泉鏡花 『春昼・春昼後刻』 (岩波文庫)

「渚の砂は、崩しても、積る、くぼめば、たまる、音もせぬ。ただ美しい骨が出る。」
(泉鏡花 「春昼後刻」 より)


泉鏡花 『春昼・春昼後刻』 
岩波文庫 緑 31-027-5

岩波書店 1987年4月16日第1刷発行
147p 編集付記1p
文庫判 並装
定価250円



しゅんちゅう・しゅんちゅうごこく。
解説は川村二郎(ドイツ文学)。


春昼


帯文:

「夢の感応に結ばれた男と女の魂の行方は……。うららかな春の光のなかに夢と現実とが交錯しあう鏡花随一の傑作。」


目次:

春昼
春昼後刻

解説 (川村二郎)




◆本書より◆


「春昼」より:

「「――うたゝ寐(ね)に恋しき人を見てしより夢てふものはたのみそめてき――」」

「「どんより鼠色(ねずみいろ)に淀(よど)んだ岸に、浮きもせず、沈みもやらず、末始終(すえしじゅう)は砕けて鯉鮒(こいふな)にもなりそうに、何時頃(いつごろ)のか五、六本、丸太が浸(ひた)っているのを見ると、ああ、切組(きりく)めば船になる。繋合(つなぎあ)わせば筏(いかだ)になる。しかるに、綱も棹(さお)もない、恋の淵(ふち)はこれで渡らねばならないものか。
 生身(いきみ)では渡られない。霊魂(たましい)だけなら乗れようものを。」」

「「ところが、箕(み)の形の、一方はそれ祭礼(まつり)に続く谷の路(みち)でございましょう。その谷の方に寄った畳なら八畳ばかり、油が広く染(にじ)んだ体(てい)に、草がすっぺりと禿(は)げました。」
 といいかけて、出家は瀬戸物(せともの)の火鉢を、縁(えん)の方へ少しずらして、俯向(うつむ)いて手で畳を仕切った。
 「これだけな、赤地(あかじ)の出た上へ、何かこうぼんやり踞(うずくま)ったものがある。」
 ト足を崩してとかくして膝に手を置いた。
 思わず、外(と)の方(かた)を見た散策子は、雲のやや軒端(のきば)に近く迫るものを知った。
 「手を上げて招いたと言います――ゆったりと――行(ゆ)くともなしに前へ出て、それでも間(あいだ)二、三間(げん)隔(へだた)って立停(たちど)まって、見ると、その踞(うずくま)ったものは、顔も上げないで俯向(うつむ)いたまま、股引(ももひき)ようのものを穿(は)いている、草色(くさいろ)の太い胡坐(あぐら)かいた膝の脇に、差置(さしお)いた、拍子木(ひょうしぎ)を取って、カチカチと鳴らしたそうで、その音が何者か歯を噛合(かみあ)わせるように響いたと言います。
 そうすると、」
 「はあ、はあ、」
 「薄汚れた帆木綿(ほもめん)めいた破穴(やれあな)だらけの幕が開(あ)いたて、」
 「幕が、」
 「さよう。向う山の腹へ引いてあったが、やはり靄(もや)に見えていたので、そのものの手に、綱が引いてあったと見えます、踞(うずくま)ったままで立ちもせんので。
 窪(くぼ)んだ浅い横穴じゃ。大きかったといいますよ。正面に幅一間(けん)ばかり、尤(もっと)も、この辺にはちょいちょいそういうのを見懸けます。(中略)で、幕を開けたからにはそれが舞台で。」」
「「幕が開(あ)いた――と、まあ、言う体(てい)でありますが、さて唯(ただ)浅い、扁(ひらった)い、窪(くぼ)みだけで。何んの飾(かざり)つけも、道具だてもあるのではござらぬ。何か、身体(からだ)もぞくぞくして、余り見ていたくもなかったそうだが、自分を見懸けて、はじめたものを、他に誰一人いるではなし、今更(いまさら)帰るわけにもなりませんような羽目になったとか言って、懐中(かいちゅう)の紙入(かみいれ)に手を懸けながら、茫乎(ぼんやり)見ていたと申します。
 また、陰気な、湿(しめ)っぽい音(おん)で、コツコツと拍子木(ひょうしぎ)を打違(ぶっちが)える。
 やはりそのものの手から、ずうと糸が繋(つな)がっていたものらしい。舞台の左右、山の腹へ斜めにかかった、一幅(ひとはば)の白い靄(もや)が同じく幕でございました。むらむらと両方から舞台際(ぶたいぎわ)へ引寄せられると、煙が渦(うずま)くように畳まれたと言います。
 不細工ながら、窓のように、箱のように、黒い横穴が小さく一ツずつ三十五十と一側並(ひとかわなら)べに仕切ってあって、その中に、ずらりと婦人(おんな)が並んでいました。
 坐ったのもあり、立ったのもあり、片膝(かたひざ)立てたじだらくな姿もある。緋(ひ)の長襦袢(ながじゅばん)ばかりのもある。頬のあたりに血のたれているのもある。縛られているのもある、一目(ひとめ)見たが、それだけで、遠くの方は、小さくなって、幽(かすか)になって、唯(ただ)顔ばかり谷間(たにま)に白百合(しろゆり)の咲いたよう。
 慄然(ぞっ)として、遁(に)げもならない処(ところ)へ、またコンコンと拍子木(ひょうしぎ)が鳴る。
 すると貴下(あなた)、谷の方へ続いた、その何番目かの仕切の中から、ふらりと外へ出て、一人、小さな婦人(おんな)の姿が、音もなく歩行(ある)いて来て、やがてその舞台へ上(あが)ったでございますが、其処(そこ)へ来ると、並(なみ)の大きさの、しかも、すらりとした脊丈(せたけ)になって、しょんぼりした肩の処へ、こう、頤(おとがい)をつけて、熟(じっ)と客人の方を見向いた、その美しさ!
 正(まさ)しく玉脇の御新姐(ごしんぞ)で。」」
「「寝衣(ねまき)にぐるぐると扱帯(しごき)を巻いて、霜(しも)のような跣足(はだし)、そのまま向うむきに、舞台の上へ、崩折(くずお)れたように、ト膝を曲げる。
 カンと木を入れます。
 釘(くぎ)づけのようになって立窘(たちすく)んだ客人の背後(うしろ)から、背中を摺(す)って、ずッと出たものがある。
 黒い影で。
 見物が他(た)にもいたかと思う、とそうではない。その影が、よろよろと舞台へ出て、御新姐(ごしんぞ)と背中合わせにぴったり坐った処(ところ)で、こちらを向いたでございましょう、顔を見ると自分です。」
 「ええ!」
 「それが客人御自分なのでありました。
 で、私(わたくし)へお話に、
 (真個(ほんとう)なら、其処(そこ)で死ななければならんのでした、)
 と言って歎息(たんそく)して、真蒼(まっさお)になりましたっけ。」」



川村二郎による「解説」より:

「正直にいって、ぼくは鏡花の愛読者であり、彼のどの作を読んでも、あまり優劣をあげつらう気分にはならないのである。つまり批評する立場では、これは傑作だがあれは駄作だという具合に、選別分類する必要が生じてこよう。そして実際、批評的義務のようなものを感ずる時には、ぼくといえども、『夜行(やこう)巡査』の話の作りは乱暴すぎるとか、『婦系図(おんなけいず)』の人物設定はあまりにも非現実的だとかいうのである。にもかかわらず、何かのはずみで『婦系図』を手に取ったりすると、つい時間を忘れて、開いたページからどこまででも読み続けてしまう。ひとえに文章の魔力のせいである。その魔力を楽しむことができさえすれば、話の無理や人物像の造型の不備などは、二の次ということになる。愛読者を自負するゆえんである。
 しかしこうした事情を前置きに述べた上で、なおかつ、『春昼』を特別視したいのは、愛読者としても批評者としても、この作品に、鏡花の美があらゆる面において完璧に輝き出ていると信ずるから、そしてこの完璧さは、鏡花全作を通じて見ても、ほとんど奇蹟的というに近い達成だと信ずるからである。」

「この作の見事さは、鏡花の作風の特徴的な傾向を集めながら、全体がまさしく春の昼の、うららかな光と大気に包みこまれて、うつらうつらと漂っている趣にかかっている。」
























































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難破した人々の為に。

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