シモーヌ・ヴェーユ 『カイエ 4』 冨原眞弓 訳

「存在しないものを愛すること。なんという不条理だ。それは狂気である。ところがここにこそ魂の救いがある。」
(シモーヌ・ヴェーユ 『カイエ 4』 より)


シモーヌ・ヴェーユ 
『カイエ 4』 
冨原眞弓 訳


みすず書房 
1992年1月27日 第1刷発行
1992年5月25日 第2刷発行
vii 615p 索引xix 著者・訳者略歴1p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価6,180円(本体6,000円)

月報 (10p):
世界をよこにつなげる思想(須賀敦子)/シモーヌ、アンドレ・ヴェイユとの拮抗(佐々木力)/『カイエ(雑記帳)』メモ1(冨原眞弓)/編集室より/図版「幼少時代のアンドレとシモーヌ」



「凡例」より:

「『シモーヌ・ヴェーユ カイエ』全四巻は、プロン社より刊行された『カイエ』全三巻(中略)の翻訳、および七冊のアメリカ・ノートと一冊のロンドン手記(その一部は『超自然的認識』として公刊された)の全訳から成る。」


本書には、「アメリカ・ノート」と「ロンドン手記」が収録されています。
本文中図版(ノート表紙)6点。


ヴェーユ カイエ4


内容:

凡例
プロローグ

アメリカ・ノートⅠ
アメリカ・ノートⅡ
アメリカ・ノートⅢ
アメリカ・ノートⅣ
アメリカ・ノートⅤ
アメリカ・ノートⅥ
ロンドン手記 (一九四三年)

訳者あとがき
索引




◆本書より◆


「アメリカ・ノートⅠ」より:

「復活はかれを殺害した者たちへのキリストの赦しであり、人がかれに悪のかぎりを尽くしてもかれになんの害も与えなかったという証でもある。悪は無辜(むこ)の存在においてしか感知されない。しかしそこには悪は存在しない。(中略)悪が存在するところでは悪は感知されない。」

「人間が死んだふりをするなら、主が降りてきて、高みにある生命をもたらしてくれる。
 待ち望むことは受動性の極みである。それは時間に従順であることだ。われわれが時間に完璧に服属するなら、神は否応なく永遠を送らざるをえなくなる。
否定的な試練。果実を食べない。扉を開けない、白熊のことを考えない。これは無窮の反復を通じて時間から永遠へと移行することだ。
無窮の苦しみや剥奪を受容することは永遠への扉である。」
「時間を受容すること。時間を受容する魂の部分は時間から免れている。
 低きに属するものが降下することによって、高みに属するものが高められる。
 われわれは高める機能をもたない。低める機能をもつだけだ。だからみずからを低めることが唯一の上昇するすべなのだ。」

「日々の生活のできごとは、聖体の秘蹟のパンがキリストの「からだ」であるのと同様の約束事として、どのようなものであれ例外なく神の愛の徴である。」
「神は神を愛する者たちとのあいだに約束ごとにのっとった言語を想定する。日々の生活のできごとのひとつひとつはこの言語の一単語である。これらの語はすべて同義である。(中略)これらの語すべてに共通する語義は「われ、なんじを愛す(ジュ テーム)」である。
 一杯の水を飲む。その水は神の「われ愛す(ジュテーム)」である。砂漠をさまよい、二日も飲み水を見つけられずにいる。喉の渇きは神の「われ愛す」である。神は恋人にまとわりついて何時間もとめどもなく「愛してる(ジュテーム)、愛してる、愛してる、愛してる……」と耳もとにささやくしつこい女のようだ。」
「神は被造物に向かって「われ、なんじを憎む」と言うための語をもたない。
 ところが、被造物のほうは神に「われ、なんじを憎む」と言うための語をもっている。
 ある意味で被造物は神よりも強いのである。被造物は神を憎むことができるが、神のほうはだからといって被造物を憎むことはできないからである。
 この無力さのゆえに神は非人格的(インペルソネル)な「人格(ペルソナ)」なのである。神はわたしが愛するようにではなく、エメラルドが緑色であるように愛する。神は「われ愛す」なのだ。
 このわたしでさえ、もし完全な状態にあるなら、エメラルドが緑色であるように愛するだろう。わたしもまた非人格的な人格となれたろう。
 神を人格的な存在としてしか考えないなら、完全さへの道において、ある一点より先に進むことはできない。この一点を超えるためには、ひたすら望みつづけることによって非人格的な完全性に似たものとなるしかない。」



「アメリカ・ノートⅡ」より:

「われわれの意志や努力で獲得できるもの、また運不運によって外的な事情がわれわれに与えたり拒んだりするものはことごとく価値がない。そうしたものは悪しきものかどうでもよいものであって、断じて善きものではない。
 神はわれわれをこの世のなかで悪にさらされるままに放置している。
 にもかかわらず、われわれの魂のなかの永遠にして感覚的ではない部分がいっさいの悪から免れていることを望むなら、そのとおりになるだろう。」

「神のために死ぬことは神を信じている証とはならない。不正にうちひしがれた無名で嫌悪をもよおさせる前科者のために死ぬこと、これが神を信じている証となる。」
「神への愛は被造物への自然的な愛と超自然的な愛との仲介にほかならない。
 十字架があればこそ、聖ヨハネの言うようにキリストへの信仰がひとつの基規準になりうるのである。恥ずべき拷問を受けて殺された普通法の受刑者を神とみなして受けいれること、これぞまさしく世にうち勝つことである。(中略)それはこの世から得られる保護をすべて放棄することだ。必然を愛し受けいれることだ。
 しかし今日、キリストを敵視する者は別として、だれがキリストを普通法の受刑者などとみなすだろうか。人びとは教会の歴史上の栄華を讃美しているのだ。
 黒人奴隷たちはキリストへの信仰によって世にうち勝ったのだ。「やつらはわたしの主を十字架にかけた。」」

「保守的な理念と、革命的な理念のなかの真正な部分とを、換言すれば、進歩の幻想とか権勢欲とかではなく、ひたすら正義への願望であるようなものを中世に結びつけ関係づけること。
 あらゆる労働、(中略)あらゆる芸術、あらゆる科学、そしてあらゆる哲学のなかに超自然的な真理が読みとれるようなそんな生きかた。」



「アメリカ・ノートⅢ」より:

「謙遜とは他者と比較して自己の人格を低く評価することではない。自己のうちなる非人格的なものと比較して自己の人格を根元的に低く評価することである。
非人格的なものが魂に植えつけられ、そこで芽吹くと、すべての善きものをみずからに惹きよせる。人格は固有の特性としては悪を有するだけになる。」

「「能」にかんする書物で、舞いについて。「芸術において、なにか善いものが五分続いて退屈させるなら、それを二分半に短縮しようとしないこと。かえって十分、二十分、一時間と延長すること」(ウェイリー)。
 堪えがたいものによって天井を突き破ることもある。」
「時間の観照が人生の鍵である。時間はいかなる科学をもってしても手のつけられない還元不可能な神秘である。未来における自己に確信がもてぬと悟るなら謙遜にならずにはいられない。時間の支配下にあって修正可能な自我を放棄しなければ、不変性に到達することはできない。」

「インディアンの物語「ダーティ・ボーイ」。求婚者をかたはしから断ってしまう酋長の二人の娘を太陽と星が愛する。星はぼろ着をまとった老婆の姿に、太陽は目を患って病床に寝たきりのうす汚い少年の姿に、それぞれ受肉する。二人はもっともみすぼらしい幕屋に住む。
 酋長は競技を催す。一羽の鷲を一矢で射当てた者が娘たちを獲得することになる。太陽は星に言う、。「お祖母さん、ぼくに弓と矢を作っておくれよ。」星は言う。「なんの役に立つかね。おまえは弓を引くことができないのだから。」それでも不憫に思って、枝と弦と数本の小枝で弓矢を幾組か作ってやる。翌日、最後の弓矢を引きしぼり、病床に就いたままで鷲を射落とす。
 酋長はふたたび競技を催す。山中に棲む珍獣「フィッシャー」二頭を二つの罠で捕獲した者が娘たちを獲得することになる。
 太陽が星に言う。「お祖母さん、ぼくに二つの罠を作っておくれよ。」星は言う。「床を出てからにおし。」それでも不憫に思って柳の枝で二つの罠を作り、それらを扉の近くに置いてやる。二頭の「フィッシャー」が捕まる。
 酋長は娘たちをダーティ・ボーイのもとに送る。
 道すがら、彼女たちは鴉の家のまえを通りすぎようとして、笑い声を聞く。
 姉娘はなかに入って一羽の鴉と結婚する。彼女は家族から大切にされる。
 妹娘は父親にしたがうためにダーティ・ボーイの家に行く。老婆は娘に言う。「おまえの夫は病気でもうすぐ死ぬ。いやな臭いがするから、おまえはあの子と寝てはいけない。日中はあの子の看病をして、夜はおまえの父さんの家にお帰り。」彼女はそのとおりにする。
 三日ののち、古ぼけた幕屋はすばらしく豪奢な幕屋に、老婆は星に覆われた着物をまとったまばゆい女に、ダーティ・ボーイは光輝く銅に覆われた着物をまとったまばゆい若者に変わる。太陽が妻に水を一滴注ぐと、水は彼女を覆ってきらめく星々になった。太陽が彼女に水を流させると、その水はかれらの幕屋から酋長の幕屋へと続く金粉の道のようになった。
 これは受肉と贖罪の神話である。讃嘆にあたいするのは、太陽と星がいったん人間の姿に受肉するや、自分たちの神的な本性を部分的にしろ忘れてしまっているようにみえることだ。」
「太陽が娘への愛ゆえに降りてくるには、まずこの若い娘があらゆる求婚者をかたはしから断っていなければならなかった。」

「断食や徹夜の祈りなど、それらが敬虔の行為である場合、容易であることは美しい。容易さのなかには、なにかしら奇蹟的なもの、モーツァルトの五重奏曲やモンテヴェルディの歌曲を思わせるようなものがある。人間からこうむる暴力はこれを耐え忍び、人びとのためになら自分自身に暴力を加えることを強いられることすら望む。しかし神のためには容易なことしかしたくない。ただし神のほうへと思考を方向づけることじたいは別だ。この方向づけこそは魂が自分自身に加える至高にしてひそやかな暴力なのだ。」

「ギリシア人たちが想像した地獄の呵責(ダナオス王の娘たちのような)とは、罪に対する処罰として、ただひたすら単純に時間を割りあてることであった。聖性のみが時間から抜けださせてくれる。
 この地上においては、われわれは時間と永遠の混淆状態のなかで生きている。地獄とは純然たる時間のことであろう。」
「金属の黄金への質的変化は物質の光への質的変化の象徴である。
 時間と永遠のこの混淆状態においては、歓びは永遠の要素の拡大に、苦しみは時間の要素の優勢に、それぞれ対応する。にもかかわらず、美の感受性が苦しみを経ていっそう研ぎすまされるのはなぜだろう。」
「われわれは永遠の生命への信仰を必要としない。この地上でわれわれが抱く永遠の予感こそがそのような生命に対する唯一の証明だからである。」
「歓びはわれわれを永遠に釘づけ、苦しみは時間に釘づける。しかし欲望と恐怖はわれわれを時間の鎖に繋ぐ。離脱がこの鎖を断ちきる。」
「苦しみはわれわれを時間に釘づける。しかし、苦しみの受容はわれわれを時間の果て、つまり永遠へと運びこむ。われわれは際限なく続く時間をあますところなく味わいつくしたとき、これを超克する。
 新生。生命の種が別の存在を生みだすのではなく、同一の存在をふたたび生みだすべくはたらく。自己への回帰、環状回路、円環。
 円環運動は、遠ざかると見え、じつは近づきつつあるものの象徴でもある。
 「高みから生まれない者は天の国には入れないだろう。」天にふたたび昇るために天から降りてこなければならない。」

「労働者が訓練を通じて自己と道具との感受性のかかわりかたを変容させるやりかたにならって、自己と宇宙との感受性のかかわりかたを変容させること。あらゆる苦しみやあらゆる不幸について、こう考えること。「宇宙がわたしの身体のなかに入りこんだのだ。」」



「アメリカ・ノートⅣ」より:

「われわれの罪は存在しようと欲することにあり、その罰は自分は存在すると思いこむことである。その償いは存在せぬ者になろうと欲することである。その救いは自分たちが存在せぬ者であると気づくことだ。」

「祈りの一例。
 神に向かって言うこと。
 「父よ、キリストのみ名によって、次のことをわたしに与えてください。
 わたしを全身不随の麻痺患者のように、身体の動きのひとつ、それらしいそぶりすら意のままにならぬ状態にしてください。完全に盲目で耳も聞こえずその他の三官も奪われた者のように、なにひとつ感覚を受けとることができないようにしてください。計算もできず文字も読めぬばかりか、話すことさえついに習得できなかった完全な白痴のように、もっとも単純な二つの思考をいかにも頼りない脈絡で結びつけることさえできないような状態にしてください。耄碌(もうろく)した老廃者のように、いかなる苦痛や歓びにも無感覚で、いかなる人間や事物にも、自分自身に対してさえも愛を抱くことができないようにしてください。」



「アメリカ・ノートⅤ」より:

「蛇と結婚した王女についてのアルバニアの民話。「プシュケー」型の異本。この種の民話群は二様の変型に分類すべきである。一方では王女が神で獣人が魂である。他方ではそれが逆になっている。両変型はおおかたはひとつの民話に融合してしまっている。この民話は後者の変型に属する。蛇は地下世界の王の息子である。地上に出て、稀れなる美貌の王子の姿をとろうと欲した。しかし、夜間以外にこの姿をとることは禁じられている。義姉たちがかれの蛇皮を焼いてしまう。かれは消えさらねばならない。王女はかれと再会するために地下世界に赴く。王女はかれを地上に連れ帰る許可を得る。王女はひとりの魔女のまえを通りすぎるときに水を乞わねばならない。魔女がどれほど嫌悪をそそる飲料を差しだそうと、それを飲みほしておいしかったと言わねばならない。
 これが「運命愛(アモール・ファティ)」である。
 王女が夫に再会できたのは、蛇皮の焼けた灰のなかに一枚の鱗が無傷で残っていたからだ。
 これが『饗宴』の割符(シュンボロン)、シンデレラの栗鼠(りす)皮の靴、靴屋の話に出てくる王女の巻き毛である。われわれを探しに来て、それから姿を消してしまった神は、自分自身のものをなにか残していく。さもなければわれわれの探索も無駄となろう。
 王子は妻のために夜間しか王子の姿でいられない。それ以外のときは蛇である。ヘロドトスの語るヘラクレスの話をみよ。神は変装しなければ人間にみずからを顕現することができない。
 人類の黎明期における種属の交替期に(たとえば古生物学者の「ホモ・サピエンス」が先行種属にとって代わったとき)、勝者にとって敗者は人間というよりはなにかの動物のように見えたかもしれない。(中略)ところで、かかる敗者のひとりが神だったこともありうる。おそらく動物に変装せる神という表象(イマージュ)の一起源はこのあたりに由来するのだ。
 アルバニアのこの民話は、神たる蛇がキリスト教徒にとっての〈仔羊〉に相当する位置を占める神話に由来するものだ。
 類似した他の民話では蛇のかわりに牡牛が出てくる。蛇も牡牛もともに月と関係のある動物である。
 竜は蛇と同じものである。
 青銅の蛇もやはり神である。」

「われわれは、光に惹きつけられているが近づけずにいる、壜底に貼りついた蠅のようなものだ。
 しかしながら、一瞬たりとも光から身をそむけるよりは、無窮の時間を通じて壜底に貼りついているほうがよい。
 光よ、同情してくれるか。無窮の時間の果てにガラスを破ってくれるか。
 たとえそうでなくともガラスに貼りついたままでいること。
 連綿と続く時間の無窮さを有限の時間において味わいつくさねばならない。このようなことは矛盾であるが、これが可能となるためには、時間と同次元にある魂の一部分、論証的な部分、計量する部分が破壊されねばならない。
 このような部分は、受容された不幸によって、あるいは純粋観照に通じるような強烈な歓びよってしか破壊されない。ほかの場合もあるだろうか。
 公案(禅仏教における)の技巧はこの種の破壊をもたらす一方法である。
 プラトンもこの類の方法をかれが弁証術と呼んだもののうちに擁していたのだろう。」
「論証的な部分が破壊されて魂の下層部がむきだしにされ、一定の有限の時間において無窮が味わいつくされ、その無窮のあいだも魂が永遠の光を向いたままでいるなら、いつか永遠の光は憐れみを抱いてみずからの永遠性のうちに魂全体を包みこんでくれるかもしれない。」



「アメリカ・ノートⅥ」より:

「わたしがこの地上のすべての事物を偽りの善であるとして、こうしたものから自分の願望をそらすならば、自分は真理のうちにあるという絶対的で無条件な確信がわたしにはある。それらは善ではない、虚偽に与するのでないかぎりこの地上のなにひとつ善とはみなされえない、この地上のすべての目的はおのずから滅びさるということをわたしは知っている。
 そうしたものから遠ざかること、ただそれだけだ。ほかにはなにも必要ない。これこそ愛徳の充溢である。」

「存在しないものを愛すること。なんという不条理だ。それは狂気である。ところがここにこそ魂の救いがある。」

「われわれは願望の烈しさと揺るぎなさとによって子どもにならなければならない。子どもは両手を差しのべ全身を輝くもののほうに引っ張っていこうとする。たとえそれが月であろうともである。空腹のとき、子どもは乳やパンを求めて倦むことなく声と全身で泣き叫ぶ。おとなたちはそんな子どもをかわいいと思い微笑む。だが、子どものほうはあくまで真剣だ。ひたすら全身全霊は欲求することで占められている。幼い子どもほど子どもっぽくないものはない。子どもをはぐらかすおとなたちのほうが子どもっぽいのだ。」
「子どもは輝くものとか乳とかを欲しがっているわけではない。それらを得るために画策したりはしない。子どもはただひたすら欲求している。泣き叫ぶのである。意志と画策する推論的知性とはおとなの能力である。これらを磨耗してしまわなければならない。磨耗によってこれらを破壊しなければならない。備わっている能力の量の多寡はどうでもよいことだ。重要なことは極限まで行くこと、これらを完全に使いはたしてしまうことだ。
推論的知性は明証的かつ不可避的な矛盾を観照することによって破壊される。民間伝承における超人的な試練。
 わたしの意志力をわずかでも超えたものでありさえすれば、どのような課題にとりかかろうとかまわない。わたしの意志があまりにもろくて(わたし個人について言えば、意志はたいへんもろい)自分の部屋を毎日掃除することさえつらいということであれば、わたしは自分の部屋を毎日掃除しようとするだけでよいのである。掃除をしない日もあろう。わたしはくじけるだろう。翌日あらたな意志をもってふたたび開始する。それからまたくじける。このように延々と反復される。
 うぬぼれずまた挫折にもめげずに続けていれば、意志はすこしずつ使いはたされて、ついには消滅してしまう。これが重要なのだ。意志が消滅してしまったとき、意志の彼岸つまり従順へと移行したのだ。」



「ロンドン手記」より:

「「お父さん、わたしの分け前をください」(放蕩息子の譬話)。わたしの分け前、それは自律性である。わたしはそれを娼婦たちといっしょに蕩尽してしまう。」
 


こちらもご参照下さい:

シモーヌ・ヴェイユ 『超自然的認識』 田辺保 訳

カール・ケレーニイ 『ディオニューソス ― 破壊されざる生の根源像』 岡田素之 訳

「〈牡牛は蛇の息子であり蛇は牡牛の父である〉。」


































































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プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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