ケレーニイ/ユング 『神話学入門』 杉浦忠夫 訳 (晶文全書)

「神話的な根拠の説明には、このように自己の内部に引っ込む者が自己をあらわに示す、というパラドクスがある。あるいは逆にいうなら、古代人の大らかな開放性は自己を自己の根底に退かせ、自己本来の根源においてアルケー・カテクソケーン αρχη κατ' εξοχην、すなわち根源そのものを認識させる。」
(カール・ケレーニイ)


カール・ケレーニイ
カール・グスタフ・ユング 
『神話学入門』 
杉浦忠夫 訳

晶文全書

晶文社 
1975年5月30日 初版
1978年2月28日 4刷
267p 索引vi 
A5判 丸背紙装上製本 カバー 
定価1,900円
ブックデザイン: 平野甲賀



本書「訳者あとがき」より:

「本書は、カール・ケレーニイ(一八九七―一九七三)とカール・グスタフ・ユング(一八七五―一九六一)の共著『ミュトロギーの本質への入門』第四版(C.G. Jung und K. Kerényi : Einführung in das Wesen der Mythologie - Das göttliche Kind/Das göttliche Mädchen. 4. Auflage, 1951 Zürich)の全訳である。」
「原著にはビブリオグラフィーも索引もないが、本訳書では書肆の希望に従って、「文献一覧」と「索引」をつけた。」
「本書の構成は、ユングとケレーニイの共著という体裁をとっているものの、全篇に占める頁数の割合から言っても、その内容から言っても、断然ケレーニイの方が重きをなしている。(中略)原著の著者名ユング、ケレーニイを本訳書ではケレーニイ、ユングと入れ換えたのも内容の比重関係による。」



ケレーニイ 神話学入門 01


帯文:

「神話とは何か
20世紀屈指の碩学、神話学者ケレーニイと心理学者ユングが「童児神」・「少女神」の典型的な神話像を手がかりに、神話の本質と根源を明かした「開かれた神話学」のための白眉の入門書」



カバーそで文:

「神話――それは始まりへのたえざる回帰である。古代の人びとにとって、神話とは、美化された幻想でも神々についての作り話でもなく、日常の思考や表現の形式であり、あらゆる不条理や残酷さを秘めた生きる営為そのものであった。
 今日われわれにとって、古代の神話物語は幻の世界にしかすぎないのか。われわれはいかにして、神話的始原に関わりえるのか。そして神話学とは何か。
 本書は、20世紀屈指の碩学カール・ケレーニイが、「童児神」と「少女神」の二つの典型的な神話像を手がかりに、ギリシア・ローマ古典から現代文学にいたる深い学殖を傾け、卓抜な想像力と透徹した思考を駆使して、神話の本質と根源を解明し、現代のもっとも独創的な心理学者ユングが独自の分析を付してなった。人間の生と死のドラマへの根底的な問いに貫ぬかれた「開かれた神話学」のための白眉の入門書。待望の邦訳。」



目次:

新版〔第四版〕まえがき
第二版・第三版まえがき

序説 神話の根源と根拠の創設について (カール・ケレーニイ)

Ⅰ/A 童児神 (カール・ケレーニイ)
 1 童児神たち
 2 孤児
 3 ヴォグール族の神
 4 クッレルヴォ
 5 ナーラーヤナ〔那羅延夫〕
 6 アポローン
 7 ヘルメース
 8 ゼウス
 9 ディオニューソス
Ⅰ/B 幼児元型の心理学のために (C・G・ユング)
 序論
 A 幼児元型の心理学
  1 過去状態としての元型
  2 元型の機能
  3 元型の未来性
  4 幼児モチーフの単一性と多様性
  5 童児神と英雄児
 B 幼児元型の特殊現象学
  1 「幼児」の遺棄
  2 幼児の無敵さ
  3 幼児の両性具有性
  4 初めと終りとしての幼児
 まとめ

Ⅱ/A 少女神 (カール・ケレーニイ)
 1 アナデュオメネー
 2 神話的観念の逆説
 3 神々しい少女像
 4 ヘカテー
 5 デーメーテール
 6 ペルセポネー
 7 インドネシアの娘神(コレー)
 8 エレウシースのコレー
 9 エレウシースの逆説
Ⅱ/B コレー像の心理学的位相について (C・G・ユング)

結び エレウシースの奇蹟について (カール・ケレーニイ)

原註
文献一覧
訳者あとがき
索引



ケレーニイ 神話学入門 02



◆本書より◆


「序説」(ケレーニイ)より:

「神話において重要なのは(中略)問うことではなく、アルカイ(αρκαι)へのためらうことなき直線的な回帰、つまり「根拠」への無意識的な後退としての根拠の説明である。闘牛士のように一歩後退したり、潜水器にもぐり込むように過去にすべり込んだりするのは、与えられた神話を体験し、それに従って行動する者だけではない。真の神話作者も神話素の創造者、あるいは再創造者でもこの点では同様である。何が「真実である」かを語るためには、哲学者なら自己を取り巻く現象世界に押しいるであろうが、「神話の語り手」は、何が「原初的であった」かを伝えるために太古へと回帰する。神話の語り手にとっては太古の世界が本来の実相にほかならないのである。本来の実相、すなわち主体と客体との真の直接性が、このようにして現実に獲得されるかどうかについてあえて語らずとも、われわれは神話的な根拠の説明の手段と方法を理解する。
 神話は、神話の語り手が物語を身をもって体験しながら、太古への帰路を見出すことによって根拠を説明する。事実、神話の語り手は、周辺をうろついたり嗅ぎ回ったりすることなく、調査したり緊張したりすることもなしに、自分の関わり合うあの太古に、彼の語り伝えている始原世界のただ中に、突如として現われる。人間は現実にどんな始原世界のなかに存在し得るのか。どの始原世界に直接もぐり込めるのか。人間には人間独自の始原世界がある。すなわち人間の不断の自己形成を可能にする人間の有機的存在という始原世界がある。人間は人間自身の根源を発達した有機的存在として経験する、――あたかも人間が一千倍も増幅された一つの反響音であるとともに、人間の根源が最初の響音であるかのような、ある種の同一性に基づいて経験する。人間はこの根源を彼自身の絶対的な始原(アルケー)として体験する。それ以来人間が人間の未来の存在と生命のあらゆる対立物を自己の内部に融和させる一個の統一体となるところの、あの始まりとして経験する。一つの新しい宇宙統一の始まりとして理解されるこの根源は、童児神の神話素によって示される。同じように自己の根源として経験されるもう一つの根源、同時にそれに前後する無数の存在物のアルケーでもあるあの根源を示すのは、少女神の神話素である。個体はこの根源によってすでにその萌芽のうちに無限性を与えられる。
 本書で一括される二つの神話素は、さながら道標のように人間的な成長と植物的な成長という比喩を借りることによって、ある軌道をわれわれに暗示する。すなわち、この軌道の上で始原世界への通路としての根拠の説明が始まり、発展の道を再びあの比喩形式で歩むことになる。比喩的に語ることが許されるなら、われわの全体性の生命ある萌芽に通ずるのは、われわれ自身への一種の沈潜なのである。この沈潜の習慣が神話的な根拠の説明であり、このような習慣の結果は、われわれが根底から流れ出る比喩に開眼したことによって、さきに挙げた二つの始原世界が一致する場所にわれわれが戻ったということである。萌芽の始原、あるいはゲーテの精神に従って表現するなら、「核心(ケルン)の深淵」はそこにつながり、そこにあの中心点が――われわれの全存在全生命がそれをめぐって形成され、またそれによって形成されるあの中心点が仮定されねばならない。われわれの生命におけるこうした全く内面的な相を空間的な概念の中で考えれば、起因と根源の認知とが同一である理想的な場所は、この起点と中心点でしかありえない。このようにして自己の内部に引っ込んでこれについて報告する者が、われわれの存在の根拠を経験し、これを告知する、すなわち根拠を明示するのである。
 神話的な根拠の説明には、このように自己の内部に引っ込む者が自己をあらわに示す、というパラドクスがある。あるいは逆にいうなら、古代人の大らかな開放性は自己を自己の根底に退かせ、自己本来の根源においてアルケー・カテクソケーン αρχη κατ' εξοχην、すなわち根源そのものを認識させる。神話は太古の初出児――「始原」は最初ここにあった――である童児神の姿を借りて語るが、そこで語るのは人間存在の発生などではなく、神的な宇宙、あるいは全能なる神の発生についてである。誕生と日の出は、あの普遍的な始原に肉体的特徴と金色の色彩を与えているに過ぎない。われわれが人間の観念的な中心点という空間的概念のなかにとどまるならば、萌芽の底知れずに深い始原が始まるところにこそ世界そのものが始まる、と言わざるをえない。世界そのものは鮮明な比喩を用いて根源について語る。自己に沈潜しながら自己本来の根拠にまでもぐり込む根拠の説明者は自己の世界の根拠を説明する。彼はこの世界を一つの基盤の上に立って自力で築き上げる。そこではすべてが一つの湧出、発生、発芽であり、言葉の完全な意味において根源的、従って神的でさえある。神話の中に現われるすべてのものの神的性格は、一切の神的なるものの根源性と同じく自明である。」

「世界をある一点から再構成すること、すなわち、根拠の説明者そのものがそれをめぐって組織され、それを起点として組織されているところの点、彼がその中で根源的に(中略)存在しているところの点、――そういう点をもとにして世界を再構成すること、これこそ神話学の最大にして最も重要なテーマ、すなわち根拠の説明そのものである。大宇宙の写しである一つの新しい小世界の建設と同時に、神話的な根拠の説明が行動に移されはじめる。すなわち根拠の説明 Begründung が根拠の創設 Gründung となるのである。」



「童児神」(ケレーニイ)より:

「ゼウスが生まれたとき、ゼウスの母は――わが子の命を救うために――彼を捨て子にした。ゼウス神話に現われる神々や野獣による幼児の養育と、幼児ディオニューソスの神話と礼拝儀式に見られるこのような育児の模倣には、つぎの二通りのことがらが示されている。すなわち童児神の孤独と、それにもかかわらずその子は結局原始世界に住みついているという事実――この二つである。二重の相貌をもったひとつの状況、すなわちそれは、孤児であるという状況であると同時に、神々の寵児であるという状況である。」

「アルタイ山脈の森林地帯に住むタタール人たちのある童話は次のように始まる。

 むかしむかしのことでした。
 神より生まれ
 パヤナから生まれた
 一人のみなし児の少年がおりました。
 食べるべき食事もなく
 着るべき着物もなく
 そんな毎日でした。
 結婚相手の女性もいません。
 一匹の狐がやって来て、
 少年に話しかけました。
 「どうすりゃ、お前は大人になるんだろうね」
 狐は少年にこうたずねたのです。
 少年は答えていいました。
 「どうすれば大人になるのか
 ぼく自身わからないんだよ」」

「童話や英雄伝説におけるこうした場面の出現は(中略)次のような問いを投げかける。すなわち、孤児というのは童児神の先駆ではなかったか。孤児は、どんな多様な文化の中でも見られるようなある種の人間的な運命類型の表現から神話の中に引き継がれ、そして神的な地位に高められたのではないか。」

「始原要素の孤独の中に定着している童児神、すなわち魔力をもった孤児の原像は、その顕現の場所が水であるとき、そこに完璧な意味を表わす。」
「賢い隠者が大海原の上をさまよい歩いているうちに、とあるニャグロダの木(インドのイチジクの樹)のところにたどりついた。その木の枝の上に一人の幼童が静かに休んでいた。童児はここで休んでいくよう隠者に勧めた。これに続いて起こったことがらについて、マールカンデヤはつぎのように述べている。「神が私のために神の内奥に安らぎの場を提供して下さるのである。おりしも、私は自分の長い人生と人間としての生活に嫌悪を感ずる。神は口を開く。そして私はあらがい難い力でもって彼の内部に引きずりこまれる。彼の腹中に私は全世界を見る。世界中の国々と都市、ガンジス河と他の河川、そして海を見る。(中略)私が現世で見たことのあるすべてを、私は彼の腹中をさまよい歩いている間に見る。こうして百年以上もの間、私は彼の腹中を彷徨しつづけるが、体の末端には行きつかない。そこで私は神を呼び出し、ただちに風の力を借りて彼の口から外へ出させてもらう。ふたたび私はニャグロダの木の枝に、神々しさの証しを身におび、黄衣をまとって彼が坐っているのを見る」。宇宙の神たるこの童児神がナーラーヤナ(中略)――インド語源にしたがえば「水を住処(すみか)とする者」である。」

「卵から生れたエロースの有翼の姿は、同じように有翼のアルカイク期の原女神たちと切り離して考えることはできないであろう。そしてこの姿の意味は、儀式的で宇宙発生論的なヘルマプロディートス礼拝の意味があるところにこそある。翼をもっていることと両性であるという、この二つの要素は、始原の水を自己の表現形態とする同一の前人間的、いな前童児的な、いまだ完全に分化していない始原状態にさかのぼる。エロースはイルカに乗った少年たちの間で最初の位置を占める。ここでわれわれはこの独特な状況をつぎのように表現してよかろうかと思う。――烏賊(いか)のような原始世界的に異様な動物を手にしながらイルカに乗っている有翼の少年は、始原の水を故郷とするあの童児神――始原児――であって、この童児神の数ある名称のうち、唯一最もよく知られているのが「エロース」であると。」
「始原児が手に竪琴を持って現われる姿は、宇宙のこの音楽的性質を(中略)描き出している。それが何よりもまずヘルメース自身の特徴を示している。ホメーロスの詩人は、宇宙内容の音楽的性質が本質的にヘルメース的であると感じ取り、それを宇宙スペクトルのヘルメース色彩で定着させた。(中略)もしイルカにまたがった少年(中略)も手に竪琴を持っているのであれば、われわれは(中略)どんな個別的な呼称にも先んずるもっと普遍的な原始世界的関係、すなわち、水と幼児と音楽との関係をも考えないわけにはいかない。」

「ディオニューソスはそもそものはじめから両性的であった。」

「死者の霊を導く神ヘルメース・プシュコポンポス Hermes Psychopompos の霊的な相貌もこれまた明らかである。彼は子供らしい神であるとともに、それに劣らず幽鬼のごとき神である。(中略)われわれが――幼児の形象に目を通しながら――次のような言葉で述べた状態、つまり非存在(ニヒト・ザイン)からはいまだ分離されてはいないが、しかもすでに存在(ザイン)するといった状態は、以下のように書き換えることもできよう。すなわち、現存在(ダーザイン)からはまだ分離されてはいないが、しかもまだ存在していない状態、というようにである。頭巾つきの外套を着た童児、すなわち守護神ククラトゥスや、無数のキューピッドたちのような、あの神々しい幼童たちの形姿が古典的様式の墓碑に表現しているのは、他ならぬ死者たちのこのような状態なのである。墓標や石棺に描かれた海神たちやイルカどもも同一の状態を暗示している。そしてこの墓穴の世界に触れることによって、同時にわれわれはディオニューソスの暗い色彩のもっとも深い陰影に到達したことになる。彼を象徴するものは、すべてこれ陰気に描かれている。古典期の人間がディオニューソスのこの陰気な姿を通して描き出したものは、単に二つの方向が揺れ動くあの状態の不安定な均衡――幼児や死者たちが存在と非存在との間を浮遊する状態――だけではなく、下なる冥界へと下降する方向が上なる神々に向かって確実に転換すること、すなわち、至高なる者への発展、最も強きものは最も弱きものから生まれるという確信であった。」

「問題の本質は曖昧、かつ未決定のままにしておこう。なぜなら、始原児という根源的に未決定的なるもの、それがわれわれの対象であったのだから。」























































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プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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