シモーヌ・ヴェーユ 『カイエ 2』 田辺保・川口光治 訳

「わたしは無であることを愛さねばならない。わたしがなにものかであったりすればなんと醜悪なことだろうか。」
「わが神、どうかわたしが無となれるようにしてください。」

(シモーヌ・ヴェーユ 『カイエ 2』 より)


シモーヌ・ヴェーユ 
『カイエ 2』 
田辺保・川口光治 訳


みすず書房 
1993年7月2日 印刷
1993年7月14日 発行
v 529p 図版4p 索引xvi 著者・訳者略歴1p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価6,180円(本体6,000円)

月報 第3号 (8p):
ヴェーユ管見――ヴェーユとプラトン(鈴木照雄)/「救われたヴェネチア」周辺(稲葉延子)/『カイエ(雑記帳)』メモ2(冨原眞弓)/編集室より



本書「訳者あとがき」より:

「本書は、シモーヌ・ヴェーユの、公刊された『カイエ』第二巻(Simone Weil : Cahiers II, Nouvelle edition, revue et augmentee, 1972, Librairie Plon)の全訳である。」
「「カイエ」とはフランス語で「雑記帳、ノートブック」の意味であり、一九四二年四月末マルセイユを出発する直前に、ギュスターヴ・ティボンに託した包みの中味をなす十一冊のノート、小学生の使うような、ごく普通のノートの束を全三巻に分けて出版するとき、この題名がつけられたことは、よく知られている通りである。」
「シモーヌの訃報を受けとったあと、ティボンは預かっていた十一冊のノートから自分の判断によって抜萃を作り、主題別に分類をして一冊の書物に仕上げたことは周知の通りである。シモーヌ・ヴェーユの公刊された最初の単行本となった『重力と恩寵』である。」



本書「編者注」より:

「今回の第二巻は「カイエ」の第五、第六、第七冊と第八冊目の一部分から成る。」


ヴェーユ カイエ2


帯文:

「模範的な生涯のなかでも、その誇張と自己毀損の程度において無茶と言いたい、このような生涯が、シモーヌ・ヴェーユの生涯であったのだ。
――S. ソンタグ」



カバー裏:

「「矛盾しているがゆえに、不可能なふたつの事柄。思考する被造物との神の思考との接触、そして神の思考と各個人の観点から見た創造との接触。これらふたつの矛盾は決して安定したものではあり得ない。しかし、これらの矛盾は、心の中で〈わたしが〉と言うものを少しずつ消滅させてゆくはたらきが進行する中で、生成という形をとって一種の存在へと移行する。思考する被造物は絶対に触れ、神は個々の存在に触れる」

「不幸によって部分的に、外部から〈わたしが〉が抹殺された人に起こっていることが、現在の人類にも起こっているのである。現在起こりつつある出来事は、人類全体の規模で、霊的エネルギーへと質的変化をとげるべく準備されているエネルギーの一部分を破壊しており、この損失は回復不可能なのである。現在の出来事は、まさしく不幸であって、これはどうしても削減できぬものである。この不幸の辛酸を、慰めもなく凝視し、すべてのものの作者、なかでもとくにこの不幸の作者であり、もっぱら善の作者としての神を愛さねばならぬ」」



内容:

凡例
編者注

カイエ V
カイエ VI
カイエ VII
カイエ VIII
『バガヴァッド・ギータ』の訳

訳者あとがき (田辺保)
索引




◆本書より◆

「頭痛の折りふしに(急激な痛みが高まってくるとき、しかし、それが頂点に達しないうちに)、わたしは、他の人間の、ひたいのちょうど同じ部分を打って、苦しませてやりたいとつよく思ったものだ。」
「これと同じようなねがいが、人間どうしのあいだで、じつにたびたび起こる。
 このような状態にあるとき、とにかく人を傷つけるような言葉を投げつけたいとの誘惑に、わたしは、なんども負けてしまったものだ。重力への服従。」

「不幸な人は、あわれみも、同情も見出すことができず、それがなぜなのかもわからない。自分が見物する者の立場にいたら、あわれみを抱いたであろうにと思ったりする。というのは、そういう立場にいる自分を想像することによって、想像上の不幸を見ているにすぎないからである。そういう不幸ならば、なんらあわれみの心が動くのをさまたげることはない。だから、わるい扱いをうけるときに、主としてどういう心の動きがあるかといえば、それは驚きなのである。どうして、わたしたちは、こんな目にあわされるのか。この驚きは、ながい間つづく。そして、疲れのために、ついにはこの驚きにかわって、事柄を容認してしまうとしても、それはまた理解しがたいものの容認なのである。」

「真空状態を満たすものとしての未来。ときにはまた、過去がこの役割を果たす。(中略)これ以外の場合には、不幸のために過去のことを考えるのが堪えられなくなる。そのとき不幸な人々は、不幸によって自分の過去を取り去られてしまうのである。」
「未来。ひとは、それが明日やってくるだろうと考えている。それがもう決してやってこないだろうと考えるようになるまでは。
 ふたつの思いが、いくらか不幸の重みを軽減する。すなわち、不幸がほとんどすぐにも止むだろうという思い、あるいはまた、不幸が決して止まないだろうという思い。すなわち、ありえないか、必然であるか。しかし、不幸がただ単純に、存在すると考えることはできない。そんなことは堪えがたいことである。
 「そんなことは、ありえない。」ありえないということは、不幸がこのままつづいてゆくような未来を考えることである。未来に向かう思考の自然な羽ばたきは停止させられ、ひとは時間を感じさせられて、引き裂かれる。」

「過去のことも未来のことも考えるのに堪えきれない人は、物質にまで身をおとす。」
「自分が不幸な境遇にあるときに不幸を見つめぬく力を持つには、超自然的なパンが必要である。」
「ある一定の水準以下になると、こんなふうに自分の外部に悪をまきちらそうとするねがいは消え、不幸のためにかえって温順になる。」
「自分がひどい扱いを受けているという驚きにどんな答えも与えられないで、自分がまるでひどい扱いを受けるために、隠れた意味を帯びてつくられた者であるかのような感じがするとき。また、驚きが苦しみにまさるとき。(中略)驚きのために、時間の整合の観念を失い、未来や過去が、近接的なものであっても、事実上消えてしまうとき。ひとは物質と同じく忍従するものとなる。」
「他人のひたいの同じ場所をうちたたいてやりたいという願い。自分が苦しんでいるものを、他人もそっくりそのまま苦しんでいるのを見たいという願い。だからこそ(中略)悲惨な人々の憎しみは、自分と同類の人々のほうへと向かうのだ。」

「人々はわたしたちが想像力でつくりあげたものとはちがった存在である。このことを承認すること。それは神のわざとしての自己放棄をまねることになる。
 人々があるがままに存在していることを承認すること。」

「必然性の視点。
 翻訳者のように書き、翻訳者のように行動すること。」

「自分を低くするものは高くされる。だから地面まで自分を低くすることが必要なのである。(中略)強制されることなく、力の階段を降りてゆくこと。」
「匿名であること、人間という物質であることを受け入れること。(聖体の秘跡。)威厳、偉さを捨て去ること。それは真理、すなわち自分が人間という物質であって、権利を持たぬことをあかしすることである。外見の飾りを脱ぎ捨てて、裸に堪えること。しかしこのようなことがどうして、社会生活や礼儀作法と両立するだろうか。」

「まったく新しい方法で、なされるべき民間伝承(フォークロール)の研究。
 (是が非でも、民間伝承をものにすること。)
 超自然的なものを、そのままに、あるいはまた現象として、研究することができる。」
「霊的な自由を回復すること。」
「奴隷だと思われていた王子たち。実在と外見との分離。かれらの身分は、外側からかれらにもどされた。誓いにしばられて、自己弁護をしないとの中傷を浴びる罪なき者のテーマ。」

「自分の中に受動的なものしか残さないこと。」

「科学、芸術、宗教。それらは世界の秩序という概念によってつながれる。わたしたちがすっかり失ってしまったこの概念によって。」

「わたしは無であることを愛さねばならない。わたしがなにものかであったりすればなんと醜悪なことだろうか。」

「病人を癒したり、死者をよみがえらせたりするキリストは、キリスト自身の使命の中でも、取るに足らず、人間くさくて低級ともいっていい部分である。超自然的な部分は血の汗であり、人間の側に慰めを求めながらも得られなかったことであり、できることならまぬがれさせてほしいとの切なる祈りであり、神から見捨てられているとの思いである。
 「わが神、わが神、なにゆえわたしをお見捨てになったのですか。」
 そこにこそキリスト教がなにかしら神的なものである真の証拠がある。」

「熱烈に夫に惚れこんでいた妻についてのチリの民話。その夫が死に、吸血鬼となって妻の血を吸いにやって来る。妻はなんのためらいもなくその首をはねる。
 このことは愛欲が有限であることを意味している。愛欲が関わるのは、補充エネルギーだけであり、生命(営生エネルギー)の段階でとどまっている。超自然的な愛は、この限界を超えている。
 それゆえに「愛するひとのために自分の命をささげること以上に大きな愛はないのである。」

「ひとたび自分が無に等しいと認識できたならば、すべての努力の目標は、無となることにつきる。この目的のためにこそ、ひとは忍受して苦しむのである。この目的のためにこそ、ひとは行動する。そしてこの目的のためにこそ、ひとは祈る。
 わが神、どうかわたしが無となれるようにしてください。」

「植物的な水準にまで無となること。そのとき、神はパンになる。
 「わたしたちの超自然のパンを今日もお与えください。」」

「「わたしが」が行なうすべては、例外なく、善をも含めて悪いものである。なぜなら「わたしが」は、もともと悪いものであるから。」

「『饗宴』(プラトン)での貧しい「エロス」――痩せて、はだしで、宿無しで、地べたにねころがり、他人の家の門前や路上で眠り、欠乏を友とし、赤貧を仲間にしている……聖フランチェスコ。」
「『饗宴』。仲介するものとしての愛とは苦しみ続けるものであり、貧しきものである。」
「ところで、『饗宴』によると、エロスには正義が充ち溢れている。というのは、エロスは暴力を行使することも、暴力に苦しむことも決してないのだから。」

「特定の制服もなく、記章もつけず、男女――明白な誓いをたてるよりもむしろ暗黙裡の誓いを立てて良心を媒介として与えられた命令と背馳せぬ限りにおいて、清貧、純潔、服従の定めにつながれた――男女から成っていて、かれらに対しては最高の美学的、哲学的、神学的な教養が授与され、そののち何年かの期間を予定して、状況の必要が少しでもあれば、いっさいの宗教的職務を放棄して、監獄へは犯罪人として、工場へは労働者として、田畑へは農夫としてというふうに出向いてゆくことになっている――そんな修道会があれば……。」

「「――ここを通って来る者はだれか。――わたしでもなく、わたしでない者でもない。もし、それがわたしでもわたしでない者でもないとしたら、いったいだれなのか。――腹を空(す)かせば喰らい、疲れ果てたら眠る者である。」」
(鈴木大拙『禅仏教論集』)

「中庭でよろめきながら、覚知に到った僧の詩。
 「ああ、このまたとない稀有の出来事、
 わたしはそのために一万両をよろこんでさし出そう。
 頭巾をかぶり、腰にずだ袋をぶらさげ、
 杖の先に、さわやかなそよ風と、満月をはこんでゆく。」」
(鈴木大拙『禅仏教論集』)

「「わたしは、あなたに言わんとすることをわかってもらうため、あらゆる方策を尽させるつもりである。そして、ついには、あなたを戦いなき境、努力なき境に到らしめたい。」」
(鈴木大拙『禅仏教論集』)

「ものはみな、あるがままにある。至高のおしえ。創造における「ありてあるもの(スム・クイ・スム)。」」





























































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
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◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

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尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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