『澁澤龍彦全集 7』

「たぶん、子供と動物の王国は、アンチ・ヒューマニズムの秘密の王国であって、私たちも一度はその王国に棲んだはずなのであり、その王国にあこがれているはずなのである。」
(澁澤龍彦 「ホモ・エロティクス」 より)


『澁澤龍彦全集 7』
狂王/異端の肖像/ホモ・エロティクス/補遺 1966~67年

編集委員: 巖谷國士/種村季弘/出口裕弘/松山俊太郎

河出書房新社 1993年12月1日初版第1刷印刷/同13日発行
564p 口絵
20.6×15.6cm 丸背布装上製本 貼函
定価5,800円(本体5,631円)
装幀: 菊地信義

月報7(16p):
インタヴュー「「モダン日本」記者 澁澤龍雄」吉行淳之介(作家) 聞き手: 種村季弘/図版(モノクロ)7点



『狂王』は1966年夏、プレス・ビブリオマーヌから限定版として刊行され、のち人物エッセイ集『異端の肖像』(桃源社、1967年5月)に収録。本巻所収の『異端の肖像』からは、先に『狂王』として刊行された「バヴァリアの狂王」および単行本『神聖受胎』からの再録「デカダン少年皇帝」は割愛されている。
エッセイ集『ホモ・エロティクス』は1967年6月25日、現代思潮社刊。


目次:

口絵 1969年(41歳) 自宅にて(撮影: 森田昌宏)

狂王

異端の肖像
 二十世紀の魔術師
 生きていたシャルリュス男爵
 バベルの塔の隠遁者
 幼児殺戮者
 恐怖の大天使
 あとがき(初版)
 あとがき(新版)
 あとがき(文庫版)

ホモ・エロティクス
  I
 ホモ・エロティクス――ナルシシズムと死について
 エロティック文学史のための序説
 映画におけるエロティック・シンボリズムについて
 エロティックの少数派
 アラジンのランプ――「千一夜物語」について
 ドラキュラはなぜこわい?――恐怖についての試論
 現代の悪について――ニヒリズムの病理学
 科学を超えるもの――真の文明とは何か
  II
 わたしのボオドレエル像
 クロワッセの隠者――フローベール私見
 アンドレ・ブルトンの鍵
 ジャン・ジュネについて
 天使のジャンよ、瞑すべし
 ユイスマン『さかしま』のあとがき
 レアージュ『オー嬢の物語』のあとがき
 女だけの女の芝居――三島由紀夫「サド侯爵夫人」を見て
 言葉の殺戮者――加藤郁乎試論
 高橋睦郎第三詩集に寄せて
 「状況劇場」のために
 日常性のドラマ――池田満寿夫の個展に寄せて
 純白のプラトニズム――野中ユリについて
 インク壺のなかの悪魔
 華麗なメタモルフォシス――宇野亜喜良のイラストレーション
  III
 『アレキサンドリア四重奏』頌
 『黒い本』『ブラック・ブック』――ローレンス・ダレル著
 『ハドリアヌス帝の回想』――マルグリット・ユルスナル著
 『山猫』――ランペドゥーサ著
 『ロリータ』――ウラジミール・ナボコフ著
 『ジェラード・ソーム氏の性の日記』――コーリン・ウィルソン著
 『エロスの涙』――ジョルジュ・バタイユ著
 『ロベルトは今夜』――ピエール・クロソウスキー著
 再説『ロベルトは今夜』
 『マンク(破戒僧)』――マシュー・G・ルイス著
 『ユビュ王』――アルフレッド・ジャリ著
 『大いなる自由』――ジュリアン・グラック著
 『千夜一夜の世界』――リチャード・F・バートン著
 『西洋古典好色文学入門』――フォルベルク著
 『性の社会学』――F・ヘンリックス著
 『心の話』――ジョン・R・ウィルソン著
 『転身物語』――オウィディウス著
 『美学入門』――ジャン・パウル著
 『ラモーの甥』――ディドロ著
 『武装せる予言者トロツキー』――ドイッチャー著
 『芸術家の運命』――エレンブルグ著
 『銀河鉄道の夜』――宮澤賢治著
 『瘋癲老人日記』――谷崎潤一郎著
 『夷斎遊戯』――石川淳著
 『安西冬衛全詩集』
 『花田清輝著作集』に寄せて
 『午後の曳航』――三島由紀夫著
 『美の襲撃』――三島由紀夫著
 『形而情学』――加藤郁乎著
  IV
 ルイス・ブニュエルの汎性欲主義
 ベルイマン、この禁欲的精神
 非社会的映画のすすめ――W・ワイラー「コレクター」を見て
 カリガリ博士 あるいは精神分析のイロニー
 恐怖映画への誘い
 怪奇映画の季節――ドラキュラの夢よ、いまいずこ
 ショックについて
 デパートのなかの夢魔――「白日夢」のノスタルジアについて
 エロス的風俗に関する対話
 黒い血の衝撃――三島由紀夫「憂国」を見て
 階級闘争か生物学主義か――大島渚「忍者武芸帳」を見て
  V
 わたしの処女崇拝
 エロスとフローラ
 貝殻頌
 現代悪書論
 「地獄」棚の魅力
 私の推薦する悪書10選
 「異端の文学」のすすめ
 セックス・アッピール――見られるための存在
 殺人狂時代
 自分の死を自分の手に
 あとがき(第二版)

補遺 一九六六―六七年
 幸福は永遠に女だけのものだ
 ヤクザ作家の出現
 澁澤喜作について
 競馬――群衆のなかの孤独
 カルタとり――優雅な遊び
 マルキ・ド・サド『悪徳の栄え』(上) あとがき
 マルキ・ド・サド『悪徳の栄え』(下) あとがき
 威勢のわるい発言
 『岩田宏詩集』(書評)
 マルセル・シュオブ『エムペドクレス』 mémo
 女性と論理
 栗田勇のデーモン
 衣裳交換について
 英国に甦った“魔女の秘儀”
 飯島耕一『アポリネール』(書評)
 麗人・金子國義
 スキャンダル、芸術家たち
 一角獣のメロディー
 わたしの愛する怪獣たち(「わたしの博物記」)
 『異端の肖像』(「わが著書を語る」)
 『ジャン・ジュネ全集』第二巻 解説
 純日本的な情念
 怨恨の血
 異常性愛論
 ラディゲ『肉体の悪魔』――ロマネスクな心理の空間
 横浜で見つけた鏡

解題 (松山俊太郎・種村季弘・巖谷國士)




◆本書より◆


「狂王」より:

「この王の済度しがたい小児型性格は、まるで誓いと挫折とが永遠に繰り返すかのような、単調な日記の文面によってあまりにも明白であろう。彼は何度も誓いを新たにする。そしてその都度失敗する。どうしても成熟し得ない人間、発展し得ない人間、ルドヴィヒはそういう人間であった。」

「少年の趣味は、かくて音楽や文学や芸術家の方へ向かったが、文化や美の方へは向かわなかった。これは重要なことだ。ルドヴィヒは芸術のなかに、もっぱら脱出を、忘却を、舞台装置を味わっていた。統一的なヴィジョンは何ひとつなく、芸術は彼と世界とのあいだの、一枚の遮光幕のごときものでしかなかった。芸術によって、恐怖にみちた、醜い退屈な現実を遮断するのである。」



「二十世紀の魔術師」より:

「おもしろいのは、グルジエフが「主観的な芸術」と「客観的な芸術」の区別を論じている部分だ。彼によれば、世人が一般に芸術と称しているものは、じつは主観的な芸術でしかなく、彼にとっては、そんなものは芸術の名に値しないのである。「客観的な芸術は」と彼が語っている、「単に心理学的な効果をあたえるのみならず、また物質的な効果をもあたえる。人間をただちに殺し得る音楽というものも存在するのだ。(中略)」と。」


「バベルの塔の隠遁者」より:

「二十七歳当時、ベックフォードにとって何よりの幸福は、「自分をまだ子供であると感じること」(日記)だったらしい。自分に対してばかりでなく、彼は愛する対象にも子供っぽさを求めた。歌も音楽も、彼にとって美しいと思われるものはすべて、そのなかに子供らしさという最高の価値をふくんでいた。ベックフォードの心理学を解明すべき大事な鍵が、ここにあるように思われる。」

「黄金時代の象徴と結びついた、彼の根絶し得ない頑固な幼年崇拝が、当時の社会から彼を追放し、孤独の城にたてこもらせたのは当然であったろう。彼が良風美俗の社会から追放された、という言い方は、厳密には正しくないであろう。彼はすすんで社会から逃れたのである。ごく若い頃から、彼は誰にも邪魔されない孤独への熱望を、日記や手紙にぶちまけていた。注目すべきは、彼が一時的にきわめて親密に交際した友人や愛人の許から次々に離れて行ったことである。」
「意識的にか無意識的にか、ベックフォードは繭を紡ぐように、営々として自分の孤独を紡いだのである。」

「わたしたちは、ここで、ゆくりなくもバヴァリア王ルドヴィヒ二世の名を想い浮かべるだろう。ベックフォードの死んだ翌年、あたかも彼の使命を受けついだかのように、ルドヴィヒ二世はこの世に誕生している。この二人の生命の続いているあいだ、ロマン主義は興り、ロマン主義は滅びたのである。実際には、偉大なロマン主義者と呼ばれるひとたち、ワーズワースやユゴオは、純粋に文学的な形でしかロマン主義者ではなかった。彼らはロマン主義を書いたにすぎず、日常生活ではブルジョワ合理主義者でしかなかった。ベックフォードとルドヴィヒ二世のみが、真にロマン主義を生きようと欲した。最初と最後、彼らは同じ精神家族に属していたのである。」



「ホモ・エロティクス」より:

「「すべての生命が志向する目標は死である」というフロイトの公式をそのまま受け取ると、少なくとも生物学的な領域では、生命と死とは闘っているのではなくて、むしろ同一物の裏と表だという印象をあたえられる。(中略)ちょうどヘラクレイトスが、「人間は生きていようと死んでいようと、眼ざめていようと眠っていようと、若かろうと老いていようと同じことだ。ちょっと逆転すれば、一方は他方になり、また他方は一方になる」と言ったのと似ているような気もする。」

「ナルシシズムも死の本能も、その生きた手本は動物であり、また子供であって、分別ある正常の大人は、少なくとも抑圧の文明社会では、ついに彼らの健康な倒錯を真似するわけには行かないのだ。社会もそれを心得ていて、未成年者には刑法上の責任能力を認めていない。責任能力とは、また何という抑圧的な言葉であろう! たぶん、子供と動物の王国は、アンチ・ヒューマニズムの秘密の王国であって、私たちも一度はその王国に棲んだはずなのであり、その王国にあこがれているはずなのである。」



「わたしのボオドレエル像」より:

「幼児性格(インファンティリズム)とか、胎内願望とか、ナルシシズムとかいった面を顕著にあらわした芸術家に、わたしは強く惹かれるものがあって、彼らの作品や伝記を読みあさっているが、ボオドレエルもまた、この輝やかしい星座のなかに加えられるべき資格を十分に備えた芸術家のひとりである、と言うことができるだろう。」


「怪奇映画の季節」より:

「やっぱりおれは、お化け映画や超自然の怪物映画の方が断然好きだね。ヒューマニズムなんか、大嫌いだよ。ああ、お化けや怪物や人形の出てくるいい映画を見たいなあ。」


「エロス的風俗に関する対話」より:

「しっかりした方法意識をもって、もっとエロ・グロ・ナンセンスに徹しなければいけない。悪趣味に徹しなければいけない。」


「階級闘争か生物学主義か」より:

「しかし、わたしが白土漫画で最もおもしろいと思うのは、こうした歴史主義よりもっともっと素朴な、一種の生物学的進化論である。暴力肯定のアンチ・ヒューマニズムが導き出した、一種の怪物崇拝に通じる思想である。
 わたしの独断によれば、アンチ・ヒューマニズムとは要するに人間の精神的・肉体的な変形を許容するところの考え方であって、白土漫画中の圧巻ともいうべき「影一族」の誕生のエピソードに、この考え方の純粋な発現を見るのである。
 超能力をもった影一族の怪物ども、くされ、しびれ、岩魚、蔵六(あるいは鬼吉)は、それぞれファウスト博士の四大の呪文におけるコボルト(土の精)、サラマンデル(火の精)、ウンデネ(水の精)およびシルフェ(風の精)にぴったり対応する、いわば人間と自然との奇怪な混淆によって生み出された、外道のモンスターなのである。
 影一族に代表される白土漫画の忍者とは、けだし、階級社会の秩序から疎外され、はみ出した人間の、モンスター的要素の純粋結晶でもあろう。このグロテスクな人間変身譚、あやしげな進化論によって理解される、白土三平のいかにも農民的な自然信仰は、彼の表面的な階級闘争史観の裏に、より深くより広い底流となって、脈々と流れているように思われる。告白すれば、わたしは、そのような白土漫画の一面を大そう愛する者である。
 ここで思い出すのは、同じく徹底した生物学主義者の眼をもって、荒廃せるスペインの悲惨な人間と自然を描き出した不屈のシネアスト、ルイス・ブニュエルであろう。乞食、癩者、貧窮者、餓死者、片輪者、畸形を好んで描き出すブニュエルの映画に、わたしはやはり、一種の怪物崇拝の思想を読み取らずにはいられない。
 人間を昆虫のように、昆虫を人間のように描くとき、階級闘争史観は見えなくなり、代って生物学主義の眼が残酷に光り出すのである。
 「忍者武芸帳」のなかの最も魅力的な登場人物のひとりに、マキアヴェリストの面影をもった無風道人なる忍者がいる。権力というものの性質を知り抜いているらしく思われる、この無敵の老人もまた、自分の役目が終ったとさとるや、「山へこもってミイラになる」らしいのだ。たぶん、出羽三山あたりの霊山で、五穀断ち・十穀断ちの木食行から、やがて入定して即身仏になるのであろう。
 たぶん、忍者とは、永遠に権力を手にせず、モラルを意に介せず、ディアレクティケーよりもむしろニルヴァーナに憧憬れる存在なのであろう。ここにもまた、明らかな生物学主義の反映が見て取れる。ミイラとは、地上のモンスターの窮極の、聖化された姿にほかならないからである。」



「エロスとフローラ」より:

「貝殻や骨は、いわば生の記憶であり、欲望の結晶である。生はそのなかで、かっちりと凝固し、つややかに光り、歳月に耐えた永遠性を誇っている。わたしはそれを安心して机の上におくことができる。ちょうど中世の学者が、好んで人間の頭蓋骨を机の上において眺めていたように。
 植物の領域でも、わたしの好きなものは、つやつやした大きなドングリだとか、マロニエの実だとかいった、堅い皮につつまれた、美しい光沢のある、掌のなかに握れるような種類の果実である。どうしてそんなものが好きか、と聞かれても、わたしには答えることができない。たぶん、ドングリを拾ったりビー玉を集めたりした、子供の頃の情熱がそのまま消えずに、わたしのなかに残っているのだろうとしか言えない。」



「貝殻頌」より:

「詩人のヴァレリイは貝殻が好きだった。わたしも貝殻が好きだ。あの美しい幾何学的な曲線、なめらかな石灰質の光沢、あれが自然の生み出した作品だということだけで、わたしには、すでに神秘であり驚異である。」
「子供のころから、わたしは山よりも海が好きだった。そのくせ、わたしは水泳がまったく不得手である。しかし夏の海は、わたしの永遠の郷愁をそそるイメージだ。とくに岩のある海岸がよろしい。清冽な波が打ち寄せる、岩の窪みの水たまりをのぞきこむ。と、そこに一つのミクロコスモス(小宇宙)が発見される。ゆらゆら揺れる緑色の海草のかげに、花のようなイソギンチャクや、小さなヤドカリや、紫色のとげとげのウニや、赤い星のようなヒトデや、ぶよぶよした角のあるウミウシや、グロテスクなナマコが見つかる。その他、目には見えないが、無数のプランクトンや、生命の芽が水中を浮遊しているにちがいない。そう思っただけで、わたしには、その小さな岩の窪みの水たまりが、生命の讃歌を奏でる花園のように思いなされてくるのである。
 わたしは、もし生まれ変ることができるものならば、できるだけ下等な動物に生まれ変りたいとつねづね考えている。進化の段階を逆に下降して、軟体動物や腔腸動物のような美しい単純性に回帰することができたら、どんなに幸福であろうかと思う。深海の底に根をはやし、潮の流れにゆらゆら揺れながら、太古の時間をそのままに生きているウミユリとか、ウミリンゴ(古生代のデボン紀に絶滅した)とかいった動物こそ、わたしの理想の生命の形体なのだ。
 ジャン・ジュネという作家は、藻のような下等な植物になりたいとか、アリゲーターのような懶惰な動物に生まれ変りたいとか言っているが、彼の気持は、わたしにはじつによく理解できる。人間は、理知とか感覚とかを一つ一つ切り捨てて行って、生命の根源、存在の本質に近づくのが本当ではないかと思う。フロイトの「死の本能」説というのも、要するに、有機的生命が無機物に還ることをあこがれる、退行の傾向をさしたものであった。」

「わたしは絶滅した動物が大好きだ。比較的最近でも、駝鳥のようなモアとか、白鳥のようなドードーとかいう鳥が絶滅しているが、彼らは鳥のなかでも、なにか高貴な種族のような感じがする。いわんや三葉虫、アンモン貝においてをや。」



「「地獄」棚の魅力」より:

「「中世の僧侶は」とシャルル・ノディエが言っている、「ラテンの猥本をほろぼしてしまおうと思えば、それも簡単にできたのに、そんなことはしなかった。彼らは、極悪の精神によって書かれた書物の有用性を理解し得るほどに、正しい分別のある精神をもっていた」と。」


種村季弘による『異端の肖像』「解題」より:

「もっとも、今日になって読み直してみると、これらの肖像のモデルになったのは異端者というより、むしろ生物学にいうネオテニー(幼形成熟)のままに生き、かつ死んだ人物たちであったという気がする。いつまでも子供のまま幼児固着を引き延ばして生きなければならなかった、例外的人物の栄光と悲惨の劇を肖像化した珍品蒐集室。それがどこかで著者自身の自画像と二重写しになっている、とまではいえそうだ。」


















































































関連記事
スポンサーサイト
プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本