ニコライ・ネフスキー 『月と不死』 (岡正雄 編/東洋文庫)

「山猟と巫女術と極々緻密な関係だつたと思ひます。(中略)時代が変つて来て狩猟団体の代りに舞台へ百姓が出て来た。巫女は一定した村に居られなくなつて浮漂人になりました。百姓の御気嫌をとつたり(中略)などして生活して居りました。豊作がつづいた時には左程巫女の力を借りる必要がない時は、彼の女達は生活をいとなむ為めに村から村へ、戸から戸へ廻り歩いて大事な神様を遊ばすとて人形芝居の様な事をやり始めたのではなからうか。」
(「ニコライ・A・ネフスキイ氏書翰翻刻」 より)


ニコライ・ネフスキー 
『月と不死』 
岡正雄 編

東洋文庫 185

平凡社 昭和46年4月10日初版発行
10p+361p 口絵2p
新書判 角背クロス装上製本 機械函
定価600円
装幀: 原弘



本書「凡例」より:

「本書はニコライ・アレクサンドロヴィッチ・ネフスキー Nikolai Aleksandrovich Nevskii の日本語で書かれた論文及び(中略)書翰集を中心とし、著者の日本民俗学関係の諸論文を編纂したものである。」

図版(モノクロ)多数。


月と不死


目次:

凡例
編者はしがき (岡正雄)

月と不死
月と不死(二)
農業に関する血液の土俗
遠野のまじなひ人形
相模の獅子舞ひの歌
問答
美人の生れぬわけ
故シュテルンベルグ氏
アヤゴの研究
アヤゴの研究二篇
宮古島子供遊戯資料
琉球の昔話『大鶉の話』の発音転写
狩俣の・・・・・
豆が花のアヤゴ 他

メノコ・ユーカラ二篇

ニコライ・A・ネフスキイ氏書翰翻刻(一)
ニコライ・A・ネフスキイ氏書翰翻刻(二)

性信仰について――中山太郎氏宛ての手紙――

論文掲載誌一覧

解説――ニコライ・ネフスキーの生涯―― (加藤九祚)
 第一章 ヴォルガの岸辺で
 第二章 ペテルブルグにて
 第三章 日本留学とロシア革命の波
 第四章 日本滞在と日本民俗学の研究
 第五章 西夏(タングート)学とネフスキー
 第六章 帰国と帰国後の活動
 第七章 結びにかえて
解説者あとがき

著作目録
参考文献



月と不死 (1)



◆本書より◆


「月と不死(二)」より:

「大正十五年八月十七日、私が漲水湾より那覇に向ふ汽船に乗り込んだ時、この「アカリヤザガマ」に関する興味深い伝説を、平良町出身の慶世村恆任氏より聞き書き留めておいた。慶世村氏は祖母より聞いたものである。
 (中略)これを本邦語に訳してみる。
 
 月のアカリヤザガマの話
 是は昔々大昔この大宮古(中略)に始めて人間が住む様になった時の事だそうです。
 お月様お天道様が真上に輝いてゐて、美しい心の持主であつたから、幾世変らじ人間の生れつきの美しさを守り、長命(継命)の薬を与へようとお思ひになつて節祭の新夜に、この大地(オホヂ)へ、下の島へアカリヤザガマを御使としてお遣しになつたそうです。アカリヤザガマが何を持つて降りて来たかといふと、二つの桶を重そうに担いで来たそうです。
 そして、その一つには変若水、今一つの方には死水(シニミヅ)を入れて来ました。お月様お天道様のお言附けには「人間に変若水を浴せて世が幾度変つてもいつも、生き替る事と長命をもたせよ。蛇には――肝心(キモゴコロ)をもつてゐるものぢやないから――死水を浴せよ」といふ事であつたそうです。けれども天から長い旅をして降りて来たアカリヤザガマが非常に疲れ、草臥れて脚脛を休ませようと思つて担いで来たその桶を、道に下ろし路端で小便をしてゐた処、その隙に何処からともなく一匹の大蛇が現はれて来て、まあなんといふ事でせう、見れば人間に浴びせる変若水をジャブジャブ浴びてしまつてゐたのであります。アカリヤザガマの驚きは譬へ様もありませんでした。
 「おやおやこれはまあ、どうしよう、まさか蛇の浴び残りの水を人間に浴せるといふわけには行かないし、どうしたらいいんだらう、斯うなつたら仕方がないから、死水でも人間に浴せる事にしようか」と思つて泣き泣き死水を人間にあびせたそうです。
 アカリヤザガマが非常に心配しながら、天へのぼり、上へのぼつて行つて委細の事を申上げると、お天道様は大変お怒りになつて「長命や生れ替(カヘ)の美しさを守らうと思つてゐたが、お前のために破られ、みんな私の心尽しが無駄になつてしまつた。お前の人間に対する罪は幾等払つても払ひ切れない程のものであるから、人間のある限り、宮古の青々としてゐる限り、その桶を担いで永久に立つてをれ」といつて体刑をお加へになりました。それがためアカリヤザガマが今もなほお月様の中にゐて桶を担いで立ちはだかつて罰せられてゐるとさ。
 人間はなんといふ馬鹿者だらう! 若し蛇の様に気早いものであつたなら、変若水を浴びて生れ替へて、いつもいつも長命でゐられた筈なのに、死水を浴びてしまつたから死んでゆかねばならぬ様になりました。それに引返へて蛇はその時から今まで始終脱皮し、生れ替へて長生してゐるのだとさ。」

「月に就て云々してゐないが、前記のものに類似した伝説を大正十一年夏、故富盛寛卓氏より聞いたことがある。」
「「節祭(シツ)の夕には蛇より先に人が若水を浴びて居つたから、人が若返り、蛇は若返らずに居つた。処がある年、蛇にまけて人が後で若水を浴びたから、蛇が若返り人は若返らぬ様になつたといふ。」
 どういふ様子で当時若返つたものかといふ私の問に、富盛氏は蛇の様に皮を脱いだものだと答へた。」

「フレザの蒐集した民譚によれば、蛇、蟹其他の動物に見受けられるところの、脱皮による不死の秘法を説明したものは、主として太平洋民族の間に見出される。」
「蛇、蜥蜴、蟹の脱皮が永遠に生長らへる方法と考へられたことは、この動物を長寿の象徴として、多くの民族の民譚に入り、出生又は祝賀の節、幸運を祈るものとして用ひられる様になつた。」



月と不死 (2)


「ニコライ・A・ネフスキイ氏書翰翻刻(一)」より:

「此間新聞の切抜きを調べました時次の例を目つけました。紀州西牟婁郡岩田村に次の伝説があります。
 「岩田村大字岩田字奥艸ニ亀首(カメクビ)神社とイイ小祠ガアル伝ヘ言フ、昔此地ニ大蛇ガアツテ、屡次里人ヲ悩マシタガ、浅野団蔵トイフ法院ガ来テ、大蛇ヲ伏セテ神社ニ祀ツタノダトイフ、蛇ヲ伏セタ所ヲ今モ蛇(ジャ)ノ口(クチ)ト言フ、此ノ亀首神社ハ雨請ノ社デ、旱魃ノ時ハ常ニ雨ヲ祈ル、社ノ側ノ淵ハ以前深サニ丈余モアツテ、見ルカラ凄イ所デアツタガ、明治二十二年ノ水害デ殆ンド埋モレ、近来再ビ掘レテ来タ。
 雨請ヒスルト雨ガナイト淵カラ蟹ガ出テ、雨ノアル時ハ蛇虱(ジャシラミ)(長サ六七寸ノ鰻デ赤又ハ黄色ノ首輪アリテ、体ニハ種々ノ斑紋アリ)ガ浮カンデ之レヲ知ラシタ、蛇虱ハ今モ淵ニ有ルトイフ(牟婁新聞、大正四年、七月の上旬)」。」

「私の考へではシラーといふ神名は知るといふ語から来てゐるのではなからうか。そして神様の名前はシラであつてこの神に侍する者――即ち巫女――もシラといふ名前を負たらしい。おしまひには巫女の俗名になつたのではなからうかと思ひます(白神筋、白比丘尼、白拍子、白太夫等御参照)。御承知の通り色々の人種や民族の巫祝の俗名は(シャマンを始めとして)知るといふ語に根ざしてゐるのです。(中略)極昔は巫女の事を只シラといふたかも分りません。」
「昔の巫女が神下しする折には色々の神々を呼び寄せたが、彼れに憑いた神は只一番大切な代々から緻密な関係のあつた神だけでした。其の神を巫女自身が知(し)ら神といつたのではなからうか。又色々の神々を呼寄せた事も右の因縁深いおしらさまのお蔭だつたと思います。(中略)即ち右の神は色々の神々の神使です。(中略)其オシラサマの色々の動物頭を調べて見ると狐、鶏、馬など御座います。大抵皆憑ものです。馬は憑ものであるといふ事に就ては材料が御座いませんが馬を神として(中略)祭る習慣と、西比利亜シャマンと深い関係があるのとを考えて見ると、昔の日本に於ても馬と巫女術との関係があつたかも知れません。右の動物は所々の巫女銘々の守護神だつたとも考へられます。山猟団体が狩に出掛ける折には、巫女を連れて来て彼れの守護神なるオシラ神には御意見を聞いたと思ひます。山猟と巫女術と極々緻密な関係だつたと思ひます。(中略)時代が変つて来て狩猟団体の代りに舞台へ百姓が出て来た。巫女は一定した村に居られなくなつて浮漂人になりました。百姓の御気嫌をとつたり(中略)などして生活して居りました。豊作がつづいた時には左程巫女の力を借りる必要がない時は、彼の女達は生活をいとなむ為めに村から村へ、戸から戸へ廻り歩いて大事な神様を遊ばすとて人形芝居の様な事をやり始めたのではなからうか。
 もとの所には仏像を真似てオシラ神の御神体を安置して白太夫とて祭つたのでせう(自分も時として白太夫と名乗つて国から国へ漂つて居りました)。更に白山といふ名前に就てはどうも其の処は何かの故を以つて巫女に関係深い所だつたと思われます。白山(ハクサン)のもとの訓はシラ山だと思ひます。後に仏教の影響を受けてハクサンと呼ぶ様にしたでせう。其の辺から出た巫女は、西宮の白太夫と同じく男女二体の人形を安置して置いて白山権現として其を祭つたかも知れませんが如何でせうか。」

「現代アイヌにはシラッキ(Shiradtki kamui)カムイといふ守り神がある。之は重に狐や梟のされかうべである。不断は其の髑髏がイナウのけづり屑の中へうもれて保存してある。病気に罹つた場合にはシラッキカムイに全快を祈るのです。又、外出する場合、例せば、山へ猟に出掛ける場合どつちへ赴いたら獲物があるかなどの吉凶を占ふ場合は、屑をのぞけて、本の髑髏だけを頭上へ載せて呪文を唱へ、頭を少しかたぶけるのです。そして、されかうべの落ち方を見て占ふのです。」

「廿四日に四倉駅で下車して、玉山温泉まで俥をやとひました。温泉まで一里半の道ですから途中で神明に就いて車夫と話致しました。車夫に言はせますと此の地方へは時々神明と云ふ乞食女が参ります。此の女はお神明様と云ふものを両手に持ちながら(各手に一体づつ)戸々を廻り歩くのです。百姓は之に金一二銭斗り、又は米少し許り呉れるそうです。(中略)乞食女の持つてゐるお神明様は日本固有の神様で、即ち天照皇大神宮で御座います。」
「玉山温泉へ着して石屋旅館へ身を投じました。極く詰らない温泉場ですがお客の一杯で驚きました。宿屋へ入るや否や白髭老人が遊びに参りました。平(たひら)の者だそうです。神明を知つてるかと聞くと老人は両手をふるはせながら(両手で何かを持ってる風をして)「これか」と笑ひ出した。処が其れ以上の事は、ぢゞも知らなかつた。縁側で話を聴いてゐた、ぢゞの息子(セガレ)(三十五斗りの男)が口を出した。平町にも一人の神明が居りますよ。今は廃業して子守してゐる可哀相な盲女ですよ。一寸綺麗な女で不幸に目がよく見えない。之はいゝ塩梅だとて、或る巡査めが彼の女を強姦して孕ましたのです、と云つた。一体神明を奉仕する女達は、始めは我々と少しも違はず立派なめあきですよ、只だ毎日々々神を自分の体へ乗り移すから、おしまひに失目致しますと、亦たぢゞがいひました。
 翌日の朝から高木君の村へ行つて、非常に親切に歓迎されました。北神谷の鎮守様は御承知の通り白山神社です。之をあやまつてシラヤマ神社と云ふと百姓が非常に怒る相です。「我々は立派な百姓ですがバンタではあるまいし」と。右のシラヤマ権現はバンタの神になつて居りますから。白(ハク)山神社の御神体は臼だつたそうです。バンタの外に特殊部落として箕直しと筬掻きがあつて、重に中神谷にゐると高木君が話して呉れました。高木君は神明を未だ見た事がないと云ひました。」
「御神体を歩かずに家に保存すると必ず神罰があつて家内中病気に罹ると云ふ。お神明様の御正体は只の棒に一寸五分斗りの色どつた布片を沢山にきせたもので、頭は真円くなつて見えないそうです。」

「さ、行きませうとて、もう一度堂中を見ると左の角にオシラサマの様なものが箱へ入つて居りました。「それは神明ではなからうか一寸拝まして下さい」と頼むと若い女が御神体を出して呉れました。それは遠野地方と少しも違はぬオシラでした。やはり二体のもので、男神の方は烏帽子をかぶつて、女神は丸坊子でした。此の神明は先に仁井田で祭られたが、之を奉仕する女が死んだから娘は持つて歩くのがいやだとて、こちらへ納めましたと老婆の話でした。「歩かないと祟るそうですからお前様もあぶないよ」と云ふと「ナーニ此所へは能く人が来るから歩かなくてもよい。又たオラが毎日々々南無妙法蓮華経々々々々々々々をよんで上げるから、なんぼお神明様も喜ぶでせう」と答へました。」



月と不死5


「一、先日内閣文庫に有之真澄氏著「雪の出羽路」を拝見致し候節は御寺院には天児(アマガツと読ませ候ヤ)と申候もの有之由存じ候ひき。
  左に其の図と記事をあらはし上候はん
    天児之図
 台の高さ七八寸
 柱ハ黒漆にて鍍金のかな具ありとす、松前の阿哞寺在りしを摹せり」




こちらも御参照下さい:
種村季弘 編 『泉鏡花集成 10』 (ちくま文庫)





























































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Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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