつたが、それも其の家の在る松葉町から公園の附近に限られて居た。」
「彼は其の持ち前の不精の上に偏屈な感情も手傳つて、淺草以外の土地へは殆ど足を蹈み入れないのであつた。
彼は今年二十七歳になる青年だつた。彼の職業は?――さう云つて人に聞かれたら、彼は恐らく「ない」と答へるであらう。勿論彼には賴りにする親や故郷はないのであるから、自分の手で日々の生活を支へて居た筈ではあるが、それは「稼ぐ」と云ふよりも「借りて來る」方が多かつたのである。金のない時は家にじつとくすぶつて居るか、でなければ近所のバアだのカフェエだのを出來るだけ借り倒して命を繋いで居る。それがいよいよ遣り切れなくなると、淺草劇場の樂屋へ行つて、背景の手傳ひをさせて貰ふか、成るべくならそんな仕事も御免蒙つて、其處の劇團の俳優たちに泣き付いたりして幾らかの金を貸して貰ふ。「また服部がやつて來やがつたぜ。」樂屋に彼の姿が見えると俳優たちはよくさう云つて眉をしかめたが、彼はどんな惡口を云はれても平氣なもので、にやにや笑ひながら小遣ひ錢をせしめては歸つて行く。しかし彼の態度には、哀れなうちにも何處か超然と悟り澄ました樣子があり、それほど下品には見えないのであつた。又それだけの人德(にんとく)が彼の風貌に備はつて居ればこそ、樂屋の連中も口叱言(くちこごと)を云ひながら彼を赦して居たのでもあつた。さうして更に又、彼自身の心の中に這入つて見れば、自分は洋畫家ではあるが芝居の背景を畫くのが商賣ではない。自分は此れでも眞劍に藝術に志して居る。それ故氣の進まない仕事で金を稼ぐよりは、まだ借りるなり貰ふなりする方が疚(やま)しくないと云ふ風に考へて居たのでもあらう。自分は藝術家になる爲めに生きて行くのだから、生きる爲めの手段などは第二の問題で、そんな事に頭を惱ますのは馬鹿な話である。第二の問題での範圍なら、自分は人に卑しまれようと輕蔑されようと差支へはない。どんな方法でゞも金が這入つて飲み食ひが出來さへすればそれでいゝのだ。――と、此の信條を彼は何處までも押し通さうとするのだつた。その爲めには生活に關する費用と勞力とを堪へ得る限りに切り縮めて居た。で、先(さつき)も云つたやうに、着る物と云つては一張羅の古洋服、穿く物と云つてはぼろ靴一足、茶を飲む代りには水道の水を飲み、大掃除の時でゞもなければ部屋の掃除をすることなんか一度もなかつた。さうして、その埃だらけな蒲團の上に打倒(ぶつたふ)れて兩手で頭を抱へたまゝ、その頭の中を次から次へと通り過ぎるさまざまな空想の影を追ひ廻しながら、毎日ぼんやりと日を送つて居るのだつた。
だが、それ程第二義的の「世間」と云ふものを輕蔑し、又孤獨を樂しんでも居るところの彼が、なぜ其の住家(すみか)を騒々しい公園の近所に擇んだのであるか? 彼が淺草を好み、淺草以外へ足を蹈み出さないに就いては、どんな理由が濳んで居たのであるか?――」

「何でも服部に惚れられたと目(もく)されて居る女優は、此の劇團のソプラノ唄ひの林眞珠(はやししんじゆ)と云ふ少女だつたのである。彼女は斯う云ふ社會には珍しい無邪氣な情深い處女であつたし、それに此の一座では割りに優待されて懷(ふところ)都合も好かつたので、服部が來るとしばしばいくらかの金を惠んでやつたが、其の場合に彼女の手から其の賜物(たまもの)を恭(うやうや)しく受け取る服部の樣子が、何となく不思議であると云ふのがそもそもそんな噂を生む原(もと)であつた。「服部さん、あなたにお小遣ひを上げませうか。」――さう云つて少女が、銀貨や札(さつ)を無造作に掴んで彼の鼻先へ翳(かざ)して見せる。すると彼は「あゝ有難う。」と云ひながらそろそろと手を彼女の前に差出す。――此の光景は舞臺ではとても見られない奇觀であつて、噂の眞僞なぞは別問題としても、兎に角それを目撃した者に或る印象を燒き付かせることは確かだつた。斯う云つただゞけでは或は讀者には其の場面がはつきりと浮かんで來ないでもあらうが、公園のうちでも主に西洋物を演ずる芝居の樂屋では、女優たちはちよいとした幕間などに和服に着換へたりする暇がないので、いつでも直ぐと洋服が着られるやうに、シュミーズや、コルセットや、腿(もも)まである長い襪(くつした)や、警察の命令で脚へ穿かせられるメリヤスのタイツなどを着けたまゝ、時には踵(かゝと)の高い靴を穿いたなりで、膝を曲げることも出來ずに寝ころんで居るか立つて居るかして居る場合が多いのである。で、眞珠が服部に施しをする時にも、彼女は大抵さう云ふ姿をして居たものと考へて貰はねばならない。勿論都合に依つたら其の姿の上へスカアトを着けても居たらうし、ブロンドの鬘(かつら)を冠つても居たらうし、エンジェルに扮したりする時は翼を生やしても居たことであらう。さうして彼女は、今も云つた踵(かゝと)の高い靴を側立(そばだ)てゝ小馬の如くチヨコチヨコと廊下へ走つて來て、池の緋鯉に餌を投げてゞもやるやうな工合に金を持つた手を突き出しながら、「服部さん」と云つて彼を呼びかける。と、服部は彼女の傍へおつとりと歩いて行つて、いつも必ず片膝を衝いてしやがみながら、妙に澄まし込んだ態度で手を差出すのである。」

「「親父は美を月にたとへて僕に話した。西洋人は月の光が溪川に映るところや、庭の木の葉を照らすところや、都會の電信柱に光つて居るところや、そんな景色を掴まへて其れを一つ一つ美だと思つて居る。さうして藝術家でも餘程えらい人でなければ、その光の本が大空の月であることを知らない。のみならず、そんな景色を一つ一つ冩すよりも、直ちに大空の月を見た方が近道(ちかみち)であることを知らない。其處へ行くと東洋人は初めから大空の月を見て居る、見ない迄も感じて居る。藝術家の、いや藝術家ばかりではない、宗教家でも哲學者でも『永遠の生命』を欲する總べての人間の終極の目的が、大空の月にあるのだとすれば、月の存在を信ずる事にあるのだとすれば、東洋の藝術の方が西洋のそれよりも端的だとは云へないだらうか。」」
「南は語りながら懷からスケッチ・ブックを出して、其の或るページへ鉛筆で圓く月を畫(か)いた。月の下へ横に長い地平線を畫いた。地平線から月の方へ何本も矢を引いた。それから矢の傍へ「藝術家」だの「宗教家」だの「ゲエテ」だの「李太白」だのと書いた。矢は人間の「無窮に對する憧れ」を示した積りなのである。月の圓(まる)にも丁寧に「月」と書いた。「月」と書いただけでは足りなくて“eternal life”とも書いた。それらを鉛筆でぐいぐいと太く濃くなぞりながら話して來た。
「僕にはそんな事はよく分らない。」
突然服部が、冷酒をぐつと呷り付けてから云つた。
「だけども君のやうに云ふと、藝術家も宗教家も同じことになつてしまふね。」
「あゝさうだよ、僕はそれでいゝと思ふよ。」
と、南が云つた。」」

「つまり淺草公園が外の娯樂場と著しく違つて居る所は、單に其の容れ物が大きいばかりでなく、容れ物の中にある何十何百種の要素が絶えず激しく流動し醗酵しつゝあると云ふ特徴に存する。若し淺草に何等か偉大なるものがあるとすれば此の特徴より外にない。」
「淺草ほど其の流動の激しい一廓はない。それは緩慢な流れの中に一つの圏(けん)を描いて居る或る特別な渦巻である。さうして其の渦巻は年々に輪をひろげ、波紋を繁くし、周圍に漂うて來る物を手當り次第に呑み込んで育つて行く。流れの中にある物で一度は其處へ巻き込まれないものはないと云つてもいゝのである。だが、たつた今巻き込まれた物がいつ何處へ行つてしまつたのか? 依然として其處に渦巻はあるが巻き込まれた物はもう見えない! 正に淺草は其の通りである。われわれが覺えてから二十年來あの公園にはさまざまな物があつた。仰山な物や馬鹿げた物や奇怪な物やふざけた物や其の外枚擧し切れない物が、嘗て一度は其處にあつた。それらは今、何處へ行つてしまつたらう? たとへばあのパノラマはどうしたか? ルナパアクはどうしたか? ヂオラマやキネオラマはどうしたか? 珍世界や猿芝居や女相撲はどうしたか? X光線の見せ物や山口定雄や二錢團州や居合ひ抜きはどうしたか? 現に活動冩眞館が軒を並べて居る場所には昔何があつたか? 近い話が一時あれほどの人氣を集めた井上正夫や木下八百子は何處へ行つたか? 此れ等の慌しく通り過ぎたものは總べて幻影だつたのであるか?――實際中には幻影よりも果敢なく消えてしまつたものが多いのである。たゞ觀音堂と其處に巣を造つて居る鳩の群(むれ)と、池の緋鯉と十二階とが殘つて居る! 斯くの如く此の公園の流轉は激しい。さうして茲に見逃してならぬ事は、それらの流轉しつゝある物を一つ一つ仔細に檢べると、孰(ど)れも此れも殆ど悉く俗惡な物、粗雜な物、低級な物、野卑な物であるに拘はらず、たゞ其れ等が目にも留まらぬ速さを以て盛んに流轉するが故に、公園それ自身の空氣は混濁の裏に清新を孕み、廢頽の底から活氣を吹き、亂雜の中に統一を作り、悲哀の奧に歡樂を醸し、不思議にも常に若々しく溶々たる大河のやうに押し進んで行くのである。其處へもたまには優れた物や美しい物や立派な物が落ち込むこともないではない。が、落ち込むと同時に、それらの立派さや美しさや優越さは大地に滲み込む水の如くに跡形もなく吸ひ取られてしまふ。誰も其處では自分獨りを威張ることが出來ない。世界を股にかけたパテエやユニワ゛アサルの名優も日活や天活の役者どもと、時には活辯どもとさへ同等である。皆公園の一要素たるに過ぎない。――さうして此れは見物人の場合にも云へるのである。見物人も等しく公園の要素であつて興行物と共に流動し廻轉する。彼等の間には趣味の高下もなく階級の差別もない。強ひて差別があるとすれば其れは警察で拵へた婦人席と同伴席と甲種と乙種とだけである。オペラを見る者は學生ばかりで浪花節を聽く者は熊公八公ばかりだと思つたり、又五郎に關心するのは守(もり)ツ兒(こ)ばかりで西洋物を喜ぶのは良家の子弟ばかりだと思つたら間違ひになる。職人がカフェエへ這入つたり、ハイカラが縄暖簾をくぐつたり、娘が鮨の立ち食ひをしたりする。彼等の趣味は始めから斯くの如く出鱈目でとんちんかんなのではない。彼等は公園へ足を踏み入れるや否や出鱈目になりとんちんかんになるのである。」
「なほ此の公園の特色に就いて今一言附け加へて置きたい、――「斯くの如き公園を斯くの如き状態に任せて置く事は何か社會の爲めになるか?」「其處の空氣の流動しつつは進歩しつつか退歩しつつか?」――と云ふ問題である。ところで此の問題に明確な答を與へ得る者は誰もないであらう。それが社會の爲めになるかならないか、その流動が進歩であるか退歩であるか、誰もハツキリと知つて居る者はないであらう。けれども茲に間違ひなく云へる事が一つある。即ち、盛んに流動しつゝある物に退歩は有り得ない、流動は流動それ自身のうちに進歩を生む。われわれはさう思つて唯あの溌剌たる有樣を眺めて居ればいゝ。若し執拗(しつくど)く「爲めになるかならないか。」と問ひ質す者があつたら、「そんな事は我れ我れは知らない、しかし、あの流動する姿を見よ!」と、さう答へるまでゞある。其の答に滿足しない者は公園を去つて、市内の一流の娯樂機關へ走るがいゝ。其處には昔ながらの文明の遺物が、(中略)時とすると其の容れ物だけを新しく装つてどんよりと沈殿して居る。其處には流動もなく混合もなく醗酵もない。徒らに上品ぶつた、金のかゝつた、發育の止つた、乾涸らびた見せ物とお客とがあるのみである。一方には公園のあらゆる物、一方には市内一流の劇場、俳優、藝者、料理屋、――此の二つの孰方(どちら)に將來の日本の文明は味方するだらうか? (中略)それは云ふ迄もなく前者にであらう。其處には何か新しい文明の下地となるべき盲目な蠢動がある。」
「さて恰も此の物語の始まる頃に淺草では何がはやつて居たか?――と云へば、ちやうど日露戰爭のあとで文壇に自然主義がはやつたやうに、欧洲戰爭に際しては公園に歌劇がはやつた! 即ち帝劇の洋劇部で失敗し、ローシイのローヤル館で失敗したものが、公園の渦巻へ落ち込んで來て芽を吹いたのである。(中略)斯くして守ツ兒や、熊公八公や、活動冩眞に飽きた少年少女や、觀音樣へお參りに來た善男善女に向つてロシニの名曲「セヴィラの理髪師」が紹介され、アイヒベルグの喜歌劇「アルカンタラの醫師」が上場され、スッペの「ボッカチオ」、オッフェンバックの「天國と地獄」、マスカニの「カワ゛レリア・ルスチカナ」が演ぜられるに至つた。それでなくても幼稚でお粗末なほんの黎明運動に過ぎなかつた其れ等の俳優の技巧と管絃樂とは、公園へ落ちると同時に荒んで行つたが、無邪氣で出鱈目な其處の群衆は譯が分らずに喝采した。淺草で歌劇「ファウスト」が演ぜられ、「椿姫」が演ぜられ、「カルメン」が演ぜられたと聞いても、別に驚くにはあたらない。なぜなら其れはグノーの「ファウスト」でなく淺草の「ファウスト」であり、同時にヴェルディやビゼエの「椿姫」「カルメン」でなく淺草の其れ等であるから、――前にも云つたやうに總べて此處へ這入り込んだ物は直ちに「公園獨得の物」に化けるのであるから。で、此の公園獨得の歌劇はだんだんに範圍が廣くなり、素質が惡くなり、いろいろの歌劇まがひ西洋まがひの間に合はせ物や飜案物が出來始め、「沈鐘」「サロメ」の如き大物(おほもの)からさまざまな呑氣な曖昧なメロドラマ、細々(こまごま)したファース、コメディー、お伽劇、舞踊劇にまで蔓つて行つた。此れと云ふ纏まつた筋はなくても西洋風俗の男や女が舞臺をきやツきやツと遊び廻つて、氣樂に面白さうにふざけて、時々歌つたり踊つたりすれば歡迎された。中には小學校の運動場と選ぶ所がないものもあつた。いや、中にはではない、結局のところ此れ等の公園の歌劇は多少の廢頽的要素と異國情調との加味した小學校運動場的氣分だつたと云つても差支へないのである。一體公園にあるものは哀れなものでも幾分かは愉快に見え、愉快なものでも幾分かは哀れに見え、觀客の心持の置き場所に由つて、太陽に照らされるプリズムのやうに靑く光つたり赤く光つたり黄色く光つたり無色になつたりするのであるから、此の廢頽と異國趣味と小學校氣分との孰れが歌劇の本質であつたか、正體を見究めることは容易でないが、多分此の三者の渾然たる化合物が其の本質だつたのであらう。さうして此れがあんな人氣を呼んだ一つの理由は、その以前に一時公園を風靡して居た外國の優秀なフィルムが、戰爭の爲めに輸入されなくなつたからである。活動冩眞に依つて教へられた觀客の異國趣味は、歌劇に於いて滿足したのである。其處へ行けばチャアリー・チヤプリンのカリカチュアを始めとしてパアル・ホワイトや、ルス・ローランドや、ドリス・ケニオンや、ビリー・バアクや、ダスティン・ファアナム等の生きた模型を見ることが出來た。模型は無論本物と比較にならない粗製濫造品ではあつたけれども、粗製濫造なるが故に却つて見物人を喜ばせた。なぜなら彼等は我れ我れと同じく黑い瞳を持ち、冩眞では分らない薔薇色の頬(ほツ)ぺたを見せ、聲高く唱歌をうたひ、且つ日本語を以てわれわれに媚びてくれたから。彼等は、日本人の間には今迄見出されなかつた女性の容貌と姿態と體格との新しい「美」の一面を、日本人の血と肉とを以て築いてくれたから。(中略)兎に角彼等は我れ我れの眼を古い女性美から新しい女性美へ向き變へさせた。市中ではぽん太小ゑん萬龍靜枝以來の藝者の繪葉書が賣れなくなつて、活動やオペラ女優の繪葉書が賣れ出した。――そんな物を買ふ奴は不良少年ばかりだと云ふかも知れない。が、そんなら今の日本は何であるか? 今の東京市は何であるか? 今の日本の社會、今の東京市全體は一個の不良老年ではないか。此れ等の不良老年の中で淺草公園だけが不良少年なのである。」

「「あの眞珠と云ふ名は、此れも暗合だと云へば云へるんだが、あの兒の肌が眞珠色をしてると云ふので、あれは梧桐氏が附けてやつた藝名なんだ。」」
「「だけども、あの顔つきには何處かぼうツとした、支那人と間違へられさうなところがあるだらう?」
「あゝ、それはある。顔の感じから云ふと支那人臭くツて、どうも江戸ツ兒とは見えない。一つには全く大理石のやうにきめが細かで色が白いせゐかも知れない。さうしてあのぼうツとしたところがあの兒の特徴なんだ。あれが或る時には初々(うひうひ)しい愛嬌に見えたり、或る時には妙に曖昧に見えたりして、何だか氣心の知れない子供だと云ふやうな氣を起させるんだよ。だからほんたうに無邪氣なのか猫を冠つて居るのか、實は僕にも分らないんだけれど、其の分らないところが又僕の氣に入つて居るんだ。」
「ぢや、上海での出來事のやうな不思議なものが加はるとすると、なほ君の氣にも入る譯だね。」
「さうだ、一體あの兒にはさう云ふ不思議なところがあるんだ、――」
其の時、南は服部が奇妙な眼瞬(まばた)きをするのを見た。――それは、何か斯う、遠くかすかに消えかゝつた記憶を、心の底に喚び返しつゝあるやうな工合であつた。」



谷崎潤一郎全集9-3



「鮫人」についてはこちらをご参照下さい:
中野美代子 『鮫人』


































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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