泉鏡花 『草迷宮』 (岩波文庫)

「祟(たた)らば祟れ! 飽(あ)くまでも初一念(しょいちねん)を貫いて、その唄を聞かねば置かない。」
(泉鏡花 「草迷宮」 より)


泉鏡花 
『草迷宮』
 
岩波文庫 緑 31-027-4

岩波書店 
1985年8月16日 第1刷発行
195p 編集付記1p
文庫判 並装
定価350円



新字・新かな。解説は種村季弘。


泉鏡花 草迷宮 01


帯文:

「幼き日の記憶にのこる母の手毬唄を捜し求めて彷徨する青年主人公。鏡花ならではの物語の迷宮世界が顕現する。」



◆本書より◆


「「あれ、あれでござります。」
 波が寄せて、あたかも風鈴(ふうりん)が砕けた形に、ばらばらとその巌鼻(いわばな)に打(うち)かかる。
 「あの、岩一枚、子産石(こうみいし)と申しなして、小さなのは細螺(きしゃご)、碁石(ごいし)ぐらい、頃(ころ)あいの御供餅(おそなえ)ほどのから、大きなのになりますと、一人では持切(もちき)れませぬようなのまで、こっとり円い、些(ちっ)と、平扁味(ひらたみ)のあります石が、何処(どこ)からとなくころころと産(うま)れますでございます。」」

「「私も長い旅行です。随分どんな処でも歩行(ある)き廻ります考えで、いざ、と言や、投出(なげだ)して手を支(つ)くまでも、短刀を一口(ひとふり)持っています――母の記念(かたみ)で、峠を越えます日の暮(くれ)なんぞ、随分それがために気丈夫(きじょうぶ)なんですが、謹(つつしみ)のために桐油(とうゆ)に包んで、風呂敷の結び目へ、緊乎(しっかり)封(ふう)をつけて置くのですが、」
 「やはり、おのずから、その、抜出(ぬけだ)すでございますか。」
 「否(いいえ)、これには別条ありません。盗人(ぬすっと)でも封印のついたものは切らんと言います。尤(もっと)も、怪物(ばけもの)退治に持って見えます刃物だって、自分で抜かなければ別条はないように思われますね。それに貴僧(あなた)、騒動(さわぎ)の起居(たちい)に、一番気がかりなのは洋燈(ランプ)ですから、宰八爺さんにそういって、こうやって行燈(あんどう)に取替えました。」
 「で、行燈は何事も、」
 「これだって上(あが)ります。」
 「あの上りますか。宙へ?」
 (中略)
 「すう、とこう、畳を離れて、」
 「ははあ、」
 (中略)
 「それも手をかけて、圧えたり、据えようとしますと、そのはずみに、油をこぼしたり、台ごとひっくりかえしたりします。障(さわ)らないで、熟(じっ)と柔順(おとなし)くしてさえいれば、元の通りに据直(すわりなお)って、夜が明けます。一度なんざ行燈(あんどう)が天井へ附着(くッつ)きました。」
 「下に蚊帳が釣ってありますから、私も存じながら、寝ていたのを慌(あわ)てて起上(おきあが)って、蚊帳越(かやごし)にふらふら釣り下った、行燈の台を押えようと、うっかり手をかけると、誰か取って引上げるように鴨居(かもい)を越して天井裏へするりと入ると、裏へ丁(ちゃん)と乗っかりました。もう堆(うずたか)い、鼠の塚(つか)か、と思う煤(すす)のかたまりも見えれば、遙(はるか)に屋根裏へ組上げた、柱の形も見える。
 可訝(おかし)いな、屋根裏が見えるくらいじゃ、天井の板が何処(どこ)か外(はず)れたはずだが、と不図(ふと)気がつくと、桟(さん)が弛(ゆる)んでさえおりますまい。
 板を抜けたものか知らん、余り変だ、と貴僧(あなた)。
 茲(ここ)で心が定まりますと、何の事もない。行燈(あんどう)は蚊帳(かや)の外の、宵(よい)から置いた処に丁(ちゃん)とあって、薄ぼんやり紙が白(しら)けたのは、もう雨戸の外が明方(あけがた)であったんです。」」

「「人の住むのが気に入らないので荒れるのだろうと思いますが。
 そこなんです、貴僧(あなた)。逆(さから)いさえしませんければ、畳も行燈(あんどう)も何事もないのですもの。戸障子(としょうじ)に不意に火が附いて其処(そこ)いらめらめら燃えあがる事がありましても、慌(あわ)てて消す処は破れ、水を掛けた処は濡れますが、それなりの処は、後で見ますと濡れた様子もないのですから。」」

「「しかし貴下(あなた)は、唯今(ただいま)うけたまわりましたような可怖(おそろし)い只中(ただなか)に、能(よ)く御辛抱(ごしんぼう)なさいます、実に大胆でおいでなさる。」
 「私くらい臆病(おくびょう)なものはありません。……臆病で仕方がないから、成るがまかせに、抵抗しないで、自由になっているのです。」
 「さあ、そこでございます。それを伺(うかが)いたいのが何より目的(めあて)で参りましたが、何か、その御研究でもなさりたい思召(おぼしめし)で。」
 「どういたしまして、私の方が研究をされていても、此方(こちら)で研究なんぞ思いも寄らんのです。」
 「それでは、外(ほか)に、」
 「ええ、望み――と申しますと、まだ我(が)があります。実は願事(ねがいごと)があって、ここにこうして、参籠(さんろう)、通夜(つや)をしておりますようなものです。」」
「「それが貴僧(あなた)、前刻(さっき)お話をしかけました、あの手毬(てまり)の事なんです。」
 「ああ、その手毬が、もう一度御覧なさりたいので。」
 「否(いいえ)、手毬の歌が聞きたいのです。」
 と、うっとりといった目の涼しさ。月の夢を見るようなれば、変った望み、と疑いの、胸に起る雲消えて、僧は一膝(ひとひざ)進めたのである。
 「大空の雲を当てに何処(いずこ)となく、海があれば渡り、山があれば越し、里には宿って、国々を歩行(ある)きますのも、詮(せん)ずる処、或(ある)意味の手毬唄(てまりうた)を……」
 「手毬唄を。……如何(いかが)な次第でございます。」
 「夢とも、現(うつつ)とも、幻とも……目に見えるようで、口にはいえぬ――そして、優(やさ)しい、懐(なつか)しい、あわれな、情(じょう)のある、愛の籠(こも)った、ふっくりした、しかも、清く、涼しく、悚然(ぞっ)とする、胸を掻挘(かきむし)るような、あの、恍惚(うっとり)となるような、まあ例(たと)えて言えば、芳(かんば)しい清らかな乳を含みながら、生れない前(さき)に腹の中で、美しい母の胸を見るような心持(こころもち)の――唄なんですが、その文句を忘れたので、命にかけて、憧憬(あこが)れて、それを聞きたいと思いますんです。」
 (中略)
 「して、その唄は、貴下(あなた)お聞きに成ったことがございましょうか。」
 「小児(こども)の時に、亡くなった母親が唄いましたことを、物心(ものごころ)覚えた最後の記憶に留(と)めただけで、どういうのか、その文句を忘れたんです。
 年を取るに従うて、まるで貴僧(あなた)、物語で見る切(せつ)ない恋のように、その声、その唄が聞きたくッてなりません。
 東京の或(ある)学校を卒業(で)ますのを待かねて、故郷へ帰って、心当りの人に尋ねましたが、誰のを聞いても、どんなに尋ねても、それと思うのが分らんのです。
 第一、母親の姉ですが、私の学資の世話をしてくれます、叔母(おば)がそれを知りません。
 唯(ト)夢のように心着(こころづ)いたのは、同一(おなじ)町に三人あった、同一(おなじ)年ごろの娘です。」」
「「よく私を遊ばせながら、母も少(わか)かった、その娘たちと、毬も突き、追羽子(おいはご)もした事を現(うつつ)のように思出(おもいだ)しましたから、それを捜せば、きっと誰か知っているだろう、と気の着いた夜半(よなか)には、むっくり起きて、嬉(うれ)しさに雀躍(こおどり)をしたんですが、貴僧(あなた)、その中(うち)の一人は、まだ母の存命の内に、雛祭(ひなまつり)の夜なくなりました。それは私も知っている――
 一人は行方(ゆくえ)が知れない、と言います……
 漸(やっ)と一人、これは、県の学校の校長さんの処へ縁(えん)づいているという。」」
「「まさか奥様(おくさん)に、とも言えませんから、主人に逢(あ)って、――意中を話しますと――
 (夜中(やちゅう)何事です。人を馬鹿にした。奥(おく)は病気だからお目には懸(かか)れません。)
 といって厭(いや)な顔をしました。婦人が評判の美人だけに、校長さんは大した嫉妬(しっと)深いという事で。」」
「「叔母がつくづく意見をしました。(はじめから彼家(あすこ)へ行くと聞いたら遣(や)るのじゃなかった――黙っておいでだから何にも知らずに悪い事をしたよ。さきじゃ幼馴染(おさななじみ)だと思います、手毬唄を聞くなぞ、となおよくない、そんな事が世間へ通るかい、)とこうです。」」
「「事が面倒になりましてね、その夫人の親里(おやざと)から、叔母の家(うち)へ使(つかい)が来て、娘御は何も唄なんか御存じないそうで、ええ、世間体(せけんてい)がございますから以来は、と苦(にが)り切って帰りました。
 勿論(もちろん)病気でも何でもなかったそうです。」」

「「日が経(た)ってから、叔母が私の枕許(まくらもと)で、さまでに思詰(おもいつ)めたものなら、保養かたがた、思う処へ旅行して、その唄を誰かに聞け。
 (妹の声は私も聞きたい。)
 と、手函(てばこ)の金子(かね)を授(さず)けました。今以(いまも)って叔母が貢(みつ)いでくれるんです。
 国を出て、足かけ五年!
 津々浦々(つつうらうら)、都、村、里、何処(どこ)を聞いても、あこがれる唄はない。」」
「「とても尋常(じんじょう)ではいかん、と思って、もう唯(ただ)、その一人行方(ゆくえ)の知れない、稚(おさな)ともだちばかり、矢も楯(たて)も堪(たま)らず逢いたくなって来たんですが、魔(ま)にとられたと言うんですもの。高峰(たかね)へかかる雲を見ては、蔦(つた)をたよりに縋(すが)りたし、湖(うみ)を渡る霧を見ては、落葉に乗っても、追いつきたい。巌穴の底も極(きわ)めたければ、滝の裏も覗(のぞ)きたし、何か前世(ぜんせ)の因縁(いんねん)で、めぐり逢う事もあろうか、と奥山(おくやま)の庚申塚(こうしんづか)に一人立って、二十六夜(や)の月の出を待った事さえあるんです。
 唯(ト)この間(あいだ)――名も嬉(うれ)しい常夏(とこなつ)の咲いた霞川(かすみがわ)という秋谷(あきや)の小川で、綺麗(きれい)な手毬を拾いました。」」
「「先(ま)ずおめでたい、ではその唄が知れましたか。」
 「どうして唄は知れませんが、声だけは、どうやらその人……否(いいえ)……そのものであるらしい。この手毬を弄(もてあそ)ぶのは、確(たしか)にその婦人(おんな)であろう。その婦人(おんな)は何となく、この空邸(あきやしき)に姿が見えるように思われます。……むしろ私はそう信じています。
 爺(じい)さんに強請(ねだ)って、此処(ここ)を一室(ひとま)借りましたが、借りた日にもうその手毬を取返され――私は取返されたと思うんですね――美しく気高(けだか)い、その婦人(おんな)の心では、私のようなものに拾わせるのではなかったのでしょう。
 あるいはこれを、小川の裾(すそ)の秋谷明神(あきやみょうじん)へ届けるのであったかも分らない。」」
「「その祟(たたり)、その罪です。この凡(すべ)ての怪異は。――自分の慾(よく)のために、自分の恋のために、途中でその手毬を拾った罰(ばつ)だろう、と思う、思うんです。
 祟(たた)らば祟れ! 飽(あ)くまでも初一念(しょいちねん)を貫いて、その唄を聞かねば置かない。」」



種村季弘「解説」より:

「宝暦年間、備後三次(みよし)の稲生(いのう)屋敷に怪が起った。稲生家次男武太夫が留守番をしていると障子土塀がいっせいにかたかたとひしめき、庭の方に七、八人の足音がする。寝ていると頭の上まで蚊帳が下ってくる。女の生首が出る。大入道が出る。首の無い死体が四ツ這(ば)いになって迫ってくる。少年武太夫の朋輩たちも応援にかけつけて胆だめしを競ったが、やがていずれも胆をつぶして退散、武太夫ひとりが健気にも化物屋敷の怪をのり切った。」
「「稲生武太夫怪物に逢う事」は、後に平田篤胤(あつたね)の聞書『稲生物怪録』(中略)等に編まれたので、祭文語りや講釈師の講談などを通じてつとに明治の少年たちの耳にはなじまれていた。たとえば巌谷小波(いわやさざなみ)のお伽噺『平太郎化物日記』は、小波が少年時に聞いた祭文語りが出所と思しいこの稲生屋敷の怪の少年向翻案であり、また小波の愛読者であった稲垣足穂(たるほ)も昭和にいたって『山ン本五郎左衛門只今退散仕る』(『懐しの七月』)にふたたびこの怪談を取り上げている。『草迷宮』の読者は、むろんとうに鏡花が同じ怪事を書いていることにお気づきになったことと思う。」
「もとより素材は同じでも、それをどう書いたかは違う。小波(や稲垣足穂)では、原話は思春期の分裂病的幻覚をくぐり抜けるイニシエーションの物語として取り上げられ、化物出雲国(山ン本)五郎左衛門は少年にとってのイニシエーション導師として描かれている。一方、『草迷宮』の鏡花は、五郎左衛門がモデルと思しい秋谷悪左衛門をたちまち舞台前面から撤退させて、名も知れる「令室(おくがた)」あるいは「(手毬唄の)唄の女神」をその背後から浮び上らせる。といって秋谷悪左衛門の鬼神力が令室の観音力に調伏されたというのではない。悪左衛門の鬼神力そのものが、令室という女性の冥府的(クトーニッシュ)な側面がくり出し操る手毬のような、女性の霊力の半面にほかならず、「一草一木の裡(うち)、或は鬼神力宿り、或は観音力宿る」と観じていた鏡花には、怪異を顕わす力を鬼神力と観音力とのいずれかに限定して、鬼神を調伏した後に光明を期待するというような二者択一的発想は思いも寄らなかったものにちがいない。
 同じ一草一木に鬼神力のはたらきが宿るかと思えば、観音力のはたらきも宿る。あるものがそれ以外の何物でもないということがなく、あれかと思えばこれであり、これかと思えばあれなのである。(中略)悪と慈悲、美と怪異とがだんだら模様に入りまじり、「あれかこれか」のカテゴリックな世界認識とは別種の「一種微妙な中間の世界」であるところの、たそがれのようなアトモスフェアを醸(かも)し出しているのが、とりわけ『草迷宮』の作品風土なのだと申せようか。」

「結末の場の、ハムレットのようにあれかこれかに思い惑って、そのどちらともつかない遅疑逡巡の形のままに行動不能に陥った葉越明は、行動不能のメタファーたる睡眠のなかで夢遊犯罪者もさながらに分身の小次郎法師を毒殺する。あれかこれかの戸惑いに決着をつけて行動不能の金縛りを破るには、あれするかこれするかの二重身の一方を抹殺し、残りのもう一つを直線的に選択することによって無限循環の迷宮を脱出するほかはないからである。といって『草迷宮』の主人公は、むろん夢のなかの殺人を犯しはしても、現実には赤児のように無垢にすやすやと眠っていて、何事も起りはしない。
 鏡花は他の小説でなら、主人公の分身殺しを通じて芸道の虚空に舞い上る(『歌行燈』)か、狂恋の地獄に落ちる(『眉かくしの霊』)かする結末を選んだ。『草迷宮』がそういう結末を辿らなかったのは、主人公を見衛(みまも)る女性の観音力が彼の未来をまで予見して相互の近親相姦願望を抑制し、自らをも相手をも狂おしい宙吊り状態に囚われるがままにとどめたためである。それゆえにかえって、物語はパセティックな破局を避けて、行くでもなく戻るでもなく、親箱の胎内に宙吊りになって眠りこける胎児のたそがれ時のような無垢を造型し得たのであった。」



泉鏡花 草迷宮 02


岡田三郎助画(明治四十一年春陽堂版より)。


















































































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Author:ひとでなしの猫
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◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

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