『澁澤龍彦全集 8』

「いつまでも大人になろうとしない人間は、社会から相応の罰を受ける。無責任な、汎エロス的な子どものままの状態でいつづけることは、悪だからである。しかし、この悪が、わたしたちにとって本質的に望ましいものであり、必要なものでないとは、誰にもいえない。この失った必要な悪を回復するのは、芸術の機能であり、芸術家は多かれ少なかれ、進んで禁制を破る子どもでなければならない、ということにもなろう。」
(澁澤龍彦 「夢みる少女――バルテュスの場合」 より)


『澁澤龍彦全集 8』
サド研究/エロティシズム/幻想の画廊から/NUDE のカクテル/補遺 1968年

編集委員: 巖谷國士/種村季弘/出口裕弘/松山俊太郎

河出書房新社 1994年1月7日初版第1刷印刷/同17日発行
571p 口絵
20.6×15.6cm 丸背布装上製本 貼函
定価5,800円(本体5,631円)
装幀: 菊地信義

月報8(16p):
インタヴュー「「新人評論」の頃」大塚讓次(友人) 聞き手: 出口裕弘/図版(モノクロ)9点



エッセイ集『サド研究』は1967年5月、桃源社「桃源選書」の一冊として刊行された。全24篇のうち本巻には既刊単行本『神聖受胎』から再録された7篇、同じく『サド復活』から再録された4篇、およびロベール・デスノス『エロチシズム』第五章(「サド侯爵の啓示」)の再録(翻訳)を除く12篇が収録されている。
エッセイ集『エロティシズム』は1967年12月、桃源社刊。
美術エッセイ集『幻想の画廊から』は1967年12月、美術出版社刊。本巻では「玩具考――古き魔術の理想」(既刊単行本『エロスの解剖』からの再録)が割愛されている。
写真と文章からなる『NUDE のカクテル』は1968年10月、サントリー株式会社より「洋酒マメ王国」の第二十九巻として刊行された。


目次:

口絵 40代中頃

サド研究
 第一部 評論・エッセイ
  サド侯爵の真の顔――三島由紀夫「サド公爵夫人」について
  サド映画私見
 第二部 作品解説
  『美徳の不幸』について
  『新ジュスチイヌ』について
  『悪徳の栄え』について
  『閨房哲学』について
  『ソドム百二十日』について
  『恋の罪』について
  『末期の対話』について
  『食人国旅行記』について
  偽作『ゾロエ』について
 第三部 サド裁判をめぐって
  サドは無罪か――裁判を終えて
 あとがき

エロティシズム
 セクシュアルな世界とエロティックな世界
 眼の欲望
 エロスの運動
 女のエロティシズム
 存在の不安
 同性愛と文学について
 十人の性科学者
 異常と正常
 処女の哲学
 胎内回帰願望について
 性のユートピア
 女性不完全論
 反自然の性愛技巧
 自己破壊の欲求
 エロティック・シンボリズムについて
 性の恐怖と不能
 アダムの裸体について
 愛は可能か
 セックス開放論
 近代文学における黒いエロス
 童話のエロティシズム
 あとがき(初版)
 クラナッハの裸体(文庫版あとがきにかえて)

幻想の画廊から
  I
 空間恐怖と魔術――スワンベルグとブロオネル
 女の王国――デルヴォーとベルメエル
 イメージの解剖学――ふたたびベルメエル
 卵・仮面・スフィンクス――レオノール・フィニーの世界
 夢みる少女――バルテュスの場合
 混沌から生成へ――タンギーの世界
 マグリットの冷たい夢――終末の青空
 神の香具師ゾンネンシュターン――月の精の画家
 サルバドール・ダリの両極性――堅いものと軟らかいもの
 光り輝くルネサンスの幻影――ダリ展を見て
 『百頭の女』と『スナーク狩』――マックス・エルンスト
 ピカビアと機械崇拝――あるダダイスト
 存在し得ない空間――M・C・エッシャー
  II
 ボマルツォの「聖なる森」
 崩壊の画家モンス・デシデリオ
 だまし絵・ひずみ絵――ホルバインその他
 メタモルフォシス――アルチンボルドを中心に
 一角獣と貴婦人の物語
 北欧の詩と夢――ベックリンとクリンガー
 密封された神話の宇宙――ギュスターヴ・モロオ展を見て
 幻想の城――ルドヴィヒ二世と郵便屋シュヴァル
 人形愛 あるいはデカルト・コンプレックス
 仮面のファンタジア
 あとがき(初版)
 あとがき(新版)

NUDE のカクテル
 序章
 第一章 セミヌードの時代
 第二章 ヌード・プロフェショナル
 第三章 紅毛・碧眼の美女たち
 第四章 オンナ・部分の追究
 第五章 昭和元禄の若いハダカ

補遺 一九六八年
 「美神の館」への招待
 愛の文学と女流作家のシチュエイション
 拳玉考
 血まみれの伯爵夫人
 『砂の上の植物群』に描かれた性について――吉行淳之介論
 足穂頌
 CLITORIS
 西洋の妖怪――フランケンシュタイン、オオカミ男、ドラキュラ
 オーブリ・ビアズレー『美神の館』解題
 異常性愛論
 『栗田勇著作集』(推薦文)
 時代の子、カザノヴァ
 ピエール・モリオン『閉ざされた城のなかで描かれたイギリス人』解説
 血と薔薇コレクション
  ポール・デルヴォー
  クロヴィス・トルイユ――ネクロフィリアの画家
  ピエール・モリニエ――夢魔の画家
 ないないづくし――わが青春記

解題 (出口裕弘・松山俊太郎・巖谷國士)




◆本書より◆


『エロティシズム』「あとがき(初版)」より:

「かりにエロス的人間という概念を私流に定義するとすれば、それは子供の精神を可能な限り保ちつづけている人間、ということになるであろう。実際、私の親しくつき合っている友人でも、常住不断、エロティシズムの問題に生き生きとした反応を示す者には、どこか子供っぽい人間が多いようである。考えてみれば、それは至極当然なことであって、大人の世界の常識とか、世間智とか、分別臭さとかいったものほど、エロティシズムの本質から遠いものはないからである。」
「エロス的人間とは、性の知識や技巧に明るい人間、あるいは性の経験を豊富に積んだ人間のことではなくて、むしろ性の問題を深く考える人間のことでなければならないと思う。深く考えるとは、べつに学問することではなく、新鮮な感受性と旺盛な好奇心とをもって対象に直面する、無垢な心を失わないことであろう。
 よく世間で、子供の世界にも確かにエロティシズムが存在する、などということが、いかにも分け識り顔に言われるようだけれども、こういう表現は、むろん正しくあるまい。新鮮な感受性と旺盛な好奇心をもった子供の世界だからこそ、必要にして十分なエロティシズムが満ち満ちているのであって、理性の計算にもとづく大人の常識の世界では、それは貧弱に痩せた形骸をさらしているにすぎないのだ。世間一般の考え方は、真実とは逆なのである。」



「空間恐怖と魔術」より:

「スエーデンが生んだ特異な幻想家マックス・ウァルター・スワンベルクは、まさにヴィジオネールという名にふさわしい華麗な夢を紡ぎ出す画家であり、わたしの最も愛する現代作家のひとりでもある。スワンベルクの絵を見つめていると、わたしは否応なしに幸福と不安の混り合ったエクスタシーの状態に誘いこまれてしまう。」
「わたしは、自分がなぜこれほどスワンベルクの絵に惹きつけられるのか、その理由をはっきり説明することはできないけれども、たぶん、わたしの精神の傾向や気質と密接に結びついたもろもろの表象が、この倒錯的な美を夢みる画家の画面に、ふんだんに発見されるからであろうと思う。初めてスワンベルクの絵をみた時に感じた甘い戦慄を、わたしは今に忘れることができない。
 もうひとつ、この画家の世界に見逃すことのできない特徴は、一種の空間恐怖ともいうべき細部(ディテール)への異常な執着であろう。イメージは唐草模様のように伸びひろがり、たちまち余白をいっぱいにし、さらに別の空間を求めて伸びてゆく。人物の身体は細かな鱗のような、螺鈿の装飾のような紋様でびっしり埋めつくされる。――こうした嗜好は、ある種の精神病者、とくに分裂病者の描く絵画ときわめて近い傾向を示しているといえよう。」


「夢みる少女」より:

「バルテュスは一九三三年に、エミリー・ブロンテの小説『嵐ヶ丘』の挿絵のためのデッサンを描いているが、この彼の二十五歳当時の仕事は、彼の資質について考えるとき、きわめて意味ふかいものがある。ご承知のように『嵐ヶ丘』の第一部は、少女キャサリンと孤児の少年ヒースクリッフとが、子どもだけの自由な楽しい世界にひたりきり、まるで獣のように荒野をかけずりまわって過ごす日々、まだ大人の世界の因襲や束縛にわずらわされることのなかった、快楽的な日々を描いているのだ。ところで、バルテュスはこの小説の第一部に挿絵を描いただけで、あとの部分は放棄してしまったらしいのである。
 この画家は、少年と少女の野生的な幼い恋にだけ興味をもち、彼らが成長してしまえば、もう彼らに対する興味を失ってしまう。善悪の彼岸にある、少年期の輝かしい自由の王国だけが、この画家を魅するのであって、分別のついた、社会の礼儀作法や階級意識の掟に矯められた、大人になった彼らには関心がないらしいのである。
 三十歳で死ぬまで父の牧師館を離れず、恋愛も冒険も味わわず、ただ精神の孤独を守りつづけて、想像力から生み出される亡霊のみを養い育てていた、あの女流作家エミリー・ブロンテがそうであったように、画家のバルテュスもまた、少年時代に固着したままの感情の持主であるのかもしれない。」

「バルテュスの絵にあらわれる人物たちは、いずれも、自分ひとりだけの放心した状態に閉じこもり、沈黙の厚い壁によって、他人とのあいだの魂の交流を断たれているかのごとき人物たちである。」
「運動の欠如、不在の感覚、――これらが、バルテュスの絵画的世界の特徴であるとともに、一般に、ある種のシュルレアリストの絵画的世界に共通した、顕著な傾向でもあるのである。
 たとえば、ポオル・デルヴォーやルネ・マグリットやトワイエンやクロヴィス・トルイユの世界がまさにそれだ。瞬間を永遠化しようとする不可能の欲求に、これらの画家たちは憑かれているかのごとくである。人物たちの動きはぴたりと停止し、夢の譫妄状態が、そのまま凍ったように凝結する。いわば標本になった夢でもあろうか。熱いシュルレアリスムと平行して、冷たいシュルレアリスムの系譜がある、といってもよかろう。
 瞬間への偏愛は、やはり子どもの志向の根本的なものである。」

「いつまでも大人になろうとしない人間は、社会から相応の罰を受ける。無責任な、汎エロス的な子どものままの状態でいつづけることは、悪だからである。しかし、この悪が、わたしたちにとって本質的に望ましいものであり、必要なものでないとは、誰にもいえない。この失った必要な悪を回復するのは、芸術の機能であり、芸術家は多かれ少なかれ、進んで禁制を破る子どもでなければならない、ということにもなろう。」
「時間はエロスの敵であり、それは死んだ標本になった時に初めて、わたしたちに安息をあたえる。本来、エロスは瞬間の世界、子どもの世界に属するものと考えるべきだからである。」



「神の香具師ゾンネンシュターン」より:

「ゾンネンシュターンが幼時から、感化院、精神病院、監獄を経巡ったという事実は、わたしの興味を強く惹きつけずには措かない。二十三歳当時の彼を、ある軍医は「遺伝的欠陥、白痴、精神薄弱」と診断したそうである。」


「崩壊の画家モンス・デシデリオ」より:

「美術史家のルイ・レオーが述べているように、モンス・デシデリオは、いかなる流派にも分類しがたい古今独歩の画家なのである。扱ったテーマも独創的であれば、その技法も彼だけのものであった。彼には先輩もなければ弟子もなく、終始一貫、孤立していた。いかなる芸術運動にも参加せず、一時期をのぞいては、ロオマやナポリの環境をさえ避けていたと思われるふしがある。たぶん、この彼の厭人癖には、その精神的痼疾である分裂症質が関係していたにちがいない。」


「ないないづくし」より:

「べつに自分が特別に変った人間だとは思っていないが、私には、青春らしい青春はなかったような気がしている。」
「私は、自分の青春不在の感覚を、なにも戦争のせいばかりにしようとは思っていない。戦争中だって、結構、おもしろいことはたくさんあったのだから。私の青春不在の感覚は、もっと別の、個人的な理由によるものと思われる。」

























































































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プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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