泉鏡花 『鏡花全集 巻十九』

「白菊谷の眞夜中の水の音が偲ばれた、悲しいやうな、嬉しいやうな、寂しいやうな、情ないやうな、生れかはるやうな、消失(きえう)せるやうな、涙ぐましい思ひに堪へぬ。」
(泉鏡花 「由縁の女」 より)


泉鏡花 『鏡花全集 巻十九』

岩波書店 昭和17年2月15日第1刷発行
/昭和50年5月2日第2刷発行
636p 目次1p 
四六判 丸背紙装上製本 貼函
定価2,200円
正字・正かな/本文総ルビ

月報19(16p):
鏡花と川端康成(北條誠)/鏡花論の餘白(蒲生欣一郎)/文字と先生(濱野英二、昭和15年3月『圖書』から再録)/泉名月蔵 新資料(7) 芥川龍之介の鏡花宛書簡/鏡花小説校異考(十九)(村松定孝)/同時代の批評・紹介(川端康成)/編集室より/図版2点(芥川龍之介の鏡花宛書簡/ゆかりのをんな 櫛笥集」口絵、小村雪岱画/「番町の家」二階書斎北側)



「編集室より」より:

「本巻に収められた「由縁の女」のなかに、既に歴史的となった差別に関わる語や「特殊部落」等今日使用されるべきではない語が用いられております。また作中人物の会話のやりとりのなかにも差別意識の強い文章表現が用いられている場面があります。」
「本巻では、この問題に関連して旧版においては伏せられていた文字を、できるだけ原形に近い姿に復原し、伏せるなどのことはしておりません。」



目次

由縁の女 (大正8年1月)
紫障子 (大正8年3月)




◆本書より◆


「由縁の女」より:

「が、父の佐六は、何が原因であつたか、其(そ)の程は明かでないけれど、お光(くわう)が九歳十歳(こゝのつとを)ぐらゐな時分から氣が狂つた。――或は六歳七歳(むツつなゝつ)、早い頃からであつたかも知れぬ。――別に不思議はない、泣くでも、笑ふでも無ければ、暴狂(あれくる)ふのでもなく、腹を切る、咽喉を突くと言ふ刃(は)ものの危(あぶな)いのでもなく、唯、誰(たれ)にも人に逢ふのと、衣(き)ものを着るのを嫌つて、何年にも、納戸の佛間(ぶつま)へ籠つた切(きり)で、襖を立切つて胡坐(あぐら)掻いて裸體(はだか)で居た。」

「「大槻が、其(それ)だとしますと、肝心な其(そ)のお貞(てい)の方(かた)は、どんな事に成りましたんで。」」
「「其の方(はう)は、姦通の對手(あひて)大槻とは、(中略)嶮(けは)しい峰を一つ隔てた處の、矢張(やは)り五個山(ごかざん)の中北谷(うちきただに)と言ふ、此(これ)は土地北を受けて陰濕(いんしつ)の地で、蛇蝮の巣と傳(つた)へる、俗に萬ケ穴と言ふ一方口(いつぱうぐち)、袋に成つた大叢(おほくさむら)の中へ、身には鼻紙一枚と雖(いへど)も許さぬ素裸(すはだか)にして投込んだ。」」
「「奸賊(かんぞく)と言ひ、淫婦と言ひ、かほどの刑罰を蒙(かうむ)つたものは、恐らく他國にあるまい。」
 「何を、蒙らせた奴が他國にはないばかりよ、そんな殘酷な罰をよ。」
 と顎疵(あごきず)が氣競(きほ)つて言つた。
 「酷(ひど)いわねえ、眞個(ほんたう)に。」
 と――又女湯から聲(こゑ)がする。」

「「然(さ)れば、其(そ)の夜(よ)は大炊殿(おほゐどの)が夜伽をなされた。例に依つて、正丑滿(しやううしみつ)、權現堂(ごんげんだう)の森の怪しき音(ね)に連れ、遠く跫音(あしおと)が響き、黑裲襠(くろしかけ)の姿が顯(あらは)れて、瓶(かめ)のものをば羽(はね)で塗ります。」」
「「いや、何と、嬋娟(せんけん)とした容顔(ようがん)、目と眉ばかりを殘いて、鼻から口は眞黑(まつくろ)な鴉の嘴、裲襠(しかけ)と見たのが、左右の脇に、肩から腰に掛けてすくすくと生えた八枚の翼、脊筋(せすぢ)に大翼(おほばね)が一枚で、手とも足ともなく、唯二本の眞白(まつしろ)な爪先で、身を支へた裸身(はだかみ)の女が、一枚の其(そ)の翼でパツと拂(はた)いて身震(みぶるひ)をしながら、(煩(うるさ)い爺(じゞい)だね、)と礑(はた)と睨んだ、」」
「「其の九枚の翼の生えた凄じい姿を視た(中略)御近習(きんじゆ)は固(もと)より、宿直(とのゐ)の武士が四人、お腰元が六人、即死、……煩(わづら)ひついたのも生命(いのち)がなかつたさうなげで。お疊(たゝみ)には斑猫(はんめう)の首だの、羽(はね)だのバラバラと落ちて居たと言ひますな。
 此(これ)からして其(そ)の權現堂の森に怪しい聲(こゑ)は絶えず聞える。……御城下到る處、暗い林、寂しい森には、晝間(ひるま)もヒイツヒイツと鳴くので、怪鳥(けてう)ぢや、怪鳥ぢや、と皆(みな)慄毛(おぞけ)を震(ふる)ふ。」」
「「怪鳥の鳴聲(なきごゑ)、やがて眞夜中には町家(まちや)の棟(むね)に及んで、何か變事(へんじ)か凶事か、と夕立雲を恐れるやうに、皆、空を眺めて明(あか)し暮した。時なるかなや、寶暦(はうれき)の九年四月七日、……お貞(てい)の方(かた)の腹を借りた勢之助が、不義の子なりとあつて、蟄居の身で悶死をしました、其の七年の祥月命日、小立野の本保寺、右勢之助を押籠(おしこ)め置いて、亡き後(のち)には釘附けと成つて居ります寺の客間、人氣(ひとけ)、火氣(ひのけ)更にない處から、煙を立て火を起(おこ)いて、瀧のやうに燃上ると、(中略)正(まさ)しく五個山(ごかざん)の方角に當(あた)る、其の二岐越(ふたまたごえ)の尾の切目から、黑潮を噴くやうに、一幅一條(ひとはゞひとすぢ)の黑氣(こくき)が巻上ると、ヒイツヒイツと凩のうなる如き音を立てて、虹かと思ふばかり御城下へなだれかゝつて、本保寺(ほんぱうじ)の屋根へ逆(さかさ)に掛るのと、煙に炎が走るのと一緒に成つて、パツと大空一面に散つたのが、何千何萬とも數(かず)の知れない、ソレ例の鳥ぢや。……此の時からして言ふのであすな。火鳥(ひどり)々々と――今以(いまも)つて。」」

「「露野(つゆの)さん。」
 「はーい。」
 「足を下(おろ)せば一思(ひとおも)ひだ。……面倒臭いから一所に死なうか。」
 「可厭(いや)でございます。」
 と淸(すゞ)しく答へた。
 「えゝ。」
 自棄(やけ)の串戲(じようだん)に言つた中にも、さすがに禮吉(れいきち)は聞返した。
 「白菊谷の夜半(よなか)に、母樣(おつかさん)の懷中(ふところ)で、唄をお聞きなさいました、可愛いお坊ちやんの大事な若旦那。……罰(ばち)が當(あた)ります、そんな事をおつしやつて……私の身體(からだ)は何(ど)う成つても、貴方にお怪我はさせません。」
 聲(こゑ)が切(せま)つて、
 「私だけなら直(す)ぐにでも、最(も)う其(そ)の方が可(い)いのですよ。」」

「「汚(けが)れるで……汚(けが)れうが、若旦那、此家(こゝ)の茶を飲(まゐ)つても可(い)いかな。」
 意味は朧氣(おぼろげ)に、言(ことば)は判然(はんぜん)と、然(さ)う聞えた。
 禮吉は色を作(な)した。渠(かれ)は略々(ほゞ)露野(つゆの)の經歴(へきた)つた其の身の上を知つて居たのである。
 「大好きですよ……汚(けが)れたのは、」」

「「斑猫(はんめう)の毒を消すだ。」
 禮吉は身震(みぶるひ)して、うかと袂(たもと)を拂(はら)つたが、薄(すゝき)に宿る露ばかりである。」」
「「御婦人ですか。」」
「「雪邑(ゆきむら)樣とて大長者(おほちやうじや)の令室(うちかた)だね。」」
「「空を圍(かこ)んだ、雲の澄んだ、山々の高い峰から、絲(いと)も引かずに、スツと來た、張(はり)もの板の端へ默つて留(とま)つた、蒼黑い羽の、晃々(きらきら)と日南(ひなた)に光る蟲がある。……
 令室(おくさま)が、何心(なにごころ)なく、白い指で切布(きれ)を伸(の)して、すらりと伸(のば)いた襷掛(たすきがけ)の二の腕へ、髯を廻らかしながら、ブンと留つて、はつと引く手に、庭の樹へパツと飛んだ――其(それ)だけの事だと言ふがよ。……
 むずむずと、其(そ)のあとが直(す)ぐに痒い。」」
「「身體中(からだぢう)の痒さが、しまひには頭の髓(ずゐ)まで痛く成つて、二日目には身動きも出來ねえだ。醫師(いしや)が駈附(かけつ)け、博士が見えて、斑猫の毒だと分つて、其の手當(てあて)をすると、四日目とか五日目とかに、苦痛(くるしみ)はなくなつただが、身體中、あの、旦那……火傷(やけど)の火膨(ひぶくれ)のやうなものが、一面に出來たとな。」」
「禮吉は、斑猫の毒に、はだらに爛(たゞ)れたと言ふにさへ、お楊(やう)に一層の崇美を感じて、人知れず合掌した。」

「お光(くわう)は浴衣の二の腕を、すつと捲(まく)つて、乳のやゝ透くまで襟をさへ寛(くつろ)げて、禮吉に引添うた。……若い同士の口を利くさへ、淺からぬ罪業の如く沙汰する、鉛の扉さしたやうな故郷(ふるさと)の町の中に、因循を破棄して、光を放つやうな、此の從姊(いとこ)に、禮吉は少(すくな)からぬ誇を感じた。」

「「露野さん。」
 「は。」
 「お前さんは、氣が優しくつて、可(よ)かつた助(たすか)つて、なんのつて言ふけれど、夜叉は世を害する可恐(おそろし)い惡黨(あくたう)だよ。」
 「惡うございますか知ら、お助んなすつたのを喜びましては。」」

「白菊谷の眞夜中の水の音が偲ばれた、悲しいやうな、嬉しいやうな、寂しいやうな、情ないやうな、生れかはるやうな、消失(きえう)せるやうな、涙ぐましい思ひに堪へぬ。」

「「姊(ねえ)さん、」
 と見上げた目の露を、伏せた白菊の花にうけて、黑髪おもく引寄せた。花に颯(さつ)と影さすばかり、お楊(やう)は瞼ほんのりと、
 「禮(れい)ちやん、一生離れまいね、――私は見棄てはしませんよ。――」

 「母(おつか)さん」
 其(そ)の練衣(ねりぎぬ)の袖に縋(すが)つて言つた。
 「姊(ねえ)さん。」
 と言つた。
 「奧さん。」
 と言つた。」




◆感想文◆

長篇「由縁の女」は、鏡花自身がモデルの主人公が死んだお母さんを中心とする女の人のネットワークに庇護されつつ、無意識界を彷徨する妄想小説です。






































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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