長尾雅人 訳注 『改版 維摩経』 (中公文庫)

「菩薩はあらゆる衆生をひとりっ子のように愛するので、衆生がすべて病気であるかぎり、彼も病気であり、衆生に病気がなくなったとき、彼も無病となります。
 マンジュシリーよ、この病気は何から生じたかとお尋ねですが、菩薩の病気は大慈悲から生じるのです」

(長尾雅人訳 『維摩経』 より)


長尾雅人 訳注 
『改版 維摩経』
 
中公文庫 D 6-2

中央公論社 昭和58年6月25日印刷/同年7月10日発行
211p 文庫判 並装 カバー 定価320円
表紙・扉: 白井晟一
カバー: インドラと天女たち (撮影: 肥塚隆)



本書「凡例」より:

「『維摩経』(「ヴィマラキールティの教え」の意)は、一~二世紀ころに成立したと思われる大乗経典である。そのサンスクリット本は、引用の形で他書に数個の断片が見られる以外には存在せず、ただ三種の漢訳と一種のチベット訳とがあるだけである。(中略)これらの諸本のうち、最も親しまれてきたものは、鳩摩羅什の漢訳である。漢訳は、一般に原文を簡略化し、あるいは修飾補筆することなどが多い。それに対して、チベット訳は、一言一句直訳的であって、最も原文の体裁を保存するものと考えられている。」
「翻訳にあたっては、(中略)チベット本に従い、サンスクリット語の行文の気持をできるだけ忠実に伝えることに努力した。」



維摩経


カバー裏文:

「経典文学の白眉「維摩経(ゆいまきょう)」は、俗人維摩居士と多彩な登場人物によるアイロニーに満ちた対話を通して、深遠な「空」の思想を鼓吹する一大ドラマである。研究五十年から生まれた決定訳によって、原典の香気甦る壮大な叡知の結晶。」


目次:

凡例

一 仏国土の清浄
二 考え及ばぬほどに巧みな方便
三 弟子たちと菩薩たちの病気見舞い
四 病気の慰問
五 不可思議解脱の法門
六 天女
七 如来の家系
八 不二の法門にはいる
九 仏陀の食事をもらう
十 有尽と無尽とおいう法の贈り物
十一 妙喜世界と無動如来
十二 過去の物語と法の委嘱

訳注
解説 (長尾雅人)




◆本書より◆


「解説」より:

「維摩詰(ゆいまきつ)あるいは略して維摩という名は、ヴィマラキールティというサンスクリットの音訳で、その意味は“汚れなく名声の高い者”であるから、「無垢称」とか「浄名」などと意訳された場合もある。彼は深く仏教に帰依した在俗の人、すなわち居士であるから、わが国ではふつう維摩居士と呼ぶ。(中略)彼はヴァイシャーリーに住む大富豪であるが、その悟境は頗る深く、仏陀も彼を菩薩と称するほどで、比丘とか沙門といわれる専門の修行者、仏弟子たちにひけを取らないばかりでなく、むしろしばしば彼等を弁舌を以ってやりこめたり、揶揄したりする場面が見られる。本経はこのような彼の縦横の機智、鋭い弁舌の鋒先と、その超俗の風格とを描き、それに多くのアイロニーや逆説を点綴している。ただし、そのモデルはあったであろうが、彼が実在の人物であるとは考えられない。彼の名のもとに、本経は真の菩薩のあり方、いわば菩薩像というものを描き出しているのである。」


「考え及ばぬほどに巧みな方便」より:

「彼は方便に巧みであることから、自らは病気であるかのように見せかけるのであった。そこで、病気見舞いのために、ヴァイシャーリーの大城の国王も大臣も、役人も若者の一団も、バラモンも家長も商人も、村人や地方の人や、その他の人々が見舞いに行った。」


「弟子たちと菩薩たちの病気見舞い」より:

「そのとき、リッチャヴィー族のヴィマラキールティはこのように考えた。「私が病気になり、苦しんで病床についているのに、阿羅漢(あらかん)であり完全な知の持ち主である如来は、私のことを気にもかけず、同情もなさらないで、そのために病気見舞いにだれもおつかわしにならないのだろうか」と。」


「病気の慰問」より:

「そこで、世尊は、マンジュシリー王子(文殊師利法王子)に仰せられた。「マンジュシリーよ、リッチャヴィーのヴィマラキールティの病気見舞いに行きなさい」」

「このとき、リッチャヴィーのヴィマラキールティは、つぎのように思った。「マンジュシリーが大勢にとりかこまれてくるが、神通によって自分の居室をからっぽにしておこう」
 そして、神通力で部屋を空虚にしたので、そこにはドアの番人もいないし、ヴィマラキールティが病気と称して寝ているはずの床(ベッド)ひとつを除いては、他に床も椅子も座席も何もかも隠れて見えなくなってしまった。」

「「家長よ、あなたのこの病気は、何から生じ、もうどのくらいたっているのですか。どんな状態で、またいつになったらなおりましょうか」
 ヴィマラキールティが答える。「マンジュシリーよ、(世のなかに)無知(無明)があり、存在への愛着(有愛)があるかぎり、私のこの病いもそれだけ続きます。あらゆる衆生に病いがあるかぎり、それだけ私の病いも続きます。もしすべての人が病いを離れたなら、そのとき、私の病いもしずまるでしょう。なんとなれば、マンジュシリーよ、菩薩が輪廻のなかにいるのは、衆生にその原因があり、病気はまた輪廻がその原因になっているからです。もしあらゆる衆生に病気がなくなったなら、そのときは菩薩にも病気はなくなるでしょう。」
「菩薩はあらゆる衆生をひとりっ子のように愛するので、衆生がすべて病気であるかぎり、彼も病気であり、衆生に病気がなくなったとき、彼も無病となります。
 マンジュシリーよ、この病気は何から生じたかとお尋ねですが、菩薩の病気は大慈悲から生じるのです」」



「天女」より:

「そこで、マンジュシリーがヴィマラキールティに問う。「高貴な人よ、菩薩は生あるもの(衆生)をすべてどのように見るべきですか」
 答えて言う。「マンジュシリーよ、たとえば、賢者が水中の月を見るように、それと同様に菩薩はあらゆる衆生を見るべきです。たとえば、魔術師が自分でつくり出した人を見るように、それと同様に菩薩は衆生を見るべきです。たとえば、鏡に映った顔を見るように、陽炎(かげろう)にあらわれた水のように、反響(こだま)の響きのように、空中の雲の集まりのように、水の泡だつ最初の瞬間のように、菩薩はあらゆる衆生を見るべきです。たとえば、あぶくが生じては消えるように、芭蕉(ばしょう)の木芯(の空虚であるの)を見るように、電光(いなびかり)のきらめきのように、第五の元素のように、第七の処のように、非物質界(無色界)にあらわれた物質のように、腐敗した種子から芽が生じるように、(存在しない)亀の毛でつくった着物のように、まさに死なんとする者が嬉戯(きぎ)するように、菩薩はあらゆる衆生を観察します。またたとえば、預流(よる)(果)の者にまちがった個我(ブドガラ)の観念があるように、一来(いちらい)(果)の者に第三の生があるように、不還(ふげん)(果)の者が胎内にはいるように、阿羅漢(果)の者に食欲と怒りと愚かさがあるように、明らかな知(忍)を得た菩薩に、物惜しみ、破戒、悪意、傷害の心があるように、如来に(煩悩)の習慣が残っているように、生まれつきの盲者が色形を見るように、滅尽定にはいった者に呼気吸気があるように、大空における鳥のあとかたのように、去勢された者に男根が生じるように、石女(うまずめ)が子を生むように、如来が化作(けさ)した者には生じないはずの煩悩のように、夢にあらわれたものを目ざめてから見るように、分別のない者に煩悩があるように、原因がなくて火が燃え出すように、完全に涅槃にはいった者が生を続けるように、そのような(存在しえない)ものとして菩薩は衆生を観察するのであります。」」

「(シャーリプトラが)言う。「天女よ、あなたは女性としてのあり方をかえて(男性になって)はいけないのですか」
 答えて言う。「私は十二年間、女性であることを探し求めてきましたが、いまもってそれが得られません。大徳よ、魔術師が女の姿をして変現したとして、これに対して女性としてのあり方をかえてはなぜいけないか、などと質問したら、これはどういうことになりましょうか」
 「それ(魔術)には実在として完成は何もない(から、それは意味をなしません)」
 「大徳よ、それと同じく、あらゆる存在は完成体ではなく、本質は幻の変現にすぎません。それなのにあなたは、女性としてのあり方をかえてはいけないのか、などとお考えになる……」
 そのとき、天女は神通を行なったので、長老シャーリプトラはこの天女とまったく同じ姿になり、天女はまた長老シャーリプトラと同じ姿になった。そこで、シャーリプトラの姿になった天女が、天女の姿になっているシャーリプトラに向かって尋ねる。「大徳よ、女性であることをおかえになっては、なぜいけないのですか」
 天女の姿となったシャーリプトラが言う。「男の形が消えて、女の姿になったのですが、どうしてそうなったのかわかりません」
 (天女が)言う。「もし大徳が、女の姿から再転ができるのなら、あらゆる女も女であることをかえうるでしょう。大徳が女としてあらわれているように、あらゆる女も女の姿であらわれているのであって、本来女でない者が、女の姿であらわれているのです。その意味で世尊は、あらゆる存在は女でもなく男でもない、とお説きになりました」
 そのとき、天女が神通をやめると、長老シャーリプトラは再びもとの姿にかえった。そこで、天女が言う。「大徳よ、あなたがなっていた女の姿は、どこへいったのですか」
 (シャーリプトラが)答える。「私は(女にも)ならず、またかわったわけでもありません」
 (天女が)言う。「それと同じく、あらゆる存在も、つくられることもなく、かえられることもありません。つくられることもなく、かわることもない、というのが仏陀のおことばです」」



「仏陀の食事をもらう」より:

「そこで、長老シャーリプトラ(舎利弗(しゃりほつ))は、「昼どきになったのに、これらの大菩薩たちは席から立とうともしない。みなはどんな食事をするのだろう」と思った。
 ヴィマラキールティは、シャーリプトラの考えていることを知って、彼に告げる。「大徳シャーリプトラよ、如来は八解脱をお説きになり、あなたはそれを行なっておられるのだが、物質的な食事のことで心をいっぱいにしながら、法を聞いてはいけません。しかし、少しばかりお待ちになれば、いままで食べたことのないような食事が召し上がれます」

「こうして、その食物の香気は、ヴァイシャーリーの大城にみなぎったのみならず、千世界にいたるまで馥郁(ふくいく)たる香気が及んだ。」
「そのとき、ヴィマラキールティは、長老シャーリプトラおよび大声聞たちに言った。
 「大徳たちよ、如来の大悲の香気をもって熏じられた甘露味のごはんを召し上がれ。」

「そのとき、ヴィマラキールティは気持を正して、最上香台如来の仏国土からきた菩薩たちに質問した。「良家の子よ、最上香台如来のご説法はどのようなものなのですか」
 彼らが答える。「かの如来は、文字により、またことばの分析によって法を説くのではありません。このたえなる香気をもって菩薩を鍛練するのです。さまざまの香樹の下に菩薩たちがすわりますが、それぞれの樹からは、ある香気が発散しています。その香気をかぐやいなや、彼らは“菩薩のあらゆる徳の蔵”と名づけられる三昧を得ます。この三昧を得るとすぐ、彼らすべてに菩薩の徳がそなわるのです」」



























































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Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

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