小池滋 『チャールズ・ディケンズ』 (ちゅうせき叢書)

「私は日常の事物のロマンチックな面を、ことさらに強調したのである。」
(チャールズ・ディケンズ)


小池滋 
『チャールズ・ディケンズ』
 
ちゅうせき叢書 20

沖積舎 
1993年10月30日 発行
204p 
四六判 丸背紙装上製本 
カバー ビニールカバー
定価3,000円(本体2,913円)
装釘: 戸田ヒロコ



本書「あとがき」より:

「著者としては、執筆依頼を受けた当初から、構想をまとめ、実際に脱稿するまで、終始我儘勝手な自己流のやり方を通し続けて来たので、全然思い残すことはないのだが、(中略)このシリーズの性格をいささか逸脱し、他との統一を乱したものが出来上ってしまったのではないかと申訳ない気もする。例えばディケンズの生涯にフォローして論を進めるという方法を完全に放棄してしまったために、(その代りに、というつもりで)年譜に詳しい伝記的記述を盛り込みすぎたきらいがあるかもしれない。」
「今回、沖積舎から再刊するに当って、必要な訂正、増補を行うことができたことを嬉しく思っている。」



本書は1979年に冬樹社「英米文学作家論叢書」の一冊として刊行された『ディケンズ――19世紀信号手』の新版です。


小池滋 チャールスディケンズ


帯文:

「19世紀イギリスの大文豪を従来ない方法で著者独特の見方による時代の産物・鉄道などに依拠して論ずるディケンス論。」


帯裏:

「鉄道とか推理小説という極めて趣味的な道具を武器にして、19世紀イギリスの大文豪に立ち向おうというのは、ひどく恣意的で、不真面目にさえ見えるかもしれない。だが、この本すべてに共通したアプローチである科学精神は、決して単なる個人の好みの問題に留まるわにはいかないし、19世紀イギリスだけの固有の特質でもない。
「あとがき」より」



目次:

一 信号手を求めて
二 猟犬の向う側
三 因果帝国の遺跡にて
四 物量の饗宴

あとがき (1978年9月/1993年5月)

ディケンズ略年譜
ディケンズ主要文献
索引




◆本書より◆


「信号手を求めて」より:

「チャールズ・ディケンズに関する研究書は、伝記的研究、作品論、その他諸々をひっくるめて、既におびただしい量に及び、日本語で書かれたものだけに限定しても、新参者を気落ちさせるに充分なほどの点数となっている。だから、ここでは標準的なアプローチをもって、ディケンズの人と作品に迫ることははじめから断念することにして、私の、よく言えば個性的、悪く言えば手前勝手なやり方で、筆を進めさせていただきたいと思う。」

「なるほど信号手の悲劇は、劣悪な職場環境の下で、単純で退屈な、しかし重い責任を伴う機械的作業を強いられたから生じたものだろう。しかし(中略)労働者の待遇改善要求としてこの物語を読むのも、どうも不自然だ。(中略)彼がもっと快適な職場環境と週休二日制が欲しいと抗議し、読者がそれに共感の拍手を送れば、すべてうまく片がつくわけではないのだ。かりに彼を、他のもっと明るい光の射す職場に配置変えしても、おそらく彼の幻覚・幻聴から解放されることはあるまい。彼が電信と信号装置を使って列車運転の安全を確保するという重責から解放されない限り、つまり彼が「信号手」であることをやめない限り、彼の苦悩、「精神的拷問」は続く。
 だが、困ったことに、上記の事実にもっとも気づいていないのが、他ならぬ信号手自身なのだ。彼を苦しめる幽霊が妄想にすぎぬとか、その原因が最新の科学技術に従事している自分の職業にあるとは、夢にも思っていない。自分の仕事、ひいては科学そのものに不信・嫌悪どころか、正反対の誇りを持っている。」
「このように考えると、「信号手」であることとは、ヴィクトリア朝のイギリス人が置かれた人間の条件を、如実に示したもののように思える。科学の力によって世界でもっとも早く近代化を成しとげ最高の文明を誇り、その恩恵に浴した彼らにとって、科学を否定したり、信じなくなることは、とりもなおさず文明国人でなくなることだ。つまり自分の存在を失うことに等しい。だから、科学が未来永遠にわたって人類に幸福をもたらしてくれるはずだと信じて疑わない。あるいは疑うまいと必死になる。だが、なぜかは本人にもはっきりわからぬながら、何かがおかしいという不安が、何かとんでもない危機が警告されているのではないかという恐怖が、しかもその危機が何であるのか、いつ到来するのかは予告されていないために生ずる焦燥が、彼ら全体ではなくて、その中の誰かに襲いかかる。つまり、学問の体系的研究や、論理的操作の帰結によってではなく、直観的本能によってその警告を感じ取る能力を持ったもの、例えばチャールズ・ディケンズのような人間が、まさにあの「信号手」の位置に据えられたのである。」



「因果帝国の遺跡にて」より:

「ディケンズの小説『デイヴィッド・コパーフィールド』の中の一人物、主人公で語り手であるデイヴィッドをむしろしのぐほど、強烈で、忘れ難い印象を読者に与えてくれる人物――といえば、誰でも知っての通り、それはウイルキンズ・ミコーバーだ。だが、ミコーバーの現代の読者にとっての魅力は、果してどこにあるのだろうか。
 どんな不運に見舞われても、いつも「そのうち何とかなるだろう」と、のんびりきめ込む、そのしぶとい庶民のヴァイタリティ、いわば草の根のオプティミズムだろうか。
 しかし、この点となると少し怪しくなって来る。というのは、ミコーバーがそのピンチから脱するのは、決して自分自身の力によるものではないからだ。精神的には「絶対に主人を見すてませんわ」と繰返し繰返し(中略)断言する健気なミコーバー夫人の援助によって、しかし、もっと実質的には、金を貸してくれる上に、返して貰うことなど全然あてにしていない親切な友人(中略)の犠牲的奉仕によってである。(中略)社会的見地からすればまさに社会の害虫であり、抹殺すべき存在だろう。」
「ミコーバーの言葉使いもそうであるが、彼の行動そのものが、因果律への挑戦ないし嘲弄になっている、という事実に注目しよう。ミコーバー語録のどれでもいいから一つをとって、眺めてみるとわかるように、あの有名な「要するに……」は、全然要していない。普通の議論の中でしばしば果しているような、問題の弁証法的発展の役割を決して果していないのだ。議論の場合、前提となるべき事実を提示し、それについてのさまざまな論理的操作を展開し、最後に「要するに……」と言った時には、当然聴き手は、ここで議論が一段階上の次元で要約され、結論がひき出されると予想するだろう。それが論理における因果関係の常識的帰結である。ところが、ミコーバーの「要するに……」は、少しもアウフヘーベンしない。前と同じ次元ですらない。前よりずっと下の日常的で平凡卑俗な次元へと転落する。ここにおかしさが発生するのだ。つまり、レトリックにおける「泰山鳴動ねずみ一匹」であって、因果律にアンチ・クライマックスの肩すかしをくわせ、笑いのめそうというわけである。
 ミコーバーの実際行動も、すべてこれと同じパターンを踏んでいる。いちばん簡単なこととして、ものを食べたりすれば、その結果としてつけが来る、というのが一般の常識であるのに、彼はそれを無視する――というより、むしろ、知っていて無視するのではなくて、その因果関係にあらかじめ気づくことができないのだ。だから、勘定取りが来ると当惑し、うろたえる。ミコーバー夫人の言うように、「石から血を絞り出すわけにはいきませんわ。主人からもいまのところは、何をしたって一文も出るわけありません」という次第なのだ。彼のお得意の「そのうち何とかなるだろう」にしても、ある前提があるから、つまり、これこれの事実があるから、または、しかじかのことをやってあるから、そのうちどうにかなるという帰結が到来するわけではない。ただ、そのうち何とかなるだろう、なのである。つまり、因果律への完全な――そして無意識のうちの――挑戦だ。
 ミコーバーにあやかって、偉そうな大弁舌をふるうわけではないが、西欧の近代科学思想のめざましい発達の母胎となったもの、それこそがこの因果律であった。だから、この観念がその栄華の極みに到達したのが、十九世紀であったことも容易に理解できるだろう。学問や日常生活のみではなく、文学もまた、この因果律の洗礼から免れることができなかった。」
「普通「ビルドゥングスロマン」と名づけられた小説は、一人の主人公――主として若者――を中心として、この自由意志と因果律の鎖がもっともはっきりと現れ出る種類のものだから、十九世紀から二十世紀の初期にかけて、世界でもっとも流行したことに不思議はない。ディケンズもご多聞に洩れずこのジャンルに、つねづねゼスチャーを示していたことは、周知の事実である。そこで問題なのは、『デイヴィッド・コパーフィールド』が、ディケンズの書いたビルドゥングスロマンの一つであるかどうか、という点であるが、(中略)ただ一つ言えることは、少くともミコーバーは、絶対にビルドゥングスロマンの主人公にはなれない、ということだ。
 それは何も、彼が中年男で、若者の特権たる未来への可能性を持っていないから、という理由からではない。むしろ逆に、永遠の若者でありすぎるからだ。(これがもっとひどくなると、『荒涼館』のハロルド・スキムポールで、彼は「大人の子供」と自ら任じている。)ミコーバーはある状況の下で一つの行動の撰択を意識的に行い、その結果に対して全責任を取りつつ、また次の行動の撰択に進む、というような生き方はとてもできはしない。彼の行動はいつも行き当りばったり――つまり過去の何かの結果でもなければ、未来の何かへの原因でもない。ある人生の重大事を経験して、その結果精神に大きな刻印が残され、それが次の行動の方向を決定するというような、人生体験の積み上げはまるっきりないのだ。」
「彼にとって、体験の蓄積などというものは考えられないことで、いわば賽の河原に積んだ石が、オートメイション機械によって崩されるようなものだ。(中略)ミコーバー氏の困窮の体験という石は、ある一定のところまで達すると、誰か、あるいは何かによって――それが誰だろうと何だろうと、彼にとってどうでもいいことだ――まるで自動装置によるかのように、消えてしまう。だから、彼の人生は永遠のもとの黙阿弥、西洋音楽に一時流行した「無窮動」なのだ。
 少々脱線気味になるが、ついでに申し添えておきたい。この「無窮動」の比喩は、決して一時の気まぐれから湧いて来たものではない。科学者にとって見果てぬ夢であったこのアイデアを、(中略)音楽家たちが、好んで一種の遊びの音楽として採り上げたのは、西洋古典派音楽の礎石ともいえるソナタ形式に対する、一つの やゆ だったのではないか、と私は考えるからだ。二つの極めて対立的な(中略)しかし互いに関連する調性で書かれてある複数の主題を提示し、展開し、次に一つの共通調性にまとめて再現し、終結させる、というソナタ形式は、因果律にしはいされた世界の現象の弁証法的解釈の典型であって、これがビルドゥングスロマンとともに、十九世紀に最盛期を迎えたというのは、偶然ではなかろう。それに反して、あるところまで進むと完全に最初に戻って、何の変化も展開もなく、全くの繰返しとなり、途中思いがけないところでふっと消えてしまう「無窮動」は、まさにピカレスク小説である。」
「余談はさておき、このミコーバーの生きざまは、私たち現代人にある興味ある事実を思い出させてくれる。二十世紀の現在に生きる私たちは、私たちの人生がある一定の方向に向って着々と進み、弁証法的発展を遂げる、ビルドゥングスロマンであるとは、もはや素直に信じられなくなっているのだ。それは何も、レイモン・クノーやサミュエル・ベケットの不条理ドタバタ小説を耽読しすぎたからではあるまい。人生の根元にあるという因果律そのものを、うさん臭く感じるようになったからだ。例えば一人の人間のこの世における存在は、果して因果律によって始まったものかどうか。私という人間(中略)が、まさに性的偶然によって、行き当りばったりに、何ということなくこの世に現れて来ることは、誰でも知っている。先刻以来ミコーバーお得意の言葉として引用した「そのうち何とかなる」を原文により忠実に訳すならば、「何かが現れる」――'Something turns up.'――となるが、この言葉こそ人間誕生を記述する、もっとも正確な表現ではないか。」
「主人公の行く先ざきで、何度も何度もひょっこり「現れる」ミコーバー氏は、何か象徴的存在、(中略)アーキタイプとしての人間ではなかろうか、とさえ思いたくなって来る。しかも、そう考える理由が、まさに彼がいつまでたっても発展しない人間だから、E・M・フォースターのいわゆる完全に「フラット」な人間だから、因果律の世界から閉め出されて、偶然律のまにまに生きているから、という点に存するのだから、ますます面白くなって来る。」
「私たち二十世紀の人間が、ミコーバーというキャラクターの中に見出すことのできる魅力は、十九世紀という因果律大帝国の遺跡の中に発見した、一つの偶然律の破片のもたらす驚きである。普通それは、それ以前に亡びてしまったピカレスク小説の名残り、と言われている。確かに、現象としてはその通りであるのだが、いまになってわかってみると、それは次に来るべきもの、その大帝国自身が崩壊してしまった後に来るべきものの予告でもあった。世界というものが、明確な「はじめ」と「終り」を持ち、時間が常に一定方向に向って着々と進むのであれば、そしてそのような線状(リニアー)の世界のどこか途中に置かれた個々の人間が、やはり時間に沿って一定方向に向って人生の旅をしているのならば、因果律とビルドゥングスロマンとは厳然として君臨するだろう。一度過ぎ去ったものは、二度と戻ることはない。結果から原因へと逆にさか上る可逆反応は、起り得ないのだ。
 だが、もし、ひょっとして、その線的(リニアー)な世界観自体が信じられなくなったら、どうなるだろうか。世界がもし無限の円環運動を続けている(何世紀も昔にヴィコはそう言った)のだったら……そして因果律の規制から自由になってしまったら……
 その時、ミコーバー氏の「要するに……」は、無意味で滑稽なたわごとであることをやめてしまうだろう。(中略)デイヴィッド・コパーフィールドが成功した社会からは、笑うべき変り者、社会の害虫、適応不能な追放者として、オーストラリアに島流しになってしまう人も、この世界へだったら、すぐに舞戻って来ることができるはずだ。なぜなら、そこでは厳格苛酷な「原因」というものがなくても、「何か」が、あるいは「誰か」が、必ず「現れ出る」に違いないからである。その誰かとは、言うまでもない。人間の不滅のアーキタイプ、(中略)テイル・オイレンシュピーゲル(中略)のように、もっこ担ぎのフィネガンのように、何度でも死と再生の偶然のドラマを永遠に経験できるもの、要するに――ウイルキンズ・ミコーバーのことだ。」



「物量の饗宴」より:

「実際ディケンズの作品の大都会の情景の中で、特に注目に価するもののかなり多くが、夜の散歩の際になされた観察であったことは記憶しておいてよいだろう。」

「ディケンズの言う「ロマンチック」とか、「実人生」ないし「日常生活のロマンス」とは、まさに「平凡の中における異常」ということであり、ゴシック的な古城の暗闇の中に鎧冑を着けた幽霊が出て来るのではなく、ランプの明かりでぼんやり照らされた夜の大都会を舞台に、ありきたりの市民によって演じられる、奇妙なドラマを指す。」






















































































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プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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