シモーヌ・ヴェーユ 『ヴェーユの哲学講義』 渡辺一民・川村孝則 訳 (ちくま学芸文庫)

「私たちにはまた、国家が私たちに残していない自由を、それだけの価値のあるものなら法に逆らってでも奪いとる義務があります。」
(シモーヌ・ヴェーユ 『ヴェーユの哲学講義』 より)


シモーヌ・ヴェーユ 
『ヴェーユの哲学講義』 
渡辺一民・川村孝則 訳

ちくま学芸文庫 ウ-5-2

筑摩書房 
1996年11月7日 第1刷発行
405p 人名索引iii 
文庫判 並装 カバー
定価1,250円(本体1,214円)
装幀: 安野光雅
カバーデザイン: 渡辺千尋


「本書は一九八一年九月三十日、『哲学講義』として人文書院より刊行された。」



本書「あとがき」より:

「翻訳のテクストとしては、Simone Weil: Lecons de philosophie, transcrites et presentees par Anne Reynarud-Guerithault. 10/18, Union generale d'editions, 1966 を用い、五九年の Plon 社版を参考にした。10/18版には(中略)編者アンヌ・レーノー=ゲリトーの手によって付録がつけられ、そこに本文で扱う事項と関連のあるヴェーユのことばがヴェーユの全著作から抜粋して収められている。(中略)この付録の部分は本書から割愛した。」
「翻訳の作業は、川村が全文を訳したあと、渡辺がそれに全面的に手を加えるというかたちでおこなわれた。」



ヴェーユの哲学講義


カバー裏文:

「本書は、若き日のヴェーユがロアンヌ女子高等中学(リセ)の最高学年哲学級でおこなった講義の記録である。「心理学」から始まり、「精神の発見」「社会学」「倫理学」などを通して、意識・感情・国家・身体などを考察するこの講義は、独創的かつ自由奔放、そして何よりも生徒の人格を発展させようとする姿勢に貫かれている。この講義ののちロアンヌを後にしたヴェーユは、パリの電気会社で働くことになるが、講義録からは、「抑圧と自由」などの諸論考にはじまり『根をもつこと』に至る、その後の思想と行動を支える思索を見出すことができる。」


本書「はじめに」(アンヌ・レーノー)より:

「シモーヌ・ヴェーユが、ある人々からは「今世紀最大の神秘主義者」として、またある人々からは「革命的アナーキスト」として紹介されて有名になり、熱狂的な論争をまき起こしたとき、わたくしはただたんに哲学教師としてのシモーヌ・ヴェーユを知ってもらうのも興味深いことではないかと考えました。
 シモーヌ・ヴェーユは一九三三年から三四年まで、ロアンヌ女子高等中学(リセ)でわたくしの先生でした。わたくしたちのクラスはごく少人数で、とても家庭的な雰囲気をもっておりました。わたくしたちは学校の大きな建物から離れ、庭の奥のほとんど忘れられたような別棟で、外部からは完全に切りはなされた環境のなかで、偉大な思想への手ほどきを受けたのです。気候がよくなると、講義は美しい西洋杉の木陰でおこなわれました。ときには脱線して、幾何の問題を解いたり、おたがいのことを話しあったりしたこともあります。」
「この講義ノートは、わたくしには当時の彼女をよくあらわしていると思えるのですが、十七歳の娘によって書きとめられたままのかたちで、ほとんど編集の手を加えることなくここに出版されます。」
「強調しておかなければならないのは、シモーヌ・ヴェーユは書き取らせるようなことは一度もしなかったこと、このノートは速記録ではないということです。したがって、このノートをシモーヌ・ヴェーユの著作とみなすことはできません。(中略)わたくしの望んでいるのは、このノートがすくなくとも全体として捉えられたかぎりにおいて彼女の思想の真の姿をあかすものとなるということです。」
「わたくしは、「神秘主義者シモーヌ・ヴェーユ」のもっとも特徴的な思想をまとめなおして、それを「無政府主義者(アナーキスト)シモーヌ・ヴェーユ」の講義とどうしてもつきあわせてみたいと思っていました。これによって、テクストそのものが語り、またそれをとおして読みとれることでしょうが、「アナーキスト」の問題がいかに内面的規律と真実の探求以外の何ものでもなかったか、あきらかになるものと考えております。」



ここで述べられている「神秘主義者シモーヌ・ヴェーユ」と「無政府主義者シモーヌ・ヴェーユ」をつきあわせる試みというのは、本書(邦訳)では割愛されてしまった、ヴェーユの著作の抜粋からなる「付録」のことをさしているとおもいます。


目次:

はじめに (アンヌ・レーノー)
まえがき (A・R)

第一部
 心理学で用いられる方法
 反射
 本能
 行為における身体の役割
 感情における身体(反射と本能)の役割
  1 感情の生成および再生のメカニズム
  2 感情の本性
 思考における身体の役割
  感官―感覚
  知覚
  知的な外見をもった活動についての考察
  ことば
  推論
 精神を求めて
第二部
 第一篇 精神の発見ののちに
  精神―その性格
  意識―無意識―意識の度合い
  人格
  判断
  推論
   推論の種類
   演繹法
   証明
   帰納法
   類推による推論
   実験科学についての二つの考え方
   いくつかの実験科学における理論と論考についての検証
 第二篇 社会学
  第一章 社会学をいかに考えるべきか
  第二章
   歴史上の社会的抑圧
   抑圧についての理論的な問題
  第三章 経済生活の動き
  第四章 現在の状況
  第五章 国家についてのいくつかの考え方
  第六章
  第七章 個人と社会の関係についての結論
第三部
 倫理のよりどころ
  1 意識とはべつのものにもとづく倫理
  2 倫理にとっての真のよりどころ
  3 合理的な倫理学者たちの考察
 審美的感情についての心理学
  1 身体および感性の関与
  2 精神―悟性
  3 美における身体と精神の調和
 いくつかのプラン
  自己認識
  真実への愛
  犠牲
  哲学と形而上学
  認識の相対性
  誤謬
  時間
  直観と演繹法
  意志による行為と意志によらない行為
  注意
  感情生活における意志
  感情生活における思考
  文学創造と科学的思考とにおける想像
  勇気
  自殺
  正義と思いやり
  抽象的な観念
  ベーコン
  プラトン――『国家』

訳注
あとがき (渡辺一民)
シモーヌ・ヴェーユ 一つの注釈――文庫版あとがきにかえて (川村孝則)




◆本書より◆


「第一部」「思考における身体の役割」より:

「事物は思いだすための道具となることがあります。いちばん大事な人のことを思いだすために、それ自体としてはつまらない事物を必要とすることもあります。そんなとき、そうした事物はある現実的な力を持つわけです。そうした事物を持たぬ囚人は牢獄の壁に、恋する人は樹皮に、愛するものの名を書きつけます。自分についての思い出を永遠のものとするため、だれでも自分の名と結びつくような事物をつくりあげようと努めるものです。思い出の忠実な番人は、精神ではなく物質なのです。
 人はだれでも、物質のなかに自分自身を刻みこむことを熱望します
。」


「第二部」「第二篇 社会学」より:

「社会についての学問は、私たちが《あたえられた条件のもとでもっとも抑圧のすくない社会とはどのようなものかを考える》に際して、役立つものでなければなりません。抑圧が何によるものか理解しさえすれば、混乱のなかに沈みこみ、抑圧をただ受けいれるだけのこの耐えがたい状況に、私たちはもはやとどまってはいないでしょう。」
「個人としての生活のなかでは正しく良心的などれほどの人々が、外交官となると嘘をつくことに、雇主となると労働者を搾取することに、ためらいをなお感じたりするでしょうか?
 裁判官は裁判官であるかぎり誠実ではありませんし、(中略)労働者は「おしゃか」を全部とりのけていたら、食べるのにこと欠くでしょう。それに、つぎの作業班に送ってしまえば、あとで「おしゃか」だとわかっても、だれがやったかはわからず、したがって賃金が減らされることもありません。」
「このような人々がその職業をつづけ、しかも個人としての生活では人間であることができるという事実は、職業というものが視界を狭め、個人の徳に抜け道をつけ、さらに職業を高めるのが個人の徳ではないということを示しているのにほかなりません。」

「何かを生産することのできる社会はすべて、抑圧的なかたちで組織されていることはたしかです。」

「さて、抑圧にはどんな否定的な、破壊的な側面があるのでしょうか?
 (1)物質的観点から
 抑圧者どうしの競争――軍国主義的戦争か経済的競争か――、宣伝活動。広告のためにどれほどの努力が無駄にされていることでしょう! 武器についてもおなじことです。敵方がやる以上、それをすこしでも凌ごうというわけで限りがありません。」
 (2)知的観点から
  (a)思想と世界との分離 実際のところ、ものを考えるのは特権階級の人たちであり、労働者にはものを考えるだけのゆとりがありません。こうして、文化の全体が偽りのものとなってしまいます。
  (b)権威に屈服する思想 抑圧者たちは思想が自分たちの手をすりぬけていくと気づくたびに、その思想を排除します(毒人参、磔刑台……などによって)。(中略)
  (c)倫理的観点から
  抑圧は人間的本性の尊厳にたいする侮辱です。」

「社会の種々の現象にたいする私たちの義務
とりわけ、自分の義務を偽ったりしてはなりません。(中略)
 社会問題を避けてとおるのは不可能です。みずからに課さなければならない第一の義務は、嘘をつかないということです。
 嘘の第一の形態は、抑圧を覆い隠し抑圧者におもねることです。この嘘は、正直で、おまけに善良で誠実な人たちのあいだによく見うけられます。しかも、当人たちはその嘘に気づいていないのです。(中略)抑圧された人たちの側に身をおいて彼らとともに感じようとしないかぎり、この嘘に気づくことはできません。
 嘘の第二の形態は、デマゴギーです。
 ――以上の二つの誤りは重大です。
 こうした誤りは、正直な人によっても犯されますが、醜悪な性格をおびることがあります。たとえば、第一の嘘に関していえば、職業上抑圧者にへつらう人たちがおります。流血を招くものたちを讃えよろこばせて生涯をおくる人たちを、いつの時代でも権力者たちは見つけだすものなのです。十人のジャーナリストのうちの九人までが、抑圧者のために嘘をつくというこの職業を楽天的に受けいれています。
 第二の嘘については、労働運動のなかにいる官僚のことを考えてみましょう。彼らの役目は、抑圧された人たちにむかって、解放が明日にもおこなわれると信じさせることです。彼らには、労働者が警官に殺されたとしても、それが宣伝に役立てばいいのです。
 したがって、第一の義務は、これら二種類の嘘をどちらも排斥することです。事態をよく理解し、何十億の人間が社会の仕組みによって押しつぶされているということを、他の人にたいして隠してはなりません。」

「国家の現在の形態を見れば、官僚制という調整機能が最優位にあることがわかります。官僚は何もつくりだしはしません。ただ他人のつくるものを調整するだけです。官僚は寄生体であろうとし、必要以上に自分を成長させようとします。その原因は、官僚たちは管理されることがないということと、官僚制が機械に似た何かである(株式会社とおなじく)ということのなかにあります。
 独裁者であろうと王であろうと、官僚制によってみずからをささえようとするでしょう。
 官僚制というこの装置は、独自の道具として集団的能力を持っています。軍隊、警察も官僚的なものになっていきます。」
「個人の無力さ
 こうして、個人というものはもはやほとんど何の重みも持たなくなります。それを理解することさえ、六十年このかた執拗な宣伝のおかげで困難になっております。たんなる個人であるかぎり、何かに逆らおうとしても頼みとする手段はまったくありません。警察が個人をいじめる以上、何ものも個人を守ることができません。新聞も警察の言うことにはしたがいます。警察がやろうと思えば、無実の市民を有罪にすることもできるのです。
 司法とか行政とかいうものは、すべて市民に奉仕するためにつくられたものですが、いまではその奉公人たちにたいして不満があったとしても、市民たちにはもはやどんな訴える手段もありません……。」

「拘束―踏みにじられた「人権宣言」
 このような事態から引きだされる政治的帰結について考えてみましょう。私たちの社会のシステムは拘束のうえに成り立っています。労働者はそのシステムに耐えるとしても、それに甘んずることはできません。拘束は民主主義と両立するものではありません。労働市場や生産の現場で物として扱われる人間が、公的生活で市民として扱われるなどということがありえないのはあきらかでしょう。
 じじつ、表現の自由は資本を構成する機械に従属しております。ブルジョワ新聞の紙上でも、正統派でないゆえに労働者の立場を標榜する新聞の紙上でさえ、語ることのできない事柄があるのです。
 ことばのほんとうの自由というものはありません。
 個人としてのどのような自由もありません。私たちは牢獄や不正な有罪判決から逃れられません。
 裁判に関していえば、金持ちは裁判官を買収できます。新聞のキャンペーンで脅迫したり、政治的な支持を約束したりするわけです。弁護士に依頼するのにも必要なのはお金なのです。
 さらに何もかも買うことができます。金さえあれば戦争にいかないことも可能です……(中略)共和制下の自由と平等を保証するすべての法律は、幻想にほかなりません。なぜなら国家が管理されることも、管理しうるものとなることもないからです。
 まず生産のシステムを変えるのでなければ、国家を変革することは不可能です。」

「国家に対する義務
 (1)現在あるような国家にたいして
 暴力こそが義務となります。服従はひとつの必然性のもたらす結果であって、義務とはなりえません。(中略)国家があなたがたに残しているごくわずかな自由をけっして取り逃がさないこと、すなわち、公認されているイデオロギーをけっして承認することなく、自立した思想の核を創造すること、それこそ権利ではなく義務なのです。国家による抑圧にたいして闘うことは、その闘いが自滅をもたらさないかぎり、義務でありましょう。」

「国家にたいしてとるべき実践的態度
 国家の持つ機能には各人の利益に奉仕するものもあり、それらの機能に関しては、国家の課するものをみずからの意志で受けいれる義務があるでしょう(例。交通規則)。
そのほかのことに関しては、ひとつの必然性として国家にしたがうことがあっても、みずからの内心にまで国家を受けいれてはなりません。私たちはしばしば、とりわけある種の雰囲気のなかで育った場合など、国家のことで苦しまねばならぬことがあります。国家が私たちにもたらす報酬に感謝することは拒否し(幸いなことに私たちは刑罰以外の報酬を拒否することができます)、国家が私たちに残している自由はすべて最大限に利用しなければなりません。」
「私たちにはまた、国家が私たちに残していない自由を、それだけの価値のあるものなら法に逆らってでも奪いとる義務があります。」

「植民地化
 植民地化の問題は資本主義のかかえる問題とおなじものです。植民地がつくられるのは、企業を拡大するためで、原住民の福祉のためなどではありません。「植民地政策を改革しなければならない」ということは、結局「社会体制を変えなければならない」ということになります。」
「ジードはコンゴにおける強制労働のことを書いています。鉄道を一メートル建設するごとに人命がひとつ失われる計算だったということです。」



「第三部」「倫理のよりどころ」より:

「暴君はつねに一般的利益に訴えようとします。たとえば、社会秩序を顛覆しようとするのは悪であるという論証はいつでも可能です。
 十八世紀の人々の犯した誤りは、社会が個人の総和であると考えたことです。
 十九世紀になって人々は、社会というものがむしろ個人のあいだの関係であり、一般的利益は社会の構造に基礎をおくものであることに気づきました。
 失敗におわったすべての陰謀が犯罪と見なされ、成功した人々のおおくがあとで称讃されることに注意しましょう。社会的闘争において敗者とは呪われた人のことです。」
「抑圧というのは、社会の構造と個人との対立です。一般的利益とは社会の装置を操作する人たちにとっての利益であって、そのしたにいる人たちの利益とは対立するものです。
 すべての解放運動は個人の名のもとにおこなわれてきました。抑圧を発見する際の目安となるのは、一般的利益なるものが援用されているかどうかということです。」

「本能にもとづく倫理というのは、他人が苦しいときには私たちもまた苦しいという単純な発想に基礎をおいた倫理です。
 この理論の考察
 この理論は、意識にもとづく場合や、内的葛藤については触れません。自分の気持を楽にするため他人に善を施すとき、そこに徳は発生しません。
 ストア学派は、徳はひとつの弱さであるとします。例をあげましょう。『レ・ミゼラブル』(「脳裡の暴風雨」の章)のなかのジャン・ヴァルジャンを考えてください。何がジャン・ヴァルジャンをかりたてて罪を告白させようとするのでしょうか? 彼はその年老いたお人好しに会ったことはありませんが、その男がろくでなしであることはわかりきっています。それにジャン・ヴァルジャンには、労働者たちにたいする責任があります。連帯と共感の感情のすべてが彼にじっとしているよう仕むけたはずです。(実際には、ジャン・ヴァルジャンのような人物はいなかたっということはできます。しかし、彼にたいする私たちの感嘆の念は現実のものです。)
 たしかに、遠くにいる人に幸福をもたらしながら近くにいる人には不幸をもたらすとき、そこにはどのような連帯も共感も存在しません。私たちはみんな人間を踏みつけにして生きているくせに、そのことについては考えてみようともしません。そのことを思いだすためには特別な努力が必要です。いつもは簡単に忘れてしまう事柄にたいして自分の注意を向けておくために払う、稀にしかなされぬにせよ賞讃に値する努力は、自分にたいして誠実であろうとする意志からくるものであって、共感をとおしてもたらされるものではありません。こうした努力は結局ひとつの苦悩にいきつくものです。
 自分の考えに忠実であろうとして周囲の人々とのきずなを絶つ人は、他人にも自分自身にも苦しみを負わせます。例。異教徒の家に生まれながらキリスト教の殉教者となった、アッシジの聖フランチェスコ。今日では、良心から徴兵を忌避する人たち。
 公的な事柄について真実を語るだけでは、どのような物質的な善をもたらしもしません。無原則に反応する意見というものは、食いとめようとしている悪を逆に増大させることにもなります。
 したがって、「本能にもとづく倫理」とはべつの倫理があるはずです!」

「今日では、すべてが金の問題との関係で設定されています。投機はかつて何か恥知らずなことと見なされていました。ところが今日では、株式取引所でしか財産を手に入れることはできません。それに財産と労働とのあいだには、もはや何の関係もなくなってしまったのです。詐欺があらゆるところに浸透しています。宣伝広告はいつだってほらなのに、私たちはみなそれなしですますことができなくなっていますし、競争が私たちに隣人の詐欺を真似するように仕むけているのです。
 おなじひとつの時代のなかでも倫理の変化が生ずることがあります。」
「一九一〇年のパリの洪水のときには、路上の人たちに宿を貸すのが正常なことと考えられていましたが、いまでは浮浪者を泊めるなどいささか気違いじみたことと思われています。」








































































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プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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