スティーヴンソン 『ジーキル博士とハイド氏 他二編』 (日高八郎 訳/旺文社文庫)

「いろいろの点で、芸術家気質(かたぎ)というものは人間を実生活に不向きにするものである。」
(スティーヴンソン 「一夜の宿」 より)


スティーヴンソン 
『ジーキル博士とハイド氏 他二編』 
日高八郎 訳

旺文社文庫 558-3

旺文社 1975年6月15日初版発行/1981年重版発行
230p 文庫判 並装 カバー 定価200円
カバー: 難波淳郎
挿絵: 司修



訳者による「あとがき」より:

「最後におことわりしておきたいことは、私の多忙のゆえに、翻訳の労のほとんどを橋本槇矩(まきのり)氏に委ねた。(中略)橋本氏へ感謝するとともに、読者のご了解を得られればさいわいである。」


司修による挿絵8点、解説中図版4点。


ジーキル1


カバーそで文:

「自己の性格中の“悪”だけに生きられる薬を飲んで悪逆なハイド氏となり、再び薬品の力で正常なジーキル博士に戻る二重人格生活を繰り返すうち、遂に“善”の姿に戻れなくなり自殺する。人間の持つ善悪二面性に鋭くメスを加え、「ジーキルとハイド」といえば二重人格者を意味する程有名な怪奇小説。他に『水車小屋のウイル』『一夜の宿』の二編を収録。」


ジーキル2


目次:

ジーキル博士とハイド氏
水車小屋のウイル
一夜の宿――フランソワ・ヴィヨンの物語

解説 (日高八郎)
 スティーヴンソンの生涯
 『ジーキル博士とハイド氏』について
 『水車小屋のウイル』について
 『一夜の宿』について
スティーヴンソンへの郷愁 (中島河太郎)
代表作品解題 (守屋陽一)
参考文献 
年譜
あとがき (訳者)



ジーキル3



◆本書より◆


「ジーキル博士とハイド氏」より:

「もう時刻は、朝の九時ごろであったが、そろそろ霧の立ちこめる季節になっていた。大きなチョコレート色の柩衣(きゅうい)のような霧が空低く一面にたちこめていたが、風がこの戦陣を敷いた霧をたえず追い払っていたので、馬車が通りから通りへとのろのろと走ってゆく間、アタソン氏は、黎明(れいめい)が驚くほど種々さまざまの色合いに変化するのを眺めることができた。あるところは、夕闇が迫ったように暗いかと思うと、あるところは、異様な大火事とみまがうばかり妖(あや)しく、ものすごい暗褐色にもえていた。またあるところを通りかかると、一瞬、霧がすっかり切れて、一条の無気味な日光が、うず巻く霧の間から射していた。刻々と変化してゆく光景の中で、ソーホーの陰うつな街は、ぬかるみの道や、ものうげな通行人や、いつも消えたことがないのか、あるいはこの陰気な闇を防ぐためにあらたに点(とも)された街灯とともに弁護士の目には、悪夢の中のどこかの街のように見えた。」


ジーキル4


「ジーキル博士とハイド氏」より:

「「この鏡はいろいろと怪しいものを映じたことでございましょうね、先生」
 と、プールがささやいた。」



ジーキル5


「ジーキル博士とハイド氏」より:

「わたしはわたしの知性の両面、すなわち、道徳的方面と、理知的方面から、人間は一面的存在でなく、二面的存在であるという真理に着実に日一日と近づいていった。」
「わたしは人間とはたとえてみれば雑多に矛盾し孤立した人びとの集落のようなものを内に蔵している存在にすぎないとわかる日が来るのではないかとあえて言いたい。」
「これらの相反する分身、両極端の双生児が一つに結びつけられ、もだえ苦しむ意識の胎内で、絶えまなく争っているというのは、人類の災いである。」
「ハイドの顔にはくっきりと「悪」が刻まれていた。(中略)しかしわたしはその醜い姿を鏡に見たとき、反発を覚えるどころか、歓んで飛び上がったほどである。これもまたわたし自身なのだ。それは自然で人間らしいものであった。わたしがそれまで自分のものだと呼び慣れていたあの不完全で分裂した顔よりも、ハイドの顔のほうがよりいきいきとしていて、明白で純一に思えた。(中略)エドワード・ハイドの姿のときのわたしに近よる人は必ずおびえて身震いするのがわかった。これは思うに、一般の人びとは善と悪の混ざり合ったものであるのに、エドワード・ハイドだけは、一人だけ純粋の悪の化身だったからである。」
「このようにわたしは二つの容貌(ようぼう)と二つの性格を持つにいたったのであるが、一方はまったくの悪、他方は矯正(きょうせい)も改善もすでに不可能な異分子の混合体である従来のヘンリー・ジーキルである。」



ジーキル6


「水車小屋のウイル」より:

「「それで、海はどんなものなの?」
 とウイルはたずねた。
 「海だって! ああ、お前、それは神様のお創りになったもののうちでいちばん大きなものさ! そこは世界中の水が全部流れ込んで、大きな塩水の湖になっているんだよ。海はわたしの掌(てのひら)のように平らで、子どものように無邪気なようすをしているんだが、噂によると、風が吹くときは、ここらのどの山よりも大きな水の山となって、家の水車小屋なんかよりずっと大きな船ものみこんでしまい、あまり大きな怒号をたてるので、幾マイルも離れた陸の上からでもその轟(とどろ)きを聞くことができるんだ。また海には牡牛の五倍もある大きな魚がいたり一匹の年老いた蛇がいて、その長さはこの川のように長く、この世ができたときから生きながらえて、人間のように髯(ひげ)を生やしているばかりか、頭には銀の冠をのせているんだとさ」
 ウイルはこんな話は一度も聞いたことがないと思った。」

「「わかりました」ウイルは、その若い男のほうに向きながら言った。
 「ぼくたちは、鼠罠(ねずみとり)の中にいるんですね」
 「そんなものだね。君は籠(かご)の中を走り回っているりすを見たことあるかい? また籠の中で木の実を食べながら、もの知り顔にすわっているりすを見たことあるかい? どちらのりすが愚かに見えるか、君に訊く必要もないだろうね」」



ジーキル7


「水車小屋のウイル」より:

「しかし、ウイルは甘言にのせられたり、脅(おど)されて結婚するような男ではけっしてなかった。澄んで静かな淵(ふち)のような、内から射す明るい光をたたえた彼の目をみれば、まさに、ここにひとりの、自分というものを知り、あくまでそれを貫く男がいるということがわかった。」
「「わたしはまだ子どもだったころ、少し迷ったことがあります。興味深く、知るに値するのはわたし自身なのか、この世の中なのかよくわからなかったからです。今では、それはわたし自身だということを知っています。この考えを変えるようなことはしません」」



ジーキル8


「水車小屋のウイル」より:

「「さあ、健康を祝して」と見知らぬ男は、そっ気なく言った。
 「あなたにも健康を」とウイルは答えて、葡萄酒を啜(すす)ったが、幾分妙な味がした。
 「わたしはあなたがなかなか強情な人だと聞いています」とその男は続けた。
 ウイルは幾分満足の微笑をうかべ、軽くうなずいて返事をした。
 「わたしもそうなんですよ」相手の男は続けた。「わたしは他人を困らせるのが無性に好きでしてね。わたしはけっして他の人に強情を張らせません。ただの一人もです。わたしは盛んな時分には、王様でも将軍でも、大芸術家でも気まぐれをさせなかったんですよ。ところで、わたしがあなたの気まぐれをくじくために、わざわざここまでやって来たとしたら、どうお思いです?」」
「「あなたは」ウイルは、自分自身驚くほどの、爆発的で熱っぽい調子で、突然に口を切った。
 「あなたは、わたしが世の中のあらゆるものを恐れて、家の中ばかりにいると考えてはいけません。わたしが、この世のすべてのものに飽き果てていることは、神様もご存知です。そして、あなたが今まで夢に見たこともないような長い旅に出るときが来ても、わたしは、自分にすっかり準備ができているつもりです」 
 その身知らぬ男は、グラスを干して、傍(かたわら)に押しやった。(中略)
 「その時が来たのです」と彼は厳(おごそ)かに言った。」」
「「あなたは奇妙な医者だ」ウイルは彼の客をじっと見つめながら言った。
 「わたしは自然の法則です」と相手は言った。「人はわたしを『死』と呼んでいます」
 「なぜ、あなたは、最初にそうおっしゃらなかったのです」とウイルは叫んだ。「わたしはながいこと、あなたを待っていたのです。わたしに手をください。ようこそいらっしゃいました」」



ジーキル9


「一夜の宿」より:

「ヴィヨンはこういうお説教にかなりいらだっていた。
 「あなたは、わたしが名誉を全然気にしないとお考えですね!」と彼は叫んだ。「わたしはいかにも貧乏です! (中略)あなたは軽くおっしゃいますが、空(す)きっ腹ってのは辛いもんです。あなたもわたしくらいたびたびひもじい思いをすれば、口のきき方をかえるでしょうに。とにかくわたしは盗人ですよ――せいぜいそのことを悪く言ってください。――しかしわたしだって地獄から来た悪魔じゃありませんよ、まったくのところ。わたしだってあなたにおとらない名誉心をもっていることを知ってもらいたいもんですね。ただわたしは(中略)四六時中名誉名誉なんて言っちゃいませんがね。(中略)わたしはそれが必要なときまで箱にしまっておきますよ。ところでねえあなた、わたしはあなたとこの部屋にどれくらいいたでしょうか。あなたの金の皿をご覧なさい。まああなたは強いでしょう。でもあなたは老人で、武器を持っちゃいませんよ。ところがわたしはナイフを持っていますぜ。この肱(ひじ)をちょいと動かしてさえいれば、あなたは腹にナイフを突き刺されてここに伸びていて、わたしは腕にいっぱい金の皿を抱えて街中をすばやく逃げていたということになったはずですぜ。(中略)だがわたしはそんな行為は蔑(さげす)んだってわけです。それであなた様のいまいましい杯も教会の内にあるように安全だし、あなたもそうしていて、心臓は嬰児(えいじ)のように健やかに動いているんですよ。そしてわたしはこうして、(中略)来たとき同様貧しく出て行こうってんです! それでもあなたはわたしに名誉を重んずる気持ちがないとお考えですか――とんでもない!」
 老人は右手を突き出した。「あんたがどんな人間か言ってやろう」と彼は言った。「あんたは、悪党で、厚かましく腹黒いごろつきで浮浪者じゃよ。わしはあんたと一時間過ごした。ああ、まったく、恥ずかしいことをしたもんだ! あんたはわしの食卓で食べたり飲んだりしたんじゃ。だがあんたを見るだけで胸くそが悪くなるわい。夜が明けた。夜鳥は己の巣へ帰るべきじゃろう。」」
「「神様が憐れみをあんたにたまわらんことを」とブリズトウの領主は戸口で言った。
 「さようなら、とうさん」とヴィヨンはあくびしながら答えた。「冷たい羊肉をありがとう」
 扉は彼の後ろでしまった。夜は白化粧した屋根の上でほのぼのと明けそめていた。冷たい、気持ちの悪い朝が昼の手を取って近づいていた。ヴィヨンは立ち止まると、道のまん中で思う存分あくびをした。
 「ああ、なんて退屈なじいさんだ」と彼は思った。「あの杯はどれくらいの値打ちかな」」



































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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