『澁澤龍彦全集 6』

「わたしは、こんなことを空想します。――もし国民のすべてが、すすんで自分の選挙権を放棄したら? 政治に不信をいだく民衆が、この棄権運動を全国的な規模で大々的におしすすめたら?」
「国民全体が、政治という欺瞞の制度につばを吐きかけるわけです。(中略)拒否は、無言の革命です。」

(澁澤龍彦 『快楽主義の哲学』 より)


『澁澤龍彦全集 6』
快楽主義の哲学/エロスの解剖/秘密結社の手帖/補遺 1965年

編集委員: 巖谷國士/種村季弘/出口裕弘/松山俊太郎

河出書房新社 1993年11月1日初版第1刷印刷/同12日発行
595p 口絵
20.6×15.6cm 丸背布装上製本 貼函
定価5,800円(本体5,631円)
装幀: 菊地信義

月報6(16p):
インタヴュー「旧制浦和高校時代」松井健児(友人) 聞き手: 出口裕弘/図版(モノクロ)6点



書き下ろし長編エッセイ『快楽主義の哲学』は光文社カッパブックス、1965年3月刊。
エッセイ集『エロスの解剖』は桃源社「桃源選書」、1965年7月刊。
手帖シリーズ③『秘密結社の手帖』は早川書房「ハヤカワ・ライブラリ」、1966年3月刊、桃源社版は1973年3月刊。


帯裏:

「中沢新一 全集刊行に寄せて 美と真実の別名
 澁澤龍彦は権力をもたないヘリオガバルスとして、ただ美の力だけによって、日本人の精神にいまも君臨しつづけている。人々の心がまだヘーゲルに呪縛されていた時代に、彼は破壊の衝動を美しい球体に封じ込めてしまうことによって、革命の王にして抑圧者という、たぐいまれな王座に登った。澁澤龍彦は無力にして全能である。だが、それは美と真実の別名ではあるまいか。」



目次:

口絵 1969年(41歳) 自宅にて

快楽主義の哲学
 まえがき
 第一章 幸福より、快楽を
 第二章 快楽を拒む、けちくさい思想
 第三章 快楽主義とは、何か
 第四章 性的快楽の研究
 第五章 快楽主義の巨人たち
 第六章 あなたも、快楽主義者になれる

エロスの解剖
 女神の帯について
 オルガスムについて
 性とは何か
 コンプレックスについて
 近親相姦について
 愛の詩について
 優雅な屍体について
 サド=マゾヒズムについて
 ホモ・ビオロギクス(生物学的人間)
 オナンの末裔たち
 乳房について
 ドン・ジュアンの顔
 エロティック図書館めぐり
 ピエール・アンジェリック『エドワルダ夫人』について
 玩具考
 マンドラゴラについて
 あとがき

秘密結社の手帖
 秘密結社の輪郭
 原始民族の結社とその名残り
 古代における密儀宗教
 グノーシス派の流れ
 薔薇十字団
 フリー・メーソン
 さまざまな政治的秘密結社
 クー・クラックス・クラン その他
 犯罪的結社 その他
 悪魔礼拝と魔術のサークル
 アジアの秘密結社
 イスラム教の秘密結社
 あとがき(初版)
 あとがき(文庫版)

補遺 一九六五年
 磯田光一『殉教の美学』(書評)
 「廃墟の欲望」(映画評)
 みずからを語らず
 桃源社版『新・マルキ・ド・サド選集』第二巻 あとがき
 大岡信『眼・ことば・ヨーロッパ』(書評)
 官能の美しさと苦さ
 マルキ・ド・サド『新ジュスチーヌあるいは美徳の不幸』解説
 アントニオ・ベッカデルリ『アルダを讃える』 mémo
 鉱物・植物・動物 あるいは鎌倉風物誌
 快楽図書館(書評)
 「鎖陰」(映画評)
 中原弓彦『汚れた土地』(書評)
 桃源社版『新マルキ・ド・サド選集』第二巻 あとがき

解題 (種村季弘・巖谷國士)




◆本書より◆


『快楽主義の哲学』より:

「戦後のある時期までは若者たちといえば、無軌道というイメージがすぐ浮かんできたほど、よかれあしかれ、エネルギーに満ちあふれたものでした。(中略)そのころの若者たちの顔には、どことなく暗い翳があり、凶暴な目つきがあり、不敵なシニカルな唇がありました。べつに悲壮感をよしとするつもりはありませんが、わたしは、現在、それをなつかしく思い出します。
 よくテレビ・ドラマなんかに出てくる、すなおな、従順な、まじめな、いかにもおとなから気に入られ、「いい子、いい子。」と頭を撫でられるような優等生的な青年――そういう青年が、近ごろやたらにふえてきたことは、じつに嘆かわしい傾向だと思わないわけにはいきません。」
「たとえば、自分の感情や欲望を殺してまで、上役に対する受けや出世コースをだいじにし、必死になって会社の椅子にかじりついているような模範的なサラリーマンは、わたしには、臆病でこそあれ、ドライだなどとは、少しも思えないのです。
 「できそうもないことには最初から手を出さない。実現可能な範囲だけを、是が非でも守ってゆく」という、けちくさい現実主義が、現代青年のあいだに、幅をきかせているような気がします。」

「快楽は個人的であっても、排他的であっても、またよしんば秘密のものであっても、ちっともかまわないではないか、とわたしは考えます。なぜかといえば、いままで検討してきたとおり、万人のためとか、他人のためとか、人類のためとかいう意見は、すべて空虚な意見であることが証明されたからです。」

「エピクロス哲学もストア哲学も、自然と一致して生きることをモットーにしていたのです。自然と調和して生き、なにものにもわずらわされない平静な心の状態、すなわち、アタラクシアに達することを求めていたのです。
 この二つの哲学は、根本において共通の目的、死の脅威や時間の脅威から人間を解放することを追求していた、といってもよいでしょう。」
「むろん、同じ目的を追求するとはいっても、エピクロス派とストア派とでは、その目的を実現するための手続きに、大きな違いがあります。」
「簡単にいってしまえば、ストア哲学にとって、「自然と一致する。」とは、外界に対する一種の緊張を意味し、エピクロス哲学にとっては、一種の緊張緩和(リラックス)を意味します。
 たとえば、道を歩いていて嵐にぶつかったと仮定する。その場合、ストア派の人間なら、できるだけ苦痛の感情から身を離し、「雨や風は、おれとは無関係だ。おれは大地に足を踏みしめて、がっちり立っているのだから、いくら雨が降っても風が吹いても平気だぞ。」と考えます。つまり、これが緊張です。
 いっぽう、エピクロス派の人間は、襲いかかってくる外界の攻撃に敢然と耐えようなどとは、最初から考えません。彼はたぶん、こう考えるでしょう。「嵐がくるなら、まあ、それもよかろう。」と。そして、「やれやれ、ずぶ濡れになっちまった。だが、まあいいや、ほうっておけば、そのうち着物もかわくだろうさ。」と。つまり、これが緊張緩和です。」
「ストア派の人間のように、つねに雄々しく目ざめ、不動の岩のように、がっちりと、勇を鼓して万事に耐えるという生き方も、むろん、それなりにりっぱな生き方にはちがいありませんが、このエピクロス派の緊張緩和の方法も、それに劣らずりっぱな生き方だということを知らねばなりません。」

「エピクロスは、弟子といっしょに「庭園学校」なるものを営んで、めんどうくさい現実に背を向け、静かに暮らすことを理想としておりましたので、政治問題には徹底的に無関心でした。
 「幸福であるために、かくれて生きよう。」と彼はいっています。つまり、彼は社会生活を否定していたのです。」

「ともあれ、こうして彼らが実現しようとした隠遁の生活は、なんであったか。要するに、自由の生活です。快楽主義の生活です。まえの章でお話したように、「現実原則」の束縛を断ち切って、できるだけ「快楽原則」を解放しようとした生活です。」
「現代にだって、隠者のような人間はちゃんと存在しています。アメリカのビート族というのが、それです。
 消費文明が極度に発達したアメリカに、第二次大戦後、奇妙な人種が現われた。うすぎたないあごひげをはやし、ジャズや麻薬を愛好し、まるで浮浪者のように根なし草の最低生活を好んで求め、いっさいの社会的束縛をのがれて、自由な気ままな生き方をしようと決意した連中です。それがビート族と呼ばれます。
 金がなくなれば、彼らは日雇い労働でも、ホテルの皿洗いでもなんでもするが、そもそも最低生活をしているので、金なんかほとんどいらないのです。そのうえ、彼らは詩人で、哲学者で、自分の生き方について確信をもっており、サンフランシスコやニューヨークのグリニッチ・ビレッジで、黒人や芸術家とつきあって暮らしています。」
「もちろん、このビート族の生活、あるいは隠者の生活を実現するためには、家や家族や、財産や、名誉や、その他いっさいの物質的欲望、世俗的欲望を捨てなければなりません。そういうものに未練のある人は、ビート族のあいだでは、「順応主義者」として軽蔑されるのです。」
「「捨てる」ということは、たいへんむずかしいことです。」
「「捨てる」とは、要するに煩悩を捨て去ること、いろいろな欲望の発する内部的源泉を涸らしてしまうことです。」
「「捨てる」ということを、もう少しべつの角度から考えてみましょう。たとえば、国民としての権利を、すすんで「捨てる」ということ。
 べつに、たいしたことではありません。選挙権のことです。わたしたちは、代議士の候補者に一票を投ずる権利をもっている。しかし、見わたしたところ、保守政党にも進歩政党にも、ろくな政治家はいない。政治の理想なんかどこにもなく、(中略)みにくい内輪もめばかりやっている。
 政治家とは、本来、現実社会を告発する批判者でなければならないと思うのですが、「お願いします、お願いしまあす。」とぺこぺこ頭をさげている候補者は、どう見ても、政治を商売としている人間、つまり、政治屋以外の何ものでもありません。彼らは、要するに、わたしたちの票がほしいだけなのです。だから、政府が先に立って、棄権防止を呼びかけます。
 ひるがえって、投票するほうの側をながめてみましょう。有権者、つまり、わたしたちは、民主主義という大義名分により、なんの疑いもなく投票所に行く。一票を投ずることによって、一日だけ主権者になるという政治の任務を果たしたつもりで、満足してしまう。じつに選挙とは、わたしたち国民の不平不満を解消するための、巧妙な罠ではないでしょうか。選挙とは、支配者が人民をうまく治めるための口実にすぎないのではないでしょうか。一日だけ主権者で、あとは内閣が解散でもしないかぎり、政治へのいっさいの発言権を奪われるのです。一人一人が票に候補者の名まえを書いて、投票箱に入れてしまえば、それでもうおしまいなのです。
 選挙という、人民支配のための罠を、鳴り物入りで宣伝しているのは、支配階級と政党だけです。選挙が終ってしまえば、政治家=政治屋は、すずしい顔をしています。わたしたちには、なんの関係もありません。」
「わたしは、こんなことを空想します。――もし国民のすべてが、すすんで自分の選挙権を放棄したら? 政治に不信をいだく民衆が、この棄権運動を全国的な規模で大々的におしすすめたら?
 めんどうくさいから棄権するのではなく、強い信念をもって棄権するわけです。国民全体が、政治という欺瞞の制度につばを吐きかけるわけです。(中略)拒否は、無言の革命です。」
「ちゃんとした考え方があったうえで、すすんで政治に背を向けているのは、少しも恥ずべきことではない。ヒツジみたいにおとなしく投票所の前に列をつくる人間よりも、ずっとりっぱです。ビート族が「順応主義者」と呼んで軽蔑している人間も、このヒツジみたいに飼い馴らされた連中のことです。
 もしエピクロスが現代に生きていたら、きっと、彼もわたしの意見に賛成し、堂々と国民の権利を捨てたことでしょう。」

「いままでわたしが述べてきたことを、順を追って読んでこられたみなさんのなかには、もしかしたら、わたしの議論のなかに、世間一般の常識とはひどく変った点があることにお気づきになったかたがおられるかもしれない。
 わたしはいままで、「動物的に生きる」ことをすすめたり、「隠者の理想」を賞賛するような口ぶりをもらしたり、(中略)エロス的な力の無制限な解放を呼びかけたりしてきました。
 ところで、これらのテーマに共通している性格は、いったい、なんといったらよいでしょうか。
 それは、一口にいって、アンチ・ヒューマニズム(反人間主義)と呼ばれるべきものだと思います。」
「どういうことかというと、「人間の限界をつきやぶり、人間を人間以上の存在にする。」ということです。そしてそのためには、取り除かなければならない偏見がある。あえてヒューマニスチックな偏見といってもよいでしょう。」

「この資本主義の世の中では、人間という概念は、もっぱら労働とか生産とかによってのみ規定され、ぼろぼろにすり切れて、あわれな形骸をさらしています。
 わたしが「動物的に生きる」ことをさかんにおすすめするのは、このすり切れた人間性に代わって、自然と生命力を表わす動物性が、いまや、遊びと純粋消費への志向を端的に表示するものとなっているのではないか、と思うからです。
 子どもの世界に帰ること、あるいはまた、エロスの力の解放も、この動物性の理念と一直線につながっています。」

「たまたま、ある雑誌を読んでいると、そのなかで、作家の深沢七郎さんが、「暮れのお歳暮も正月の年賀状もやめてしまって、これで、もう三年ぐらいすぎたろう。」と書いているのにぶつかって、わたしは、「あ、この人だ!」と思いました。
 深沢さんという人は、わずらわしい世間の習慣にそっぽを向き、あくせく働いている人や、深刻に考えている人たちを頭からばかにして、若いころから、まことに気ままな生活を送ってきた人らしく思われます。」
「しかし、この人は、こんななまけ者みたいなことを言いながらも、社会に対する鋭い批判の目を失っていません。」
「安保騒動で、世の文化人と呼ばれる人たちが、やれ「民主主義の一線を守れ。」だの、やれ「市民主義の良識に立ち帰れ。」だの、愚にもつかぬことをわいわいくり返していたなかで、深沢七郎ただ一人は、「騒げ、騒げ、もっと騒げ!」と書いて、血の気の多い学生や民衆を扇動したのです。
 皇太子が結婚したとき、深沢七郎はなんといったか。(中略)だいたい、こんな意味のことを雑誌に書いたはずです。「皇室の人が、長いあいだの近親結婚の結果、手脚のひょろ長い、頭でっかちの、へんな生物みたいになってしまったら、おもしろいと思って、ぼくはひそかに期待していたのに、今度、皇太子が平民の娘と結婚してしまったので、がっかりした。
 ケネディが暗殺されたとき、深沢七郎はどうしたか。彼は、原爆なんか持って、世界の民衆をおびやかしていた悪い政治家が死んだので、うれしくなって、おこわをふかし、近所の人たちに配って歩いたのです。
 彼のやり方は、いずれも、世の良識ある人たちをびっくりさせ、顰蹙させるようなことばかりです。でも、わたしたちは、――少なくともわたしは、彼のやり方に喝采を送り、彼の生き方に敬意を表します。アメリカのビート族のなかには、彼みたいな人がいるんじゃないかと思う。
 もう一度、深沢さんのすばらしい言葉を紹介しましょう。
 「人間ってものは、生き物だからね。油虫みたいなもので――。(中略)人間だって、将来は、考えるなんてことは、なくなってくるんじゃないですか。無感覚になるんじゃないの。動物的にね。」
 わたしの考える快楽主義の極致が、この深沢さんの短い言葉のなかに、みごとに要約されています。」

「小心翼々とした人間や、けちな占有欲のある人間、反抗精神や破壊精神に欠けた、優等生のエリートだけが、家庭だとか、会社だとか、――あるいはもっと広くいって、国家だとか、社会だとかいった欺瞞の秩序に、必死になって、かじりついているわけです。なんの意味もない、くだらないものでも、しっかり手に握っていないと、不安になるのかもしれません。」

「一匹オオカミの精神は、快楽主義的な生き方を貫くために、きわめてたいせつなことです。(中略)日本では、「人のふり見てわがふり直せ。」などという、けちなことわざが通用しておりますが、ふざけちゃいけない、他人は他人、自分は自分です。
 いつも他人と自分とを引きくらべて、「こんなことをしたら笑われやしないだろうか。」とか、「へんに思われやしないだろうか。」などとびくびく気にしてばかりいる人は、すでに自分の主体性を喪失しているようなものです。」
「時代の流行にわざと反するようなポーズをとっている人は、わたしには、信頼できる人のような気がします。(中略)すぐれた学者や芸術家には、時代の流行などに超然とした風変わりな人が多く、てこでも動かぬ偏見に満ち満ちた人が多いことは、よく知られています。」
「他人の目に映る自分の姿を、必要以上に気にすることはありません。他人に誤解されることを、恐れる必要は少しもありません。「おれを誤解したいやつは、かってに誤解するがいい。」――このくらいの突っぱねた精神が必要です。一匹オオカミの精神を純粋に貫きとおそうとすれば、世間から誤解されるにきまっているからです。」

「わたしは、つぎのように断言してもよいと思う。
 それは、(中略)労働とか生産とか勤勉とかを尊重する原理から、遊びとか消費とか瞑想とかを尊重する原理へと、今後、わたしたちの頭を切り替える必要があるということ。」
「ここまで追いつめられれば、むしろビート族のように、すすんで労働を放棄し、できるだけ生産社会と絶縁して暮らすことが、もっとも有効な個人の自我実現の道ではなかろうか、ということです。」



「秘密結社の手帖」より:

「心理学者の意見によると、ある種の精神的傾向の人々には、つらい現実を逃避して、自分だけの小さな封鎖的世界に閉じこもりたいという、やみがたい欲求が支配しているという。すなわち、いわゆる精神分裂症(シゾフレニイ)であるが、神話とか象徴とか儀式とかを好む奇妙な性向の人々もまた、この範疇に属すると見てよいだろう。要するに精神分裂症者とは、現実と空想世界とを逆転させ、もっぱら空想世界を現実として生きる人々のことなのである。」


「みずからを語らず」より:

「わたしは、自分自身を鞭打つ気持だったのである。――「過去に拘泥するな」「人間的な感情を締め出せ」「フィクションのみが真実なのだ」「あらゆる意味でのセンチメンタリズムを排せ」「お前自身の人間的内容を空っぽにせよ」――これが、わたしの二十代の至上命令だったのである。」































































































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プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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